第一章 名前(7)
三講目は散々だった。
三講目の講義は狭い教室での講義だったのだが小さな教室内で隣に他の学科の生徒が座っている講義中、圭喜のカバンからかすかに聞こえてくる物音。ちらちらと隣に座った生徒が向ける視線。必死に咳をしたりタイミングよく足を踏み鳴らしたりして誤魔化してみたが隣の席の男子生徒には余計怪しく映っただろう。
しかも教授にはホワイトボードを指で数回叩かれた後、わざとらしく咳をされた。無言の「黙りなさい」だった。圭喜はちょっと泣きそうだ。
「(ゼミの教授の講義なのに・・・やってしまった)」
教授の「今日はここまで」の言葉に圭喜は急いでルーズリーフをカバンに突っ込もうとすると教卓から圭喜に直接お声がかかった。
「樫屋君は確か今日はもう講義は入っていなかったよね。この後すぐに僕ん所まできなさい」
「・・・はい」
ファイルにルーズリーフを挟むと圭喜は肩を落としながら教室を出て行く教授の後を追った。
「何があったのかは知らないし僕はまったく興味も無いけれど、講義の妨害をしちゃってくれたからねぇ・・・本当なら教室から追い出してやろうかと思ったんだけどそれよりも・・・そうだなぁ明日の講義の資料の作成を頼もうかなぁ」
「・・・はぁ」
「辛気臭いなぁ・・・これくらい簡単でしょう?それとも僕の講義を放棄にする?」
「すいませんでした」
「わかればいいんだよ」
そう言った教授に圭喜は教授室の奥にある彼の机の上を見た。
「・・・教授、片付けてください」
「僕は、それで、仕事になーんの支障も来していないよ」
「教授はそうでも手伝いにきた生徒は迷惑しますよ・・・」
積めるだけ積まれた資料は教授の机の殆どを占領していた。圭喜はどこから手をつければいいのか悩みながらとりあえず机の一番端にあった書類の束を持ち上げた。
「えっと・・・これですよね」
貼られた付箋には明日の講義名が書かれており、圭喜は机から教授室の手前の長テーブルへとその書類の束を移動させた。
教授の机には同じ付箋の貼られた書類の束がまだ幾重にもあり、圭喜はそれを同じように長テーブルへ移動させながら書かれた番号通りに並べていった。後は単純作業である。
本当は人数がいたほうが手っ取り早く済むが、あくまで講義中軽い妨害をした圭喜に「これで今回のことは無かったことにしてあげます」という教授の厚意なので圭喜は無言で手だけを動かし続けた。
一枚ずつ重ねて資料を数枚で一組に重ねる作業には圭喜が思った以上に時間がかかった。
その作業が終わると、圭喜はそれを一部ずつホッチキスでとめていった。
ぱちんっ・・・ぱちん
ふと圭喜が教授室の時計を見れば最初来たときからもう一時間が経っていた。作業も黙々としていたのがよかったのか着々と進んでいて、もう十数部の資料をホッチキスを使ってとめていけば圭喜の仕事は終わる筈だ。
気がかりだったカバンの中身の方は少し不気味に思うくらい静かだった。
「樫屋君もうすぐに終わりそう?」
「そうですね、もう五分くらいあれば・・・」
ノートパソコンの前に座りながら画面に釘付けだった教授は椅子を後方に引いてぐっと背伸びをした。
「あー肩こったぁ・・・コーヒー飲もっかなー」
「はぁ」
「樫屋君の分も入れてあげようかな、今回は特別ね」
教授は椅子から立ち上がると奥の給湯室の方へ入っていった。その姿はどこか楽しそうだ。圭喜は教授の後姿を見届けた後、首を回したり腕を回しながら骨をぱきぱきと鳴らしていた。
すると
ドンドンッ!・・・・・・がちゃっ――!
「先生ッ!一体あれは何のつもりです・・・か」
「・・・・・・・・・。」
肩を回していた圭喜は、怒り心頭で教授室に怒鳴り込んできた少女を呆然と見た。
「・・・・・・あ、あれ?」
「・・・えーと、犬塚教授なら奥の給湯室だけ、ど」
にじみ出るようだった怒りはぶつける相手がいなかった所為かそのまま萎んでいき、少女は握ったままの拳をどうすることもできずに呆然と圭喜を見上げた。
奥の給湯室の扉が開いた。
「樫屋君はコーヒーに砂糖とミルクを入れ・・・あれ、猫杜君?」
「って先生ッ!」
奥の給湯室から顔を出した犬塚は少女を見ると声を上げた。
「来るの遅かったねぇ」
「起きてすぐに来ましたよ!!ってそうじゃなくて机においてあった紙の内容は一体どういうつもりで・・・!」
「えー、もうすぐ四時だよ、起きるのには遅すぎると思わない?ねぇ樫屋君」
「・・・・・・えーと、そうですね?」
犬塚と話していた猫杜と呼ばれた少女は圭喜の声に「そういえば他に人がいたんだった!」といわんばかりの顔をして顔を真っ赤にした。
「もう終わりますから、教授室から出て行ったら後はお二人でゆっくり話してください」
「あらあら、・・・どうしよう猫杜君。僕たち気を使われちゃったよ」
「あ、あの別にそんな大した話じゃないんで!その、えーと・・・そ、そう講義のことで質問が!」
あわてる猫杜には悪いがなんだか踏み入れたくない領域に足の片方じゃ済まなさそうな、そんな嫌な予感がした圭喜は資料の最後の一部をホッチキスでとめるとカバンを持ち上げた。
「えー教授の言い方をお借りしてしまいますが『何があったのかは知らないし僕はまったく興味も無い』ので、今日はもう帰らせていただきます。後、資料はできたんで不備が無いか見といていただけたら幸いです」
カバンの中の小人で面倒ごとは精一杯だと圭喜は教授室を出て行った。
最後に見た、手を振った犬塚教授が何だかにこやかな笑みを浮かべていたように見えたのは勘違いだと思いたい。
触らぬ神にたたりなし、だ。