第41話:南進 ②
――意外と、考えている人かも知れない。
オーアの元を離れ、自らの持ち場へ戻るヘイエルは、そんな風に考えながら、馬の歩を進めていた。考えている人、というのは、言うまでもなく主君であるレイモンドのことである。
魔物について、ヘイエルはこれまで深く考えたことはない。野や山、森などに潜み、近づいた人に襲い掛かる存在。そんな風にしか捉えてはいなかった。すなわちそれは、王都周辺に限った魔物の姿である。
しかし、よくよく考えてみると、相手はかつて王国を辺境にまで追いこんだ魔物なのである。二十年前に王国軍を散々に破った魔物の群れは、それなりに統制のとれた行動をしていたと考えるのが自然であろう。将のいない烏合の群れを相手に、かつての王国軍ならば勝てないまでも、あっさりと負けるとは考えにくい、とヘイエルは思う。
今までヘイエルは、相手のまとまりの無さを突いて勝ってきただけに、整然と動く魔物の軍は、想像しただけでも恐ろしい存在である。そしてその想像は、ずっしりとした重石のように、ヘイエルの心に圧しかかり、彼の息を苦しくさせた。
――我々は魔物の事を知らない。確かにそのとおりだ。
魔物から王国の領土を取り返す。それは言わずと知れた悲願である。だが、魔物とは一体何なのか。その問いに、誰が答えられるだろう。そんな基本的な事も分からないで、戦いを挑むというのは、無謀以外の何ものでもないのではないか。
もっと言えば、人々がよく言う、魔王、とは一体どんな存在であるのかも分からない。果たして、それを見た者は居るのだろうか。
――要するに魔物について、誰も何も分からないのだ。
と、そこまで考えてから、ふとヘイエルは顔を上げた。
主君であるレイモンドはどう思っているのか。それを聞いてみるのも面白い。フラムと二人しかいない配下の将を、レイモンドも無下にはすまい、と見定めると、ヘイエルは自らの部隊へ戻らず、街道沿いにあるレイモンドの幕舎に足を向けた。
候であるレイモンドは、本陣である幕舎でそれぞれの将の報告を待ち、その都度進捗の確認と、指示を行えば良く、基本的にそこを離れる事はない。
ところが、幕舎にレイモンドはいなかった。
「候は哨戒に出ておられます」
幕舎にいた兵が、ヘイエルにそう告げる。
「候自らが?」
思わず聞き返すヘイエルに、兵は再び同じ返答をした。
ヘイエルはそれを聞くと、すぐに幕舎を飛び出して馬に乗り、一目散に駆け出した。
レイモンドはすぐに見つかった。
先程オーアがいた丘陵から街道を挟んでちょうど反対方面の位置にレイモンドはいた。そこはヘイエルが哨戒を任された場所でもあったため、背中に冷や汗をかいた。
ヘイエルの姿を見たレイモンドは、
「やあ、ヘイエル将軍」
と、呑気な声をあげた。
「持ち場を離れて申し訳ありません」
馬から降りながら、ヘイエルはまずそれを謝した。候であるレイモンド自らがヘイエルの持ち場にいるという事は、当然その場を離れた事を咎めるためだと思ったからである。
レイモンドは笑顔を絶やさずに言った。
「何か私に聞きたい事があるのではないですか?」
「じ、実はそうなのです」
かしこまって膝をついているヘイエルに身体を起こすように促すと、レイモンドは、どうぞ何でも聞いてください、と言った。
思えば、これがヘイエルとレイモンドがまともに話す初めての機会だといえる。
ヘイエルは軽く咳払いをしてから、レイモンドに気付かれないように、その表情をつぶさに探りながら聞いた。ヘイエルはレイモンドがどんな人物なのか、ここである程度見極めようとしたのである。
「魔物は迎撃に出ますか」
ヘイエルのその言葉に、少し考えるような顔をしてから、レイモンドは、
「出ます」
と、きっぱりと言った。これにはヘイエルが驚く。
「断言なされますか」
「ええ。時期はいつになるか分かりません。ですが、私が魔物であれば、もっと懐深くに誘い込んでおいてから、一気に包囲します。今だと、我々は砦という逃げ場がありますから」
「候が魔物だったら、ですか」
その発想はヘイエルには無かった。
ヘイエルにとって魔物は意思を持たない自然災害のようなもので、知性を基にした戦略的行動を取るものとは思わなかったのである。意思がないものと思っている以上、相手の見地から予測を立てる、という事も自然と考えなくなる。
だが、そこで、先程のオーアとの話を思い出した。
――魔物とは、本能の赴くままに襲い掛かってくるものと思う一方で、砦を守る将のような存在もまた、当然と考える。我々の意識は矛盾している……か。
レイモンドは、そうした思い込みからいち早く抜け出し、魔物の目から王国を見ている事がヘイエルにも良く分かる。そうしたレイモンドに触れたヘイエルは、今まで暗かった自らの思考の目が、少し開いたような気がした。
俄然、ヘイエルはレイモンドへの興味が増した。
「では、我々が取るべき行動とはなんでしょう」
聞きたいのはそこである。
砦の戦いに勝利し、結界術という力を得た王国は、多少魔物を見くびるようになっているという事に、ヘイエルは気付いた。そして、それに気付いた時、言い知れぬ危機感がわいてきたのだった。
かつての王国軍が、まるで歯が立たなかった魔物の軍。果たして、今の王国軍であってもそんな敵に勝てるだろうか。恐らくそこまで気付いているであろうレイモンドに、一体どんな勝算があるというのか。そして、魔物の軍に対抗するべき策とは何なのか。
ヘイエルは、レイモンドの言葉を待った。
「そうですね。実はその事で、将軍に相談があるのです」
そう言うレイモンドの言葉に、ヘイエルはようやく、用があったのはレイモンドの方なのだ、という事に思い至った。
「なんでしょう」
ヘイエルには、レイモンドの相談内容はまるで想像ができない。
「精鋭を率いてもらい、この先の進路深くまで偵察に向かって欲しいのです。できれば目的地まで」
「目的地まで……」
レイモンドの言葉を呟くように繰り返したヘイエルは、すぐにその意味を察した。
「なるほど、敵の発見が早ければ、それだけこちらにも備える時間ができます。その間に、大型結界でも作っておけば、最悪の場合でも全滅は免れますね」
即座に答えたヘイエルに、レイモンドは少し驚いた顔をした。
「さすがはヘイエル将軍ですね。そのとおりです」
相手の戦力が分からない以上、手探りで進むしかない。そして、最も避けなければならないのが、多くの兵を失うことである。中央ササールの真ん中で、拠るべき城もない状態で敗走することは、全滅と同意か、限りなくそれに近い。そう考えれば、魔物を防ぐ唯一の手立ては、結界しかない。
敵の発見と同時に、王国軍全軍を覆い尽くすような巨大な結界を作り出しておけば、万一戦いに敗れた場合、そこへ逃げ込んでしまえば魔物は手出しができなくなり、最悪でも全滅は避けられる。そのためには、いち早く敵を見つける必要があるのだ。
ヘイエルは、自らに課せられた使命の意味を即座に読み解いたのである。
口元に笑みをたたえたヘイエルは、
「承知いたしました。報告は逐一入れさせて頂きます」
と歯切れ良く答えた。
レイモンドも頷くと、頼みます、とだけ言い残して、去っていった。
ヘイエルはその後姿を見送ってから、くるりと振りかえり、麾下の兵の方を向いた。兵たちの視線がヘイエルに注がれる。
「みな聞いただろう。我こそは、と思う者は名乗り出てもらいたい」
単独で敵地深くまで入る危険な任務ではある。しかし、兵の士気は高く、多くの兵が志願した。
こうして、志願兵にヘイエル自らが選んだ兵を加えた精鋭部隊は、さっそく馬を飛ばして、王国軍が向かうはるか先へと駆けて行った。
馬上で受ける風の心地良さに、思わずヘイエルは目を細める。その心地よさは、レイモンドがどういう人物なのかが分かりかけてきた事と無関係ではないだろう。
――候は、我々と同じなのだ。魔物について何もご存じない。だが……。
違いがあるとすれば、知らないという事に気付いた事である。それに気付けば、あとは知ろうとすれば良い。学術の徒であるヘイエルには、ある意味、共感できる部分である。
――私などよりも、よっぽど学者に向いている。悪く言えば小心者だが、良く言えば用心深い。学者と同じで、君主もそうでなくてはいけない。
ヘイエルは、兵たちの手前、沸き起こってきた笑いを腹の中に収めた。