第44話:激突 ②
山が動いた、という表現が相応しいだろう。
いくつもの雷鳴が同時に轟いたかのような叫び声が起こったかと思うと、山の斜面に無数の巨大な影が一斉に立ち上がり、津波が押し寄せるように駆け下りて来たのだ。木々をなぎ倒し、群れがひとつの意思を持った塊のようになって迫る。
距離はまだある。だが、怒涛のごとく押し寄せる無数の魔物の軍勢は、恐らく見る間にササール候軍の至近に迫り、その猛威を振るうであろう事は瞭然であった。
その様子を、ヘイエルはいまだ森の中から見ている。もはや戦端が開かれたと言っていい状況の中、いまだにヘイエル隊に下された命令はなかった。依然、
――待機。
である。
これまで本隊からの使者がやってくる度に、幾度も下命を確かめるのだが、いつも使者の言葉は待機であった。
ヘイエルは唇を固く結んで、魔物が土煙を撒き散らしながら攻め下るさまを見やる。背後の兵たちも、自分たちが戦列に加わる前に敵が現れたことに、少なからずの動揺があるようだ。が、それを口にする者は誰もいなかった。
やがて、ヘイエル隊が見守る中、ついに強襲する魔物の先陣がササール候軍の目前に迫った。前、左右と三方向から一気に魔物が殺到する。対するササール候軍は密集した陣形を敷いており、突撃の衝撃に耐えようとしているかのようである。そしてついに、先頭の魔物がササール軍に襲い掛かった。
「あっ」
ヘイエル隊は皆声をあげた。
見ている光景が信じられなかったのだろう。あれほどの猛威を見せた魔物の先陣は、まるで見えない壁に激突したかのようにその勢いを失い、後続の魔物が次々にその上に折り重なった。激しい突撃ゆえに、それが急停止した時の衝撃もまた大きい。遠く離れたヘイエルからも、魔物が血しぶきを上げてその身を砕かれるさまが見て取れた。
――結界だ。
ヘイエルはその策を知っていた。だが、それでも結界がここまでの効力を発揮するものとは思っていなかった。結界とは魔物を寄せ付けないためのもの。そのくらいの認識しかなかったのだが、結界に触れた魔物の伏兵は、その攻勢を逆手に取られ、手痛いしっぺ返しを食らっている。結界の力によって、魔物の伏兵は完全に失敗したのだ。
わあっと、ヘイエル隊から喚声があがった。ヘイエルも含め、彼らはあの魔物の真っ只中にあって、散々にその恐怖を味わったのである。その魔物が結界の力によって自滅と言っていい程無様に打ち砕かれているのだ。兵たちが喜ぶのも当然と言えば当然と言えた。
だが、そんな中、ククリは憮然とした表情のままであった。
「俺たちの出番はなし、ってことか」
恨みがましくククリが言う。が、思いはヘイエルも同じであった。
――何のためにこの森に待機しているのか……。
よもやレイモンドがヘイエルたちの事を忘れているはずもあるまい、とは思うものの、確たる自信もなかった。もし何かしらの指示があるのならば、開戦の手前で知らされているはずである。本隊が結界の中に篭り、敵に包囲されてからでは外への連絡はつけにくくなる。にも関わらず、まだヘイエルの手元には何の指示ももたらされていない。
さすがのヘイエルも不安に思っていると、遠く山裾の戦いを見つめたままのグレイが呟いた。
「いや、恐らく、別命があるはずだ」
「グレイには何でそんな事が分かるんだよ」
口を尖らせてククリが聞く。ヘイエルは黙ってそのやり取りを見ている。
「今のところ本隊は魔物の攻撃を受け止めたが、このままいけばジリ貧だからな」
「どういう事だ?」
ククリは分からない、という風に首を傾げる。グレイはニヤリと笑って見せた。
「魔物の動きが止まったのはきっと結界の力だろう。だが、本隊もあのままじゃあ、この間の俺たちみたいにずっと身動きが取れないからな」
「ならば反撃に転ずるときこそ、我々の出番、という事か?」
グレイが口にした予想に聞き返したのはヘイエルである。その顔をちらっと見たグレイは、すぐに視線を山裾の方へ戻すと、
「多分ね。本隊だってわざわざ自分の逃げ道を塞ぐだけの策なんて実行しないだろう。きっと何か考えてるはずさ」
と、愛想無く言った。
ククリはその言葉に安堵したらしく、どかっとその場に腰を下ろした。
「じゃあ、それまでたっぷり休むとしますか。将軍もそうしたら?」
毒気の無いククリの笑顔に、ヘイエルも緊張した面持ちをふっと和らげた。
「よし、ヘイエル隊は飯にしよう。腹が減っては戦はできぬ、と言うからな」
その頃、ササール候軍本隊に跳ね返された魔物はようやく落ち着きを取り戻したようで、突入の勢いを緩やかにすると、ぐるりとササール候軍を包囲しはじめた。
魔物の突撃を見事に受け止め、逆にその勢いを利用した格好のササール候軍だったが、その後の戦況は必ずしも良いとは言えなかった。
結界の中に居さえすれば、魔物は内部に侵入できない。だが、それはあくまで魔物自身のことであって、連中が使用する武器は当然のように結界内に入ってくるのだ。
「来たぞ! 防げ! 隙間を作るな!」
前軍では、オーアがありったけの声を張り上げて叫んでいた。空を埋め尽くす無数の矢。それが一旦空高く放たれたかと思うと、一直線に降り注いできたのだ。
兵たちは密集し、盾を構えるとそれを隙間なく重ね合わせ、身体中をその中に収めようと身を縮める。やがて風を切る音と共に、どかどかと盾に衝撃が響いた。いつ終わるとも分からない矢の雨をやり過ごすと、ようやく盾から首を出すことができる。が、幾人かの兵は、そのままうずくまったままであった。運悪く盾の弱い部分を撃ち抜かれ、その身に矢を受けたのである。オーアは内心、魔物が弓矢を扱えるという事にも驚いたが、もっと驚いたのはその威力であった。まさか盾を撃ち破るほどの矢が飛んでくるとは思いもしなかった。
「やられっぱなしのままでいくものか! こっちからも矢をお見舞いしてやるんだ」
大盾から頭を出し、そう言いながらオーアは魔物の矢を拾い上げると、弓につがえた。兵たちもそれに倣う。
「撃て!」
空を斬る音と共に、結界の外へ向かって矢が放たれた。が、やはり魔物から飛んでくる矢と比べても、その数といい鋭さといい、はっきりと見劣りする。
魔物の群れは、巨大なトカゲのような魔物を盾代わりにしてササール候軍の矢を防いだ。巨大トカゲのその分厚い鱗は、ササール候軍の兵の放った矢では貫けず、すべての矢はトカゲの足元へぽたぽたと落ちていった。
「くそっ! どうすればいいのだ!」
オーアは歯噛みした。
このままでは、魔物の放つ矢のためにじわじわと攻められ続け、次第に兵数を消耗していくだけである。そして、敵の昼夜を分かたず繰り返されるであろう魔物の攻撃に、兵の体力もいつまで持つか分からない。現状は何とか防ぐことができているが、それも時間も問題である。
敵の伏兵を止めることが出来たまではいい。正直、現れた魔物は、その数といい、体躯といい、オーアが想像していたものよりも遥かに強大だった。それだけに、結界術がなければどうなっていた事か、とオーアは考えただけで背筋が凍りつく思いだった。
だが、そんなオーアの思いなど関係なく、魔物は次の矢を構える。
「くっ! 次来るぞ。盾を構えろ! 頭を下げるんだ!」
次の瞬間にはまた空は黒くかげった。
――レイよ、どうする!?
飛び道具の事など、当初の軍議ではまるで話に出なかった。結界の中で戦う事で、被害を最小限にする事ができるはずであった。だが、矢の攻撃には結界など通用しない。
オーアは盾の下で、降りかかる矢の衝撃に耐えた。それが終わり、盾から顔を出すと、また麾下の兵の数がわずかに減っていた。オーアはぎりぎりと歯を鳴らす。
「土塁を築く! 半数は矢を防げ! 半数は土を盛るんだ」
物理攻撃を防ぐなら物理的な障壁を作ればよい。咄嗟にそう判断したオーアは、自ら背後の兵の盾となった。
「土塁、急げ!」
オーア軍の半分は盾の役割を担い、残りの半数が穴を穿ち、土を盛った。盾役は必死に魔物の矢を防ぐ。オーアも盾と槍で、懸命に飛来してきた矢を叩き落し続けた。
やがて気の遠くなるほど長く感じる時間ののち、ようやくそれなりの高さの土塁が完成した。すでに犠牲者は少なくない数になっている。
「全員、土塁に隠れろ。あとは上からの矢を盾だけを防げばいい」
土塁を使えば、敵の遠距離攻撃からも身を守れる。いや、守れるはずであった。
「オーア様! あれを……」
顔を青くして悲鳴のように叫ぶ配下の兵。オーアはその兵が指差す方向を見て、肝をつぶした。
「あれを飛ばそうというのか!?」
オーアが見たのは、巨大なトカゲが口に大岩をくわえ、今まさにこちらへ放り投げようとしているところだった。