第13話:出陣! 王都南の砦
王国兵士と冒険者の合同訓練が開始されて二ヶ月が経った。
兵士の練度も高まり、ついに王国は南の砦を攻略するべく出陣する事となった。魔王の侵略以来、初めての大掛かりな軍事行動である。
合同訓練所には、これから南へと向かうべく集められた兵士達が、整然と並んでいる。その数、冒険者300人、王国兵士150人。
軍としては小規模だが、それぞれ、二ヶ月にわたってシバに鍛えられた精鋭ぞろいである。その表情は一様に引き締まり、自信に溢れていた。
その兵士と冒険者の混合軍を前に、一人の少女が壇上に上がった。
白銀の鎧に、目の覚めるような赤いマント。そして、美しく輝く金色の髪。まるで絵画から抜け出して来たような、美しい姿であった。
全軍を前に、その少女が良く通る声で兵士たちに語りかける。
「私がパンダール王国女王、キュビィ=パンダールです」
小さな身体に似合わず、広い訓練所の隅々にまでその声は響き渡る。まるで音楽の調べのように、軽やかに、そして時に厳しく兵士達に降り注いでいった。
国民からの人気が絶大な女王の言葉を、皆、神妙な顔つきで聞き入っている。
宰相レイモンド=オルフェンは壇のすぐ下で、女王を見上げていた。
レイモンドは、女王キュビィの言葉に耳を傾けていたが、ある事に気付いた。
「この前私に言った事を言い換えているだけだよな……」
レイモンドは誰にも聞こえない小さな声で、そう独り言をこぼす。
キュビィは出陣に際して、レイモンドに三つの命令を下した。その事をレイモンドは思い返していた。
(死ぬな、わらわを守れ、そして勝て……か)
全軍に語りかけるキュビィの話はなおも続いているが、やはりその大筋は以前レイモンドに命じた三つと同じであった。ただ、『わらわを守れ』の部分だけは、『王国を守れ』に差替えられていたが。
以前レイモンドが聞いた時は、随分と子供っぽい発言だ、と思ったものだが、こうして改めて聞いてみると、女王らしい慈悲深い話に聞こえるから不思議である。そして、何よりレイモンドが思うのは、さすがは女王の訓示だ、という事だ。次第に聞いている兵士達の表情が熱を帯びていくのが、レイモンドにも伝わってくるのである。
キュビィの訓示が終盤に差し掛かると、兵士達の盛り上がりは最高潮に達した。
「王国に勝利を! 王国に平和を!」
そのキュビィの締めくくりの声に応える様に、全軍が鬨の声をあげた。大気がビリビリと震え、およそ闘志という言葉に縁の無いレイモンドでも、言い知れぬ高揚感が沸き起こってくる。
(やはり、王の血なのだろうか)
人の導く王たる資格を、この13歳の少女はしっかりと持っている、とレイモンドも感じ入るのであった。
女王の訓示が終わると、いよいよ全軍は南に向けて出発した。
全軍はわずか450人に過ぎない。それでも、王国始まって以来の攻勢に、見送る王都の民は惜しみない激励の声で見送った。
「全軍を合わせて、冒険者300人に、兵士150人。これで戦えるのか?」
軍務大臣グゼット=オーアの率いる第一部隊。そこに配されたロック=パタは、歩きながら誰に言うとも無くつぶやいた。
「なんでも偵察隊の報告を元に割り出した兵数なんだそうだ。もっとも、王都の守備にほとんどの兵士を回さなければならない事情もあるらしいがな」
隣にいる人の良さそうな兵士が、パタの独り言に答えた。それに対し、へえ、とだけパタは返事をした。
王国が逆襲する事で、王都を危険にさらす、という意見は、王城中の者に依然として根強く存在していた。長い間、王都で魔物の影に怯えていた人々は、恐怖の記憶から、そう頭に刷り込まれているのである。
辺境の王都に移ってからの20年間、魔物の大々的な侵攻は一度も無い。魔物を刺激さえしなければ、ひとまずは平和に暮らしていける……そう信じる事で人々は安心したかったのかも知れない。
そんな根強い意見もあって、大部分の王国兵士は魔王の侵攻に備えて王城に残し、選ばれた150人の兵士だけが、この戦いに参加していたのである。
兵士がそう説明すると、まじまじとパタを見た。今度は兵士の方がパタに興味を示したようだ。
ロック=パタといえば、天を突くような大柄な体格、岩のような腕、そして顔には大きな傷跡。背中には巨大なオノを二つ背負っていて、まさに容貌魁偉という言葉が当てはまる。
「あんた、ロック=パタだろう? オレはお前と同じ組のガルシュって言うんだ。よろしく」
王国兵士のガルシュはそう言って、人懐こい笑顔をパタに向けた。
一方パタは、ああ、とそっけなく返した。
ガルシュの言う『組』とは、五人一組のチームの事で、各部隊はこの五人組の集合体で編成されている。ガルシュとパタは同じ五人組に配置されていた。
「それにしても、あんた、相当使うそうじゃないか。頼りにしてるからな」
ガルシュはそう言って、ロック=パタの肩を叩く。パンダールの酒場で、最強の冒険者は誰か、と聞いたら、必ずロック=パタの名前が出る程、その武勇は知られていた。
しかし、当のパタは少し迷惑そうな顔を向ける。
「オレはあんまり他人と組んで戦った事がないから、仲間を助けるような戦い方はできないかも知れんぞ」
ガルシュはいやいや、と首を振る。
「あんたが暴れてくれりゃあ、それだけオレたちの負担も減るからな。好きな様にやってくれたらいいさ」
そんなもんか、とロック=パタはぶっきらぼうに言うと、振り返って後続部隊が連なって歩く様子を眺めた。
第一部隊に続いて進軍しているのが、師範マスター・シバの率いる第二部隊である。
シバの部隊には、グレイとククリがいた。
部隊が進軍する中、二人は肩を並べて歩いている。
「どうせなら、第一部隊が良かったな。最初に魔物とあたるのが、第一部隊だろ」
とククリが口を尖らせている。
それに対し、グレイの意見は違う。
「いや、結局は砦の中のボスを倒したヤツが一番手柄だ。そうなると、後続の部隊の方がチャンスがあるってもんだろ」
「へへ、グレイは第三部隊の女王サマの所がいいんだろ? お前は、あのキレイな陛下が大好きだもんな。朝の訓示だって、生で陛下が見れて大喜びだったじゃないか」
ククリがからかう。
とたんにグレイは動揺し、顔が赤くなる。
「バ、バカヤロ! そうじゃなくて、ウジャウジャ魔物が守ってるあの砦には、なかなか近づけないって事だ。先鋒が敵に穴を開けて、後続が砦に突入する事になるだろ。だから後ろの部隊の方がボスに届きやすいんだよ」
南の砦へ、偵察隊として派遣された二人は、付近の地理に詳しい。
砦は、高い山の峡谷を塞ぐように位置しており、かなり攻めにくい険要である。
その上、砦の手前には大きな川が横たわっており、侵攻する者の行く手を阻んでいる。
「あそこにいる魔物って、王都の周りでは見た事ないヤツだったよな」
ククリの言葉に、グレイの頭には、黒い狼のような魔物の姿が思い出された。
ただ、狼と違うのは、やたらと大きいという事と、異常に獰猛な性格であった。
「あのデカさで素早いし、逃げても逃げても追っかけてくるもんな……正直あんまり相手したくないな」
怖いもの知らずのグレイの顔がゆがむ。
ククリも、表情をしかめながら、口を揃える。
「六足熊よりはちょっと強いだろうな。酒場のランクで言えば、Bランクの上って所か。そいつらがウヨウヨしてたからなあ」
グレイの概算だが、砦の周りにいる黒狼の数はざっと1000は下らないだろう。実際に、シバにはそう報告した。
「一人あたり三匹は殺らないといけないって事だな」
グレイがつぶやくと、ククリは鼻を鳴らして笑った。
「へへへ、ちょろいちょろい。オレたちで30匹は軽いだろう?」
「バカ言うな。オレなら100匹は殺ってやるさ」
殺伐とした行軍に似つかわしくない嬌声に、周囲の兵達は眉をひそめるも、一向に意に介さない、若い二人であった。
王都から南の砦まで、徒歩でもおよそ一日で到着する。
しかし大人数での移動だと、そうもいかない。日が傾く頃には、まだ道程の三分の二という所であった。
軍務大臣グゼット=オーアの判断により、全軍に野営の指示が飛んだ。各部隊に通達が走り、すぐさま全軍は野営の準備に取り掛かった。
ちなみに、南の砦までの行軍の統帥権は、女王キュビィではなく、先頭を進む軍務大臣オーアに帰する。
最も後ろを進軍しているのが第三部隊。ここにも野営を伝える伝令が飛んできた。
キュビィの親征が決まってからというもの、果たしてキュビィに野宿ができるのかが、レイモンドにはずっと心配であった。
生まれてこのかた王城で暮らしてきたキュビィは、正真正銘の箱入り娘である。そのため、レイモンドはそんなキュビィでも野宿できるよう、職人に頼んで、特別の幕舎を用意させていた。
「陛下、幕舎の準備が整いました」
レイモンドが、第三部隊を率いる女王キュビィに、そう報告しつつ、幕舎を見るキュビィの反応をうかがう。
キュビィの幕舎は、他の三倍の大きさを誇り、高価な布や、金糸がふんだんに使われた、きらびやかな装飾が施されていた。
なお、装飾に関しては、レイモンドの注文には無い部分であり、職人が女王のためを思って採算度外視で奉仕したものである。
「ここに泊まるのか!? ウフフ、外で夜を明かすとは、何とも楽しいな」
レイモンドの心配とは裏腹に、キュビィは初めての野営に大喜びである。レイモンドも、昔、王立学校で野営をした時、楽しかった事をふと思い出した。
キュビィは幕舎に入ると、キャッキャと笑いながらベッドに飛び込んだ。
「ウフフフフ、このベッドで寝るのか。夜が待ち遠しいな。なあ、レイ」
キュビィは、ぼよぼよとベッドの上で身体を弾ませながら、幕舎の入り口から中を窺っているレイモンドに同意を求める。
このベッドも、もちろん特別に作らせたキュビィ専用の物である。
「え? ええ。お気に召した様で何よりです。野外で寝泊りするなど、陛下が嫌がられるかと心配していましたが……」
それは杞憂に終わった。まあ、結果的には良かったのだが。
警護はお任せ下さい、と言い残し、レイモンドはキュビィの幕舎を出た。
「陛下のお気に召して、良かったですね」
護衛のフラム=ボアンが、爽やかな笑顔でレイモンドに声をかける。
キュビィの護衛官となったフラムも、当然この遠征に参加している。
「いやはや、初めての野営で、随分とはしゃいでらっしゃる。何だか心配して損をしたよ」
レイモンドとフラムは笑い合う。
フラムはキュビィの側に侍るよりも、どちらかと言えばレイモンドと一緒にいる事の方が多い。フラムがキュビィの側にいるのは、キュビィが城の外に出る時くらいで、それ以外はもっぱら宰相補佐官ノウル=フェスと一緒に、宰相執務室に控えているのである。
そのうち自然とレイモンドとフラムも打ち解けるようになった。フラムの控え目な性格が、妙にレイモンドと馬が合うのだ。
空が次第に薄暗くなっていく中、第一部隊から第三部隊まで、兵士達の白い幕舎がいくつも立ち上がっていく。初めて見る光景に、不思議な感動を覚え、レイモンドはしばし目を奪われた。
フラムも、レイモンドの横で、黙ってその光景を見つめている。同じ美形でも、フェスのような童顔とはまた違った美しさを持つフラムは、夕日を背景になかなか絵になっている。
気の合うフラム=ボアンであるが、レイモンドには引っ掛かっている事があった。
(オーア殿は言っていた。フラムはかつて問題を起こして兵を辞めた、と。その問題とは一体何なのだろう)
一ヶ月ではあるが、話をしてみるだに、兵士を辞めなければならないような問題を起こしそうな者ではない事は、レイモンドにも分かった。きっと何か特別な理由があるに違いない。
ただ、オーアから『絶対に過去については問うな』ときつく言われている。それが尚更気になるのである。
(オーア殿も、自分で推薦しといて、事情を一切話さないんだから困るよ……)
「閣下? どうかなさいましたか?」
無意識に、レイモンドはジッとフラムの顔を見てしまっていた。フラムと視線の合ったレイモンドは慌てて取り繕う。
「い、いや……、そろそろ、夕食の支度をせねば、と思ってね」
「そうですね。昼の様なパンと干し肉だけでは味気ないので、何か私が手を加えましょう。……と言っても大した物はできませんが」
フラムはレイモンドの素振りを不審に思う風でもなく、屈託なく笑う。
「いや、助かるよ。陛下は味にうるさいからね」
陛下の警護を頼みます、と言って野営地から出かけたフラムは、あっと言う間に大量の木の実と魚を持ち帰り、レイモンドを驚かせた。
「フラムは剣の腕だけじゃなくて、食糧調達や、料理の腕も良いのだな」
キュビィはフラムの用意した食事を終え、満足そうに言った。華奢な身体に似合わず、キュビィはなかなかの健啖家である。
レイモンドは幕舎で食事をとるようにキュビィに勧めたが、外で食べると言って聞かなかったため、キュビィとレイモンドにフラムを加えた三人で、焚き火を囲んでの食事会となった。
「陛下のお口に合って、光栄です」
フラムはにっこりとキュビィに笑いかける。キュビィもフラムの人柄に触れ、随分と心を許すようになっていた。
すっかり日は落ち、あたりを暗闇が包んでいる。揺らめく焚火の炎が、パチパチと木のはぜる音を立て、三人を照らしている。
周辺では、兵達が夕餉を囲む火が連なっている様子が見える。時々、兵士達の明るい笑い声が風に乗って聞こえて来た。
「いよいよ明日は戦闘に入るな。……やっぱり、たくさんの人が死ぬんだろうか」
キュビィは魅入られた様に、じっと炎を見つめたまま、ぽつりと言う。兵士達の楽しそうな声に、彼らの明日の運命を憂いているようだ。
思いがけない言葉に、レイモンドもフラムも息をのむ。
魔王を倒すという王国の悲願達成の第一歩は、南の砦の奪回である。そのためには、犠牲は止むを得ない。パンダールの酒場で斡旋している仕事にしても、既に何人も命を落としているのだ。
当初のキュビィは、その事は理解している、と言っていた事をレイモンドは思い出した。
仕方のない犠牲。理屈としては分かっていても、人の心というのは、そう何でも簡単に割り切れるものではない。今、兵士たちと一緒に行動をしている13歳の少女となれば、尚更であろう。
だが、レイモンドは宰相として、ここで甘い言葉をかける訳にはいかない。
「陛下。冷たい事を申し上げるようですが、戦争とはそういうものです。魔王と本気で戦う以上、今後も何人も犠牲者が出るでしょう。ですが、陛下はそれを乗り越えねばなりません」
言いながら、レイモンドは胸が痛む。本当は優しく慰めてやりたい。だが、今のキュビィは王国を統べる女王であり、一軍の将でもあるのだ。将の弱気は、兵に伝わってしまうものである。
「レイ……。うん、分かっておる」
キュビィは泣き出しそうな顔でうつむくと、やっとのように言った。無理をしているのがありありと分かるだけに、レイモンドの心も引き裂かれんばかりだ。
そんなキュビィを見て、フラムも悲しげな顔である。そして、少し戸惑ってから、フラムは口を開いた。
「陛下。私は幼い頃、両親を魔物に殺されました。それからマスター・シバに拾われて、育てられたのです」
「え?」
レイモンドは驚いた。両親を殺されたという話もそうだが、フラム=ボアンがマスター・シバに育てられていた事は知らなかった。
だがそれで、フラムがすぐにマスター・シバを見つけ出せた事も合点がいく。
キュビィもうつむいていた顔を上げ、驚いた様にフラムを見ている。
「私が魔物と戦うのは、もう私のような境遇の者を生み出さない為です。冒険者の中にも家族を魔物に殺された者がたくさんいます。彼らの戦いは、そういう戦いなのです」
キュビィは黙って聞いている。
フラムは、思いつめた表情を、フッと和らげると、いつもの穏やかな笑顔になった。
「陛下は我々の希望なのです。陛下が悲しむと、我々も悲しい。ですから、お顔を上げて、皆に希望の光をあてて下さい」
「希望の光……わらわが?」
問いかけるキュビィに、フラムは笑顔でうなずく。
その笑顔につられた様に、キュビィの顔にも微笑みが戻った。
「さ、陛下。明朝は早くに出立しますから、もうお休みになられませ」
レイモンドの優しい声に、キュビィは素直にコクンとうなずいた。
「ではこちらに」
レイモンドはキュビィを幕舎に連れて行きながら、振り返ってフラムに、助かったよ、と目配せするのだった。
夜も更け、兵達は交代で見張りにつきながら、幕舎で睡眠をとっていた。
キュビィの率いる第三部隊のとある幕舎では、ヒュー=パイクが、見張りから戻ってきた兵士に起こされていた。
「交代だ」
ヒューは寝起きの不機嫌さをあらわにしつつ、欠伸をしながら、億劫そうに寝床から起き上がる。
起こした兵士はそのまま、ヒューが横になっていた寝床に転がった。兵達の幕舎は狭く、四人が寝るだけで精一杯の広さである。五人組に一つの幕舎が割り当てられるため、常に一人が見張りに立つことでどうにか運用しているのであった。
「まあ、これも金のためだ。我慢我慢」
交代の度に起こされて機嫌の悪いヒューであったが、そう自分言い聞かせ、幕舎を出た。
訓練には参加していなかったヒューだが、グレイとククリの推薦によって、特別にこの第三部隊に配されていた。当然ヒューの目的は金である。
外は漆黒の闇でであった。地面には薪の残り火だけが、ぼんやりと赤い光を放っている。
ヒューはふいに、喉の渇きを覚え、ふらりと川の方へ向かって歩いた。
川まで歩く間にも、そこかしこに幕舎が立てられ、中から寝息やら、いびきやらが聞こえてくる。中には、窮屈な幕舎を嫌ってか、外の草原で寝ている野宿慣れした冒険者もいた。
「こんな生活が続いたら、頭がおかしくなりそうだぜ」
そんな風につぶやきながら、川辺に出る。
空には月も星も見えない。正真正銘の暗闇である。サラサラとした川の流れだけが、ヒューの耳に入ってくる。
ヒューは川に顔を突っ込むと、ガブガブと水を飲んだ。
「?」
突然、チョロチョロという水の音が聞こえ、慌ててヒューは顔を上げた。
暗がりに目を凝らして音の方を見ると、水を飲んでいるヒューの側で冒険者風の男が小便をしている。
「おい、てめえ!」
頭に来たヒューがその男に掴みかかろうとした。
「お、人がいたのか」
男はパタの手をスルリと抜けると、驚いたような声をあげる。
「白々しい事いいやがって。ケンカを売ってんなら買ってやるぞ」
近くで小便をされ、怒り心頭のヒューは凄んだ。
暗くて男の顔は分からないが、どうやら笑っているようだ。
「いやあ、悪い悪い。なんせ、この暗さでまったく見えなかったんだよ。許せ」
「小便を飲ませられて、許せる訳ねえだろう!」
そう言うや否や、ヒューは男に殴りかかった。
だが、その拳はむなしく空を切る。
「おいおい、そう早まるなって。たしか、兵士の私闘は禁じられてるだろう?」
男はなだめるが、ヒューは聞き入れない。
「知ったことか。オレは王国の兵士じゃない」
再びヒューは掴みかかる。が、やはり男は身をかわす。
いかに暗がりとは言え、こうもあっさりと避けるとは、どうやら相手は相当な使い手らしい、とヒューも気付く。
暗闇から、男の声がする。
「これだけ流れのある川だ。ボクのオシッコなんか、キミの口に入るわけがないだろう。水を飲むキミのすぐ横で用を足したのは謝るからさ、どうか穏便に済ませてくれない?」
随分と軽い口調の男である。声も甲高く、それが余計にヒューの癇に障る。
「断る!」
もうヒューは小便の事はどうでも良かった。ただ、目の前の男をぶっ飛ばしてやりたいだけだった。
怒りに任せて、渾身の力で拳を繰り出す。
しかし……。
(あれ? 動けない!?)
突然、ピタリとヒューの動きが止まった。まるで金縛りにでもあったかのように、ヒューは身体を動かせない。
かろうじて呼吸と、目だけは動かせるが、声すら出せない。
(なんだこれは!?)
ヒューは自分の身に起こった事が理解できず、狼狽した。体中から、嫌な汗が流れ出る。
「やれやれ。ケンカッぱやい人だなあ。悪いけど、しばらくそうしててよね」
その甲高い声を最後に、男の気配がスッと消えた。
相変わらずヒューは身じろぎ一つできない。
(ヤロウ……! 何をやりやがった。まるで動けやしねえ……)
数分後、突然、身体の緊張が解け、動けるようになったヒューだったが、狐につままれた様な奇妙な感覚で、その場にへたり込んだ。
ヒューの身体を動けなくしたのは、あの男の仕業に違いない。だが、とても人間業とは思えない。
しばし呆然と、男の消えた闇をヒューは見つめていた。