第62話:南方の雄①
ドルフィニア王ヴィクトールが倒れた、という報を聞いた南方司令ロルフ=バグアーノはその瞬間、顔色を失った。
――アラン殿下ではない者が後嗣に立てられるのではないか?
南方からドルフィニア城はかなりの距離がある。いまから出立しても、間に合わないかも知れない。
だが、かと言ってバグアーノは指をくわえて見ている訳にいかなかった。即座に走り出したかと思うと、適当な馬を見つけるや、そのまま飛び乗り、あわただしく馬の腹を蹴った。向かう先はもちろんドルフィニア城である。
「時を失してたまるか」
そう心で叫びながら、バグアーノが無心で馬をとばしているうちに、やがて部下のウォルス=ルーキンが追い付いてきた。ルーキンはバグアーノの右腕といえる武官であり、馬の扱いに長けているため、バグアーノに追いつくことができたのである。
ルーキンは速度をゆるめないバグアーノのそばに馬を寄せて併走した。
「閣下、アラン殿下に勝る後継はおりません。そのうえ、アラン殿下がドルフィニア城にいるのです。それほど急ぐ必要はありません」
慌てず、堂々とドルフィニアに入城すればよい、とルーキンは言いたいのだろう。だが、バグアーノにそのつもりはなかった。
「そんなこと、分かるものか」
叱り飛ばすように言い返した。
ルーキンはかぶりを振った。
「宰相のクロフォードは物わかりの良い男のようです。わざわざ争いの種になるように取り計らうことはありますまい」
「それこそ信用なるものか」
そこまで言うなら、と、ルーキンがみずから先行してクロフォードに話をつけてくると提案したことで、ようやくバグアーノは安心し、馬の速度をゆるめた。
「何の準備もなくドルフィニアへ向かうなど、自殺行為です」
言いながらルーキンは食糧や水などが入った荷と、護身用の剣をバグアーノに渡した。
バグアーノは鼻をならしながら、それらを受け取る。やがてルーキン以外の部下たちも糧秣を持って追いついてくるであろうから、すぐに不要にはなるだろうが、念のため、というルーキンの配慮である。
バグアーノは苛立った表情を変えることなく、顎をしゃくった。
「勝負は、ほんの一瞬の判断に左右される。さあ、ドルフィニアへ急いでくれ」
「御意」
ルーキンは応えるや馬を早駆けさせ、バグアーノの視界から外れてから、やれやれ、という風に首をすくめた。
はたして、ルーキンがドルフィニア城にたどり着いた頃には、すでにアランが正式な王の後継者となる、ということは決定しており、残すはその事実を対外的に知らせるための式典を残すのみ、となっていた。
――どうにか間に合ったか。
と、ルーキンは背筋が凍る思いだった。一歩遅れていれば、バグアーノは完全に部外者となっていたかも知れない。
だが、実際はルーキンがはじめから思ったとおり、急ぐ必要はなかった。宰相のクロフォードがバグアーノの到着を待っていたからである。
「使者を出したのですが、入れ違いになったようでして」
ルーキンの姿を認めると、すぐに宰相のクロフォードが安堵したように声をかけてきた。恐らく、バグアーノは近道の悪路を選んだため、クロフォードの使者と出会わなかったのであろう。
「アラン殿下の戴冠は、バグアーノ殿にお願いしたい」
というのが、使者の口上であった。
クロフォードにそう聞かされたルーキンは、内心で感嘆の声を上げた。正式な後継者の冠を授けるのは、本来は王の役目であり、その代役をバグアーノが務める、というのは、次の王国の主宰者であることをはっきりと世間に知らしめることになる。
さらにルーキンはアランを後継にもっとも推したのがクロフォードであることも知った。
――クロフォードは賢い。
ルーキンは内心でうなずいた。ドルフィニア中を見渡しても、ヴィクトール王ののちには、アランとバグアーノの主従をおいて、王国を安定させられる者は他にいない。それが分かっているからこそ、クロフォードは次々に手を打ったのであろう。
やがて、重臣らを従えたバグアーノがゆっくりとドルフィニア城へと入った。クロフォードをはじめ、王臣はみな競って迎えに出た。
その姿を見てルーキンは、
――バグアーノ閣下の世が来る。
と確信した。
次の日にはアランが正式に王の後継者として立つことになる。ルーキンはバグアーノと二人のときを見計らって、
「これで閣下は怖いものなしです」
と嬉しさを隠さずに言った。権力はバグアーノの思いのままとなるだろう。
が、バグアーノは首を横に振る。
「この国はもっと強くならなければならん。私ひとりが権勢を誇って、それが何になる。国が滅べば、そんなものは幻にすぎん」
と、引き締めるように言ってから、ルーキンに、
「そのためには、お前たちの力が必要だ。これからも頼む」
と言って、その肩を叩いた。ルーキンが感動に打ち震えたのは言うまでもない。
ドルフィニアを強くする、という使命感が強いからこそ、バグアーノはアランの後見人という政治的に強い立場にこだわっているのである。
――南方に押し込まれたままで終わる人ではない。
繊細な精神と確かな政治手腕だけでなく、強い意志と戦う勇気がバグアーノにはある、と見ているルーキンは、王国の未来はこのバグアーノにかかっている、と熱いまなざしでバグアーノに応えるのであった。
翌朝、滞りなく儀式は終了し、第二王子であるアラン=クロスが正式なドルフィニア王の後継者となった。
いまだヴィクトールが病床に伏していることもあり、式はずいぶんと簡素なものとなった。が、後継者の証である銀の冠をアランに授けたバグアーノからすれば、事実だけが重要なのであり、簡素かそうでないかは、まったく問題にならないことであった。
むしろバグアーノは突然の事態に迅速に対処した面々の労をねぎらった。次代の政治の主宰者となるであろうバグアーノの言葉に、大臣らはみな一様にほっと胸をなでおろす心境であっただろう。
式を終え、城内に割り当てられた部屋に下がったバグアーノのもとに、宰相クロフォードが訪ねてきた。
――ほう。
バグアーノは興味深くその珍しい客を迎えた。ルーキンはクロフォードのことを、物分かりの良い男、と言っていた。が、バグアーノがドルフィニアを掌握しようとするとき、まずはじめに覇権を争うのがこの宰相なのである。果たして何を言いにきたのか。試すような目を向けるバグアーノに、クロフォードは思いがけない事を言った。
「私は宰相を辞し、後任にはバグアーノ殿を推挙したい」
その了解を得るためにうかがった、とクロフォードは申し出たのである。バグアーノは喜ぶよりも、驚いた。あまりに性急すぎる。
だが、クロフォードはかぶりを振った。
「実を申しますと、この事はヴィクトール王にも再三にわたってお願いしてきたことなのです。宰相の座は私には荷が重すぎます」
さらにクロフォードは続ける。
「閣下は長らく南方を安寧のうちに治められてきた実績がある。そして、なによりもアラン殿下がもっとも信頼を寄せておいでです」
それに引き替え、私は一介の武人に過ぎません、とクロフォードは首をすくめた。
――なるほど、ルーキンが言うとおり、物分かりが良い。
バグアーノは心のうちに頷いた。クロフォードとは、権力の風向きに敏感な男だ、ということである。そのため、まっさきに軍門に降ってきた、ということであろう。
「わかりました。喜んで宰相の座をお受けしましょう」
バグアーノがそう言うと、クロフォードは満足そうに頷き、退出していった。バグアーノの胸には、クロフォードに適当な官職を安堵してやればよいだろう、という印象しか残らなかった。
念のため後日、クロフォードの宰相としての評判を何人かに聞いたが、
――凡庸。
ということで一致していた。これでバグアーノは完全にクロフォードを見くびった。
しかし、バグアーノは、クロフォードがまだ年若く、さらにもともと武官であり、そのうえ、宰相を半年間しか務めておらず、過去の宰相も身体を壊してごく短期間のうちに交代している、というもろもろの条件を勘案しなかった。
つまりクロフォードは近年には珍しく無難に辞職までこぎつけた宰相だといえたのであるが、バグアーノをはじめ、ほとんどの者はそれに気づかなかった。