第42話:途切れた線 ②
明くる日、不測の事態が起きた。
それまで欠ける事の無かった先行部隊ヘイエルからの連絡が、夜中になっても届かなかったのである。
レイモンドはすぐさま帷幄に各将を呼んで軍議を開くと、その事を伝えた。
魔物が出現したのか。はたまたヘイエルの身に何かがあったのか。軍議は凍りついたような緊張感に包まれた。
しばらくの沈黙のあと、重苦しくオーアが口を開いた。
「まあ、さらに様子見の兵を出して探るしかあるまい。理由がはっきりせんうちは、こちらも動きようがない」
オーアの言葉に、宰相アルバートも、フラム=ボアンも同意する。
レイモンドは、それぞれを見渡したあと、少し考えてから口を開いた。
「ではそうしましょう。オーア殿、人選をお願いします」
了解した、とオーアは短く答える。
「それから、この事は絶対に他言無用に願います。兵の士気にかかわりますから」
レイモンドの念押しに、各将とも深く頷いた。
先行隊のヘイエルの身に何かがあったという推測が一人歩きしては、兵たちが浮き足立つ事は目に見えている。実際の所は、まだ何も分からないのだから、無用な動揺を兵に与えたくない。
「では、解散します」
というレイモンドの言葉で、短い軍議は終わった。
各将が幕舎を出て行くなか、去り際の一人にレイモンドは声をかけた。宰相アルバートであった。
「殿下、ちょっと……」
「なんでしょう」
二人は幕舎に残ると、額を寄せて何事かを話し合った。抑えた声で、レイモンドが二、三言伝え、アルバートが同じように言葉を返す。
このわずかなやり取りのあと、幕舎を去るアルバートは一言、
「恐ろしい方だ……」
と苦笑まじりに、自分にしか聞こえないように言ったのだった。
アルバートを見送ったレイモンドは、一人となった幕舎の中で小さく息をつくと、椅子にどさりと腰を下ろし、目を閉じた。
そして、再び目を開けた時。
レイモンドの目には、それまで無かった姿が映った。
「オルフェン候。ご無沙汰しております」
「お前は……」
レイモンドはぎょっとして椅子から落ちそうになる所を何とか堪えると、つとめて平静を装った。
目の前にいるのは、黒衣をまとった女であった。
「蛇にございます」
「どうやって陣に入った」
夜中とはいえ、陣中には兵がうようよとしている。そんな所を、いかにも怪しげな黒ずくめの女が歩いていようものなら、即刻捕縛されるはずだ。であるのに、陣の最も奥まった場所にあるレイモンドの幕舎に、忽然と現れたのである。
「諜報が得意でありますれば」
蛇は艶っぽい含み笑いをすると、音も無くレイモンドの側へと近寄った。蛇がくねるような妖艶な動きである。
「お耳を」
と言う声は、すでにレイモンドの耳に息がかかるほどに近いものになっていた。
思わずレイモンドは眉をしかめると、蛇の口元から耳を遠ざけた。
「普通に話せ」
と、不機嫌そうに睨まれた蛇は、レイモンドに寄せていた顔を戻すと、つまらなさそうに息をついた。
「私はただ、ヘイエル将軍について、候にお知らせしようと」
「何だって?」
目をむいたレイモンドに、蛇はまた笑顔を浮かべる。
「ですから、お耳を」
くすくすと蛇は笑うのだが、レイモンドが再び蛇を睨んだため、仕方無さそうに蛇は話をはじめた。
「将軍と麾下の兵は無事です。ですが魔物の軍に包囲されていて、連絡を寄こすことができないのです」
「魔物の軍だと? それは本当か」
「もちろん、嘘など申しません」
レイモンドは考えた。
どうしてこの蛇は、ヘイエルの消息を知っているのか。本来ならば、今頃は、レイモンドが依頼したトッシュ=ヴァートの所在を調べているはずではないのか。そもそも、蛇の諜報の実力を見るために、ヴァートを探すという依頼をしたのである。それが果たされないのなら、蛇の言うヘイエルの情報を簡単に信じる訳にはいかない。
「トッシュ=ヴァートがどこにいるかは分かったのか」
レイモンドは鋭い目で聞いたが、蛇は表情を変えることはない。
「それはまだ調査中です。ですが、ヘイエル将軍の苦境というのは、本当です」
蛇は自信ありげに言う。
レイモンドは相変わらず蛇を睨んでいる。
「トッシュの件は、どこまで分かった?」
「王都付近にいないことは確かです。ですので、もう少しお時間が必要です」
「王都にいない?」
蛇の答えは意外であった。
王都にいないのであればどこにいるというのか。まさか、このササールに来ている、ということはあるまい。だが、蛇がヴァートを追ってここまでやってきた、というのなら、蛇の行動は理解できる。
「ヴァートは、ササールにいるのか?」
「それはまだ分りません。もしかしたら、ササールにもいないのかも知れません」
「まさか」
王都でもササールでもないとすれば、東の旧王都か、南のドルフィニアか。どちらにせよ、遥か遠くである。
それに、ヴァートには魔物と戦えるだけの剣の腕はない。というより、レイモンドが知るヴァートは、剣術自体が大の苦手であったはずだ。そんな人間が王都を出て、危険極まりない土地をふらふらとするだろうか。
そうしたレイモンドの思考を読んだかのように、その疑問に蛇が答える。
「どうやらヴァート様は、パンダールの酒場にて冒険者をお雇いになったようです」
「冒険者……。何のために?」
レイモンドの声に、蛇はまたくすくすと笑った。
「それは冒険者をつくられた候が最もご存じでしょう」
「魔物と戦うために……か」
つまりヴァートは、魔物が出没するような場所に行くために冒険者を雇ったのだ、と考えるのが自然である。だが、その目的は何なのか。
官職を辞し、王城を去ったヴァート。彼は、王城でマスター・ウォルサールが起こした事件の責任を取った、とレイモンドも聞いている。引き留めようとするオーアに対し、ヴァートは、未練はない、と答えたことも知っている。だが、それを聞いても、レイモンドはどうにもヴァートの行動として、しっくりとこない、と思っていた。
だが、今、蛇から聞いたヴァートの姿は、レイモンドが心に描く姿に近い。
――やはり、トッシュはまるきり政治に見切りをつけたわけではない。
そう思っていたからこそ、当初のササール行きの臣として、ヴァートに声をかけようと思ったのである。
ヴァートがレイモンドに対して、敵対心のようなものを抱いていることを感じていただけに、素直に請けるとはレイモンドも思っていない。だが、少なくともヴァートの真意を聞く機会は作れるかもしれない。
――誰がレイモンドなどの臣下になるか!
と、ヴァートはレイモンドを怒鳴りつけるかもしれない。
それでもレイモンドは良かった。直接会って、ヴァートの言葉を聞きたかった。彼の強い自尊心を傷つけるだろうという迷いもあったが、しかし一方で彼の反発心を煽ることで、かえって発奮させ、再び士官してくれるのでは、という期待もあった。
冒険者を雇い、ヴァートが何をやろうとしているかまではレイモンドには分らない。だが、その先には、必ずパンダール王国のためになる何かがあるはずである。なぜだか、レイモンドにはそう思えてならない。
「冒険者を雇って旅をしている……か。トッシュらしいと言えば、言えるかもしれないな」
レイモンドは、蛇の報告に対して整合性を感じはじめた。
それに、ヘイエルの危難を聞いたからには、何かしらの手は打つべきであるし、蛇にしても、嘘を言ったところで何も得るものはないだろう。
「よし。ヘイエル将軍の話、信じよう。蛇、トッシュのことは今はいい。ヘイエル将軍を助けられるか?」
レイモンドがそう言うと、蛇は笑いを含みながら、
「御意にございます。……危急ですので、夜伽はまたいずれ」
と言い置いて、さっと帷幄を出て行った。
レイモンドがその後すぐに外を覗いたが、当然のように蛇の姿はなく、闇の中の兵士の火が、静かに揺れているだけであった。




