エルサレムの旅日記
一度行ってみたいと思っていたエルサレムの旅の記録です。
イスラエルの旅!
いつ頃か正確に記憶していないが、エルサレムへの巡礼に興味を持ち出かける事にひら
めき行く事を突如に決めた。今しかチャンスはないとの考えから出た結果である。
アメリカの大統領トランプが、エルサレムに大使館を置くとの発言が報道された。出かけ
る事への勢いが失せる状況を醸し出した。何故この時期に発言が出たのか?現地の治安に
不安が残る。冬空のごとく暗い気持ちに覆われた。現地での摩擦が暴騰となり、旅行者に
危険な事態を生み出す可能性も秘めている。報道によれば、エルサレムを首都とするに対
して反対運動がイスラエル国内に起きている。幸いにも局地的で全土に渡っていない。
エルサレムへの飛行チケットをネットで購入してホテルの予約も完了した後の報道だっ
た。取り止める程の大きなインパクトも持たない様に考える事にした。
☆平成30年1月23日(火) 日本時間
日本時間の平成30年1月23日(火) 関空からヘルシンキで乗り換えへ、テルアビブの
飛行中の機内でこれを書いている。正確には、機内モードにパソコンを設定すれば、制限
されるが、ネットに繋ぐ事は可能であったが、何時もの如くネットサーフが出来ないので
旅日記を書いている。長い時間狭い空間での暇つぶしの為である。
ヘルシンキを出て機内食が有料だったとは、ワインとサンドウィッチで15ユーロ払った。
高いの一言に過ぎる、高度も1万メーターほどだから仕方ないと判断しよう。
ヘルシンキは、雪が降っていた、午後3時で外の景色が見えた。午後4時頃で当たりは真
っ暗になった。ヘルシンキ離陸は、午後8時5分当然夜だ。関空から満席でヘルシンキ、
イスラエルの便は、空席が目立つ、乗客には、良い事である。
テルアビブ着陸態勢に入ると飛行機がかなり揺れた、順調で無い振動があった、無事に滑
走路に接した時に機内の乗客から拍手喝采の光景を見た。
今回の旅で一番心配にしていたイスラエルの税関を抜ける事である。その時がやって来た、
税関員の審査を受ける列に並び順番を待つ、私の前で一人の女性が税関員との質疑が怪し
そうな雰囲気になっている。全く何が起きているのか解らないが、その女性から私の順番
にならない。その列を離れ隣の列に移る、列を変えた結果スムーズに私の順番になり、審
査を受ける。
イスラエルと聞けば、物騒なエリアでハワイへ海外旅行するのと訳が違う場所だ。
日本から海外旅行で多くの人が選択する目的地で無いのは確かである。友人に電話でイス
ラエルに行ってくると他の話の中でさらりと言ってみたら、彼の反応は、頭がおかしいと
言われた。きな臭い香りがする場所と日本人は理解している様だ。
確かに2000年以上前から、もめている、解決に至らず今も宗教、人種の違いから緊張し
ている場所である。現代の文明もこのイスラエルが発祥の地である。
西国33ヵ所、四国88ヶ所の巡礼を終えてから眠っていた旅心が、イスラエルと駆り立てた。
イスラエルに友人がいなくて初めて来たとの返答、観光、泊まるホテルの名前、滞在日数
を即座に答える事、パスポートがシリアの入国記録が無いのがスムーズに通過出来る模範
的との情報を得ていたので該当するとの自信を持っていた。やはりその通りになった。ホ
テルの送迎の手配を自宅からしてネット経由でして置いた。
深夜現地時間に12時半頃税関を出て、ホテルからの人を探したが見つからず、空港出
入口で監視員に到着ゲートの出口が他にあるか聞いて見ると、全部で三カ所の出口と聞く、
三ヶ所の出口を何度も歩くが全く見つからず、出向かいは来ていない様だ。仕方なくタク
シーで空港からホテルに、距離的に60 km程になる。タクシーのユダヤ人はエルサレム
に入り、何処か私には解らないが、車が止まる。ここへたどり着く前に運転手は、頻繁に
スマフで電話をしていた。
電話会話の内容は、全く私には理解出来るはずもない。到着したのは、バスストップがあ
り、数台の車が停車状態で何人かの人がいた。タバコを吸っている人、会話をしている人
達、深夜午前1時頃にたむろする人影を見える、ここで降ろされても目的のホテルである
はずが無い。運転手がここから友人のタクシーでホテルまで行ってくれと、空港からここ
まで来た運転手に何故あなたが、ホテルまで行かないのかと質問してみると、この辺り詳
しく無いとの返答だった。
彼の車には、ナビがありそれを稼働させていた、泊まるホテルは、ナショナル・ホテル・
エルサレムだ。電話番号と住所を運転手に渡し乗る前に行けるかと質問をしたはずだのに
ここで下車させるのかと疑問が湧いてきた、地理感の無い場所でホテルには、タクシーし
かたどり着ける方法が無い、この状況を懸念して予約を入れたホテルに当日ピックアップ
をお願いして米ドル80の費用を承諾した経緯があるのに来ていなかったので空港でタク
シーと決め、乗車する前にタクシーの写真を撮った。ナンバーもカメラに記録されているはずだ。
もしここで彼らが豹変したならば、抵抗出来ない立場である。他国に入る時には、空港
からホテルまでが最も危険と解釈している、充分に注意をして予約を入れてホテルにピッ
クアップ依頼をメールでお願いして、返信メールで確認していたが、現実は異なり一人見
知らぬタクシーで移動をしている。運転者が、80ドルを要求してきた、お金を要求する
からには、強盗で無いと判断出来る、もう一台別の車でホテルまで行って欲しいと彼には、
20ドルぐらい払えば良いとの事だった。車から降りてトランクからスーツケースを取り
出してもう一台のタクシーに載せ替える作業を運転手がしてくれた。別れ際に握手を求め
てきたので握手をする。悪い奴では無さそうと感じた。彼の友人のタクシーに乗り換えて
目的のホテルに着いた。空港での運転手は、テルアビブには詳しいがエルサレムを知らな
い。ホテルは、東エルサレムにある為に起因した運転手のリレーになった。
国連統治の区域をユダヤ人が強制的に統治に出て実力行使をしたが、その地域を他の国が
承認しない事になった。日本政府もパレスチナ人地区をイスラエル国の領土として承認し
ていない。こんな国事情により東エルサレム専門の運転手に交代となった。滞在するホテルは、国連統治のエリアである。
午前2時過ぎにホテルに入り荷物を解いた。そしてシャワーをした、長時間の移動とイス
ラエルの税関を抜け、空港からこのホテルまで緊張の連続だった。
3時過ぎにベットに入るが2時間程で目が覚める。熟睡出来なかったのは、過度の緊張感
から来るモノだろう。
平成30年1月23日(火)
移動時間が長くたどり着いたエルサレムに確保したホテルに深夜に入り、現地時間3時
頃ベットに潜り込むが寝付きが悪く2時間ほどで目が覚める。緊張感が起因しているのだ
ろうが、今日は、1日体を休める為に予定を何も入れていない。宿泊費込みの朝食を午前7時過ぎに4Fのレストランに、西洋式と呼んで良いだろうビッフェスタイルにイスラエ
ルの食材もありそうだ。全部制覇するには、数が多すぎる。お腹いっぱいにしてコーヒー
も2杯飲んだ。アラビックコーヒーは無かった。スパイスの利いたコーヒーだがこのレス
トランならあるはずだ。朝食後に部屋に戻り受信していたメールをチェックして請求書作
成、PDFに変換してメールで納品書と請求書を送る。取り引き相手からの依頼された見
積もりの作成をするがメール提出までに至っていない。午前11時になり、ホテルを出て
ダマスカスゲートに向かって歩く、10分程の距離である、ダマスカスゲートがどれか解
らない、歩くイスラエル女性に尋ねると一緒に来いとの事で並んで歩く、そうすると先ほ
ど通過したゲートがそうだったと解った。ゲートには、文字表示があるが、字が読めない
ので通過してしまった。日本語で書かれてる訳がない。
このゲートを入ろうとするとその向こうには、雑踏のごとく立ち並ぶ商店が多数あるのが
見えた。ゲートを抜けると二股に分かれどちらも店とバザールの様相であった。以前行っ
た事のあるイスタンブールのバザールと何ら変わらない様に感じた。ユダヤ教、キリスト
教、イスラム教の聖地が城壁内のはずだ。面積としては、阪神甲子園球場の広さと変わら
ないはずだが、実際歩き出すと迷路、路地、路地裏が区別の付かない乱雑さだ。平面的に
は、広くないはずだが歩いて解るのは、高低差がある、実際より高低差により簡単に網羅
出来る地域でないと断言出来るに至った。
☆平成30年1月24日(水)
日帰りツアーを申し込んでおいた、その日がやって来た。現地時間午前8時30分にピ
ックアップの約束である。オムレツも焼いて貰い朝食を多量に食べた。
赤い色のジュースが旨く何杯も飲んだ。コーヒーは、2杯、パンケーキに蜂蜜をかけて食
べる、美味である。食べ過ぎたのか胸がムカつく現象になった。自宅近くのガストのモー
ニングのメニューに似ているが量が違う、朝食を終えて部屋に戻り、金庫にパスポートと
ドルとユーローを入れてセイフティボックスをロックをする。
ピックアップの8時半までには1時間弱あるのでTVを付け、ノートパソコンでニュース
をチェックする。パソコンで日本サイトのヤフーを見ると日本に居るのと全く変わりない。
草津白根山で噴火したニュースを知る、死者も出た模様だ。京都が寒波に襲われる様な気
候になると知った。22日に日本の成田から出た便が、ヘルシンキで欠航になったのをフ
ライト情報で知った。25日は、記録的な寒さになるようだ、京都の天気予報を確認する
が、午前2時頃に雪が降りそうだ。時間が来たので、ノートパソコンをスリープにして8
時15分に部屋を出てロビーで待つ、その間に宿泊を延期する意向を示す、27日が満室に
なりそうなのでブロックをかけて貰った。27日には、祭りごとがあるそうだ。早めに申
し出て良かった。他のホテルも同じ状況になる可能性があるので、8時半を過ぎたがピッ
クアップに誰も来ない、心配になり旅行社電話をするが、ピックアップの運転手を手配し
たとの返答だった。
10分遅れて運転手がやってきた。ポーランド人と私がこのホテルからの日帰りツアーだ
と解った、車は、走り出したが別のホテルでスペイン人の夫婦が乗ってきた。
ポーランド人は、身長190センチ以上あるだろう、スペイン人夫婦はどちらも170センチ
ぐらいだ、そして私だ。ピックアックに来た車はトヨタのプリウス、この小型車に⒋人良
く乗り込めたものだ。スペイン人夫婦を乗せて5分程走り、バス停に4人下ろされた。こ
の場所で観光案内のバスを待つ事になる。
ピックアップで同席した4人は、参加ツアーが違うのが解った。何台か観光バスがやって
来て観光客を乗せている、その内の1台が私の前で止まった運転手に聞いてみると、NO.2
のバスに乗ってくれとの事だった。聞いたドライバーは、別の方向のツアー運転手、がし
かしリスト表を持っていた、そこに申し込み名の記載を見て別のバスだと教えて貰った。
NO.2のバスを待つしかないだろう。多数あるツアーをあちこち散らばっている参加者を
一カ所に集め、方向の違いにより乗るバスを選ぶ事になっている様だ。先ほど同じホテル
のポーランド人は、何処かへ消えた、彼は、乗るバスを見つけた様だった。
アミールと名乗るユダヤ人が話しかけてきた。運転手でガイドをすると、私にメールア
ドレスをリスト表に書くように指示された。私の名前の書かれている横にメールアドレス
を書き込む、このアドレスが認証の役割をしているようだ。申し込みは、ネット経由で行
ったのでメールアドレスが名前と同じく重要な本人証明となると解釈をした。
私の乗った小型バスは、12名参加者だと解った。スペイン人、ルーマニア人、イタリ
ア人、アルゼンチン人、英国人、後は解らない人達だ。乗ったバスは、エルサレムの西側
に進む、途中ゴッドファザー3の撮影場所がイスラエルだと知った。その撮影場所があそ
こにあると説明を受ける。高台で停車したバスは、エルサレムの全貌が見られるポイント
だった。岩のドームが確実に見える場所だ、昨日徒歩で歩いた時は近すぎて一部しか見え
なかった。金色に輝く岩のドームは、イスラム教の聖地になっている。
西側から城壁内に入る。昨日一人でやって来た場所と入り口の違いからの進入になった。
岩のドームにイスラム教の人以外は、入る事が出来ない。警察がガードしている。
この警官達は、イスラムの警官である、ユダヤ教のエリアにイスラムの人達は、入れない
これも警官がガードしている、ユダヤ教の警察官である。アルメニア人地区は、閉鎖的だ。
そしてキリスト教地区でもある。ユダヤ教の流れからするとキリストもユダヤ人であり、
ユダヤの王との表現がある、新約聖書に書かれている。キリストが十字架を背負って歩い
た道程がありそこを歩く、幾つかのポイントがあり、そのポイントに歴史的な場所として
多くの巡礼者がやって来ている。キリストのお墓では、その墓に手を差し出し涙する人を
見た。ユダヤの王として亡くなったキリストの墓にユダヤのランタンがあった。そのラン
タンらしき物に記しがあり、十字架の元のモデルになると思われる。日本のランタンによ
く似ているとの印象を持った。
この苦難の道は、キリストが亡くなった300年後に確立した経路でゴルゴダの丘に行くに
は、道がない。この苦難の道を通過してゴルゴダに行けないのが確実で苦難の道は、後か
ら作った物語である。1700年前から言い出しているので事実で無くても本当の事になっ
てしまう。ビアドロドーサ(VIA DOLOROSA)苦難の道をキリストは、知らな事になる。
釈迦没後500年後に仏像が作られた、釈迦は、自分の像を知らない。後から作られた物で
ある。これと同じ事になる。
☆平成30年1月25日(木)
現地時間6時半頃ベットを抜き出て朝食の為に部屋を出る、このホテル延泊処理をしな
ければならない。26日まで押さえていた。巡礼者の為のホステルが多く存在する。旧市
街の中にもあり価格チェックでは、一泊2000円ぐらいのもある。共同便所、共同シャワ
ー、固有スペースは、二段ベットの上か下だけの広さだ。プライバシーを保持するのは難
しい。幾ら安くても滞在困難と思われるので、安ホステルへの変更を止めた。
フロントで飛行機予約書を見せて交渉を始める、相手側のクラークもどの様にすれば良い
のか思案模様である。5分時間を下さいとの返答で10分でも20分でも良いと、ホテル内
の喫茶でコーヒーを飲むからと、喫煙場所でたばこを吸い終えてロビーのソファーに座り
込みスマフォを読み始める。日本のニュースに飽きてきたので、ゲームを始める。
ホテル内のWi-Fiを使っている。我がスマフォは、海外利用出来るサービスを申し込んで
いない、理由は簡単、安くないからである。行く先々で無料Wi-Fiを探し使っている。関空でもこの方法、ヘルシンキでも同じく、観光のバス内にも無料Wi-Fiがあるので問題なしである。
ロビーから声がかかり、延泊可能となった。チェックアウト時間も最大限広げてくれて
いた。1日の宿泊費用も10ドル値引きが加わっていた。
今日のすべき作業は、終わった。移動する事もなくねぐら探しの作業をしなくて済む、
ロビーで世話になった女性の目の色が茶色で光線の当たる違いによりやや変色する。その
目が綺麗だと褒めたが、あなたは、良い態度をされていると返事が返ってきた、オレの女
になれとは言ってない、勘違いするなと言いたいが止めて置いた。彼女の反応は、マニュ
アル通りなのだろう。写真を1枚撮った、写真撮られるのが嫌いだと言いだしのでどうも
すんませんと謝罪して、部屋に戻り依頼されていた見積もりを作成する、電送出来るまで
もう少しだ。完成に至らず、午前11時前に旧市街に向かって歩く、今回は、シオンゲー
トから進入する事にした。目的は、ダビデ王の城壁内入る事と決めていた。シオンゲート
から入り、アルメニア人地区を歩くバザールが無くて人の住居ばかりある、ひっそりとして人が居ない。誰も見かけないエリアで襲われたら完全にやられる可能性大である。子供の声が聞こえ始めるどうも学校ある様だ、大きな門があり閉まっていない、入ってみた、数人の子供が駆け寄って来て喋りだした。校庭の様だが狭すぎる。
バスケットぐらいしか出来ないだろう。子供達は、私の愛用の広島カープの野球帽子に興
味がある様だ、帽子が欲しいと言い出している。ある物は、家に戻り自分の帽子と交換し
て欲しいと言い出している。別の子は、オレの名前は、ハマダだ日本人と同じだぞと言い
出した。何人と聞くとパレスチナ人と答えた。インティファーダーをやってる連中と同じ
人種のはずだ。アルメニア人地区は、何が、なんだか良く解らない。
ちょっとうざくなり、さよならを告げた。子供と絡んだのはエルサレムで初めてだった。
その場を離れ、ダビデ王の所に行く、アップダウンを繰り返すアルメニア人地区を抜けて漸くダビデ王の城壁に近づいた。
エントランスを見つけそこへ進むとアジア人の女性が話しかけて来た、私と同じ目的地と
思われる、入場料金が必要だと知る、一人40シェケルと、60シェケルがある。
60シェケルは、夜と昼の料金だった。夜は、ここでショーが催しされている。
見るつもりは全くない。現時間が、午後1時前だ夜まで待つわけには、時間が長すぎる。
中国人女性は、夜の部も一緒の高い方を希望して、午後6時まで待つのかと聞くと、40
の方を選び直した。ダビデ王の城内に入り込みパノラマを目指す、階段が結構きつい、
そして雨も降って来た、激しい雨だ、傘を持っていない、仕方無く雨に濡れながら景色を見る。日本で言えば天守閣に位置するのか?天守閣ならば、雨を気にする必要がない。
3000年程前にダビデ王が見ていた場所から眺める景色は、今と異なるのだろうか?
私と一緒に行動する中国女がうざくなってきたので、展示品の部屋で写真と説明文を軽く
流して先にでた。ダビデ王の庭園を見て、外に出てキリスト教地区へ移動する。もう接触をする事が無いので気楽にエルサレム城壁内を歩く、当然ユダヤ人地区も通過する。
3000年前にダビデが建国したユダヤ人国家、その息子ソロモンが建設した神殿、ここ旧
エルサレムは、ユダヤ国家の最も大切な場所だ。バビロニアに攻められ奴隷となったユダ
ヤ人、ソロモンの神殿は、破壊された。その50年後にソロモンの神殿を建て直す、この
神殿にキリストが入ったとされている。初代の神殿でなくて2度目の神殿をキリストが訪
れ、神殿内で商売をする人達に商いをする場所で無いと憤りを示したと、
☆2018年1月26日 金曜日
たらふく朝食を食べ、部屋に戻りノートパソコンで作成した見積もりを日本に存在する
大手会社へ電送する。
昨日午後6時頃だったか、部屋内の電話が鳴る、知っている人は、誰もいないから不思
議だと思ったが、取り敢えず受話器を、明日の日帰りツアーは、天候不順で取り止めとな
ったとの連絡だった。本来死海とマサダに行くつもりが、天候不順で行けなくなった。
雪が降っている様だ、あれやこれやで28日の日曜日に変更決定をした。天気予報からの
結論になったのだ。28日ならば、天気が良くなるとの予報だった。
死海とマサダの予定が順延になり、王の墓に行けば良いと変更した、午前11時頃にホテ
ルを出ると、様子が変だ、人が殆ど歩いていない、店も殆どシャッターが降りている。ユ
ダヤ人は、金曜日を安息日と決めているからだろうか?市場も閉まっている、まぁ良いか
と思いホテルから400メーターの距離の王の墓に向かうが風が強くとても行く気がしなく
なり、方向を変えてエルサレム城壁内に、城壁内は、雨風を凌ぐに良い場所である。ソロ
モン王の洞窟を見ようとしたが、ここも休みであった。仕方ないので、未だ足を踏み入れ
ていないイスラム教地区に入って見る事にした。城壁内も人が少ないので、前回混雑して
いたキリストの墓に先に行ってみる、到着するとやはり空いていた、ゆっくりと写真が撮
れる。お墓に接近してもう一度確認をする、ユダヤ人にしては身長が高いと思われる、目
視測定で180cm以上あるだろう。
現代のユダヤ式葬儀を見たが、棺桶はもう少しサイズが短い、それも2度見たので間違い
ないだろう。ランタンらしきものがお墓の上に飾ってある。日本式と良く似ていると感じ
た。ユダヤの王として亡くなったが、この墓の横にイエスが蘇り天に召された記念の建物
があった。近寄り確認をした、世界の中心となるエルサレム、全てのもめ事がここから始
まっている。日本の報道から知る限りここに入り肌で感じるのは、イスラエルの国を守
る為に全力を尽くしている。インフラ整備、病院と近代化に努力している。イスラエル建
国前に住んでいたパレスチナ人は、イスラエルの病院に行き、治療を受ける。
彼らは、近代化に進む事無く怠惰な社会である。ユダヤ人の勤勉さ、努力に勝てないので
ある。ドイツがホロコーストに進んだのは、やはり同じ事になる。ユダヤ人社会は、ドイ
ツ国内で発展していたが、それに対して攻撃を行う、ドイツ人には、受け入れるのが困難
だ。他民族が国内で発展し、経済的にドイツ人を圧倒していたので、抹殺する行為に出た。
☆ 平成30年1月27日(土)
今日の目的は、ソロモン王の洞窟を見に行く、地下を見に行く、ソロモン王の建てた神
殿があった場所である。ソロモン神殿は、バビロニアに破壊されユダヤ民族は、捕囚され
た。50年後に解放され再度神殿を建て直したが、ローマ軍に又破壊され残ったのは、城壁の壁だけになった、これが「嘆きの壁」と呼ばれてる所以である。
ユダヤ人は、今もこの壁に祈りを込めている。地下は、自然に出来たもので神殿の柱跡な
ど地中深く現存している。ソロモンの神殿跡の地下深く入り込んだ。迷路のようで戻る道
筋を失った。外と比べて暖かく、汗が出てきた、白人女性と私の二人しかこの洞窟に入っていない。
先に入った白人女性が見当たらない。結構広いのである、帰り道を見失って焦りと汗が出
てきた。私より先に入った女性が見えたので、出口が解らないと切り出したら、方向を示したくれたので、その方向に向かって歩き出す、漸く出口の明かりが見えた。
1時間弱、ソロモンの地下の探索が終わった。入場料18シェケルだった。
日本円で540円程になる。大変疲れ地上に出てきて、ダマスカスゲートに向かう、
このゲートは、何度か出入りしているので何故か私には安心感が漂う。ここで人の行き来が多くない階段に座り込み休み体制で、そして行く人、来る人を何気なく観察する。
歩く人達の表情が屈託なく明るく輝いている様に見えない。何処か堅い表情が有る様に思
える。このゲートを銃を持ったポリスが出入り口に5,6名がいる。
小型拳銃、長い銃、棍棒らしものを装着して防弾チョッキを着用している。
男女混じり合っている。その出入り口の対角線上に位置する高台からも男女入り交じった
武装した警官が見張っている。このゲートに入ると別のグループが完全武装で監視をして
いる。旧市街の城壁内にも巡回している警官も見かける。ゲートに入り小さな店の喫茶に
入る、ここでミントティーを飲んだ、今回で3回目になるかな?女将が正直に見えたので
同じ所でお茶を飲む、常連じゃないが、顔見知りになれば、くつろげる。
お茶を飲んで一休みしてから岩のドームを見に行く、今回も出入り口で、入れ無いと断れ
た。お祈りをしている様だ。コーランが解ると入れ無い理由が解るのだが、
<栄枯盛衰>歴史において、栄えた国が何れ衰退を繰り返している、ポルトガル、オランダ、英国と世界をリードした国々が今や過去の遺産の中で存在している。
アメリカも世界のリーダーとしての凋落がすでに始まっている。
☆平成30年1月28日(日)
マサダと死海に行く日である。予約して置いた旅行会社より金曜日だったが、天候不順
で延期となった。今日の日曜日になり、その日がやってきた。
午前8時半のロビーで待ち合わせとなっている、午前8時20分頃部屋を出てロビーで待
つ事に、ロビーは多数の人で混雑している。ロビーを後にして表に出る、そこは喫煙出来
る場所だから、1本、2本と連続に吸い込む、ロビーより少々寒さを感じる、このまま外
で待つには少し寒いのでエントランスからロビーに舞い戻る、私の座る場所が無い、それ
程混雑状態である。奥のレストラン、コーヒーショップに人は、あまりいない。
どうもそこに座ると何か注文する必要がありそうだ。コーヒー飲むほどのんきに構える雰
囲気でもない、8時半が過ぎて40分になろうとしている、ピックアップに誰も来ない、
9時まで待とうと決心する、9時になれば、申し込んだ United Tours に電話する事と決
心した。9時になった、スマフォを開き旅行会社の申し込み完了したとのページを開き
ロビーの係に電話をして欲しいと依頼する、私のスマフォを見て、状況が解ったようだ。
ロビーの男性と相手側が話を始めるが、途中中断した、保留になっているようだ。
しばらくすると会話が始まり、後数分でやってくるとの話になった。手配が出来ている様
だが、遅れているのは、間違いない。やってきたのは、9時20分過ぎだった、クレーム
を言っても仕方がない、ベンツのミニバンで迎にやってきた。既に4名が乗っていた。
メキシコ系米国人女性2名と国が何処か解らないが、親子の二人だ。
息子と母親のカップルだ。車に乗り込んだ時におはようと挨拶した時に、アメリカ人の二人も挨拶を送ってきたが、親子連れは、無言だった。息子と思われる男が話しているのは、英語だと思えたが、難しい英語である。どこの国の英語なのか理解出来ない。
着ているのは、T-シャツである、寒さしらずなのか気温に鈍感なのか、まぁどうでも良いが、ここの国の道路は、信号機もあるが交差点は、信号無くてロータリーになってるのも結構ある、何度かロータリー交差点を通過すると方向感覚が失せてしまう。
大きなホテルにたどり着いた、そこで降ろされて、日帰りツアーのバスがやってくるのを待つ事になるみたいだ。何処から来たのか和からないがベンツのミニバスに乗り込んだ、
私を入れて12名のツアー参加者とこれからマサダと死海に出かける。
エルサレムの町を後にしてヨルダン領域に入り出すと荒涼とした砂漠の景色に変わりだ
す。イスラエルは、北とも南では、気候が全く違う、一番前の席に座ったので前方がハッ
キリ見える。一人座りの座席に座る。車は、左ハンドルそして運転席の後ろには、2人座
席が後方に、後ろにどの様な人達が座っているのか解らない、よく見ていないからだ。
出発してから、1時間も走っていないのに、休憩となった。ラクダがいる、来た観光客を
乗せて短い距離をラクダ歩きのようだ。トイレ、土産物もあると思われる。
最初に私が降りた、後方の座席から歓声と共に降りてきた人達がいて、真っ先にラクダに
乗る。このツアーの人達の値踏みをする。どうみても中年のお釜らしき人物、背の高い英
国人青年、アジア人は、夫婦できている2名と私だけだ、このアジア人夫婦を中国人と判
断した、あまり話したく無い気分になった。申し込んだツアーは、英語ガイドだったが、
運転手一人で車の運転とガイドの一人二役だ、そして英語とスペイン語の二カ国語を使っ
ている。まぁ器用である。風貌からすると60歳前後の年齢に見える。
物静かであり、経験豊かなガイドと思った。不必要なくだらん冗談を言わない、まぁ文句
がない。ラクダの休憩が終わりタバコも吸った。
死海が左にあるはずだが、未だ見えない。南に向かってバスは進む、路線バスの停留所も
道すがら確認出来た。今走っている道は、海抜300メータに位置する。マイナス300メ
ーターである、海抜より低い位置に道路がある。死海もマイナス394メーターが水面であ
る。ガイドの説明がそうだった。私の知る死海の水面は、マイナス380メーターだったは
ずだ、既に14メータ下がった事になる。1年に約1メーター下がるとの記事を見た記憶
が蘇った。いったいどうする積もりだろう、死海へ流入する河川は、一本も存在しない。
死海の埋蔵水量をガイドは、言わなかった。
旧約聖書では、滅びの町ソドムとゴモラのストーリーがある。アブラハムが人口が増えた
ので二つに分かれ、生き延びる提案をして、アブラハムの一方がソドムに向かう、その町
は、悪意に満ちた人達の待ちで神の怒りが頂点に達し、その町を滅ぼすが、ユダヤ族には、
滅ぼす前に逃げる様にと伝える、逃げる時は、絶対に後方を見るなと条件を付ける。
一人の女性が逃げる時に、後方を見たが為に塩の柱になり、塩の海になったの伝説だ。
ゴモラの町後は、発掘されこの辺りと断定されているが、ソドムの町は、何処にあったの
か解っていない。これは、神話であり、伝説なのだ、実際異変が起きたと立証する人達も
存在する。流入する河川が全くなく雨も降水量が少なく砂漠地帯である、海と遮断された
領域に残った海水が毎年蒸発により水量が少なくなり、塩分濃度が上がり一匹の魚もいな
くなった、死海と呼ばれているのは、ここからで来ているのであろう。
塩分の高い水が、人の肌に良く健康に良いとの発想から死海の石けん、化粧品が工場死海
近くの工場で作られ、商品化している。その工場に2度目の休憩となる。
カフェ、死海の産物である、商品、工場内も見学出来る休憩所に入る、この休憩所で購入
したのは、ミネラルウォーター1本だった。結構暑くなってきた、ベンツの車の外気温は、22
度だった。未だ南へ進むから外気温が上がって来ると予想出来る。
道程は、地図で確認する限り90kmぐらいになるはずだ。道路の制限速度は、70kmにな
っていたが、この運転手は、制限速度以下で走っている、我が愛車は、マツダデミオだ、
その同じ車種が軽く追い越していく、対向2車線だから追い越しは、ちょいスリルのある
運転になるだろう。そう言えば、エルサレム旧市街で日本車も走っている、他の都市では、
見かける日本車は、圧倒的トヨタを多く見るが、ここでは、マツダが目立つ、マツダの名
称が、ユダヤ人に好まれている。イスラエルでは、マツダが頑張っている結果だ。
マサダの擁壁には、ケーブルカーで頂上付近まで行く事が出来る。砂漠のオアシスに似た
所からケーブルに乗る事になる。走って来た道から4kmか5km程の距離になるだろう、
停車した場所が死海からかなり離れた位置にある。AD60年頃には、死海の水は、マサダ
の擁壁にもっと近い所にあったと推測出来る。車を降りてケーブルカーの乗り込み位置で
ビデオを鑑賞した、画面は、このマサダの戦いの歴史説明が、その動画でピーター・オツ
ールの顔が何度か写った。マサダの戦いをテーマにした映画の一部だろう。
残念ながらピーター・オツールの映画を覚えているのは「アラビアのロレンス」だけだ。
マサダの映画を見た記憶が全くない。手に入るならば見てみたい。
長い年月が経過して取り残された海の水が流入する河川も無く雨量は少なく蒸発するだ
けの閉じ込められた海は、塩分濃度が上がって行く、魚一匹も存在しない死の海になった
との説明だと納得出来る。ケーブルカーは、3分程で頂上入り口に達した。ケーブルを降
りて踏み出す、結構広い場所だと思う、ここには、雨水を集めるシステム、食料生産可能、
風呂の設備、真北に上下三段の見晴らし、襲って来る敵を撃退出来る。ユダヤ民族が、ロ
ーマ軍に敵対した、戦ったのは、2年説と3年説が存在する。長期間に渡り、ヘロデ王15000
兵士と繰り返した。ヘロデ王は、率いた兵は、10000説もある。圧倒的な兵士数に力とし
ては、ローマ軍優勢は、間違いない。
967名のユダヤが戦い、ローマ軍は、土を重ね土台を作り擁壁を破る作戦になり、徐々
に進入出来る方法を作り上げて行く、ユダヤ人がもうマサダ砦を保持出来ないと判断する。
食料を多量に残し、集団自殺を図った。食糧不足でなく奴隷を拒否し自分達のアイデェン
ティティを優先したとの意思表示であった。生き残ったのは、子供と年寄り7名だけだっ
た。
ここからユダヤ人の離散が始まった。1948年まで領土を持てず、流
浪の民族で悲しい歴史を持っている。ホロコーストで900万のユダヤ人が、約600万人殺
害されたとの記録がある。大阪府の人口が約400万人である。4年ほどの戦争期間で600
万人殺害は、不可能な数字と思える。殺害をしたのは、事実だろうが、600万殺すとする
とドイツ軍は、戦争やっている暇が無いだろう。毒ガスで殺害したとの記録があり、600
万を殺害する為の毒ガスを製造能力が無かった。
☆平成30年1月29日(月)
マサダと死海を観光して大変疲れ、シャワーもせずに眠った。晩ご飯も食べていない。
ミネラル水を飲んだだけだ。眼が覚めたのが午前4時頃だった。パソコンに電源を入れるが少し触ったが、何もする気が無い、もう一度眠る事にした。
7時前に起きて、朝食に行き、ジュースを飲む名前を知らないが、旨いジュースだ。
オレンジジュースは、一度飲んだが旨くないので必ずこれを飲んでいる。
今日は、ホテルから出るのを止めようと思った。左足が悲鳴を上げている。
エルサレム城壁内に出かけるが、ダマスカスゲートに入った所でランチをしておテルに戻
った。1時間半程の外出で後は部屋内で過ごした。テレビは、電源オンだが、見ても解ら
ないので、鳴っているだけ、パソコンでネットラインに繋ぎ、日本のニュースを見る。
当然メールチェックも出来る。世界のもめ事の中心地エルサレムがあり、日本で知るエル
サレム問題は、アメリカのフィルターを通過したニュースが報道されている。
1947年11月29日、国連でユダヤ人地区、パレスチナ人地区、旧市街は国連管理と決め
られたが、アラブ連合がユダヤ人滅亡計画を始める。これに抵抗したユダヤ人は、反抗に
出て、領土を広げる。エルサレム旧市街の西側から、東側は、パレスチナと戦闘態勢に入
る。パレスチナ人地区の東側は、エジプト、ヨルダンが入りパレスチナ人難民が生まれる。
パレスチナ人は、アラブ諸国からは、蔑視されている民族である。アラブから捨てられた
のである。ユダヤ民族が力により圧倒さした結果難民化したとの説明は、間違っている。
中東戦闘の流れが複雑で歴史解説では、アラブ社会の混沌とした状況は、解説される事が
あまりない。日本の世界史の概略もヨルダン、エジプトが出てこないパレスチナ難民であ
る。中東戦争が解決しなかった基本的な問題は、アラブ諸国がユダヤ人撲滅を諦めなかっ
たのが、原因と言える。宇野正美の解説によれば、ユダヤ人が1948年にイスラエルを建
国したのは、本来のユダヤ人でなく、アシュケナージユダヤ人と呼ばれる人達でアブラハ
ムの末裔でない、別人種の民族であり、アラブ諸国が撲滅しようとした要因だと、
別民族のアシュナージ人は、経典として持っているのは、タルムートと呼ばれるモノで旧
約聖書ではない。ユダヤ人と呼ばれる人種は、2種類ある事になる。
☆平成30年1月30日(火)
午前9時過ぎにホテルを出て王達の墓に徒歩で出かける、地図で確認をして置いた、
約400メータでたどり着くはずだ。400メータの距離だから大した事はないはずだ。
地図を先読みしてたので、記憶を頼りに歩き始める、左足首が悲鳴を上げている、痛みを
感じながら目的地に進む、タクシーが歩く私の左横に停車した、ホテルに行くなら乗れよ
と誘われる、400メーターほどの距離タクシーを必要としていない。歩く私の姿哀れに見
えたのか、その当たりは解らない、王の墓に行くのだと答えた、運転手は名刺を渡し電話
をしてくれとの伝言を残して立ち去った。看板を発見する、王の墓の看板だ、簡単に見つ
ける事が出来た、入り口が何処か解らない、看板から見る限り場所は間違っていない。
鉄の門がありそれを押してみるが、施錠されていると判断出来る。その鉄の門には、何も
書かれていない。この建物の廻りを歩いて見るとパレスチナ人の学校の看板がある建物を
発見する。東エルサレムは、ユダヤ人のみの地域でないと認識出来る。
ある建物があり、その出入り口の前で立ちすくむ、カメラがあるのだろうか、人が出てき
た、私を見ているのは明らかだ、入って良いか解らない、彼の立っているのは、階段があ
りその建物出入り口が2階ぐらいの高さ、そこまで20メーターぐらい離れている。
入って良いかと了承を求めるが反応が全くない、入ると意思表示をジェスチャーで示し
近寄ると彼も階段で下りてきたが中断で止まった、王の墓を探していると尋ねるとそこだ
と教えてくれた、今行ったが、ゲートが閉まっている入り方が解らないと話してみた、
彼もそれを知らないとの答えだった。ここは、ニューオリエントハウスだと、1923年か
らここにあると説明を受ける。何をしている建物か結局解らずだった。
そこを後にして今来た道を戻る、王の墓の見学を諦める事にした。来た道を戻る、足首が
痛くなってきている、バス停で椅子があり、一人しか座っていないので、その空いている
長椅子に座り込む、バスがやって来たが、私の横に座っている老年の女性は、乗る気配が
全くない、次のバスも彼女は乗らない、道路反対側のバス停は、乗降客結構あるが、私側
には、誰も降りないし、乗らない停留所であった。何台バスがやって来て立ち去ったのか
はっきり覚えていないが、足首の回復を願って、立ち上がる。今日も1時間以上歩く事が
出来るだろうか、一人で実行しなくてはならない。岩のドームを接近してどうしても見た
い気持ちを優先させて、シオンゲートから入城する。
方向感覚は、既に持っているので最短距離を進む事が出来る様になった。モスラムドーム
の入り口に来たが、今回も拒否された。イスラム教は、中間職を持たない、アラーの神と
個々の人間との関係があるだけで、キリスト教の牧師的な役割をする立場は存在しない。
本人と神との関係が存在するだけだ。
ユダヤ教の神、キリスト教の神、モスリムの神、同じ神を崇拝している。
年代的には、ユダヤ、キリスト、モスリムの順番になる。同じ神を崇めて互いに殺し合う
不思議な現象だと思う。長い歴史から来る物語りから簡単に説明が付かない。
キリスト教からユダヤへの攻撃は、キリスト教の立場から行い、陰謀説も横行する。
ユダヤ人が世界制覇を目論む民族だと主張する、ユダヤ教からは、キリスト教非難は、表向いて行う事は、少ない。彼らは、悲惨な歴史を話す、どの国に行き、その国に貢献して
も最後は、捨てられる民だと、ユダヤ人抹殺は、第二次世界大戦のホロコーストだけでな
い。世界で生存するユダヤ人は、1600万人ぐらいと、このイスラエルだけでなく、世界
に離散して生き残っている。散っているユダヤ人には、イスラエルが、愛すべき故郷なの
である。いつ頃か正確に記憶していないが、とてつもないモノに興味を持ってしまった。
根が深すぎ、歴史的にも長すぎる。
☆平成30年1月31日(水)
朝食を終えて、部屋に戻り、スマフォを無料Wi-Fiに繋ぎ、NHKラジオのタイムフリ
ーに接続する。旨く接続出来ず、ユーチューブなら問題無く繋がり、プライムニュースを
聞きながら、ベットに仰向けになり、そして眠ってしまった。
このホテルに無いのか?衛星放送が見られない、勿論日本の衛星放送のチャンネルの事だ、
ネパール、インド、中米、アメリカでも泊まったホテルで日本の放送を見る事が出来たが、
ここでは放送していない。多分イスラエルでも日本の放送を見られると思うが、このホテルが設置していないのが、その理由だろう。眼が覚めたのは、10時半だった。
Wi-Fiは、切れていた、だから良く寝られたのだろう。足の痛みが少し和らいだと感じた
ので、ホテルを出る事にした、歩く道程でコンデジで盗み撮りをする、旨く写っているか
どうかは、運次第で撮影する、シオンゲートに近寄り、門近くで適当な場所に座り込み、
行き交う人を撮影する、シオンゲートの監視している警官を盗み撮りをした、見つかれば、
やばいかも知れない。彼らの持っている武器も写るはずだ。シオンゲートの出入り口近くに駐車場がある、そこに止めてある車は、混雑状態でどうしたらそんなに緊密に駐車するのか解らない、奥の方は、出る事不可能になっている。駐車係が一人いた、その彼が鍵を預かり整理している模様だ、その様子を見ていると、運転がかなり旨いと思える。
大阪の乱駐車も勝てないだろう。トヨタ、三菱、マツダの車があった。結構ボロいが、
日本車である、車体の清掃は、あまりしていないだろう。
今まで見てきた車は、ベンツ、ワーゲン、アウディ、シトロエン、ボルボ、サーブ、
アメ車は見ていない、多くは小型が目に付く、バスでは、ボルボ、ベンツ、イスズも見た、
トヨタ車が、世界で売れ行き3位になったニュースを読んだ、1位は、ワーゲンで2位は、ルノーと日産であり、3位がトヨタだった。日産は、ルノーと合体した企業となっている。
日産はもう日本車ではない。日本で修理の時は、部品は、ミリねじでなくインチねじにな
っていると知り合いの整備士が言っていた。昔は、トヨタより日産の方を好んだが、今や
オイラの車は、マツダである。女房の乗る車は、ミニクーパーだ。
1時間程エルサレム東側を歩き回り、コーヒー屋に入り5シェケルのコーヒーを飲んだ。
日本円で150円ぐらいだ、ホテルのコーヒーは、18シェケルだった。日本円で540円ぐ
らいになる、日本のファミマの100円コーヒーを懐かしみながら、
パレスチナ人のコーヒー店を後にしてホテルに戻る。喫煙可能なホテルのカフェで540円
のコーヒーを飲みながらこれを書いている。町で購入したKENTのタバコは、一箱は、37
シェケルだった。日本円で1100円になる、やっぱ高いぞ!
☆平成30年2月1日(木)
左足首の痛みを覚えながら、9時過ぎに城壁内に向いて出かける、今日もシオンゲート
から入る、岩のドームに入ってみたいとの気持ちを込めて、ゲートは、何処にあるか知っ
ている。無駄な道を行かず、まっすぐにそのゲートへ目指して、昨日より体が軽く感じる。
歩調も少しゆっくりとしながら、何度も行ったカフェの小母さんにも明日ここを去るからと挨拶もする積もりである。タバコの買い方、金額等教わった人だ、彼女の旦那とも握手をした。彼女作った焼き飯にヨーグルトをソースの代わりにかけて食べる方法を教わった。たどり着いたゲートにポリスがいない、前回居たはずの場所に誰もいない。その前方には、人影が見える、ゲートが動いていた、入れるチャンスがあるかも知れないと期待を込めて進む、どうもポリス達の空気が何処か緊張感を持っていない、数は、7名程だ。
前回見た時は、4名だった。勿論完全武装は同じだった。
2名の白人が、私より先に聞き出したので、それに乗っかり入れ無いのかと聞くと、モスリムのみだと、何時なら入れのかとたたみ掛けた突っ込む、一人がスマフォを出し、チェックする。イスラム宗教儀式の予定を見ている様だ、今日の午後0時半なら解放されると答えを得る事が出来た、腕時計は午前10時40分を示している。午後12時半に戻ると決めて、そのゲートを後ろにしながら、今来た道を戻る、前回有ったイスラムのゲート、今は無いその場所から階段を降りるとユダヤ人の嘆きの壁の入り口である。
充分時間があるので再度嘆きの壁を見に行く事にした。入り方も経験済みなので戸惑う事はない。持ち物検査を受けて入ると前回よりも人の数が圧倒的に多い、拍手音も聞こえる、催しをしている、宗教儀式だと認識するが、それが何だか解らない。男性側と女性側と区分けされている、女性側から叫び声をあげながら、キャラメル、チョコを投げ入れている。男性側は、神輿の様なモノを何名かで担ぎ握手音と共に移動している。
日本の神輿と類似する儀式があると聞いていたがどうもそれらしい。嘆きの壁前には、おびただしい程の読み台が設置されていた。ユダヤ教の戒律文を置いて朗読する為だと知った。嘆きの壁は、西の壁と英語表記だ、何故ここが嘆きの壁と呼ばれる所以は、
朝露に濡れた壁が泣いている様に見えるからだと、ソロモン神殿の唯一地上部で残ったのが、西門である。この壁には、地下に潜ると大きな石が多くある。
岩の平均は、8トンで大きなモノは、150トンを超える、大阪城の一番大きな石でもここまで大きくない、どうしてこれ程の石を建設時に持ち込んだのか、その方法が今も解っていない。ソロモンの洞窟は既に見学していた、こちら側、西のゲートからは、見ていない。
そして今も掘削しながら探索してるのが、解る。遺跡の調査が行われいるのである。
エルサレムの城壁外周は、約1km四方で決して広くない。平面的に捉えると0.9k平米と資料を読んでいた。この狭い領域に、ユダヤ教、キリスト教二つ、イスラム教と四つに分かれている。ユダヤが、AD60年に離散されエルサレムは、廃墟となったが、約1500年後に再建した、ユダヤ人が再建した。ディアポラス(離散)したユダヤ人が色んな地域に行き、行った場所で同化する事無く、自分達のアイデェンティティを持ち続けたのを特筆すべき事だ。ユダヤ人の優秀な才能が同化させない空気もあったと思う。
何処の国でも嫌われたからユダヤ社会を維持出来たとも言える。
☆平成30年2月2日(金)
移動日になります。
荷物をほぼパッキングを済まし、エルサレム午後1時半に去ります。
現時間は、午前8時過ぎ、ホテル内でこれを書いています。
次の訪問地は、ヘルシンキです。エルサレムに行くのにフィンランド航空の
ハブになる空港です。乗り換え地なのでちょい立ち寄りそして歩くかと軽い気持ちでの滞
在です。ある程度チェックをしたが、何をするか決めていない。
時間があまりないので、ヘルシンキ市内観光がもっとも有力な可能性がある。
エルサレムに到着前に乗り換えた空港である。乗り換えする時に随分長い距離を歩かされ
た、トランシットでどれだけ歩かせるのか、利便性の悪い移動させている。
今回は、到着するので少々違うだろう。先ずは、エルサレムの税関を抜けるのが一番の難
問と考えている。
ホテルのサービスでチェックアウト午後1時半にして貰った。飛行機の予約書を見せた
のでチェックアウト時間を延長して貰った。充分に時間があるので緩やかに次の移動地を
目がけ準備している。
世話になったレセプションに部屋キィなるカードを返却する。ホテルからベン・ガーリ
オン空港までタクシー手配をお願いする。スーツケース、パソコンバック、ショルダーバ
ックの三つが手荷物だ。エントランスでタバコを吸いタクシーを待つ、このホテルそして
東エルサレムともお別れになる。
税関通過編!
テルアビブ2月3日の午前1時20分離陸の飛行機に乗りました。
世界1位の厳重に取り調べる空港で有名な国際空港、入国した時は、警戒して
いた程でなく以外と簡単と感じた。他の国と異なるのは、パスポートにイスラエルへ入国
した記録を残さず、ビサを渡されそれで入国出来るシステムになっていた。
もしパスポートにイスラエル入国したと解ると、イスラエルと好ましく無い関係国に
入国出来ないのを懸念しての処置だと推測する。例えば、シリアには絶対入れ無い。
質問事項は、前調査と同じだったので戸惑う事は無かった。
今度は、出国の予備知識は持っていなかった。情報を探したが、手に入らないのが、
本当の事である。ホテル前にやってきたタクシーに、乗り込む、金曜日は、モスリムの安
息日で、店のシャッターは、閉まっている。人通りも少ない。整備された高速道路を空港
に向けてタクシーは走る。ベンツの新車である。未だ新車の臭いがする。
運転手に新車だと言えば、三ヶ月だと言っていた。彼もどうもユダヤ人でなくてモスリ
ムだと思う、パレスチナ人の可能性大である。ホテルのレセプションによれば、1時間弱
で到着するとの事だった。制限速度がいくらか知らないが、メーターは、90km前後で運
転している。おおよそ東エルサレムから空港までは、60 kmのはずだ。
空港の矢印に従い、テルアビブ行きの道から離れた、空港に入るには、ゲートを抜ける必
要がある、このゲートで運転手は、免許証と思われるのモノを提示したので、これで終わ
りかと思ったが、車は、ゲートを抜け右に寄せて停車する。運転手がパスポートチェック
があると、私のチェックがあるのだと解った。
バックかパスポートを出し、入国した時のビザも用意した。
最初に運転手と話したのは、男だった。チェックするのは、女になった。車の窓を運転手
が開けると、小さめでちょいメタポ、腰には拳銃、電気式棍棒も所持していた。
威圧的な出で立ちだが、柔らかく質問してきた。パスポートを見せろと、Eーチケットも見せろと、その二つを渡すと、
1:何しに来た? 答えは、観光。
2:何処に行ったのか? 答えは、マサダ、死海、エルサレム、新旧市街
3:土産物は、誰かに渡したかと? 答えは、何も持って来てない。
4:知り合いは居るのか? 答えは、いない。
土産を、持ってアラブ人の知り合いに渡したとなると問題となるはずだ。
ここへは、初めて来たと伝える、本当の事だから。
日本の赤軍派がこの空港でテロを起こし、26名が死亡、73名が重軽傷を負う、
犯人の一人は、射殺され、もう一人は、手榴弾で自決、残った岡本公三は、負傷
したが、生き残った。地元では、日本赤軍の活動にアラブ人から英雄として今も
語られている。日本政府は、イスラエルに謝罪して賠償金を支払った経緯がある。
岡本公三は、死刑宣告を受けるが、捕虜交換で助かり、ベイルートに移住した。
イスラエルから見ると日本人に良い印象を持っていないと思われる。
彼女チェックに対して真剣に接するべきと解して対応した。質問が終わり、
車の窓腰からメタポの彼女が消えた、パスポートとEチケットを持ったまま、
運転手に私のパスポートとEチケットが戻ってないと訴えるが、彼も解らない
と、何しに目の前から消えたのか不明だが、パスポートとEチケットが彼女
から渡される。彼女に、入国ビザはと問い正す、パスポートとの中にあると、
パスポートに挟まっていた。出国でこれが必要かどうか不明だが、イスラエル
入国を立証出来る証拠が無いので、入国証明ビザを確認した。
予期せぬ質問に遭遇した。終わったらメタポ女よ、一言ぐらい有ってもいいはずだ。
協力有り難う御座いましたとか何か言えるだろうに、出国ゲートに走り出すタクシー
ゲートから出国入り口まで数キロあった。運賃は、350シェケルと言われた、
ドルで払う事にして110ドル渡した、チップを10ドル上乗せした結果だ。
下調べでは、80ドルぐらいのはずだが、やや高めと思っているが、嫌な顔をせず
払った。この運転手が別れ際に良い旅をと、さっきのメタポ女は、何も言わな
かった。空港に入る、出国のフライト便の情報が電子掲示板に上がっていた。
我が、フライト便が見当たらない。現在時刻午後3時前、乗る便は、午前1時20分
になる。長い時間この空港内で過ごすしか方法が無い。
フライト便を見つけ、カウンターが何番かも解った。離陸する人の為のラウンジで
遅めのランチとなる。イスラエル貨幣のシェケルを120程持っている。これを使って支払
った。サンドウィッチとリンゴジュースで70シェケルになる、日本円で2100円である。
やはり高すぎる物価である。18%の税金込みだが、ランチを終えて、パソコンの電源無料サービスの場所でパソコンを出し、無料Wi-Fiに接続、ネットサーフをする。
スマフォにも充電をする。今日は、日差しもあり良い天気である、ガラス張りの
日当たりの良い場所でパソコンをネットに繋ぎメールチェックをする。
荷物預かりは、離陸3時間前なので時間は、たっぷりある。
午後10時過ぎに動き出す、ここでは、税関チェックを受けてから荷物預かりに
なる。荷物を預け、ボーダーチケットを得てから税関チェックが多かったが、ここは逆に
なっている。税関が先に来ると予想をしてなかったので、パスポートとEチケットを見
せると、行きなり質問をしてきた。大柄で背も高い、薄手のシャツを着用してるだけだ、
完全武装でなく首から吊ってある身分証明だけの税関員とは、不意を突かれた。
質問は、空港に入った時にされたのと同じ質問内容なので、問題無しに通過出来た。
これで2回目のチェックを通過、次は、スーツケースを預けるカウンターに、スーツケースの重量は、18kg弱だった。日本から出てきたより約7kg重くなった。
通路側の席を希望する、願い通りになった、重いスーツケースを転がしながら移動する必要がなくなった。次は、身体チェックである、上着を脱ぎ、コートも脱ぎ、
ポケットのモノ、スマフォ、全て金属探知に触れるモノを移動籠に放り込む、
無事通過、金属感知音が鳴らずだった。これで3回目のチェックをパスした。
これで終わりと思ったが甘かった、次に待っていたのは、顔認証チェックである。
パスポートをかざし、カメラのレンズに顔を向けて税関通過最終点になる。
顔とパスポートが記録された人には、通過可能となるバーコード入りのカードが
渡される、それを持って最終ポイントでカードを電子認証を受け、初めて搭乗エリアに入
る事が出来た。これで4回目のチェックとなる。
しつこく、クドい程の検査により、出国可能となった。
B8ゲートが搭乗口だ、結構な距離を歩きゲート前で夕食となる、喫煙所も2カ所あり、
タバコを吸う、ダンヒルのタバコを1カートン購入した、持っていたイスラエルのお金を
出し、不足分をドルで支払い、イスラエル貨幣を全て処分した形になった。
これで完璧にお別れとなる11日間のエルサレムと、
エルサレムの旅完!