第39話:ササール候
――ササールへ行ってくれ。
女王キュビィのこの言葉の意味は、何か。
はじめ、レイモンドは分からなかった。ただ、キュビィと離れることになる、という事だけはわかった。彼女の涙がそれを物語っている。
しかし、キュビィの真意を知ったレイモンドは、心から驚いた。
「候だ」
とキュビィは言った。
レイモンドはあっと声を発した。レイモンドの脳裏に電光がはしった。
「ササール候だ。候となって、ササールの地を治めて欲しい」
改めて言われても、やはり衝撃であった。
候になる、という事は、領地を与えられ、その地の統治を行う、半独立国の君主になる、という事を意味する。
すなわち、限りなく王に近い、と言っていい。
「私を、ササール候に?」
震える声で言うレイモンドは、さすがにキュビィがここまでの事を考えていたとは、思っていなかった。
キュビィはこくんと頷くと、
「ササールには、何も無い。城も、町も。人すらおらん。レイには、そこを復興させて欲しいのだ」
と言った声は涙声である。
過酷な使命なのは間違いない。それが分かっているだけに、キュビィは自分にしか頼めないのではないか、とレイモンドは思う。
ひとたび候となってササールへ赴けば、十年や二十年では王都へ帰って来ることはできない。いや、骨すら埋める覚悟でなくてはならないだろう。
魔物に蹂躙され、荒野と廃墟しかないササールを復興させるとは、それだけの大事業なのである。
なにより、対魔物との最前線の地となる。命の保証も、そこには無い。
――離れたくない。
それは、レイモンドも思う。
だが、キュビィは決断した。辺境である王都で危うげな平和のうちに一生を終えるのではなく、大陸を魔物の手から奪還するパンダール女王の運命を選んだのである。
それを思うまでもなく、レイモンドの胆は決まっている。
「微力ながら、私でよければ、死力を尽くします」
「レイ……」
うつむいてしゃくりあげるキュビィの頭を撫でながら、レイモンドは笑顔をつくった。
「ササールが安定すれば、いつでもお会いできます。馬を飛ばせば、十日で行き来できるではありませんか」
優しい声に、キュビィはうん、と素直に頷いたのであった。
「レイモンド=オルフェンを、ササール候に任ずる」
この日の朝議は、女王キュビィ=パンダールのこの一言から始まった。
――ササール……候?
当人であるレイモンドのいない中、突然の人事発表に、出席していた大臣たちは総じて目を白黒させた。
ざわめく大臣の中で、ひとり左丞相ハロルド=ギュールズが声を上げた。
「陛下、その、ササール候について、ご説明を頂けないでしょうか」
一体、レイモンドは何をするのか。ギュールズの問いに、大臣たちも、もっともだと頷いている。
キュビィは彼らを見回した後、静かに口を開いた。
「オルフェンに、中央ササールの地を封土として授ける、ということだ。ササール候はその地を治める事となろう」
キュビィはあっさりと言ったが、これはとんでもない事である。
実際に、満座から一斉に息を飲む音が聞かれた。
「確かにかつて、各地を諸侯が治めていた時代があった、と聞いております。という事は、オルフェンどのにササールの自治をお任せになる、ということになりますが」
「その通りだ」
ギュールズの質問に、キュビィは短く答えた。
――なるほど。ササールへ出るには、まさにそれが良い。
ギュールズが思ったのは、それであった。
王国は、いずれは狭い辺境の王都から、南へ進出していかなければならず、その時、未開である地をまとめ、まったくの無からの発展を成し遂げようと言うのなら、レイモンドはまさしく適任である。
レイモンドの内政手腕は言うまでも無いし、軍事にもそれなりの素養がある上、何より勇者計画を実行し、今の王国の活況のもとを作り上げた実績がある。
もし別の者に任せるのであれば、ギュールズは武に足りず、オーアは政に足りず、王兄アルバートは経験に足りない。
――さすがは陛下だ。
と、ギュールズは内心で感嘆した。
しかし、それと同時に、ある懸念が頭をもたげた。すなわち、
――寵愛が過ぎないか。
という不安であった。少なくとも、そう周囲に思われる事がまずい。
ギュールズには、レイモンドに対する、いわゆる嫉妬のような気持ちはまるでないのだが、果たして他の者はどうか。
先日、ギュールズはレイモンドを人臣に希望を与える存在である、と言った。それは間違いではないが、何事も過ぎればかえって損なうものである。
人々の手がまるで届かないところにまで登りつめるレイモンドは、羨望を通り越し、妬みや恨みを買う対象になりえてしまうのではないか。
そこまで考えて、ギュールズは、
――この場にいる者だけでも、誤解をしないよう釘を刺さねば。
と考え、一芝居うつことにした。
「私は反対ですな。いかに栄転であるとは言え、功が多大なオルフェン殿を、そのような危険な土地へ行かせるなど。恐れながら、陛下は厄介払いをなさろうとしているのではないのですか」
この言葉に、女王キュビィは怒るよりも、不思議そうに少し首を傾げた。
恐らく、レイモンドへのやっかみに近い言葉が返ってくると思ったところに、まるで違う反対理由があがったからであろう。
大臣たちも恐らく同じように思ったようで、意外そうな目でギュールズを見た。
「ギュールズよ。わらわの目標は、この大陸すべてを魔物から取り返すことにある。その事を忘れたのか」
「いえ、忘れてはおりません。それは、我らの悲願でありますれば」
「ならば、次に目を転じるべきはササールであることはおのずと分かろう」
「それは、確かにそうです。いまや王都は冒険者を中心とした消費行動によって経済は潤い、アルバート殿下の結界術によって人々が暮らせる地は日を追うごとに増えております。農地も増えて生産量は増加し、資源もまた多く採れるようになりました」
ギュールズはわざわざ王都の好況を列挙した。今こそササールへ進出する機会であることを、周囲に印象付けたかったからである。
その意図が分かったかどうか、キュビィはやや口元を緩ませた。
「その通りだ。よって、わらわは、南の砦の改修が終わり次第、すみやかにササールへ兵を向けようと思う」
大臣たちから、おお、という声があがった。
オーアは依然として砦にあって、改修作業に当たっており、この場にはいない。そのオーアから、年内には改修が完了する旨を聞いていたギュールズは、いよいよ、という思いを強くした。そのための費用も、準備してある。
「では、軍事にも内政にも優れたオルフェンどのを派遣し、ササールの平定をお命じになられるのですね」
「うむ。人の住まぬササールの魔物を払い、城を築き、人を集めて町をつくり、復興させるのだ。十年、いや、二十年はかかる大事業になろう」
キュビィの声は凛と謁見の間に響いた。
だが、その瞳には、深い悲しみがたたえられている事に、二人の関係をよく知る者はみな気付いた。奇跡の再開を果たしたキュビィとレイモンドは、再び離ればなれになる、という意味が、その命令には含まれているのである。
――陛下が迷われていたのは、それか。
ギュールズも、アデュラ=パーピュアも、そしてノウル=フェスも、そう思った。
王国のための、身を切るような決断をキュビィは下したのであろう。
水を打ったように静まった中、ギュールズがその静寂を破って口を開いた。
「でしたら、まさしくオルフェンどのが相応しいでありましょう。二十年もかの地に居られるのであれば、内政も一任された方が何かと都合が良いですな……前言をひるがえして恐縮ですが、私は賛成に転じます」
その言葉に、大臣たち一同は、頷いた。レイモンドだからこその任務であるという事が、深く染みとおったのを、ギュールズは感じた。そしてすかさず、
「では、満場一致ですな。レイモンド=オルフェンどのに、ササール候となって頂きましょう」
と言って、まとめた。
キュビィは、任命式の手配はギュールズにまかせる、と言い残し、やや俯き加減で、席を立った。
その日のうちに、レイモンドがササール候になる、という話は王城中を駆け巡り、知らぬ者は無いほどになった。
報に接した者は、総じて王国復興の期待に胸を膨らませ、同時にレイモンドに課せられた重責を思った。
レイモンドに対する、いわゆる嫉妬のようなものは、そこには無かった。ギュールズの配慮が奏功したのか、あるいは取り越し苦労だったか。
ともあれ、レイモンドはササール出兵の準備に、にわかに忙しくなった。
連日のように各大臣との打ち合わせを重ねるうち、あっと言う間に年が変わった。キュビィが女王となって一年が経ったのである。
レイモンドのササール候叙任式は、この頃に行われた。
決定から叙任式の時期がずれたのは、ササールに出陣する将の任命も同時に行われるため、その将の選定に時間がかかったのが理由であった。
それというのも、出兵したのち、レイモンドと共にササールに残る者を、誰にするか、という事が最大の懸案事項だったからである。
ササールの地に残る、という事は、すなわちレイモンド候の臣になることを意味する。
「できるだけ、王都の人材の流出は防ぎたい」
というのがレイモンドの意向であった。
それゆえ、各大臣がこぞって有能な人材を推薦するのだが、それをすべてレイモンドは断った。
「とりあえずは、私と、あと二人居ればいい」
と言ったレイモンドに、女王キュビィをはじめ、大臣たちは猛反対した。
キュビィなどは、
「レイは丸腰で死地に向かおうというのか!」
と語気を荒げたのだが、レイモンドは頑なに意見を曲げなかった。
「本国である王都が栄えれば、自然とササールも栄えます。」
と言って、あくまでも王都が第一であるという姿勢を変えなかったため、ついに根負けした女王によって、レイモンドの人事案が承認されるに至った。
レイモンドが選んだ、二人の名は意外であった。
女王護衛官フラム=ボアン、元商工大臣トッシュ=ヴァート。
この二名である。
レイモンドからすれば、政務の中枢にない事を前提に、武に長じた者と、内政に長けている者を選んだのである。
しかし、言うまでも無いが、ヴァートは既に官職を辞し、王城にはいない。そのため、わざわざ冒険者を使って王都中を捜索させた。
「フラムはともかく、トッシュは絶対に受けんと思うが」
と、捜索の指揮を買って出た軍務大臣グゼット=オーアは言いながらも探させ続けたのだが、結局、ヴァートが見つかる事はなかった。
「レイよ、どうする?」
落胆したレイモンドに、オーアが心配して声をかけた。もう出兵まで時間がない。
「でしたら、内政は私のみでやりますから、トッシュの代わりに、もう一人腕のいい武人が欲しいですね」
と、レイモンドは答えた。
「分かった。うってつけの奴がいる」
ニヤリと笑ったオーアが選んだのが、腹心として育てた将軍ヒューバート=ヘイエルであった。
彼は南の砦の改修で戦功を立てていたし、もとは王立学校の教授なので人材育成の経験もある。これから人材を育てていかなければならないササールの地では、確かに適している、といえるかも知れない。レイモンドは大いに感謝した。
こうして、キュビィの治世二年目の節目となる日に、任命式は行われ、ササール候レイモンドが誕生した。
任命式が終わると、ササール出兵の壮行を兼ねた宴が催された。
レイモンドはそれほど酒が飲めない。それでも、主賓であるササール候の門出を祝う人々から次々に杯を勧められ、強くない酒を幾度もあおった。
若干十四歳の女王キュビィは、夜更かしができないため、早々に奥へと引っ込んでしまうと、酒の肴はそれこそレイモンドだけになってしまい、なおさら皆の攻撃対象になってしまった。
悪のりしたオーアは突然、
「飲み比べをしよう」
などと言い出し、すでにふらふらのレイモンドの前に大杯を置くと、酒をめいっぱいに注いだ。
レイモンドと同じように酒の飲めないギュールズは必死でオーアを止めたのだが、目の据わった右丞相は、
「これは男の勝負なのです」
と、意味の分からない事を言って、自らも大杯を手にすると、それを酒で満たした。
レイモンドを不憫に思ったのか、横から農務大臣アデュラ=パーピュアがレイモンドの大杯を奪い、
「レイモンド君の前に、私と勝負なさい」
と言って、一気に杯を空にすると、これに一同が拍手喝采をおくった。
これにオーアはかえって目を輝かせる。
「面白い!」
と、レイモンドそっちのけで、アデュラと飲み比べ勝負をはじめた。
アデュラは酒豪であった。十数杯を重ねた後、
「もう飲めん」
とひっくり返ったオーアをアデュラは顔色も変えずに見下ろしながら、傍らのヘイエル将軍に、
「悪いけど、送ってあげて」
と、片目をつぶって微笑むのであった。ヘイエルはけろりとしているアデュラに目を見張りながら、何度も頷くと、オーアの巨体を担いで会場を後にした。
「お、お強いんですね……」
と、その様子に驚いてみせるのは、助けてもらったレイモンドと、その隣の商工大臣ノウル=フェスである。
まだ酒の飲めないフェスの目には、アデュラに対する憧れに似た光が浮かんでいる。
「ノウル君も、もう少し大人になったら、お姉さんと飲みましょうね」
とアデュラは艶っぽく潤む瞳を向けると、フェスの髪をなでた。思わずフェスは、酒も飲んでいないのに、顔を真っ赤にさせ下を向く。またそれを周囲がからかい、笑いが満ちた。
夜半まで続いた宴が終わり、レイモンドはついに与えられた自らの執務室へと、足元をふらつかせながら戻った。
戸を開け、中に入る。
すぐに異変に気付いた。
――誰かいる!
無意識のうちに、腰の剣に手をやる。酔いに火照る顔が、さっと冷たくなった。
手にした燭台を掲げ、僅かに気配のする暗闇を照らす。真っ黒な影が浮かび上がった。
「誰だ!?」
「すぐにお気づきとは、さすがはオルフェン様。……この度は、ササール候へのご就任、祝着にございます」
落ち着き払った、静かな声である。
レイモンドは、剣を抜いた。
「何者か、と聞いている。返答次第では斬らねばならない」
「あやしい者ではございません」
影は、真っ黒な衣を身にまとっている。顔は良く見えないが、声からは若い印象を受ける。
「武器ももっておりません……このとおり」
というと、影はするすると衣擦れの音とともに、黒いローブを脱ぎ落とした。
「あっ」
レイモンドはあまりの驚きに声をあげた。
黒い衣を脱いだ影は、一糸まとわぬ裸体であったからである。ほの暗い中でも分かる、女の白く滑らかな肌であった。そして、その肌を隠そうという素振りもなく、あらわにしたままレイモンドの目を見つめている。
「害意はありません。私はオルフェン候のお力になりに来たのです」
裸女は微笑みを浮かべ、相変わらず静かにそう言った。
レイモンドは、目のやり場に困り、うろたえた。
「だ、だとしても、もっとやり方があっただろう。それから……武器を持ってないのは分かったから、服を着てくれ」
「うふふ、それは残念」
そう言うと、女は床におちた衣を拾い、またするすると着た。彼女は、美人と言っても差し支えない顔立ちである。年はレイモンドよりも少し下、というところか。
「王国の臣ではないだろう、君は」
レイモンドの問いに、女は小さく頷く。
「そうです。ですから、オルフェン候の臣にくわえて頂きたいのです」
「なおさら、こんなやり方では信用できない」
レイモンドは構えた剣を収めない。いまだ警戒したままである。
それでも女は、まったく意に介していない。
「でしたら、まず私の力をお試し下さい。少々、諜報には自信がございます。同時に三つまででしたら、調べて逐一ご報告してご覧にいれましょう」
と、言った。
確かに、衛兵に気付かれずに、城の奥にあるレイモンドの部屋まで忍び込んできた事を考えると、隠密裏に行動することに長じていることは分かる。
――試してみるか。
という気に、レイモンドはなってきた。
もし不首尾であれば、それ以上、この怪しげな女を用いなければいいだけの話である。正体こそ不明だが、どうやらレイモンドの敵でない事は確かなようだった。
――正体は、いずれあばけばいい。
とも考えた。
もっと言えば、レイモンドには少なからず、心当たりがあった。が、それはまだ言わず、心の底にしまっておくことにした。
「分かった。だが、力を試すのであれば、三つもいらない。一つで充分だ。……元商工大臣であるトッシュ=ヴァートの消息を調べて教えてくれ。できれば、ササールに来てもらいたいので、その意向も聞いてきて欲しい」
「かしこまりました。……ところで、今宵の夜伽はよろしいので?」
「い、いらない!」
思わず語気を強くしたレイモンドに、女はクスッと笑うと、背後の窓を開け、そこからスルリと外へ抜けた。
「私の事は、蛇、とお呼び下さい」
「蛇……」
去り際に女が言った言葉を、レイモンドが呟く頃には、もうその気配は消えていた。
開け放たれた窓から、ひゅうひゅうと夜の冷たい風が入り込み、レイモンドの髪を揺らした。