第17話:灯の消えた王城
王都は、歴史的な勝利に沸きかえっていた。
長らく魔物の恐怖に怯えていた人々は、南の砦を奪還した事がどういう意味を持つのかを、良く理解していた。
大陸を魔物から開放する。
南の砦は、王都と大陸をつなぐ、唯一の通り道であった。
砦を押さえることで、王国は、大陸への足がかりを得た事になる。
即位してから、およそ半年という早さで、それを実現させた、女王キュビィ=パンダール。
元々、高い人気を誇るキュビィであったが、王都に住まう人々の尊敬と、忠誠の対象として、その威光はますます強まったのである。
だが、王城内は反対に、暗く沈みこんでいた。
戦勝の報と共に届いた、思いがけない宰相の訃報。それは、王城全体に計り知れない衝撃を与えた。
その上、女王キュビィは王城に戻って以来、病と称して、部屋に閉じこもったきり人前に顔を現さず、面会を申し込んでも、すべて断られた。
女王と宰相のいない王城内は、灯が消えたように、意気消沈していたのである。
「やはり、宰相殿の事が、相当に堪えているのだろう。何せ目の前で亡くなったと言うではないか」
財務大臣ハロルド=ギュールズは、彼の執務室で、天井を仰ぎ、深いため息をついた。
ギュールズにしても、信頼する宰相がいなくなった衝撃は大きい。だが、財務大臣としての立場が、落ち込んでばかりいることを許してはくれなかった。
ハロルド=ギュールズの向かいに座る、農務大臣アデュラ=パーピュアも、目線を落とし、活発そうな顔を、憂いに曇らせていた。
「陛下とレイモンド君は、まるで本当の兄妹のようでしたものね。陛下が立ち直るには、まだまだ時間がかかるかも知れません……」
「だが、政務はそれを待ってはくれん。陛下のご裁可を頂かないといけない案件が、山のようにたまっている。これでは毎朝の評議も進まぬ訳だよ」
そういいながら、二人の間にあるテーブルに山と積まれた書類を見る。
今までは、キュビィの手が回らない場合には、女王の許可の下、レイモンドが代わりとなって、裁可を下していた。だが、レイモンドのいない今、キュビィまで機能しないとなっては、彼ら大臣たちは、完全にお手上げであった。
「その上、陛下と懇意のオーア殿まで、政務を執れないとあってはな……」
オーアは、肩の傷の経過が思わしくなく、キュビィと同様に、砦から戻ってきてから、床に臥せっている。
王都の中枢は、完全に機能不全に陥っていた。
「思えば、女王陛下の信任を得ている大臣というのは、少ないものなのですね……」
そう言って、アデュラはうなだれた。
今まで、いかにレイモンドによって王国が支えられてきたか、という事を、彼がいなくなった今、嫌と言うほど、思い知らされる。
「とにかく、陛下に回復して頂かなくては、話は進まん」
そう言う、ギュールズ。
どうやって? とアデュラは当然の問いを投げかける。だが、その答えは、ギュールズには無い。
「……宰相殿がまさか、こんな事になるなんてな……」
そう言って、また、ギュールズは深いため息をついた。
商工大臣トッシュ=ヴァートは彼の執務室にあった。
彼は沈鬱に、虚空を眺めていた。
ヴァート家は、代々、王国の宰相を歴任してきた由緒ある家柄である。
だが、その歴史も、このトッシュ=ヴァートの代で途絶えてしまった。ヴァートは、その原因となったレイモンドの事を、常に苦々しく思っていた。
思い起こせば、ヴァートにとって、レイモンド=オルフェンという男は、ずっと邪魔者以外の何者でもなかった。
王立学校時代も、ヴァートには、暗い思い出である。
元々、俊才の誉れ高いヴァートは、王立学校でも、異彩を放ち、学年では常にトップの成績であった。ところが、突然現れた、家柄も定かではない者が編入する事で、ヴァートの立場は大きく変わった。
すなわち、レイモンドによって、ヴァートのトップの座はあっけなく陥落してしまったのである。
また、ヴァートが最も嫌いな剣においても、レイモンドはその才能を発揮し、栄光ある王立学校剣術大会でも優勝を飾るなど、ヴァートのコンプレックスを生み出すのに、大きな役割を果たしてきた。
(レイモンドに負ける度、父は、俺をなじったものだ)
名家にありがちな、『ヴァート家の者は、常にトップでなければならない』、そう言われて育ってきたヴァート。先代の宰相である彼の父から、試験でレイモンドに負ける度に、ヴァートは厳しい叱責を受けていた。『なぜレイモンドに勝てないのか!』と。
結局、レイモンドが女王の世話係兼、教育係に任命され、王立学校を辞めるまで、ヴァートはレイモンドには勝てなかった。
その上、代々歴任していた、宰相の座まで、奪われてしまった。
その時、もう、父は何も言わなかった。何も言わず、ヴァートの前から姿を消した。今はどこかで、安穏と余生を過ごしているのだろう。
ヴァートはレイモンドが憎くて仕様が無かった。
「だが……そのレイモンドはもういない」
結局、ヴァートは生涯を通じて、一度もレイモンドに勝つことができなかったことになる。
今まで、レイモンドに勝つことだけを、心密かに目標としてきたヴァートの心には、何とも言えぬ感情が沸いてくる。
憎いはずの相手。だが、死んだ、と聞いて、ヴァートには不思議と喪失感のようなものがあった。
「あいつは、私にとって、一体なんだったのだろう」
すべてが幻だったような、何とも説明のつかない感情。
ヴァートがこれまで情熱を傾けてきた政務が、まるで色あせてしまったように感じる。
こだわっていた、宰相の椅子。それにさえ、もう、執着はなかった。
(すべては、レイモンドに勝つためだったのだろうか……)
だが、運命というのは、皮肉なものである。
追い求めた宰相への未練がなくなった途端、ヴァートに宰相の話が持ち上がったのである。
「オルフェン殿のいない今。陛下を支え、王国をまとめられるのは、代々の宰相家の家柄である、ヴァート殿しかおりません」
レイモンドがいなくなってから、もう二週間が過ぎようとする、この日の朝議。
相変わらず女王キュビィが病で閉じこもっている中、大臣の総意として、宰相代理にトッシュ=ヴァートが推薦された。
「女王陛下のご了解が無くとも、大臣に欠員が出た場合に限り、全大臣の意思があれば、一時的ではありますが、人事を行う事ができます」
そう言って、財務大臣ハロルド=ギュールズが説明する。手には、未だに登城のかなわぬオーアの委任状まであった。
正式な任命が行われるまでは、あくまで代理、という立場ではあるが、与えられる権限は、正式な宰相と変わらない。
だが、その話を聞いても、ヴァートにはやはり、何の感情も浮かんではこなかった。
「それが、皆さんのご意思なら、微力を尽くします」
ヴァートは抑揚のない声で答えていた。
満座から拍手が起こるが、ヴァートには、まるで、遠い場所から聞こえているような、他人事のような感覚を覚えるのだった。
(レイモンド。私は、いつまでお前の幻影を追って生きていくのだろうか……)
こうして、宰相代理兼、商工大臣トッシュ=ヴァートが誕生した。
ヴァートは、まず、女王キュビィに会う事にした。
それまで、朝議で遠目に顔を見ることはあっても、面と向かって会う事はなかった。
病に臥せっているという話だったが、とりあえず、会わねば話にならない。
「陛下にお取次ぎをお願いしたい」
キュビィの部屋から顔を出したのは、彼女の侍女であった。
侍女はヴァートが今まで見てきた侍従の中で、最年長と思われた。こんなに年を経た侍女がいたのか、と、ヴァートは少し意外に思う。
「陛下は誰にもお会いしない、と申されております」
侍女は申し訳無さそうに、ヴァートにそう言う。
ヴァートにしてみれば、想定通りなので、別に腹も立たなかった。
「それは存じている。だからお願いしているのだ」
ヴァートは静かな口調でそう言った。以前の彼であれば、もっと棘のある言い方になっていただろう。
もしかしたら、怒鳴りつけていたかもしれない。
それを聞いても、侍女はただただ謝るばかりであった。
さすがにラチが明かない、とヴァートは諦めようとした。
「そうだ。手紙なら問題ないだろう」
去り際にふと思いつき、ヴァートは懐から紙を出すと、サラサラとペンを走らせた。
「これを陛下に」
ヴァートは侍女に手紙を渡すと、スッと踵を返し、女王の部屋を後にした。
次にヴァートが向かった先は、レイモンドの、宰相執務室である。
ヴァートには商工大臣の執務室があるため、宰相の部屋で仕事をする必要はない。それに、とてもそんな気にはなれなかった。
彼の目的は、部屋よりも、そこにいる人物であった。
「ちょっといいか?」
レイモンドの部屋には、帰らぬ主を待つ少年の姿があった。
宰相補佐官ノウル=フェスである。
フェスもまた、『僕は元気がありません』と書いてあるような顔で打ちひしがれていた。
「ヴァート様……」
フェスは、ヴァートが宰相代理となった事を聞いていると見える。
ヴァートの顔を見るなり、部屋を乗っ取りに来たと思ったのか、はたまた、悪態をつきに来たと思ったのか、フェスは随分と警戒した表情である。
「フェス。今回の事は残念だった」
「え?……あ、はあ」
フェスは、少し拍子抜けしたのか、ヴァートの真意が掴めないようで、曖昧に返事をする。
いつもヴァートがレイモンドに対して取る態度を良く知っているフェスである。嫌われたものだ、とヴァートは心の中で自嘲する。
「それで、私がレイモンドの仕事を引き次ぐ事になった。君の協力が欲しい」
半年の間ではあるが、レイモンドの側で補佐をしてきたフェスの知識と経験が、ヴァートには必要だった。
フェスは、しばらくヴァートの顔をじっと見ていたが、やがて口を開いた。
「少し……考えさせて下さい」
「そうか……」
まだ気持ちの整理がついていないようだ。無理も無かろう、とヴァートは王城に仕える最年少の少年を気遣った。
「ゆっくり考えたまえ。生きている者には、時間はたっぷりとあるのだから」
時間は、生きている者の特権である。ヴァートは自分で言いながら、何となく、自分に言い聞かせているような気がした。
フェスは、その言葉には答えなかった。
「そうだ。ひとつだけお願いがあるんだが」
ふと、ヴァートは思い出したように言う。
「はい。なんでしょう」
「後でいいので、私の執務室に、パンダールの酒場に関する資料を持ってきてくれないか」
「そのくらいでしたら……」
そう言って、フェスは頷いた。
ヴァートは礼を言うと、今までに無いくらい静かにドアを閉め、宰相の部屋を出て行った。
フェスの持ってきた資料を見るにつけ、パンダールの酒場と、それにまつわる冒険者は、すべてレイモンドの手によって発案、実行、管理されている事が思い知らされた。
パンダールの酒場は、今や王国の生命線である。
それを一手に引き受けていたレイモンドに、ヴァートは改めて驚きを覚えた。
(俺が宰相だったとして、こんな奇想天外な発想ができただろうか……)
ヴァートはレイモンドとの差を改めて思い知らされた。
東の鉱山の再開発、そして、南の砦の奪還。すべてはレイモンドが作り上げた、酒場と冒険者によってなされている。
資料には、パンダールの酒場が出来る前に、レイモンドがヴァートの所に相談に来た内容までが記されていた。
「酒場のならず者に、仕事を与える……。俺は不可能だ、とあいつに答えたな……」
この執務室での、レイモンドとのやり取りが思い出される。
レイモンドが気に食わないヴァートは、まともに取り合わず、部屋を追い出した。
「俺は……あいつに遠く及ばない……」
商工大臣執務室で、ヴァートはそう一人ごち、嘆息した。
――しかし……今は、俺がレイモンドの代わりなのだ
レイモンドのように、新しい何かを生み出す事は出来ないかも知れないが、実行するだけならば、ヴァートにだって出来る。
何より、王城は今、大きく動揺している。ヴァートに課せられた責務は、とても重い。
「レイモンドには勝てない。だが、俺には俺の戦い方がある」
ヴァートは心の中で蠢く、黒い霧のような鬱々としたレイモンドへの思いを振り切り、そう決意した。
そして、頭を切り替え、今後必要になってくる施策へと思いを巡らせる。
まずは、まるで手を付けられていない南の砦の戦後処理を行わなければならない。
軍務大臣オーアがいないだけに、それは宰相代理であるヴァートの仕事である。
「多少の独断専行は許してもらわねばな」
ヴァートは次第に暗くなる部屋の中、黙々と書類を処理していく。
どのくらい時が経っただろうか。
部屋のドアをコツコツと叩く音で、ヴァートは書類から顔を上げた。今はすっかり真夜中のはずである。
「誰だ?」
ドアを開けると、そこにいたのは、女王キュビィの侍女であった。
「陛下に手紙を渡してくれたか?」
ヴァートの問いに、侍女はおずおずと答える。
「はい。ですが、キュビィ様は読んでおりません。ずっと、塞ぎこんだままで……」
そう言って、ワッと泣き出した。
ずっと側に仕えているこの侍女も、生気の無い主の姿を見るのが辛いのだろう。
しかし、執務室の前で老婆にワンワン泣かれては、ヴァートとしては、どうしていいものやら分からなかった。
とりあえず、侍女を部屋に入れ、落ち着かせる事にした。
「まあ、落ち着きたまえ。え、ええっと……城に仕えて、何年になる?」
ヴァートは慣れない状況ゆえに、いつになくたじろいでいた。とりあえず、当たり障りのない話題で、気をそらそう、という目論見である。
侍女は涙声で、ヴァートの質問に答える。
「15の時からお仕えしておりますので、もう50年近くになります」
50年……。先々代の王の時代だ。恐らく城内では最も長い経歴だろう、とヴァートは驚く。
「50年も仕えていたら、色々とあったろうな」
侍女はようやく落ち着いてきたようで、しゃくりあげながらも、涙は止まったようだ。ヴァートは内心でホッとした。
「はい。それはもう。ですが、キュビィ様のような幼い王様は初めてで……。いつものお元気な姿からは想像できない程に、落ち込んでいらっしゃいます……」
ほとんど眠らず、食事も摂らない、という。日に日にやつれていく様を見るのは、本当にしのびない、とまた老婆は泣き出した。
ヴァートは、ふう、と息をついた。どうやらキュビィは相当な重症のようだ。
「何とか元気つけられる方法はないか?」
老婆はハンカチで涙を拭いながら首を横に振る。
しかし、話の通りだとしたら、このままでは、キュビィは政務どころか命すら危うい。
「何でもいいのだ。何か思いつかないか? レイモンドに関する事でもいい」
老婆は少し考えてから、口を開いた。
「陛下は毎日、宰相様とお城の中庭でお茶を飲んでおられました……私にはそれくらいしか……」
王城の中庭は王族しか入れない庭園がある。
中庭……。
ヴァートはふと、昔を思い出し、目を閉じた。
王立学校時代、レイモンドに成績で負けた事を父に叱られる度、ヴァートはこっそり城の庭園に忍び込み、花を眺めては傷ついた心を癒していた。
ある日、いつものように、庭園で涙を堪えていると、いきなり背後から声をかけられた。
金色の髪の、気品溢れる優美な女性であった。
しかし、その場所は、王族にしか入れない庭園である。当然、怒られると思ったヴァートだったが、意外にもその女性はヴァートに優しく微笑みかけ、お茶を勧めるのだった。
『花がお好きなのですね』
木々がさらさらと鳴るような、心を落ち着かせるその声。そして、その笑顔は、ヴァートにはとても眩しく見えた。
花など霞んでしまいそうな、その美しい微笑みに、思わず見とれてしまったヴァートは、顔を真っ赤にして黙って頷く事しかできなかった。
ヴァートは、閉じていた目を開くと、目の前の年老いた侍女に、再び問いかけた。
「もしかすると、その中庭は、陛下にとって、レイモンドとの思い出の場所なのかも知れんな」
「きっと……そうだと思います」
侍女は、何度も頷いた。
これが、何かのきっかけになるかも知れない、とヴァートは思い始めていた。
「そういえば、名前をまだ聞いていなかったな」
ヴァートは思い出したように聞いた。侍女は思いがけないような顔をしたが、わずかに微笑んで答えた。
「クラウディア、と申します」
「では、クラウディア、陛下に立ち直ってもらうため、協力してもらうぞ」
夜中の商工大臣執務室で、二人の打ち合わせは続いた。
次の日から、早速ヴァートは動き出した。
まずは、砦の現在の状況の把握からである。砦の損傷具合の確認。防衛に当てる兵士の数の調整と、交代要員について。
そして、同時に、魔物の逆襲が無いか冒険者に調べさせるように手配もかけた。
レイモンドとオーアがいなくなると、このような事さえ滞っていたのである。
そして、続けざまに、砦の戦いにおける、論功行賞を行った。
特に功績のある者は、兵士と冒険者の別なく、たっぷりと恩賞を出した。当然、、戦いに参加した者が喜んだ事は言うまでもない。
併せて、王国兵士に対しては、戦死者、負傷者への保障、冒険者に対しては、薬の配布と、医療機関の斡旋を行った。
ヴァートはこれだけの事を、二、三日のうちに実行した。
「あとは、陛下だけだ」
ヴァートの大車輪の働きにによって、内政面はひとまず落ち着きを取り戻した王城。
だが、消えた灯はまだそのままである。
王国再興の旗印であるキュビィがいなくては、人々の心を一つにはできない。今や、キュビィの存在は、王国にとってそれ程大きなものとなっている、とヴァートは思っている。
「レイモンドが作った再興への気運。消させはしない」
ヴァートは、執務室から見える星空を眺めながら、そうつぶやくのだった。
だが、その頃。
再び王城を混乱に陥れる事態は、静かに、そして確実に迫ってきていた。