第55話:朝議は踊る
宰相セシル=クロフォードが少し早めに朝議の間に入ったとき、玉座にはすでに王の姿があった。思ったより機嫌は悪くなさそうで、クロフォードはひそかに小さな安堵を覚えた。
ドルフィニア王は、名をヴィクトール=クロスという。父であるヴァーノンがドルフィニア王として立つ直前にこの世を去ったため、実質的にはヴィクトールがクロス家における初代の王ということになる。当時ヴィクトールはまだ二十代という若い王だったが、今では四十歳をいくらか過ぎ、すでに髪には白いものが混じり始めていた。
一方で、クロフォードに少し遅れて朝議の間に現れた評議会の者たちは、一様に苦い顔をぶら下げている。評議会とは商人勢力からなる集団で、朝議に出てくるのはその代表たちである。彼らは着席するや眉を寄せて何ごとかひそひそと話し合っている。
最後に姿を見せたのは、魔王駐留軍の司令官である狼族のレアンであった。細身の長身は銀色の短い毛に覆われており、頭にはそのまま狼のそれが乗っているような姿をしている。いかにも頑丈そうな鎧の下からは毛足の長い尾がするりと伸びており、見ようによっては愛嬌があると言えなくはないが、そんな事を口にすれば、たちまちその鋭い爪と牙の餌食となるだろうことは容易に想像がつく。ただ、魔物であるだけに、レアンの狼顔から今の心境を読み取ることはできなかった。
クロフォードと並んで着席している王臣たちはというと、みな思案顔ではあるが、恐らくその頭の中に建設的な考えは入っていないだろう。
政務の中枢が全員集合し、朝議の間に不気味な緊張感が広がりきったところで、ドルフィニア王ヴィクトールが口火を切った。
「さあて、今日は何からいくかね」
呑気な言い方であるが、武門の出で細かいことこだわらないヴィクトールはこれが普通である。すると即座に評議会の議長であり、同時に長老でもあるフルック=フラッドが、溜め込んだ苛立ちを押し込めるように口を開く。
「知れたこと。件の敗戦をおいて、他に何を話すことがある」
フラッドの唇は怒りのためか、かすかに震えている。
「では、そうしよう」
ヴィクトールは顔色を変えずに言うと、目でクロフォードを促した。クロフォードも目で頷き返すと、向き直って魔王軍のレアンに報告をもとめる。
それに応じて、レアンはごろごろと響く低い声で、淡々とパンダールとの戦闘の報告をはじめた。内容はクロフォードが昨夜のうちに魔物の将ゲオウから聞いているとおりであったが、魔物を解放する条件として、三年間の不戦協定が盛り込まれたことははじめて聞く話であった。
一通り報告を聞いたヴィクトールは、ふん、とため息とも何ともつかない声を発した。
「それで、フラッド評議長は何が問題だっていうんだ?」
フラッド評議長は顔を真っ赤にして、まなじりを吊りあげた。自然、言葉に怒気がこもる。
「由々しき事態だということが分からんのか。王女を捕らえられたら、魔王との同盟はどうなる」
「そうは言ってもなあ」
フラッドの怒声を軽く受け流すようにヴィクトールは言った。その態度に、フラッドはまた皺に囲まれた目をむく。ヴィクトールは肩をすくめた。
「アンジェリカが捕虜になったって、魔王のところへ娘にやったっていう事実は変わらんだろう。もう魔王の娘になっちまったんだから、要は向こうさんの問題ってことじゃないか」
「事はそう簡単に済まん。アンジェリカは魔王との……その、同盟の証と言っていい。それを奪われたことになるんだぞ」
さすがのフラッド評議長も、素直にアンジェリカを『人質』とは言いづらかったらしい。
脇で聞いているクロフォードは、冷ややかな眼差しをフラッドへ向けた。商人勢力がアンジェリカにこだわるのは、そもそも魔王の元にアンジェリカを差し出すという事を言い出した張本人だからである。それもすべては自らの保身のために同盟を強固にする必要があるからであり、その犠牲をただヴィクトール父子に負わせたのである。それであるのに、随分と勝手な言い草だと、クロフォードは胸が悪くなるのをはっきりと感じた。
「じゃあ、もう一人俺の子を魔王にやれってのかい?」
「それは……」
フラッドは思わず口ごもった。ヴィクトールの言い方は穏やかではあったが、言外にはフラッドへの非難めいたものが混じっている。
ヴィクトールにはアンジェリカの兄にあたる二人の王子がいるが、長兄は病弱なため政務にはついておらず、第二王子は南方の統治を手伝わせており、ドルフィニア城にいない。ヴィクトールはまだはっきりと後継者を決めてはいないが、現実的に後を継ぐのは第二王子となるだろう。魔王の元に彼を人質として送るとなれば、すなわちドルフィニアの嫡子を手放すことになってしまう。
空気があまりに悪いため、たまらずクロフォードが割って入った。
「そのあたりについて、レアン殿のご意見を伺いたい。今回の敗戦を魔王軍としてどのように受け止めておいでか」
「正直に言って、魔王様の意向を聞かねば何ともお答えしかねる。が、私としては敗れた事実を厳粛に受け止めているつもりだ」
レアンは悔しさをにじませるように言った。
もともとレアンは今回のササールへの迎撃軍を率いるつもりでいた。彼は同族をパンダール王都の南に位置する砦、いわゆる南の砦にて討たれており、その復讐に燃えていたのである。
ところが、実際に迎撃軍の指揮を任されたのは蜥蜴族のゲオウであり、それは魔王の意向であった。アンジェリカとそのお目付け役であるルドーを派遣するにあたって、仲の悪い狼族よりも、同じ蜥蜴族の将でまとめたほうが何かと都合が良いとの考えだったのだろう。しかし結局のところ、ゲオウとルドーは喧嘩別れしているのだから、完全に目論みは裏目に出た事になる。
「兵を全滅させ、アンジェリカをとらわれた責任は重大ですぞ、レアン司令」
いまいましそうに言うフラッド評議長。他の評議員も口々にフラッドに同調した。
「レアン司令もそうだが、実際に軍を率いたゲオウ将軍には、相応の責任を取ってもらわねばなりますまい」
その評議会の者の声にクロフォードが答えようとしたが、先にヴィクトールが声を発した。
「報告によると、途中から軍の指揮をとってたのはルドー将軍だろう。そのルドー将軍を直接おくりこんだのは魔王な訳だから、レアン殿やゲオウ将軍ばかりを悪者にするのは筋が通らないと思うんだが、どうかね」
ううむ、とフラッド以下、評議会の者たちは押し黙った。
どうやらゲオウに非が及びそうにない事にクロフォードは内心でホッとした。昨夜のドーファンへの工作が功を奏したのだろう。だがその時、クロフォードの頭に、ふと別の可能性が浮かんだ。
――本当にそうなのだろうか。
この朝議にのぞむドルフィニア王ヴィクトールは、今回の敗戦を深刻に考えている様子が見られない。クロフォードがもっとも危惧していた、アンジェリカが捕虜となった事に関しても、平然として魔王側の問題だと片付けている。
――もしかしたら、あらかじめドーファンはこうなることが分かっていたのではないか。
ドルフィニア王ヴィクトールにとってのアンジェリカは、魔王との同盟の道具に過ぎない――クロフォードはそう考えていた。しかし、
――その認識は間違いだったのではないか。
という考えが頭をもたげてきた。それを前提に考えてみると、アンジェリカを得体の知れない魔物の元などに置いておくのに比べれば、パンダールの捕虜となってくれていたほうが、ヴィクトールとすればよっぽど安心である。
ドーファンは魔王の元へ娘を人質に出したヴィクトールの本当の心情を知っていた。そして、追及がゲオウに及ばないことがあらかじめ分かっている上で、簡単にクロフォードの頼みを聞き入れ、その対価も要求しなかった。そういうことなのではないか。
そう考えたとき、クロフォードは、自分と主君ヴィクトールとの距離を遠くに感じた。同時にそれは、ドーファンとヴィクトールの緊密さとの対比によって、いっそう色濃いものとなった。
「そういう訳だから、レアン殿。ひとまずは魔王にねんごろにお伝え下さいよ」
穏やかなヴィクトールの言い方である。
「戦は時の運ってもんだし、アンジェリカの事はあるけども、だから手のひらを返そうってつもりは、さらさらないしね」
レアンにしても、敗報に接したばかりなのだから、本国からの指示を受けなくては判断がつかないだろう。
「承知した」
レアンは素直に頷いた。だが、収まらないのは評議会の面々である。
「魔王との友好の証は必要だ。誰でもいい、王族から人をやって、変わらぬ友誼を示さねばならん」
フラッド評議長が食い下がるように言った。人質の候補を王の子だけでなく、王族へと広げれば、まだ幾人かは候補をあげることができる。クロス家だけでなく、外戚も勘定に入れられるからで、例えばクロフォードの一族も含まれることになる。
ヴィクトールは困ったような顔をして首を振った。
「いやいや、誰でもいいって訳にはいかないだろう。ほいほいと次から次へ人質をだしたら、それこそ値打ちが下がって、信用をなくしてしまうってもんじゃないかい」
「しかしだな……」
あくまで人質に固執するフラッド評議長に、クロフォードもうんざりした。まさか自分の一族まで持ち出されるとは思ってもみなかった。自らの資産を守るためには、平気で人を売ろうとするその性根に、黒々とした嫌悪感しかわいてこない。
クロフォードは必死に感情を押し殺すと、フラッドに対し、できるだけ平静に言った。
「ひとまずは魔王陛下のご意向を確かめることが先でしょう。やはり証が必要だということになったとしても、王族を送ることだけが友好の証になるわけではありません」
フラッド評議長は意味が分からない、という顔でクロフォードを見た。クロフォードの目が冷たく光る。
「例えば物品を贈るということもできるでしょう。幸い、ドルフィニアは豊かな国ですから」
それを聞いたフラッド評議長は、露骨に嫌な顔をした。豊かなのはドルフィニア王国なのではなく、彼ら商人勢力なのであり、つまりは、彼らが金品を差し出すことになる。そんな事はまっぴらご免だ、とフラッドの顔には書いてあるようだった。
「魔物に値打ちが分かるとは思えんがね」
吐き捨てるように言うフラッド。同時にレアン司令官が机を叩いて立ち上がった。
「それは我々に対する侮辱か」
吼えるように言いながら、レアンは鼻に皺を寄せて牙をむいた。手は腰の剣の柄にかかっている。途端にフラッドが青い顔をして震え上がった。そんなレアンを、まあまあ、とヴィクトールがなだめる。
「仲間うちで争うのは止しなさいって。要するに、ドルフィニアと魔王が仲良くできればそれでいいんだ。ここで揉めてたら元も子もないだろう」
そう言われたレアンは、フラッド評議長をにらんだまま、どすんと椅子に腰を下ろすと、不機嫌に腕を組んだ。
クロフォードは心のうちで深いため息をつくと、
「今のところ結論は見いだせそうにありません。この件は魔王陛下のご意向を伺うということで置いておき、次の議題をすすめましょう」
と、問題を先送りにしている感は否めないが、なかば強引にまとめるほかなかった。
ところが、このドルフィニアの中枢にある誰もが想像し得なかったことが、こののちに起こった。魔王の使者が到着するよりも早く、パンダールの使者がやってきてしまったのである。