第42話:途切れた線 ①
南進を続けるササール候軍は、半月を要してようやく道程の半分に差し掛かった。
普通に進めば三日とかからない距離である。それでも、兵たちは身を粉にして働き、弱音一つ吐くことなく、黙々と街道に結界を敷設していった。朝、日が昇るかどうかという頃から起きだし、日が落ちて辺りが見えなくなるまで作業は続く。夜は夜で、魔物の襲来に備え、見張りを立てなければならない。過酷な進軍である。
それでも彼らを突き動かしているのは、魔物から大陸を取り返しているという実感であった。杭を打ち込むたび、わずかずつではあるが、しかし確実に、人の住む版図は広がっていく。それが、兵たちに言い知れない充実感をもたらしていた。
そして、作業を進めていくうちに兵たちもコツを掴んでくる。砦を出た頃には、一日にいくらも進めなかったのが、今ではその時の三倍の距離を進むこともあった。
「どうにか軌道に乗ってきましたね」
フラム=ボアンは、夜の哨戒から陣に戻ったばかりの軍務大臣グゼット=オーアの元へ交代に訪れると、そう言って笑顔を見せた。
夜警は各将が麾下の兵を率いて、交代であたることになっている。兵士はその数が多いため、順番に休ませることができるのだが、人数の少ない将はそうもいかない。将軍ヒューバート=ヘイエルのいない今、毎晩必ずフラムとオーアが哨戒にあたる事になる。彼らは彼らで、なかなかに過酷であった。
ちなみにではあるが、ササール候レイモンド=オルフェンが、自分も夜警に出る、と言うのをやめさせるために、フラムとオーアは三日間を費やしていた。
そんな中ではあるが、オーアは疲れた顔も見せずに交代に現れたフラムを見た。
「はじめはどうなるかと思ったがな。だが、兵たちの中にも、何人か勘のいいヤツがいる。そいつらが、うまく兵を束ねているようだ」
兵士は従来、数人の隊を組ませ、それぞれに長を置くというのが普通だったのだが、みな若い兵ばかりであるということもあって、レイモンドは無理に長を置かなかった。先を急ぐよりも、作業を伴う行軍を経て、自然と現れる長の存在を待ち、新たな組織を作り出そうとしたのである。
果たして、レイモンドの思惑通り、次第に兵の中でも目端の利く者が作業を取りまとめるようになっていった。将たちは、その幾人かに指示を与えれば良くなり、この点も行軍がはかどってきた理由の一つと言えるだろう。
フラムも同感だ、という風に頷いて見せた。
「これで何も無ければ、あと十日で目的地へ到達できそうですね」
「何も無ければ……か」
オーアはフッと鼻を鳴らして言った。
「不思議だな。この半月、一度も魔物を見なかった。王都の周りでさえ、いくらかは出てきたというのに」
オーアはそう言いながら、不精髭の伸びてきた顎をなでた。
彼が言うように、砦を出てからというもの、魔物は鳴りをひそめている。日夜哨戒は怠っていないが、一匹の魔物の出現も報告が無い。
「かえって不気味ですね。オルフェン候がおっしゃる通り、まるで誘い込もうとしているような……」
フラムの不安げな表情が、かがり火に照らされている。
「確かに、ここまで徹底していると作為的に思えてくるな」
既に先行してヘイエルが偵察に出ている事を二人も聞き及んでいる。ヘイエルからは一日を置かずして報告が入るのだが、そこでも魔物が現れたという話はない。
わざわざヘイエルを先へ先へと偵察に出している理由は魔物の出現に備えての事である、とレイモンドからすでに説明されていた。レイモンドは、必ず魔物が迎撃に出る、と予想し、軍議でも将たちに、常に警戒せよと言い続けている。
「レイの杞憂で済めば、それに越したことはないのだがな」
笑って茶化すオーアであるが、彼にしても現状は良く分かっている。いうなればササールの地は敵の真っ只中であり、いつ魔物に襲い掛かられても不思議ではなく、用心してし過ぎることはない。
「恐いのは夜襲ですね。今日のような闇夜では、魔物の姿を見つけるのは容易ではありません」
二人は視線を回して、果てなく続く闇を眺めた。
のっぺりとした闇は、すべてを飲み込み、まるで世界から隔絶されたかのような静けさに満ちている。そんな闇にひしめく魔物の群れを想像して、思わずフラムは寒気を覚えた。
これだけ闇が濃ければ、哨戒などただの気休めにしかならないかもしれない。それでも、実際に目で、肌で確かめることで安心感を得ることはできる。敵が見えないという事は、恐怖以外のなにものでもない。そしてまた、恐怖ほど兵に伝播しやすいものはなく、その恐怖を除くことが哨戒にあたる者の役目となるのだ。
「では、オーア様はごゆっくりお休み下さい」
「ああ、フラムも気をつけてな」
挨拶を交わし、オーアと入れ違いに、フラムは陣を出た。背後からは音も無く兵が付き従ってくる。フラムは街道から少し離れた所まで出ると、兵たちに持ち場を割振り、自らはその場で待機した。
フラムの場所からは兵たちの持つかがり火が一望できる。揺らめく炎がフラムから散らばり、広がっていった。
ところで、フラムほどレイモンドの臣になって喜んだ者はいないだろう。フラムは自ら従いたいとレイモンドに申し出たわけではなかった。ただ、内心では、自分から言い出そうかと、迷いに迷っていた。そうしているうち、レイモンドからササールに一緒に行って欲しいと誘われ、フラムは即答した。
「喜んでお供いたします」
その時のフラムは、まさに天にも昇る思いだった。声も上ずっていただろう。
――また閣下とご一緒できる。
喜びに浸るフラムに、レイモンドは優しく笑いかける。
「頼りにしているよ」
短い言葉だったが、フラムの脳裏には、ササールの地で二人で過ごした日々が思い浮かんでいた。
ライナスの用意した小屋に、二人きりで暮らした日々。身体の自由は利かなかったが、それでも喜びに溢れた日々だった。
――多くは望まない。私は、一緒に居られるだけで幸せなんだ。
ずっとフラムが自らに言い聞かせてきた言葉である。
しかし、王都に戻ってからというもの、フラムはレイモンドに会う事がほとんど無くなっていた。あったとしても、まれに女王キュビィが外出する際、くっついている姿を見かける程度である。だが、その時にはフラムもキュビィの護衛についており、レイモンドに勝手に話しかける訳にはいかない。レイモンドにしても、ずっとキュビィに付きっきりで、フラムが話しかけるような機会はなかった。
キュビィの弾んだ楽しげな声が、フラムの胸に空しく響く。レイモンドの笑顔が、キュビィに向けられる。
――優しい顔。
慈しむようなレイモンドの笑顔。それが向けられるのは自分ではない。それを意識するとき、言い知れない寂しさが胸に去来するのだった。
女王に嫉妬するなど、不敬と言わざるを得ないのは、頭では分かっている。だが、心は納得してくれない。
レイモンドの側にいられる事が幸せ。
フラムはそう心に言い聞かせてきた。だが、側にいるからこその苦しみもまた味わわねばならない。
――それでもいい。たまにでもお顔を見られれば、それでいい。
無理やり、また自らにそう言い聞かせた。しかし、それが嘘だという事も、やはり分かっている。
――私はいつまで自分に嘘をついて生きていくのだろう。
女であるのに、男として生きている嘘。
レイモンドへの想いを押さえつけている嘘。
ただひとつの真実があるとすれば、それは剣だけなのかも知れない。剣だけは、自らを偽らなくても良い。ただ無心に魔物を斬れば良い。そして、唯一、レイモンドがフラムを認めてくれるのも、また剣なのである。
そう考えるフラムに、師であり、養父でもあるマスター・シバの言葉が、またしても思い浮かぶ。
――人の生きる本分は剣ではない。
かつては、この言葉の意味を深く考えることはなかった。フラムにその言葉を考えるきっかけを与えたのは、ササールのルカ=ルトリューである。
彼女が憎んだジェイルズ=ピケは滅んだ。その時、フラムの目には、彼女が憎しみという呪縛から解き放たれたように見えた。それは単にフラム自身の願望がそう見せたに過ぎないかも知れないが、それでもルカが人を恨んで生きる必要が無くなった事は確かである。彼女は、別の道で幸せを見つければ良いし、これからの彼女の人生で、それはいくらでも見つかるだろう。
ルカをフラムの身に置き換えたとき、ピケは魔物にあたる。
魔物をすべて討ち果せたとして、一体何がフラムの元に残るのか。もしかしたら、復讐の炎が燃え尽きた後の、白い灰となった自らがあるだけかも知れず、それを思うとフラムの心は、眼前の闇のような深い黒に塗りつぶされていく。
――魔物を滅ぼす。それは王国の人すべての願い。でも、私の思う願いとは、少し違うような気がする。
人々は魔物のいない平和な世界で幸せに暮らすことを望んでいる。愛する人と平和に暮らせる光に満ちた幸せを。だが、魔物を滅ぼした後、同じ幸せを掴む自分の姿が、フラムには想像できない。
――マスターが言いたかったのは、そういう事ではないだろうか。人の幸せは、剣とは違う所にある、と。
剣しかないフラムには、王都の人々の抱くささやかな幸せさえ遠くに感じる。
――だが。
そんなフラムをレイモンドと繋ぐもの。それもやはり剣なのである。
フラムは腰の剣を抜くと、暗闇に向けて斬りつけた。虚空を斬る風の音が鋭く鳴った。
「それでも……私は剣に生きる。剣をもってレイモンド=オルフェン様にお仕えする。それが私の……」
幸せなのだ。
今、レイモンドの臣としてササール侵攻に従軍する自らは、出来過ぎなくらい幸せなはずだ。
遠く暗闇に揺れる兵たちのかがり火を眺めながら、フラムはそのつややかな唇をきゅっと噛んだ。