第16話:勝利と代償
砦から勝利を伝えるグレイ、ククリそしてヒュー。
だが、その背後で不気味に動くもの……。
それは、未だ息の根の止まっていない、狼男であった。
「に、にんげんどもめ……」
うめきながら、狼男は最期の力を振り絞るように、グレイとククリ、そしてヒューの背後から襲いかかった。残された左手のツメが、閃く。
危ない! と、フラムが叫んだ。
それに反応して、振り返るグレイとククリ、ヒュー。だが、三人は、構えどころか、武器すら抜いていない。狼男のツメを防ぐ手段はない。
三人を、魔物のツメが引き裂こうかという、その時。
「!!」
それは、異様な光景であった。
血まみれの狼男が、鋭いツメを三人に向けたまま突っ立っている。今にもそのツメが三人を切り裂く寸前……そこから、微動だにしない。
まるで、時が止まったかのようだ。
「何だ? 何が起こった?」
その場にいる一同が目を疑った。突然、魔物が動かなくなったのである。
立往生したわけではない事は、狼男がブルブルと震え、怯えたような目がギョロリと動いている事を見ても分かる。
奇妙にも、その動きがピタリと静止したのである。
その間に、ハッ我に返ったフラムが、狼男の首と頭を切り離した。とたんに、糸の切れた操り人形のように、狼男の身体が崩れる。
全員が、フウ、と安堵のため息を漏らす。グレイとククリは、その場にぺたんと座り込んだ。
「あ、危ない所だった……。まだ息があったとは」
フラムはそう言いながら、額をつたう汗を拭った。
再び襲いかかった危険を回避し、総員に再び笑顔が戻った。
普段は仏頂面なパタまでもが、口の端を上げて、喜んでいる。
「今度こそ、勝ったな」
死線を潜り抜け、各々、健闘を称える声が、明るく広間に響く。
しかし、ただ一人、ヒュー=パイクだけは、言葉を失い、その場に立ち尽くしていた。
ヒューは、足元に転がる、狼男の骸を見つめた。ぐるぐると疑問が頭の中を駆け巡る。
なぜ、最期に、動きがピタリと止まったのか。
(あの時だ。野営のときに、川にいたヤロウの仕業に違いない……)
ヒューは昨夜の出来事を思い出していた。川辺で身体の自由を奪われた時の事を。
さっきの狼男も、金縛りにかかったようにその動きを止めていた。ヒューの時とまったく同じである。
ヒューは広間にいる者を見渡した。あの川辺での出来事は、第三部隊の野営地付近で起こった。それ故、謎の男は第三部隊の者だ、とヒューは見当をつけていた。
しかし、第三部隊の者は、この場にはヒューとフラム以外にはいない。
「一体、誰が……?」
ヒューは釈然としない思いのまま、勝利を喜ぶグレイたちと共に砦を後にした。
砦制圧の報は、後方で控えている第三部隊にももたらされた。
その報を聞くや、兵士の間から大きな歓声が巻き起こった。
「陛下。やりましたね! おめでとうございます」
レイモンドは、喜色満面で、キュビィの戦勝を祝う。
キュビィも、安心したように笑顔を見せる。
「うん。よかった……」
だが、その笑顔も束の間、キュビィはそれだけ言うのが、精一杯のようで、そこから言葉が続かなくなった。
そうして、目元にうっすら浮かんだ、真珠のような涙を見られない様にうつむく。
緊張の糸が切れ、感極まったのだろう、とレイモンドも胸に熱いものが込み上げてきた。こうして見ると、キュビィは、ただの13歳の少女にしか見えない。
「陛下、よく頑張りましたね。さあ、馬車に移動なさいませ」
周囲には部隊の兵の目がある。
レイモンドは、涙を堪えるキュビィを気遣い、馬車へと乗り込ませた。その細い手にそっとハンカチを握らせ、戸を閉める。
シバの部隊は、砦を落とした後も、砦から放たれた黒狼の群れの掃討戦に入っていた。
時を同じくして、第一部隊のオーアは橋手前の狼を全滅させ、シバが戦う砦へと、支援に向かっていた。
つまり、今、最後尾にいるのは、キュビィとレイモンドのいる、半数の第三部隊だけである。
レイモンドは、死屍累々たる荒野を眺め、嘆息する。
ついに砦の奪還に成功し、魔王討伐への足がかりを、ここに掴む事ができた。だが、魔王を討ち果たす事が出来たとして、あとどれだけの血が流れるのであろう。
そう考えると、王国始まって以来の戦勝も、レイモンドには素直に喜べない。
そして、これから流れる血の中に、自分の血が含まれないという保証はどこにも無い。その時、キュビィを守る者は誰がいるのであろうか。
「オルフェン閣下!」
黒鎧の剣士が、後ろで束ねた長髪をなびかせ、砦の方向からレイモンドへ駆け寄ってきた。
「おお、フラム! 無事だったか!?」
「ええ。どうにか。そのご様子ですと、砦が落ちた報は、既にお聞きのようですね」
第三部隊の兵士たちは皆、晴れやかな表情である。それがすべてを物語っていた。
「ああ。さっきシバ師範の手の者が知らせに来てくれたよ。フラムも、別動隊、ご苦労様だったね」
そう言って、レイモンドはフラムの労をねぎらう。
フラムは、いつものように爽やかに笑って、ありがとうございます、と礼を返した。
「ところで、他の兵は?」
第三部隊の本隊に戻ってきたのは、フラム=ボアン一人であった。
まさか、別動隊で遣わした兵50が全滅した訳ではあるまい、とレイモンドに少し不安がよぎる。
「はい。マスター・シバや、オーア様の兵と一緒に、砦にいます。私は、お伝えする事があって、一人、駆け戻って来ました」
「伝えること?」
フラムの話によれば、砦攻略に参加したシバやオーア達の兵は、砦の黒狼を全滅させ、その場に待機しているという。
「皆、陛下をお待ちです。健闘した兵士たちに、是非ともねぎらいのお言葉を、と、オーア様よりご伝言をお預かりしてきました」
レイモンドは、キュビィを載せた馬車を覗き込んだ。
馬車の窓から、レイモンドのハンカチで目元を押さえたまま、頷いているキュビィの姿が見える。どうやら話は聞こえていたようである。
「陛下はご了解のようだ。では行こうか」
レイモンドは馬車の御者席に着いた。その隣を、フラムに勧める。
「よろしいのですか?」
フラムは恐縮した。馬が貴重な王国では、馬車に乗るのは、身分のある者にしか許されていない。
レイモンドは、陛下の護衛も兼ねていると説得し、ようやく控え目な剣士はレイモンドの隣に座った。
「馬はあまり得意ではありません、陛下、ご容赦を」
レイモンドは振り返って、後ろの車にいるキュビィに声をかけた。
「急に馬車にお乗りとは、陛下は、お加減が悪いのですか?」
フラムは、少し心配そうに声をひそめる。
レイモンドはクスッと笑った。
「馬車の中からは外が見えないからね。あまり人の死体を見せたくないだけだよ」
レイモンドはそう答えると、ムチを振った。馬車はやや乱暴に走り出し、その後を、わらわらと第三部隊の兵たちが追いかけた。
馬車は屍を踏まないように、戦場跡を迂回しながら走り、橋へと差し掛かった。
古い橋は、馬車が通るだけの幅はあるが、長年風雨に晒されたためか、表面がデコボコとしており、中には車輪がはまりそうな隙間さえある。
「ここは馬車を降りないとダメですね」
フラムの言葉に、レイモンドも同意する。ここで車輪を隙間に取られでもしたら大変である。
幸いにして、橋の付近には人や魔物の死骸も無い。レイモンドは、車から馬を外すと、車から降ろしたキュビィをふわりと持ち上げ、そのままストンと馬の背に乗せた。
キュビィは目を少し赤くしているが、もうすっかり落ち着いている。
「ここは車が通れません。申し訳ありませんが、馬でご辛抱下さい」
「それは良いが、手綱をちゃんと持っててくれよ。わらわは馬に乗るのが苦手だ」
レイモンドはこの戦いに参戦するにあたって、キュビィが馬の猛練習をしていた事を思い出した。
軍務大臣オーアがその手ほどきをしたのだが、何度乗っても、キュビィは上手くならず、最後にあわや落馬という目にあってからは、レイモンドは彼女が練習するのを禁止にした。当然、キュビィは異議を申し立てたのだが、戦いの前に負傷したら、城で留守番ですよ、と言うと、渋々ながら従った。
さすがに人には向き不向きがあるのだ、とレイモンドは思う。まあ、レイモンドにしても、決して得意ではないのだが。
橋の上で、レイモンドが馬の手綱を取り、ゆっくりゆっくりと、馬上のキュビィを誘導する。
そんな女王と宰相の姿を眺めながら、少し離れてフラムがにこやかについて行く。さらにその後を兵士たちが歩いた。
キュビィとレイモンドは橋の中ほどを過ぎた。
その時、突然、キュビィを乗せた馬が暴れ出した。
「わわ! こ、こらレイ! しっかり手綱を持てと言うに!」
キュビィはいきなりの事に驚いて、レイモンドを叱責する。
だが、レイモンドが故意にやっている訳では、当然ない。
「そ、それが、急に馬が暴れだして……おかしいな、おとなしいヤツのはずなんだけど……」
馬は正気を失ったように前足を上げ、来た方向へ戻ろうとする。レイモンドは必死に手綱を引き、なだめようと試みるが、まるで言う事を聞かない。
明らかに馬の様子がおかしい。
すると、背後から、やや離れた所にいるフラムの声が飛んだ。
「陛下! 閣下! お下がりください!」
振り向くと、フラムが鬼気迫る形相でこちらを見ている。兵士たちも、色を失って、声にならない声を上げている。
レイモンドは思わず、フラムの目線の先を見た。
「ああ!」
フラムが見つめる先。
橋の対岸には、血だらけになった狼が、二本の足で立っていた。狼男である。
「貴様! さっき倒したはず……」
フラムは言い終わってから、違和感に気付いた。砦にいた狼男は、フラムが腕を斬りおとし、首をはねたはずである。
この橋にいる狼男は、そのどちらも胴にくっついている。
つまりは、砦にいたのとは、別の狼男なのだ、とフラムは気付いた。
「そいつは危険です! 逃げて!」
フラムは言いながら、矢の様に飛び出し、キュビィとレイモンドの方へ走り出した。同時に狼男も、身の毛のよだつ声を発しながら、キュビィとレイモンドの方へ駆け出す。
馬は恐怖に暴れ、レイモンドはキュビィを逃がす事ができない。
狼男の方が、フラムよりもキュビィに近い。
敵は間近まで迫った。
レイモンドは、フラムが間に合わない、と判断し、咄嗟に剣を抜いた。
「陛下に指一本触れさせるか!」
狼男は、信じられない速さで、キュビィ目掛けて斬りかかった。その間にレイモンドが割って入る。
ギャン、という刃がぶつかる音。
辛うじて、レイモンドは魔物の剣を受け止めた。だが、レイモンドの手は痺れ、目は魔物の二の太刀の動きを捉えきれない。
「レイー!」
キュビィの悲鳴。
レイモンドは、魔物の次の攻撃を再び剣で受ける事を諦め、上段に振りかぶる狼男の胴に向かって、全体重をかけ、体当たりした。
狼男の身体を、橋の欄干に叩きつける。
「あ!」
レイモンドの身体は、次の瞬間、宙に投げ出されていた。目の前には、なぜか、急流の川。
体当たりの衝撃で橋の欄干が折れ、レイモンドと、狼男の身体が、川に投げ出されたのである。
次第に落下するレイモンドの目には、妙に周りの動きがゆっくりに見える。砕ける欄干の破片も、雪が舞うように、ゆらゆらと降りかかってくるかのようだ。
キュビィの顔も見える。
何を言っているかは、分からないが、こちらを見て、しきりに何かを叫んでいる。
きっと、この時間は一瞬に過ぎないだろう。だが、レイモンドの脳裏には、色々な事が浮かび上がってくる。
(この川は急流だ。恐らく、流されたら命はない)
(ああ、陛下……。死ぬな、とのご命令、守れそうにありません。どうかお許しを)
(でも、女王になりたての頃から思えば、陛下は随分と立派におなりだ。私がいなくても、きっと王国は大丈夫だ)
レイモンドに、不思議と死の恐怖はなかった。
ただただ、キュビィへの様々な思いが去来する。
――もっと、陛下と一緒にいたかったな……。
身体はゆっくりゆっくりと落下していく。
だが、そんなレイモンドの耳に、自分を呼ぶ声が、うっすらと聞こえてきた。
「閣下ー!」
グッと、レイモンドは手を引かれた。
急に落下が止まり、反動でガクンと身体に衝撃が走る。と、突然、レイモンドから見える周りの景色の速度が元に戻った。欄干の破片が足元にパラパラと落ちていく。続いてバン、という音と共に、狼男が水しぶきを上げて川に落ていった。
ハッとして手の先を見ると、そこには腹ばいで手を伸ばし、レイモンドの手を掴む、フラム=ボアンの姿があった。
「か、閣下……」
「フ、フラム!!」
レイモンドは、必死でフラムの細い手を握り返えそうとした。
自らの体重が掛かる腕の痛みが、レイモンドにまだ生きている事を実感させた。
フラムはレイモンドを引き上げようと力を振り絞っている。だが、フラムが掴んでいるのは、レイモンドの指先である。なかなか橋へ上げる事ができない。
あまつさえ、フラムが身体を預けている折れ残った欄干も、バリバリと不気味な音を立てていた。
「フラム、手を離せ! お前まで落ちるぞ! その欄干は腐ってる」
「そんな事、できません……」
部隊の兵がようやく追いつき、二人を引っ張り上げようとした時。
木が砕ける音がしたかと思うと、二人の姿は消えた。
ザン、と大きな音をたて、水しぶきが上がる。
「レイー! フラムー!」
キュビィの悲痛な叫びが、無情に響く。
レイモンドとフラムの姿は、またたく間に急流に飲まれ、流され、そして消えて見えなくなった。
「レイ……。こんな事って……」
ようやくキュビィを乗せた馬が落ち着いた。
キュビィは転がるようにして馬から降りると、立ちすくむ兵たちをかき分け、二人が消えた場所へ駆け寄った。両手を付いて、川を覗き込むが、そこには、もう、ただ川の水がゴウゴウと唸りを上げて流れているだけであった。
蒼白のキュビィは、ワナワナと口を震わせ、首を振る。
「いやだ、いやだ……」
兵士たちは、どうしていいのか分からず、ただ女王を見つめる。
キュビィは、キッと兵士たちの方へ睨みつけた。
「お前達! 宰相と護衛官を捜せ! 絶対に見つけるのだ!」
キュビィは我を失ったかのように、命令を怒鳴りつけた。
砦をめぐる戦いは、王国軍の勝利に終わった。
その後、負傷者を一足先に王都へ帰すと、残った全軍は、生存者の捜索と戦死者の埋葬のため、砦付近に滞在することとなった。
戦死者の埋葬は半日ほどで終わったが、生存者の捜索は延々と続けられた。
それは当然、宰相レイモンド=オルフェンと、女王護衛官フラム=ボアンの二名のためである。
全軍が総出で、はるか川下まで捜すものの、二人は一向に見つからなかった。
皆の心に、一つの答えが浮かぶ。
――これ以上の捜索は、無駄だ。
だが、女王の心情を思うと、全軍の誰もその事実を口に出来ず、いたずらに時間が過ぎていった。
「陛下。もう兵糧が尽きます。これ以上の捜索はもう……」
負傷者でありながら、王都に戻らなかったオーアが、かすれた声で、馬車に篭る女王キュビィ=パンダールにそう告げた。
オーアも、無二の親友と、信頼するかつての部下を失い、憔悴している。肩の傷も痛々しく、たくましい身体も、心なしか小さく見える。
「……そうか。大儀であった」
真っ暗な車の中。
その端でうずくまるキュビィは、顔を腕にうずめ、ようやく聞き取れる声で、それだけ言った。
その日、残った食糧と共に、王国兵士だけを防衛のため砦に残し、王国軍は帰途についた。
砦を落としてから、既に一週間が経過していた。