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前篇

 ……ほんとうに、本音を申しますと、私は語りたくないのです。

 

 もう、済んでしまったことだし、そこには悲しみしかないから。

 だけど今日、ようやく決心がつきました。

 あなたにお話ししようと思います。

 しかし先ほども言ったけど、これは、私にとって不本意な告白なのです。

 それを意を決して、あなたに打ち明けるのです。

 だからあなたもそのつもりで聞いてください。

 この話を聞かせるかわりに、私の願いをひとつ聞いていただきたいのです。



 ――事の起こりは、私がまだ六つか七つか。物心はついていたなりに、日々の記憶は失ってしまった年のころです。


 母に連れられて、私はとある御宅に住むことになりました。


 そこはたいそうお金持ちで、母は住込みの使用人として雇われたのです。素人の、それも子連れの寡婦が雇われたのはその子供、すなわち私の存在がゆえんでした。


 御屋形様は、奥様を早くに亡くされて、私と同年の女の子だけがおりました。彼女のおともだちになってくれるならと、つまりはそういうことだったようです。


 母は快諾し、私は何も聞かされぬまま、ただ苔むす立派な洋館にこれから住むのよと言われて恐怖を覚えておりました。


 そのため、扉から同じ年頃のうつくしい少女が出てきたときには、安堵をしたものです。


 

 きれいな少女でした。

 ふっくらと豊かな頬に、椿の油で梳かされた長い髪と大きな瞳は私の知るどの漆器よりも深くつややかで、飴色の櫛に石楠花(しゃくなげ)の細工がよく映えておりました。彼女のために仕立てられたのだろう、やはり石楠花の描かれた着物が、ため息が出るほど彼女に似合っていたのを思い出します。


 彼女は花の好きな子でした。自分のことを石楠花ちゃんと呼ぶように私に命じると、同時に、私のことを紫陽花(あじさい)ちゃんと呼んできました。


 聞けばそのようにして、私以外の子供や、実の親にまでも、花の名前を渾名して呼んでいるのだそうです。


 もちろん私には、先に久島照ル絵という名前がありましたが、石楠花ちゃんに逆らうことは許されておりません。

 紫陽花ちゃん、という名はすぐ屋敷中に浸透し、実の母までもが、私をそう呼ぶようになりました。


 ……ええ、正直に言いますと、この時少し、気を悪くはいたしました。

 ですが母に付けられた曼珠沙華(まんじゅしゃげ)おばさん、よりかはずっとよいと思いました。

 


 それに、石楠花ちゃんは、決して悪い子ではなかったので……。

 ……だけど、ああ、こういうと、悪口になってしまうでしょうか。


 石楠花ちゃんは真実、お嬢様、だったのだと思います。



 悪い子ではないのです。使用人の子である私にも、決して意地悪はしません。私の縮れた髪を笑うこともなかったし、上を向いた鼻を可愛いと言ってくれました。

 お館様も、よい方でした。母の待遇もよいものだったようです。石楠花ちゃんと差別のないおやつをくれて、夏祭りには紫陽花模様の浴衣を仕立ててくださったりもして。


 だけど、やはり、石楠花ちゃんはお嬢様で、お館様は、その実父なのでした。

 石楠花ちゃんは、わたしの浴衣を欲しがって、かんしゃくを起こしたのです。


「紫陽花ちゃんの浴衣、素敵だわ。わたしもこれがいい。それ、ちょうだい!」


 そのとき彼女は、石楠花柄の、私よりも二回り高価な浴衣を着ておりました。髪には珊瑚をあしらったかんざし、帯留めについたトンボダマも、それだけで私の浴衣が買えるほどよい物だったことでしょう。

 それでも彼女は私の浴衣を欲しがって、とうとう自分の浴衣を脱いでしまいました。

 絨毯の上にそれを投げ置き、しらうおの手を私に差し出し、キッと結んだ唇から、呪詛のように言い捨てたのです。


「わたしのこれ、あげるから、それ、ちょうだい!」


 今にして思えば可愛いもの。私も愚かでございました。だけど幼くてございました。


 これは私がお館様に頂いた、私の浴衣で、交換なんてしたくない、いやよいやよと散々泣いたのです。

 だけど許されはしませんでした。


 お館様は、はじめは娘を窘めこそすれ、やはり押し切られ、可愛い娘のために交換してやってくれんかと言ってこられました。母は慌てて、私の身体から浴衣を引きはがしました。


 紫陽花の名を与えられ、紫陽花の衣を剥がされ、裸にされた私は、それこそ己の尊厳を凌辱されたような悲鳴を上げて、石楠花の浴衣を無理やり着せられたものの、部屋の隅でわあわあと泣いていたのを覚えております。



 それは、石楠花ちゃんの悪い癖でした。

 他人のものが羨ましくなる、というのでしょうか。自身はなんでも持っているくせに、他人のものを欲しがるのです。


 一緒に暮らしていた私は、毎日のようにそれを味わいました。私だけじゃありません、石楠花ちゃんはほかの使用人や、実の親に対してもその癖を頻繁に現して、しまいには全くのお揃いのスプーンでも、わたしはそっちがよかったから交換してといいました。


 初めはそれこそ何度も泣いて抵抗をしましたが、いずれ、すっかり慣れてしまいました。

 どうせ住込みで、私のものも、元をたどればこの館のもの。もとより借りているだけであり、すべて石楠花ちゃんのもので、私は彼女の物持ちか箪笥に過ぎないのだと考えれば、心は楽になりました。


 なにせ、彼女は、悪い子ではないのです。

 この癖以外になんら悪戯をすることもなく、優しく明るく賢い子でした。


 それに、「これ上げるから、それちょうだい」と言ってくるとき、交換に出されるものは必ず私のものよりよいもので、己の尊厳などと依怙地な考えを捨ててしまえば、それは私にとって得になることばかりだったのです。


 だけども彼女のそれが許されたのは、館の中に限ったことでした。

 彼女が通っていたのはいわゆる令嬢ばかりが集まる私塾の女学院で、彼女の権力は、全校生徒に及ぶものでは到底ありませんでした。


 同級生を相手に、「これあげるから、それちょうだい」とやらかしたとて、誰も相手にしません。

 あの子は性格が悪い――と、女子たちの間で広まって、石楠花ちゃんは孤立しておりました。



 私もその学院に通わされていました。お館様のご厚意であり、同時に、ともだちの出来ない石楠花ちゃんの世話役でもありました。


 身分不相応な転入生に、ご令嬢である同級生たちは、案外とやさしいものでした。物珍しさもあったのでしょう、下町の遊びや暮らしぶりに興味をもたれたようで、なにかと親切に可愛がってもらえました。

 

「紫陽花ちゃんのお話はなんておもしろいのかしら」

「縮れた髪はこうしてまとめて、このようなものを付けておけば、かわいらしいわよ。ほら、ふんわりと毬玉のよう」

「あら本当。素敵だわ。紫陽花ちゃんは首がきれいだから、とても映えるわ。うらやましいこと」

「そうだ、あたし、おばさまから頂いた寛外衣(マント)が合わなくて持て余していたの。背の高い紫陽花さんならきっと似合うでしょう。素敵な仕立てなのよ、よかったら差し上げるわ、今度うちにいらして」


「……あ、あの、ごめんなさい。私は、石楠花ちゃんのお家で、学校が終わったらすぐに館に戻らなくてはならないのです」


 そんな談笑をしておりますと、ふと視線を感じました。振り向けば必ずそこに石楠花ちゃんがおります。


 石楠花ちゃんは、小さな体を仁王立ちにして、胸を膨らませ、私と同級生を強い目でにらみつけるのです。そして必ずこう言って、私をさらっていきました。


「これはわたしのものよ」


 と。



 それでも、同級生たちは私を愛してくれました。

 石楠花ちゃんになにかと物を奪われる私の生活を案じて、断ればいいのにと優しく諭してくれました。

 だけども私は首をふりました。


「母と子、身一つで館に入りました。私の部屋にあるものは、お館様が買ってくださったものと石楠花ちゃんからもらったもの。母が買ってくれたものとて、そのお給料は館から出ております。もとより、すべて、石楠花ちゃんのものなのです。だから取られても交換をされても仕方がないことです」


 同級生は言葉を詰まらせました。


 そして翌日、鞄の中からそっと、可愛らしいお人形を私に渡してくれました。

 少し照れくさそうにして、


「これはね、日本で一番太陽がうつくしいと言われるところへ旅行に行ったときに買ったのよ。ほら、髪の毛糸が太陽のように明るい色でしょう。照ル絵ちゃんにピッタリ……大切に持っていてね」


 私はあまりに嬉しすぎて、泣いてしまい、御礼を言うこともできませんでした。


 このお人形が気に入らなくて泣いていると誤解をされたのではないかと、今になって心配しています。


 異人さんを模しているのでしょう、すらりとした白い手足に鮮やかなワンピースを着けた金髪のお人形は、私にはとても似てはいなかったけど、私が持つのに似合うと言われたのがとても嬉しかったのです。


 館に帰りますと、石楠花ちゃんはさっそく私の部屋に入ってきました。扉を開けるなり、大きな声で言いました。


「ねえ、今日、向日葵(ひまわり)さんから何かを受け取ったでしょう。なんだったの」


 向日葵、というのが何をあらわすのか、しばし私は理解が遅れました。やがて思い至り、アアと諒解して、


「彼女は横田居津子ちゃんというのですよ。お土産物をもらいました」


 そう答えたものの、私は出来るだけ石楠花ちゃんにお人形を見せないほうがいいと思いました。背中に鞄を庇いましたが、そんな抵抗がお嬢様にきくわけがありません。

 石楠花ちゃんは私を突き飛ばすように押しのけると、鞄を掴み、中を見ることすらなく言い放ちました。


「それ、ちょうだい! わたしのお人形を上げるから。すぐに持ってくるわ。びいどろの瞳の陶器のお人形よ。とっても可愛らしいのよ。紫陽花ちゃんもそっちのほうが好きになるわ」


 私はぎょっとして、反射的に、石楠花ちゃんの腕をつかみました。


「だ、だめです。それは私が横田さんにもらったものです」


 およそ数年ぶりの抵抗でした。


 石楠花ちゃんは、大きな瞳をさらに大きく見開いて、私のことをにらみあげました。


「向日葵がなんだっていうのよ」

「横田さんが、照ル絵ちゃんに似合うからとわざわざ持ってきてくれたのです。私はそれを大事にしなくてはいけません」

「紫陽花ちゃんのものは、わたしのものでしょう!」

「――いいえ、それは、私がともだちからもらった私だけのものです。交換は出来ません。どうしてもそれが欲しいなら、横田さんに、言ってください。あなたご自身で――吉岡千折さま!」

 

 石楠花ちゃんの表情が変わりました。

 うつくしい面差しにさっと影が差し、青ざめて、私のことを油虫のように睨みつけると、その手をぶるぶると振るわせていました。

 そして彼女は踵を返し、黙ったまま私の部屋を飛び出していきました。



 そのとき…… そう、その時に……私が彼女を引き留めていれば。

 いいえ、あのお人形を差し出していれば。

 あんなことにはならなかったでしょう。そう思うと、私は今でも胸が痛みます。



 石楠花ちゃんは可哀想なことになりました。


 いつもは誰かしら従者を連れて車に乗り込むのに、この日、彼女は一人、館からも走って飛び出していったようなのです。


 館の周辺は閑静ではありましたが、無人の山奥などではありません。

 門扉を出てすぐの大通りで、やってきたバスに石楠花ちゃんはその体を叩かれ、宙をもがき、そして地面に倒れこみました。


 血まみれの道路に横たわる石楠花ちゃん。


 私はそれを見ておりませんでした。部屋の中で、石楠花ちゃんが諦めてくれた人形を抱きしめて、ほっとしていたのです。これからはワガママも少しは自重されるかもしれないとすら思っていました。


 部屋でひとり、お人形に向かって、私の部屋にようこそいらっしゃいのキスをして、幸せな気持ちでいっぱいでした。


 あなたは私をお叱りになりますか?

 彼女のように、私をお恨みになるのでしょうか?


 ああ、何もおっしゃらないで。

 これは私には辛い告白なのです。どうかお責めにならないで。

 話すだけで、この手足がもげてしまいそうに辛いのです。


 だけど、電話もお切りにならないで。もうすこし私の話を聞いてくださいな。


 私が本当に嘆いているのは、ここから先の話なのですから。


 

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