第56話:ドルフィニア郊外
さすがに辺境とは違う。ドルフィニアの街に一歩足を踏み入れたときに思ったのはそれであった。
パンダール王国の丞相にして軍務大臣、そして今はドルフィニアへの使者であるグゼット=オーア。彼は商業都市として栄えたかつての姿をそのまま残す街並みに驚くとともに、子供の頃に住んでいた旧王都にその姿を重ね、言い知れない懐かしさを感じていた。
「お前たちもそう思うだろう」
振り返って言うオーアに答える声はなかった。それというのも、従者というにはあまりにも奇異な二人は、想像を超えた大都市にすっかり度肝を抜かれ、呆けたように口を開けて突っ立っているだけだったからである。もっと言えば、この二人が平常心だったとしても、辺境の山奥育ちであるため、そもそも都会というものを見た事がないのだから、オーアの問いかけはまるきり見当違いのものだった。
冒険者のグレイとククリをオーアの従者に選んだのは、ササール候レイモンド=オルフェンだった。冒険者は直接の臣下ではないため、それを従者とすることにオーアははじめ反対した。だが、もともと軍に勝手に紛れ込んでいたグレイたちなだけに、正式に従者として雇うことで、彼らの存在に正当性を持たせようというレイモンドの意見を聞くにおよんで、しぶしぶながら了承するに至った。だが、十日も一緒に行動をともにしてみると、つくづく彼らで良かったとオーアは思った。頻繁に魔物が現れる旅路に慣れている者など、冒険者をおいて他にいるはずもなく、半端な腕しか持ち合わせない兵を連れていっても命の保障はなかっただろうし、文官などまったくの問題外である。
そのグレイとククリは、ようやく我に返ると、ため息混じりに、
「すげえなあ」
と声を揃えた。
一行が入った街の南門から、まっすぐ大通りを北に行けばドルフィニア城である。大通りの両脇には、巨大な石造りの屋敷が隙間なくびっしりと並んでいる。パンダールの王都で豪邸と言えば、せいぜい二階建ての屋敷のことであるが、ドルフィニアに連なる豪邸は、その倍の大きさであっても決して珍しいものではない。
中央の大通りの道々、オーアら三人は、そうした街並みを飽きるでもなくきょろきょろと見渡し続けながら進んだため、行き交う人々からすっかり浮いてしまっていた。ただでさえ魔物と戦いながらやってきているのである。その血と埃にまみれた姿が、極めて奇異なものに住民には映ったらしく、わざわざ足を止めてまでオーアらに怪訝な目を向けるものまでいた。
さすがにその視線が気になったオーアは、途中にあった宿に部屋を取ると、そこで服装を取り替え、鎧はあずけることにした。グレイとククリなどは、これまで袖を通したことのないような上質な礼服姿に、互いの似合わないことを大笑いし合うのだった。
幸いにして通貨はパンダールのそれと同じであったため、支払った銀貨を店主にじっくりと検分されたことを除いては、さしたる問題もなく宿を出ることができた。
「なんだかいけ好かない連中だな」
ククリがぼやくと、グレイもそれに同意した。パンダールに比べると、どうもドルフィニアの者は心に余裕がないというか、やけにあくせくしているような印象をオーアも感じていた。それは商人の街として発展してきたドルフィニアの気風というものなのかも知れず、辺境の王都とは流れている空気の質がずいぶんと違うものに思われる。
「旧王都も、かつてはこうだったのかも知れん」
辺境暮らしにすっかりなじんだオーアは、旧王都の気風をすっかり忘れていることに気づき、過ぎ去った時間の流れをしみじみと感じた。ところが、と言うべきか、当然、と言うべきか。そうした感傷めいたものからは程遠い所にいるククリは、大通り沿いの商店のほうにすっかり意識を奪われてしまっていた。
「なあなあ、オーアのおっさん。ちょっとのぞいてってもいいだろう」
と言いつつ、ククリは今にも店に入ろうとしている。
「ほう、武器もなかなかいいものが揃ってるな」
そう言ってグレイもククリに続いて店の前で足を止めた。
「馬鹿を言え、大事な使命の途中なのだぞ。そういうことは書状を届けた後にしろ」
オーアは叱りつけたが、グレイもククリも聞く耳を持たず、愛想の良い店主にすすめられるまま店の奥へと入って行ってしまった。
「こら、お前ら」
オーアが呼び戻そうとするのだが、グレイもククリも、
「ようやく長旅が終わったんだ、少しくらい羽根を伸ばしたって罰は当たらないだろう」
と言って聞かない。本来なら一刻も早くドルフィニア城へ向かいたいところなのだが、仕方なくオーアも店内を見てみることにした。考えようによっては、前もってドルフィニアの生活の一端を知っておくのも悪いことではない。
店は何でも手広く扱うよろず屋のようで、グレイやククリが熱心に見入っている武器や防具だけでなく服飾品や生活雑貨、わずかだが食料品なども揃えている。
オーアはほう、と感心した。パンダール王都の城下町にある商店に比べ、格段に品ぞろえがいい。また、オーアは何気なく銀の首飾りをひとつ手に取ってみたが、凝った細工が施されていてずいぶんと良い品のように見える。だが、もともとオーアが女性の装身具に詳しいはずもなく、あくまで、良く見えるだけに過ぎないのだが。
「へえ、おっさんにもそういうのを贈る人がいるんだな」
ふいに横から顔をのぞかせるククリに、オーアはあわてて手にした首飾りを棚に戻す。
「ば、馬鹿を言え。たまたま手に取っただけだ」
「赤くなっちゃって、可愛いところあるじゃないか」
「大人をからかうな!」
やや声を荒げてしまったオーアの所に、今度はグレイが店の奥から不機嫌な顔でやってきた。
「迷惑だろう、静かにしろよ」
「す、すまん」
グレイに怒られ、小さくなるオーア。この店の店主も、まさかこのオーアがパンダールの大臣などとは夢にも思わないことだろう。
ふたたび店内を見て回るオーアだったが、ふと、上着の裾を引っ張られているような感覚をおぼえた。見れば、背後に十歳にも満たないだろう男の子が立っている。
「なんだ?」
怪訝に思いオーアが聞くと、その男の子は手を差し出してきた。そこには手紙らしきものが握られている。無意識に受け取り、中身を確かめようと広げたところで、その男の子は走って店から出ると、オーアが声を掛ける間もなくそのまま姿が見えなくなった。
しばらく男の子が走り去った方向を見ていたオーアだが、ひとまず手元に残された手紙に目を移した。そこには、やや乱暴なつづり字でこうあった。
――宰相クロフォードに会え。
オーアは目を疑った。
このドルフィニアの地に、オーアらが何者なのかを知っているものがいることになる。いったい、それは誰なのか。この手紙を渡した子供を追いかけて見つけ出したところで、恐らくその者を導き出すことはできないだろう。
「どうした、将軍」
様子がおかしいと気づいたグレイが再び近づいてきてオーアに声を掛ける。オーアは手紙をグレイの手に押し付けると、
「会いに行くしかあるまい」
と言って、店を出た。
街の者に聞くと、すぐにクロフォードの邸宅の場所は知れた。どうやら古くからドルフィニアにある一族のようだが、元々はかつての王都から派遣された武官の家で、それがそのまま土着して今に続いているという事らしい。つまりは、魔王の侵攻以前からこの地で暮らしていたということであり、それだけに人々はクロフォード家のことを良く知っていた。
聞いたとおりに道を進んでいくと、徐々に街の中心から外れていった。それまでオーアが感心していた立派な建物は次第になくなっていき、気づけば粗末な住宅が並ぶ場所を歩いていた。貧しい身なりの住民たちが白い目でオーアたちを見つめている。
「こっちで合っているのか」
ククリが心細く言うくらいに、宰相が住む地域としてはあまりに不相応である。狭苦しくひしめく家々は、どれも古びた木の板をつぎはぎしたような作りで、板がないところはぼろ布で間に合わせているところさえあった。ただ、かろうじて屋根だけはついているため、どうにか風雨だけはしのげそうではあるので、それが救いと言えば言えた。
教えられたとおりに進んでいるオーアではあるが、確かにおかしいとは思っていただけに、恐らく、という曖昧な言葉しか返しようがない。
「念のため聞いてみるか」
そう言ってグレイは、一行を遠巻きに眺めていた一人の男をつかまえ、話しかけようとした。が、男は化け物を見るかのような顔をして、ただ首を横にふるだけである。グレイは業を煮やして、男に対しすごんだ。
「言葉が分からない訳じゃないだろう。俺たちはクロフォードの家を知りたいだけだ」
それでも男は真っ青な顔でただただ震えている。この男では埒があかない、とグレイは他の者へと視線を向けるが、みな揃って顔を背けたりうつむいたりした。
「もうよせ。ともかく、近くまで行ってみよう」
オーアがそう言ってグレイを止めようとした時、彼らの背後から鋭い声が上がった。
「何をしている!」
振り返ってみれば、そこには鎧姿の若い女が腰の剣に手をやり、こちらを睨み付けている姿があった。グレイに話しかけられた男はその女を見るなり、表情をぱっと明るくさせた。
「クロフォード様」
「なに?」
グレイは鎧の女と目の前の男をかわるがわる見た。オーアもククリも、信じられないものを見ているように、目を見開いている。
クロフォードと呼ばれた女は、たっぷりとした明るい色の長い髪を後ろに編み、細く形の良い眉の下には大きく切れ長の目が光っており、彼女の意思の強さを表しているようである。色も白く、なかなかに器量は良いはずであるのだが、いかんせん鎧姿なため、女性らしい艶やかさというものからは縁遠いところにありそうである。
「まさか、あなたがクロフォード殿か?」
オーアの問いに、女は吊り上げていた眉を不思議そうに曲げた。
「いかにもそうだが……。何だ、お前たち、刺客ではないのか」
殺す相手の顔をまったく知らない刺客などいるはずもない。女の表情は警戒したままだったが、それでも剣の柄からは手を離した。
「怪しい者ではありません。訳あって宰相殿にお会いしたく、うかがった次第です」
オーアは丁寧かつ慎重に言った。さすがにこんな往来で自らの素性を明かす訳にはいかない。だが、女の目は鋭さを増した。
「訳、とは?」
「それはここでは話せません」
「それで信じろと?」
「ドルフィニアにとって重要なお話です」
女はやや考えるようにしながらオーアの頭からつま先までをじろじろと見ると、
「お前、剣の心得はあるか」
と唐突に言ったため、オーアはあっけにとられた。
「まあ、それなりに」
軍務大臣であり、パンダール最強の使い手のひとりであるオーアだが、女がなぜそんな事を言うのか意図が分からないため、曖昧な答えになる。
「ちょっと立ち会え」
言うなり女は静かに剣を抜くと、浅く構えた。これには、グレイとククリが怒りに顔色を変えた。
「いきなり剣を向けるとはずいぶんじゃねえか。下手に出てれば調子に乗りやがって」
「おっさんが出るまでもねえ、俺たちが相手になってやる」
今にも剣を抜こうとする二人をオーアが制する。
「待て待て。何も本気で打ち合おうという訳ではない。力を見たいのだろう」
そう言うと、オーアは剣を抜いて構えた。殺気のない構えである。
すると今度は女の方の表情がふっと変わり、構えを解いて剣を鞘におさめた。
「失礼しました。私はミシェル=クロフォード。お探しのセシル=クロフォードは私の兄です」
うって変わってにこやかに微笑む。グレイとククリは拍子抜けしたようだが、オーアは剣をおさめると、
「ではミシェル殿、改めて宰相殿にお会いしたい。お手数だがご案内頂けないか」
と、やや打ち解けたように言った。
ミシェルはうなずくと、こちらです、と言って歩き出し、オーアがそれに続く。何が起きたのかよく分からないグレイとククリは、顔を互いに見合わせていたが、ともかく二人の後をついていくより他になかった。
クロフォードの屋敷は、貧民街の外れにあった。付近に貧しい家はなく、質素ながらも大きな邸宅が集まっている区画のようである。ただ、どの家もやけに古びていて、びっしりと蔦や黒い苔に覆われており、中心地で見た街並みとはずいぶんと趣きが違っている。
応接室に通されたオーアらだったが、肝心のクロフォードは登城していて不在ということだった。昼間であるため、当然と言えば当然である。
「兄が戻るのはいつも夜半なのですが、すぐに戻るように使いをやりました」
ミシェルはそう伝え、オーアらを迎える格好で椅子に腰を下ろした。すでに軍装は解いている。飾り気のない小ざっぱりした服装のためか、やはり女性らしさというものに対しては距離を置いているようである。それでも一応、茶は出された。
「痛み入ります」
オーアはそう言って頭を下げた。
それで、とミシェルは話を切り出す。
「用件は兄にしかお話できないということでしたが、お名前くらいは伺ってもよろしいでしょうか」
ミシェルの言うことがもっともなだけにオーアは一瞬迷った。住民から聞いた話では、クロフォード家はもともとは王都にいた武官が出自であるという。ということは、武門の名家であるオーア家のことを知っていても不思議ではない。もしミシェルが知っていれば、オーアの名を出したとたん、素性が知られてしまうことになる。とは言え、今のミシェルはオーアらに対し礼節を見せているだけに、名を明かさずに礼を失するのもオーアは嫌だった。
「ええと、この二人はグレイ、それにククリ。そしては私はグゼットと言います」
オーアは自らの姓を隠して名乗った。
「どちらにお住まいで?」
ミシェルは追求をやめない。オーアらが怪しい者でないというのはどうやら分かってもらえたらしいのだが、しかし心底から信じてはいない、ということなのだろう。
「それはまだ話せません」
ふうん、という風にミシェルは頷くと、自らが用意したカップに口をつけ、オーアらにもどうぞ、と勧めた。オーアらも同じくカップの中身をすすったが、中身は茶ではなく白湯だった。冷遇されている、ということなのだろうか。
「これ、お湯?」
普通、こういう事は聞きにくいものなのだが、そういう事に無頓着なククリはあっさりと言った。言われたミシェルは、
「そうですが……お酒のほうがよかったでしょうか」
と不思議そうに聞く。未成年のククリは、そうじゃなくて、と言おうとしたところでオーアに、
「失礼だぞ」
とたしなめられた。ただ、悪気がないだけになぜ叱られたのかがククリには分かっていない。
「すみませんな、こいつら二人は礼儀を知らんのです」
と無礼を謝したオーアに、今度はグレイが噛み付く。
「二人って、おっさん、今の話に俺は関係ないだろう」
「礼儀を知らんということに変わりはない」
「ついでかよ」
そう言ってグレイは不機嫌そうに腕を組む。
こうした一連のやり取りを見ていたミシェルは思わず吹き出した。
「ごめんなさい、でも、あなたたちが悪い人でないことは良く分かりました」
「最初からそう言ってるのに……。まあ、あれだな。おっさんの見た目が怖いのが悪いんだよ」
ククリの言葉にオーアはムッとした顔をし、それをまたミシェルが笑う。
小さな応接間にミシェルの楽しげな笑い声が満ちているところに、ちょうど顔を出した格好となった宰相セシル=クロフォードは、客にこそ見覚えが無かったが、妹の打ち解けた様子を見てすっかり安心し、にこやかに自らも席についた。
「みなさん、はじめまして。……それで、ミシェル。この方々は?」
ミシェルは先ほどから引きずっている笑いをこらえながら、
「それは私も知らないのよ。でも、強くて、とてもいい人たちよ」
などと言ったため、クロフォードの笑顔は引きつったものとなった。