第43話:魔軍 ②
ヘイエルが包囲されてから、三度目の夜がおとずれた。星ひとつない闇夜である。
暗闇に溶け、魔物の姿こそ見えないが、物音や気配から依然として動きがない事はよく分かった。それにあわせて、ヘイエルたちも身動きが取れないまま、暗闇に潜んでいた。
そんな状況を打破したいと思ったのか、意を決したような表情の兵が一人、ヘイエルににじり寄ってきた。
「夜陰に紛れれば、魔物に見つからないのではないですか」
その押し殺した声が聞こえた周りの兵たちは、一瞬、希望を見出したような顔をしたが、すぐにヘイエルは首を振った。
「いや、奴らを人と同じように考えてはいけない。我らと違って夜目が利くかも知れないし、犬のように鼻が異常にいいかも知れない」
当然ヘイエルも闇を突いて脱する方法を考えないではなかった。しかし、夜目が利かないのは、むしろ人の方である。魔物が接近したとしても、気付くことは難しい。
諭された兵は、残念そうに引き下がった。
「なあなあ、将軍さんよ」
今度はいきなり無遠慮な声が聞こえてきた。
見れば、少年のような背格好の二人の兵が、ヘイエルの顔を覗き込んでいる。
ヘイエルは彼らを見ると、苦笑いを浮かべた。
「ここでは、言葉遣いに気をつけるように言っておいただろう、グレイ」
「あ、悪りい。将軍、ククリがちょっと気付いた事があるらしい……ですけど」
少年兵は、慣れない言葉遣いで、もどかしそうに言った。
「魔物の奴らも、夜は寝てるみたいだ」
二人の少年兵のうち、色の黒い方がそう言った。
途端にヘイエルの目が見開く。
「なぜ分かる?」
それには、もう一方の少年兵が答えた。
「ククリは森育ちだから夜目が利くのさ。それに、今まで俺たちが見てきた魔物にも、そういうヤツがいたしな」
「まさか、この闇夜で奴らが見えるのか」
信じられない、という表情で、ヘイエルはククリと呼ばれた少年を見た。
ククリはまあな、と得意げに胸をそらす。
にわかにヘイエルの脳裏に、光明が差した。
――まさか、冒険者がここで役立つとは。
ササールへ出発する直前。
ヘイエルは冒険者二人から、何とかしてササールに連れて行って欲しい、と散々にせがまれていた。その冒険者こそがグレイとククリである。ヘイエルが彼らと知り合ったのは、砦改修時の防衛戦の時だった。彼らの戦い振りを、ヘイエルも良く覚えていた。
――確かに腕は立つが……。
二人はヘイエルを唸らせるに充分過ぎるほどの実力ではある。だが、将軍とは言え、ヘイエルは預かった兵を率いるだけで、自由に正規兵以外の者を連れて行けるだけの権限はない。それゆえ何度も断り続けるヘイエルだったが、グレイとククリは引き下がらなかった。
――冒険者として連れて行けないなら、兵の中に潜り込ませてくれ!
二人の要求は無茶苦茶である。無論、ヘイエルはそれを突っぱね、ついに出発の日を迎えた。
すっかり諦めたものだろうと思っていたのだが、ヘイエルが出発に際し、自らが率いる兵たちを見渡した時、何食わぬ顔で居並んでいるグレイとククリの姿に気付いた。
――なぜ、ここにいる?
ヘイエルはあっと声を出しそうになるのをどうにか堪えた。が、その驚きを抑えた後、今度は笑いが込み上げてきた。
二人が急遽正規兵になった訳ではない事ははっきりしている。冒険者上がりの兵がいないことは名簿を見たらすぐに分かるからで、当然、ヘイエルが事前に名簿に目を通した時には、そのような経歴の者はひとりもいなかった。
つまりは、どうやったのか、兵の中に強引に紛れ込んだのである。
――そうまでして行きたいのか。
冒険者とはそういうものなのだ、と妙に合点がいったヘイエルは、彼らの存在を黙認した。
当然、主君であるレイモンドに知れたら、処罰の対象となるに違いない。
――まあ、その時はその時だ。
と、ヘイエルは腹をくくった。
もとより将軍という職に執着があるわけではないし、何より、この少年冒険者二人の実力は凄まじい。連れて行って戦力になることはあっても、決して足手まといなどにはならないだろう。
ただ、ひとつだけ、
「私の兵に混じるなら、他の兵に気付かれないようにしろ。言葉遣いには特に注意しないと、すぐばれるぞ」
行軍中の二人に背後からこっそりと近づいたヘイエルは、突然驚かせるように二人に言った。
グレイとククリはそんなヘイエルに、にんまりと笑って見せたのだった。
その冒険者二人が、今ヘイエルの部隊を救おうとしている。
ククリの言うように魔物が寝入っていれば、その隙を突けるかも知れない。
「よし、グレイ、ククリ。脱出できそうな道を探せるか?」
グレイとククリは顔を見合わせると、喜色満面で大きく頷き、さっそく東の森へと走り出そうとした。
その時だった。
「その必要はありません」
ふいに聞こえた声。
驚いたヘイエルがその声の方を見たが、ただ暗闇があるだけである。部隊に緊張が走り、それぞれ得物を手にする金属音が一斉に鳴った。
「誰だ」
殺気立つ兵を手で制しながら、槍を掴んだヘイエルは闇へ問いかけた。
漆黒のなかから、くすくすとした笑い声が聞こえる。
「私は魔物ではありませんよ、ヘイエル将軍」
「……なぜ私の名を」
ヘイエルの問いと同時に、暗闇に人の顔がおぼろげに見えてきた。が、暗さのため、どのような顔なのかは判然としない。声からどうやら女らしいという事だけは分かる。
「馬は捨てて、私についてきてください。この包囲を抜ける道を知っています」
「なんだと」
意外な言葉に、ヘイエルはその後の言葉を失った。同時に兵たちからも、抑えたどよめきが聞かれた。
果たして信じてよいものか、とヘイエルが思い始めた時、傍らのグレイが袖を引いた。
「将軍、多分信じていいと思うぜ。魔物に気付かれずここまで侵入できたってんなら、出ることもできるってことだろ」
ヘイエルはグレイへ向けてゆっくり頷くと、闇へと答えた。
「よし。では案内しろ。だが少しでもおかしな真似をしたら、即刻斬るからな」
「……結構です。暗いですから、この音を頼りについて来てください」
ちりん、と鈴の鳴る音がした。そこに闇からの声の主がいるのだろう。
「ククリ、夜目が利くお前は先頭となってあの音について行き、兵たちを先導しろ。私は万一に備えて最後尾につく。それから……」
――何か不審があったら、すぐに斬れ。
と、囁いた。
わかった、とククリが目で答えて音の方へと消えていき、その後にグレイや兵士たちが続いた。次第に鈴の音がヘイエルから遠ざかっていく。
次第に小さくなる鈴の音を聞きながら、それにしても、とヘイエルは考えた。
この救いの手の主とは一体誰なのか。本当に怪しい者でないならば、ヘイエルに問われた時、名を名乗り、誰からの命なのかを明らかにするはずである。その方が、相手に信じてもらいやすい。
――だが、奴はそれをしなかった。
魔物の包囲を脱出できる、というのは恐らく本当だろう、とヘイエルも思っている。
でなければ、こんな場所までわざわざ来る理由などない。魔物の罠、というのも、まずあり得ない。これだけの大軍であれば、策など弄さずともヘイエルの部隊などひとたまりもないはずである。
では、一体誰の差し金なのか。それはヘイエルの想像の外にあった。
「将軍、はやくしないと、迷子になるぞ」
既に脱出のために出発したはずのグレイが、最後尾に戻ってヘイエルを呼びに戻ってきた。
「わかっている」
とヘイエルは言った後、思い出したように、
「言葉遣いには気をつけろと言っただろう」
と、こつんとグレイの額を小突いた。