第48話:取引②
幕舎のなかで、レイモンドは腰掛をアンジェリカに勧め、自らも腰を下ろした。アルバートとフラムはレイモンドの両側に、グレイとククリはアンジェリカの両側にそれぞれ立った。誰も口には出さなかったが、不測の事態になった場合、速やかにレイモンドを守ることができるような位置を取ったのである。無論、宰相であり王兄でもあるアルバートも、レイモンドと同じく重要な存在なのだが、そのあたりはフラムがしっかりと目を光らせている。なお、この接見の性質上、護衛の兵は遠ざけられた。
言いようの無い張り詰めた空気が流れるなか、さて、とレイモンドが話を切り出した。
「お話をうかがいましょう」
姿勢よく腰掛に座っているアンジェリカは、一見すると精巧な彫刻のようでさえあった。それは同時に無機質であると言い換えることもできる。そのまま何も語らなければ、石で出来ているのか、とさえ思われるだろう。だがアンジェリカは、血が通っていることを証明するかのように、その小さい唇をひらいた。
「捕らえている魔物を解き放って欲しいの」
感情のこもらない冷たいアンジェリカの声に対し、幕舎内の緊張が一気に高まった。フラムとグレイは、とっさに剣の柄を掴んだ。捕らわれた魔物の命乞いをする、それはすなわち魔物の一味である事に他ならない。だがレイモンドは冷静にそれを制すると、
「理由を教えていただきたい。なぜあの大軍の魔物を解放して欲しいのか」
と、静かに聞いた。当然の質問である。
アンジェリカはすぐに答えず、レイモンドの目をじっと見つめた。レイモンドもその視線を、まっすぐに受け止めている。燭台の灯火が揺らめき、アンジェリカの瞳の色を複雑に変化させていた。じっと見ていると、吸い込まれそうな、不思議な深い色合いである。
やがて、アンジェリカは、その小さな唇の端を少し上げた。
「答えは簡単ね。あの魔物たちを殺されては困るからよ」
「なぜあなたが困るのでしょう」
「それは、あの魔物を率いているのが、私だからよ」
アンジェリカは意外なことを言った。
これは狭い幕舎の中を驚きで満たすのに充分であった。みな、信じられない、という顔がありありと浮かんでいる。
「そんな訳があるか」
思わず発せられたグレイの声。
だが、それが聞こえないかのように、アンジェリカもレイモンドも、じっと見合ったままだった。
「信じるのね?」
レイモンドはゆっくりと頷く。
「そろそろ聞かせてもらいましょう。あなたが一体何者なのかを」
アンジェリカが頷く。そして、次に出た言葉も衝撃的なものだった。
「私は魔王の娘なの」
――何!?
さすがにレイモンドの顔色も変わった。
だが、同時に疑問も浮かぶ。まず、アンジェリカの言うことが本当なのか、ということだ。魔王の娘とはあまりにも突飛に過ぎる。穿った見方をすれば、身の安全のための放言とも受け取れる。
そしてもう一つが、果たして魔物の子が人の姿をしているものなのか、ということである。無論、レイモンドは魔王の姿を知らない。だが、今までに見てきた魔物は、総じて異形と言っていい姿かたちをしていた。そこから考えても、魔王といえど、人の姿とは程遠いものであると想像するのが、やはり普通であろう。それに、アンジェリカは結界に遮られることなく、この陣に入っている。
アンジェリカを除いて、その場のすべての者が同じようなことを考えていることが、その表情に出ていた。
ややあってグレイは、
「バカも休み休み言え」
と呆れたように吐き捨てた。だが、幕舎の空気は変わらず凍りついたままで、その言葉に応える声もなく、グレイの声は居心地悪く中空を漂っていた。
アンジェリカは、そうした反応を予想していたとみえ、わずかに微笑むと、
「娘といっても、養女よ。血のつながりはないわ」
と言った。
「魔王が――いや、そもそも魔物が人の子を引き取って育てるなど、にわかには信じがたい話です」
レイモンドが言うのは率直なところである。アンジェリカは冷たく微笑んだまま、小さく首を振った。
「人質として差し出された、と言ったほうが正確ね」
「人質?」
「私の生まれはドルフィニアなの」
――ドルフィニア……。
ドルフィニアは、南ササールから南西に半島のように大きく突き出したところで、いくつかの都市が漁業や海運業で栄えていた。旧王都から見れば、西へ出てから北が中央ササールで、南がドルフィニアとなる。
彼女がドルフィニアで生まれた、というのならば、魔物の攻勢から逃れた人々がそこに隠れ住んでいる、ということになる。
アンジェリカは、さらに話を続けた。
「ドルフィニア王は魔王と結ぶことで、生き残る道を選んだの。それで人質として差し出されたのが……」
「あなた、という訳ですね」
ぽつりと言ったレイモンドに、アンジェリカは小さく頷いた。
それにしても、人質として魔物に差し出される、というのは、一体どういう心境なのだろうか。だが、アンジェリカの身の上にレイモンドが思いを馳せる間もなく、傍らのアルバートが疑問を口にした。
「ドルフィニア王、と言いましたね。ドルフィニアには人が生き残っていて、その人たちが王を立て、建国したということですか」
「そうよ」
この大陸において王国とはただパンダール王国の事のみを指す。すなわち大陸に王はただ一人であり、それは女王キュビィ=パンダールに他ならない。だが、魔物の侵攻によってパンダール王国の力が及ばなくなれば、地方に生き残った者たちが集まって国を建てても不思議ではない。そして、国を建てるということは生き残った人々の数が決して少なくはない、ということになる。
「二十年前の王都陥落のとき、将軍ヴァーノンが人々を守りながら、ドルフィニアに逃げ延びたの。ヴァーノンの息子がドルフィニア王……つまり私の父よ」
アンジェリカの答えに、この日幾度目とも知れない驚きが幕舎を貫いた。
「王女さま……ってことか」
やや間の抜けたような声を上げたのはククリである。アンジェリカは傍らのククリへ視線を向け、こくりと頷いた。
「なるほど。確かにドルフィニアへは足を踏み入れていなかった」
そう呟くアルバートは、かつてジラーフィンから旧王都を経てササールに入り、そして現王都へ至る旅をしている。行く先々の都市はことごとく破壊されており、人の姿はついに見なかった。その事を報告書にまとめ、妹であるキュビィに提出している。報告書の結論は、現王都を除き大陸の人々は滅んでいる、ということだった。
――生き残っている人がいる。
それ自体は、喜ばしい事実である。平時であれば、王を僭称するなどパンダール王国への謀反以外の何ものでもないが、パンダール王が敗走し、王国が機能しないのであれば、致し方のないところであろう。それよりも、生き残るため魔物と結ぶ、という所に、彼らの苦労と悲しみが伝わってくる。恐らく苦渋の決断であったに違いない。
しん、とする幕舎のなか、アンジェリカの声がふたたび響いた。
「さあ、事情は話したわ。捕らえた魔物たちを解放して」
アンジェリカの目が光った。消え入りそうな白い肌とは対照的に、その眼差しは力強い。真剣な顔でその視線を受け止めているレイモンドは、にわかにふっと笑うと、
「そうですね。解放しても構いませんが、条件があります」
と言った。とたんに、周囲がざわめく。
「信用するのですか?」
隣のフラムが小声でたずねた。そこには反対であるという意思がはっきりと込められていた。だが、レイモンドはフラムに応えず、そのままアンジェリカを見つめている。
「取引、という訳ね。で、条件は?」
アンジェリカがそう言った直後、突然陣が騒がしくなった。山からオーアとヘイエルが戻ったと告げる兵の声が、幕舎のなかに聞こえてきた。
「重臣が戻ったようです。場所を変えるとしましょうか」
レイモンドはそう言うと席を立った。