第26話:王都の南ササール
何も見えない。
ただ暗闇があるだけである。目を開けているのか、閉じているのかも分からない程の闇。そんな空間に漂っているようだ。どちらが上でどちらが下なのかも判然としない。
すると、針で穴を開けたような光の点が見えてきた。そこに意識を向けると、たちまちその光が大きくなっていく。まるで丸い窓が開いたように、その光が視界に広がった。
光の中で少女が座り込んでいる。泣いているようだ。
――どうして泣いているの?
『大切な人が池に落ちてしまったの』
泣きじゃくりながらも、か細い声が答える。
――その人は大丈夫?
『池に沈んだままなの……』
――それは大変だ。周りに大人の人は?
『誰もいない……』
――よし、ちょっと待ってて。
光の穴へ入ろうとした。だが、足元がふわふわと確かでなく、前に進めない。光の窓に近づけない。
少女は相変わらず泣き続けている。
早く行かなくては。だが、気が急くばかりで、一向に光の窓は近づいて来ない。それどころか、次第に光は遠く、小さくなっていく。
――待ってくれ! 早く助けなくては!
もがいても、まるで手ごたえがない。手足も空を切るばかりだ。いや、あまりに暗くて、手足が動かせているかも定かではない。
やがて、光はまた針の穴ほどに小さくなったかと思うと、スッと消えてしまった。また漆黒の闇の中。少女はどうなってしまうのか、そんな考えが頭をよぎる。
『助けたいのか?』
突然、頭の中に声が響いた。言いようの無い嫌悪感を抱かせる、低く、ザラザラとした声だ。
――当たり前だ!
頭に響く声に対して叫んだ。この声が届くかどうかは分からないが、叫ばずにはいられなかった。
『どうしてもか?』
――どうしてもだ!
『いいだろう。その代わり……』
声が終わらないうちに、再び光の窓が広がった。光の中の景色が猛烈な速さで流れるように迫ってくる。そして、少女の姿を通り過ぎ、その先にある影が目の前に飛んできた。その影には二つの小さな目が付いていた。ギラリと赤く光る不気味な目。その影が飛びかかって来たかと思うと、ズルリと口の中に入った。まるで突風が轟々と音をたてて口の中に入っていくようだ。相変わらず景色が後ろに向かって飛び退って行く中で、その黒い影が身体が満ちていった。
「わああああ!!」
悲鳴と共に、起き上がった。同時にジャブ、と水の音が聞こえた。
「夢……か」
しかし、何と気味の悪い夢なのだろう。
だが、それよりも……。
「ここはどこだ……」
辺りを見渡すと、緩やかに流れる川があるのみである。その川べりで半身が浸かっている。全身がびっしょりと濡れていた。
気付いたら川の中。ぼんやりとする頭で何が起こったのか理解しようと試みた。すると、まるで閃光のように記憶が一瞬で頭の中を駆け巡った。
橋の上。狼の魔物。馬上の女王。急流の川……。
――そうだ。川に流されて……。
レイモンド=オルフェンはようやく思い出した。砦の戦いの中、川に落ちて、そのまま激流に流された事を。
「生きてる……」
そう呟き、立ち上がった。体中を触るが、怪我らしい怪我はない。足元を流れる川は緩やかなせせらぎである。かなり下流まで流されたに違いない。あの急流から生きているだけで奇跡であるが、まるきり無傷であるなど、信じられない幸運である。
「そうだ、フラムは……」
ハッと気付いたレイモンドは、共に流された女王護衛官フラム=ボアンを探すべく、川から上がると周辺を見渡した。
「いた!」
幸いにもすぐに横たわる人の姿を見つけた。レイモンドから少し離れた位置である。代名詞ともいえる黒い甲冑と長い黒髪。フラム=ボアンに違いない。
慌ててレイモンドは駆け寄る。
「フラム! しっかりしろ!」
レイモンドは、細いフラムの身体を抱き起こした。いつも後ろで束ねている長い髪はほどけ、その端正で白い顔に幾筋かが落ちかかっている。こうしているととても同じ男とは思えない。しばしレイモンドは息を飲んで見つめていたが、すぐに我に返って再びフラムを揺り起こした。
「おい! フラム!」
だが、反応はない。フラムの口元に手を近づける。
――息をしていない!
レイモンドは戦慄した。こういう時、どうするべきか。レイモンドははやる心を抑え、記憶を辿った。
――王立学校時代、習ったはずだ。
レイモンドはフラムを抱きかかえると、草むらに横たわらせた。そして、ためらわず、自らの口をフラムの口にあてた。ゆっくりと息を送り出し、そして吸い出す。この方法は呼吸が停止してからすぐに行わなければならないとレイモンドは分かっていたが、そうしないではいられなかった。フラムはレイモンドを助けようとして、巻き込まれたのだ。自分だけが助かる、などという事はあってはならない。
レイモンドは一心不乱にフラムの蘇生を試み続けた。一体フラムの呼吸が止まってどのくらいが経っていたのか。レイモンドは祈るような思いで、フラムに息を吹き込み続ける。
――ん……。
フラムがうめいた。長いまつ毛が、微かに震えている。
「フラム!」
レイモンドはフラムから唇を離し、叫んだ。
フラムはゴホゴホと苦しそうに咳き込むと、喉の奥から水を吐き出した。水を吐き終えると、やがて呼吸の音が聞こえだした。助かったのだ。
「やった! フラム! ……良かった……」
レイモンドは飛び上がらんばかりに喜んだ。しかし、息を吹き返したのは良いが、フラムの呼吸はまだ弱々しく、苦しそうに喘いでいる。
「どうすれば……」
レイモンドはフラムの黒い甲冑に気付いた。これを外せばもっと呼吸は楽になるはずだ。 背中に手を回して、固く結ばれた紐をほどく。濡れているため結び目は固かったが、苦労しながらもどうにか外すことが出来た。途端に、フラムの呼吸が大きくなった。これでもう大丈夫なはずだ。ふう、と息をつき、レイモンドはフラムの傍らに腰を落とす。
「良かった……」
安心したレイモンドは、しかし、ふとある違和感に気付いた。
その原因を確かめるように、横たわるフラムの身体を見る。流れるような長い黒髪に、端正な顔立ち。それはいい。
そこから視線は首筋、胸元へと移った。黒革の甲冑を外した胸元は、緩やかな曲線を描いている。
――胸元の曲線……?
「あ!……」
レイモンドは声をあげ、固まった。
そして、もう一度フラムの全身を見返した。これまで硬い甲冑に覆われていて分からなかったが、フラム=ボアンの胸元には柔らかな膨らみがあった。言うまでも無くそれは、女性である事を象徴するしるしである。
――お、女!? フラムが女?
レイモンドは目を擦っては、何度も見直すが、やはりそこには女性である事を示す証拠がはっきりとあった。あんぐりと開いたレイモンドの口がふさがらない。
すると、突然、レイモンドの背後から人の声がした。
「そこの下郎! その人から離れろ! 恥知らずめ!」
レイモンドが振り向いた先には、短髪の少女が立っていた。剣を突きつけ、敵意をむき出しにした表情である。しかし、彼女が何を怒っているのか、言っている言葉の意味がレイモンドはすぐに理解できなかった。
「女性を襲う卑怯者! 叩き斬ってやる!」
続けて飛んできた怒号で、レイモンドはやっと理解できた。完全に誤解をされている、という事を。慌ててレイモンドは弁解しようとした。
「ち、違う、これは……」
「問答無用!」
短髪の少女は凄まじい速さで飛び掛ってきた。まるで猫を思わせる、しなやかで俊敏な動きだ。振り上げられた短めの剣が、レイモンドへと迫る。……が、それをレイモンドは難なく避けた。剣先に鋭さが不足している。
「くっ……!」
繰り出した剣をかわされ、短髪の少女は体勢を崩した。その剣を持つ腕をレイモンドが掴む。
「話を聞きなさい。彼……彼女は私の連れだ」
「嘘をつけ!」
少女は腕を掴まれながらも、眉を吊り上げてレイモンドを睨みつけ、どうにか振りほどこうともがいている。グラグラと揺れる剣先に、このままでは両者ともに怪我をすると判断したレイモンドは、えい、と少女の腕を捻った。たまらず少女は地面に転がる。レイモンドの手には、彼女の小さい剣が残った。いかにレイモンドが剣を好まないとは言え、かつては王立学校の剣術大会優勝者である。オーアやフラムのような手練が相手でもない限り、このくらいの芸当はできた。
仰向けに倒れている少女は、相変わらずレイモンドに怒らせた目を向けている。レイモンドは彼女に手を差し伸べた。
「私はレイモンド=オルフェン。王都の者だ」
「王都?」
少女の表情が変わった。驚いたように目を見張っている。
その時、また背後から別の声が聞こえてきた。
「ルカ、どうした?」
声のする方を見ると、白髪まじりの初老の男がこちらの様子を窺っている。その傍らには、十歳前後と見える少年が怯えたように初老の男の服の端を握っていた。
「ライナス!」
ルカと呼ばれた少女が、初老の男をそう呼んだ。この娘の父親であろうか。
レイモンドは、これを誤解を解く好機、と見た。
「わ、私は王都の臣下、レイモンド=オルフェンと申します。川に流され、気付いたらここに流れ着いていた次第です。連れのボアンは息はありますが、意識を失ったままです。どこかに医者はいないでしょうか?」
少女が口を挟む余地もない程、一気に事情を話した。
初老の男は一瞬表情を変えたが、すぐに穏やかにすると、良く通る声で答えた。
「それは大変だ。ともかく、その方を私たちの家まで運びましょう」
「た、助かります!」
家はかなり近く、ライナスと呼ばれた男はあっと言う間に家から大きな布と長い棒を二本持ってきて、その場で即席の担架をつくった。フラム=ボアンをその上にそっと乗せると、二人で運んだ。その後ろを、いまだにレイモンドへ疑いの目を向ける少女と、怯えた様子の少年が付いて歩いている。
「この方、外傷は無いようですが、骨が折れているかも知れませんね」
突然、担架の前を持って歩いているライナスが言った。
「分かるんですか?」
レイモンドの問いに、少女が突き刺さるような声で言った。
「ライナスは医者なの」
少女の言葉にレイモンドが驚いていると、間もなく、森の間に大きな屋敷が見えてきた。
「やはり、骨折ですね。あちこち折れている。命に別状はないでしょうが、全治には時間を要するでしょう」
ライナスの屋敷。既に空には月が昇っていた。
フラムの治療を行った部屋から出てきたライナスは、不安そうに待っていたレイモンドにそう伝えた。ひとまずフラムの無事が分かり、レイモンドはホッと息をつく。フラムが女だった事は心底驚いたが、何と言っても生きていてくれた事が嬉しかった。
安堵したレイモンドは疑問に思っていた事をライナスに聞いた。
「ここは一体どこなのですか?」
「中央ササールの外れです。王都までは歩いてなら一週間という所でしょうね」
――中央ササール!?
ササールとは、王都の南に位置する土地の名である。ササールは南北に広いため、一般に北部と中央部、そして南部に分けて呼ばれる。中央ササールはかつてこの地方の政治と商業の中心地だったササール城があり、比較的拓けた地域である。
反対に南ササールはいくつもの川が流れ込む肥沃な土地柄であり、農業が盛んであった。いずれも魔王侵攻以前の話である。なお、北ササールは現王都を含む地域である。つまり厳密には王都はササールの一地方なのであった。
それにしても、随分遠くまで流されたものだ。にも関わらず二人とも無事であった幸運に、レイモンドは感謝しないではいられない。
「しかし、どうしてまた川に流される事になったのです?」
今度はライナスがレイモンドに聞いた。
レイモンドは南の砦の戦いについて説明した。ライナスは食い入るようにその話を聞いていた。
「では、今後はササールから王都へ行く事ができるんですね」
これまでは砦を魔物が押さえていたため、ササール側から王都へ行く事は出来なかったという。そう言ってライナスは遠くを見るような目をすると、急にレイモンドへ向けて少しかしこまった。
「申し遅れましたが、私はライナス=ルトリュー。かつてパンダール王国に仕えていた軍医でした」
「え!?」
「旧王都から落ちのびる時、逃げ遅れた人たちと共に、近くの村に隠れたのです」
「ではあなた方以外にも、近くに人はいるんですね?」
「いるにはいますが……」
ライナスは口ごもった。そして、その事はおいおい話しましょう、と、その話題を打ち切った。
レイモンドは不審には思ったのだが、特に追求する事はやめておいた。
ちょうどその時、部屋に先程の少女が入ってきた。
「あの……ご飯、できたけど」
もう夕餉の時刻である。ライナスはパッと明るい表情を取り戻した。
「レイモンドさん、行きましょう。ルカの料理はなかなかいけますよ」
「あの、すみません。ご馳走になります」
食卓に移ると、そこには大鍋から汁をよそう少女ルカの姿。そして、椅子には少年が座っていた。
「そういえば、紹介がまだでしたな。姉がルカ、15歳。そして弟がルネ、10歳です」
二人ともライナスに紹介されても、何の反応も無かった。
「あの、レイモンド=オルフェンと言います……。お邪魔してます」
レイモンドの挨拶にも、子供二人はまたしても無言であった。特に姉のルカはツンとして目も合わせない。
「ルカは年頃ですので人見知りが激しくて」
というライナスの言葉にも、違うわよ! と鋭く言い放つルカ。なかなか気難しいようだ。もしかしたら、川辺での一件で嫌われたのかも知れない。
「あと、弟のルネは言葉が話せませんので……」
え? とレイモンドの顔が強張った。
その様子を敏感に察知したライナスが、慌てて説明をする。
「お気になさらず……。耳は聞こえているのです。なあ、ルネ」
そうライナスが言っても、ルネはチラとライナスの方を見るだけである。
何やら複雑な事情がありそうだ、とレイモンドは思いつつも、そうなんですか、と曖昧に返事をしておくことにした。
食事は汁だけであったが、森で採れる具材が豊富に入っている上、味も確かになかなかのものであった。
「とても美味しいよ、ルカ」
そうレイモンドが言うと、ルカはようやく少しだけ、笑顔を見せた。が、レイモンドと目が合うと、またすぐにソッポを向いてしまった。
ルカは少し赤味がかった色の短髪で、それがとても良く似合っている。褐色の肌と大きくてくるくると良く動く黒い瞳が印象的で、レイモンドにはまるで活動的な猫のように思えた。弟のルネは、反対に色が白く、やや暗めの青い目をしていた。どこと無くではあるが理知的な印象を受ける。
「レイモンドさん、遠慮なさらずに、どんどん召し上がってください」
気さくにライナスが声をかける。王城と比べたら狭い食卓ではあるが、こうして大勢で一緒にとる食事は、レイモンドにとってはあまり経験がない。いつもキュビィと二人きり、キュビィが女王になってからはフェスと一緒という事が多かった。
――陛下はお元気だろうか。
レイモンドはキュビィの事が気掛かりであった。一刻も早く王都に戻らなければならない。だが、負傷して動けないフラムを一人置いて行く訳にもいかない。それに、明日からはどうしたら良いのか。慎ましやかに暮らすこの家族にとって、レイモンドとフラムの二人を養う程の余裕があるのだろうか。貴族育ちのレイモンドには、その辺りの生活感覚がない。
不安げなレイモンドに気付いたのか、ライナスが口を開いた。
「王都に戻られるのは、お連れの女性が回復してからになさるのが良いでしょう。それまでは、レイモンドさんも気兼ねなくここに居て下さい」
この言葉はレイモンドにとって天佑である。
「お言葉に甘えさせて頂きます。何と言ってお礼を申し上げたらいいか……」
「でも、食いぶち分は働いてもらうからね」
ルカはぴしゃりと言い放った。
レイモンドは勿論、と答えながらも、歳に似合わぬルカのちゃっかりとした物言いに思わず笑いが込み上げてきた。釣られてライナスが吹き出すと、ルカも笑い出した。ルネもニンマリと笑顔を見せる。食卓に明るい笑い声が広がった。