第49話:アンジェリカ②
「それにしても、こんな事になるとは思わなかったな」
軍務大臣グゼット=オーアは遅い夕食をとりながら、ため息のように声を吐き出した。
食事に付き合っているレイモンドは、
「同感です」
と言ってから水を口に含んだ。本来ならば戦勝の酒、と行きたいところだが、ヘイエルやこのオーアにも引き続き見張りを指揮してもらわねばならないため、彼らとともに今しばらく酒は遠ざけている。
見張りが必要なのは、何もアンジェリカやルドーに対してだけではない。従来どおり陣の周囲を哨戒しなければならないし、いまだに北側の山には無数の魔物が身動きできないままひしめいているのだから、当然そこにも警戒の目を向けなければならない。
レイモンドの幕舎にいるこのオーアも、食事を終えたら哨戒に出ることになっている。
「あの大軍の魔物、解放するのは、ちと惜しい気がするがな」
オーアは言いながら、ちら、とレイモンドの顔を見た。解放は致し方ないとは思いながら、本心ではいまだに反対なのだろう。何しろ、あれだけの大軍なのである。
「すべて屠ることができれば、魔王の戦力はガタ落ちだろう」
「オーア殿はそれでいいと本当にお思いなのですか? 連中はいわば捕虜なのですよ」
「ああ。同じことをヘイエルにも言われたよ」
痛いところをつかれた、という顔をしてから、オーアは苦笑った。
オーアは軍務大臣である。無抵抗の捕虜を一方的に虐殺することが禁じられている、ということは分かりすぎるほど分かっている。
ただ、その軍法が果たして人ではない魔物にも適用されるのか、と言えば、難しいところであろう。王立学校の教授であったヘイエルがオーアに苦言を呈したのも無理からぬことだった。
オーアは皿の上をきれいに平らげると、がぶがぶと水を飲み、一息ついてから口を開いた。
「確かに、魔物の兵がこの大陸にどれだけいるか分からんからな。あの捕虜を殺したところで、魔王は痛くもかゆくもないかも知れん」
「だとすれば、敵の一部を見逃す代わりにむこう三年間敵の攻勢がないなら、よっぽど有利な条件ですよ」
さらりと言ってのけるレイモンド。
「ふん」
オーアは思わず鼻を鳴らして笑った。レイモンドが魔物を信じていない、ということは、あの条件で明らかである。
「はじめから信用していないから、あの姫さまを人質にとるんだろう。お嬢ちゃんが魔王から大事にされていなかったとしても、情報くらいは引き出せるはずだからな」
「まだ幼い事を考えると心が痛みます」
レイモンドは目を伏せた。どこか、女王キュビィとその姿を重ねているのかも知れない。
ともに王の娘であり、また同じく国の命運を一身に背負っているキュビィとアンジェリカ。だが、アンジェリカに課せられた運命とは、魔物への人質という過酷なものである。そして、レイモンドも今また、アンジェリカを人質として利用しようとしている。その事実が、レイモンドの胸を苦しめていた。
「なに、どうせレイの事だ。これ以上ないほどに丁重に扱うんだろう。魔王の元に置かれるより、よっぽど幸せに違いない」
オーアが励ますように言う。
「だといいのですが」
レイモンドも、少し顔をあげてわずかに表情を和らげた。思えば、いつもオーアはこうしてレイモンドを励ましている。
オーアは幾度か頷いてから、少し表情を引き締めた。
「それからドルフィニアだ」
「ええ……」
これも難しい問題である。
パンダール王国は魔物の攻勢によって大陸全土への支配が及ばなくなった。しかし、だからといって他の者が王を僭称するのを黙認する、というのはいろいろとまずい。とは言え、目下最大の敵は魔物であることも確かであり、ドルフィニアと争っている場合ではないのもまた事実である。
「ひとまず、先ほど出した陛下への報告には、その件も含めています」
後は、キュビィがどのように判断するかだ、とレイモンドは思っている。
レイモンドは候であるから、ドルフィニア王よりは当然格は下となる。しかし、レイモンドはドルフィニア王の臣下ではないし、そもそもドルフィニア王の王号は勝手に名乗っているだけなので、レイモンドがドルフィニア王をはばかる必要はまるでない。
だが、レイモンドにとっての問題は、キュビィがどう思うか、である。
キュビィの性格からして恐らくドルフィニア王を王として認めるのではないか。レイモンドの知るキュビィは、パンダール王国が果たせなかった責任を強く感じているのだ。
「俺は許せんがな。勝手に王を名乗るなど……」
正直にそう言うオーアだが、言葉ほどには腹に据えかねている様子はない。それでもレイモンドにはオーアの気持ちが良く分かる。
「私も心情的には同じです。ただ、ドルフィニアが置かれていたであろう状況を思うと、仕方のないところもある、と思うのです」
「むぅ……」
レイモンドの脳裏に浮かぶのは、ライナス=ルトリューや、ルカ、ルネのことであった。
ライナス達が、生き延びるためにどんな思いをしてきたか、その一端だけでも、レイモンドは垣間見てきた。魔物におびえる日々と、それに抗うための暴力支配への妥協。おそらく、ドルフィニアでも同様のことが起こったに違いない。
――王を称したとして、誰が責めることができるだろう。
キュビィへ誓う絶対の忠誠、それがレイモンドにはある。それだけにドルフィニアへ抱く感情は複雑であった。
ふう、とオーアは息をついた。食事はとっくに終わっている。
「あまり思いつめるな。そうやってため込むのは、お前の悪い癖だ」
オーアはそう労わるように言ってから、
「ところで、フラムのことなのだが……」
と、突然話を変えた。
耳を疑ったレイモンドは、思わず聞き返してしまった。
「フラムが、どうかしましたか? 今ちょっと陣から離れていますが……」
「ああ、それは分かっているんだが……」
オーアは言いよどんでいる。
ここまで言いにくそうにしているオーアを、レイモンドは見たことがない。
「その……お前は、知っているのか?」
「何を……でしょうか?」
レイモンドは、まるで思い至らず、首を傾げている。
「フラムの……その……」
軍務大臣グゼット=オーアの顔、そして耳と首。そのすべてが紅に染まっている。それでも、レイモンドには何のことなのか、まったく分かっていなかった。しまいには、真っ赤になったオーアはしびれを切らし、
「い、いや。気にしないでくれ。で、では俺は哨戒に出てくる」
そう言うが早いか慌ただしく幕舎を出て行った。