第46話:魔将②
幕舎を出たオーアは、休息をとっていた配下の兵たちを数十人集めると、ヘイエルを伴って陣を出た。
すでに陽は傾いており、空はもう朱に染まっている。流れる雲は時間とともにその色合いを複雑に変化させていた。その下をオーアは一言も発せずに進んでいる。短く刈り込んだ銀髪が陽の光を受け、燃え上がるような赤色に見えた。
そうしたオーアの後姿を、不思議に思いながらヘイエルは見ていた。先の幕舎でのやりとりがどうにもオーアらしくない、と思っていたからである。
――オーア閣下は気分を害しているようだった。
というヘイエルの見立ては間違ってはいないだろう。半ば勢いに任せた格好でオーアは幕舎を飛び出したのである。豪快な性格のオーアではあるが、意見の対立によって感情的になる気質ではない、とヘイエルは思っている。それだけに、オーアの行動は不可解であった。ただ単に意見の相違が原因なのであろうか。
――おそらく違うだろう。
ということまではヘイエルにも分かる。が、それ以上は分からず、また問いかける雰囲気をオーアがまとっていないだけに、ただ彼の背中を見ていることしかできなかった。
やがて一行は先ほど戦場だった場所へと再び足を踏み入れた。無数の魔物の群れが、変わらず彫像のように地を埋め尽くしていた。改めて見ても異様としか言えない光景である。
「さすがに気味が悪い」
ヘイエルは思わずひとりごちた。
傾いた陽の光が、異形の魔物たちの陰影を強調し、不気味さをいや増させている。無数の目が近寄るヘイエルらを一斉にぎろりと睨みつけた。背後から、ひい、と兵たちが首をすくめる声が聞こえてくる。
「目だけは動かせるのだ」
今まで一言もしゃべらなかったオーアは、魔物たちの前で足を止めると、不意にそうつぶやいた。オーアはかつてマスター・ウォルサールの結界術によって動きを封じられたことがある。言葉の端にその時の悔しさがわずかに滲んでいたかも知れないが、ヘイエルは気づかなかった。
「さて、魔物の将を探し出すとしよう。確かにあまり気持ちのいい光景ではないが、なに、こやつらが動くことはないのだ」
オーアは多少大げさな声を出した。不気味極まりない光景に、すっかり飲まれたような兵たちを励まそうというのだろう。オーアがいつもの様子に戻ったようで安堵したヘイエルは、別動隊で結界術を施す際に出会った魔物のことを思い出した。
「魔物の将は、おそらく二本足で立つトカゲでしょう。身に着けている鎧など、他の魔物よりは身なりがいいはずです」
ヘイエルの言葉にオーアは、ほう、と意外そうな顔をした。若と呼ばれた魔物に出会ったことをヘイエルはすでに軍議の席で報告しているが、その魔物がトカゲの姿であったことまでは言っていなかった。それは隠していたわけではなく、単純に大した問題ではないと思っていたからである。
「なるほど、若とやらはトカゲだったというわけか。では手分けして身なりのいいトカゲを見つけるとしよう」
そう言うとオーアは先頭を切って魔物の群れへと入ろうとした。
あっ、と言ってヘイエルがそれを制す。
「結界に入ったら、我々も身動きが取れなくなるのではありませんか」
ヘイエルの問いに、オーアは小さく笑った。
「この結界は魔物だけに有効な結界だと殿下から聞いている。この魔物の数だ。中には入れないのでは、そもそも将など探しようがあるまい」
と言いながら、オーアは悠然と魔物の群れへ入り込むと、ヘイエルのほうへ向き直って軽く手を振り、ほらな、と笑った。言うまでもなくオーアが立っている場所は結界の効果の中にある。
「つくづくこの結界という奴は大したものですね」
ヘイエルも笑って肩をすくめると、魔物の群れの中へと踏み出した。
結界術というのは、魔物に効果があるものと、人へ効果があるものに大別されるらしい。王都に施されている結界は、当然、魔物を寄せ付けないためものものであり、人に対しては何ら干渉しない。
さらに結界術はそこからまた二つに分けられるという。すなわち、外部に向けてその力を発揮するものと、内部に向けてその力を示すものの二つである。外へ向けた結界は外部からの侵入を防ぎ、内へ向けた結界は、内部にいる対象の動きを封じることができる。つまり、いま大軍の魔物の動きを封じているのは、魔物だけに有効な、かつ内側に効果を生み出す結界ということになる。
「本当はもっと複雑らしいのだが、分かりやすく言うと、そういうことらしい」
オーアは魔物の群れの中から将を探すかたわら、そのようにヘイエルに説明した。無論、アルバートから聞いた話なのであろう。
実は結界術とは、個人の素養に関係なく、誰にでも扱えるものであるらしいのだが、非常に複雑な理論を理解する必要があるため、習得には長い年月が必要であるのだという。習得が難しいという性格上、説明には常に抽象的な言葉をもってなされるというのが、この結界術というものを分かりにくくしている。
「結界術がどういうものか皆が分かるように説明しなければならないから、いつも苦労するとアルバート殿下はおっしゃっていた」
苦笑まじりにオーアは言う。
ヘイエルはいっしょになって笑ったが、ふと笑いをおさめると、
「結界術の継承はどのようになさるのでしょう」
と、日ごろ思っていた疑問を投げかけた。いま、結界術を扱えるのは王兄であり宰相でもあるアルバートただ一人である。戦略上、非常に重要である結界術は、いずれ誰かに伝えなければならない。
オーアはヘイエルの問いに、さあな、と答えたあと、
「興味があるなら、お前が受け継いで、王立学校で教えるというのはどうだ」
と、本気とも冗談ともつかない調子で言った。ヘイエルは、ただ笑ってそれには答えない。
――不可能だ。
と思っているからである。
とても習得できない、というのではない。結界術の力があまりにも大きすぎるため、容易に人に教えるべきものではないとヘイエルは思っている。秘術中の秘術といっていい結界術は、継承に関しても厳重にし、徹底して制限されるべきであろう。王立学校で広めるというのは、あまりにも危険すぎる。とはいえ、誰かしらには伝えなければ潰えてしまううえに、アルバートだけにしか扱えないというのも、不便といえば不便である。
そうして真面目な顔で考えているヘイエルの肩を、ぽんとオーアが叩いた。
「冗談だ」
と言ってから、オーアは小さく鼻を鳴らして笑った。
「分かっていますよ」
とヘイエルは返すのだが、そのやり取りは、屹立する魔物を避けながら、にわかに走り寄ってきた兵の声にかき消された。
顔色を変えたオーアとヘイエルにもたらされた報告は二つである。
一つは、魔物の将らしきものを見つけた、というものである。
「よしよし、よくやった」
オーアは腕を組みながら、幾度も頷く。空はずいぶんと薄暗くなり、早くも小さな星が見え始めている。想定よりも早い発見であったのは幸いである。
「で、もう一つの報告とは」
怪訝な顔でヘイエルが兵にたずねる。報告は先のひとつで充分なはずである。
聞かれた兵は少し言いよどんだが、
「人を見た、と言う兵がおりまして……」
とはっきりしない。オーアは眉を寄せ、どういうことだ、と問いただした。兵は仕方無さそうに口を開く。
「それが、子供を見たらしいのです。そして、いつの間にか魔物の陰に隠れて消えてしまった、と」
「オレに怪談話をしようというのか」
信憑性と確実性に欠ける話だけに、オーアはみるみる不機嫌になった。生粋の武人であるオーアは、曖昧な報告を嫌うようである。それに気付いたヘイエルがあわてて口を挟む。
「きっと見間違いでしょう。薄暗くなってきたし、確かにここは不気味ですから」
ヘイエルがそう言わなければ、報告にきた兵は恐らくオーアに怒鳴りつけられていただろう。実際、いかに動かないとはいえ、魔物の只中にいるのだから、不気味であるのに間違いない。さらには周囲は暗くなり、その雰囲気はさらに悪くなっている。
オーアは、まあいい、と言ってから、
「将を見つけたのなら、長居は無用だ。捕らえて、さっさと引き上げるとしよう」
と言ってから人数をかけて将を捕縛するように兵に命じると、自身は踵を返して一人来た道を戻っていった。ヘイエルも仕方なくそれに倣う。
「くれぐれも敵将に逃げられたり、暴れられて怪我を負わされたりしないように用心しろ。しっかりと縛っておくのだぞ」
と、去り際のオーアは兵士に念を押すのを忘れなかった。オーアなりに兵を心配しているのだろう、と感じたヘイエルは、思わず吹き出しそうになるのをどうにか堪えたのだった。
ところで、兵士が寄こした二つ目の報告、
――子供を見た。
という言葉が、どういう意味を持つものだったのかを彼らが知るのは、本陣に戻ってからのことである。