国王の不安と、ある神の目覚め……
今回は、三人称視点で進みます。
前半は、獅貴族の王都を見守るウォルヴァンシアの王の話。
後半は、ウォルヴァンシア王宮医師ルイヴェルと『獅貴花』の女神の話です。
獅貴族の王国でさらなる異変が起きていたその頃……。
エリュセードの南東にある狼王族の王国ウォルヴァンシアでは、王宮内にある玉座の間にて、緊迫した状況が続いていた。
彼らの眼下に広がっているのは、現在の獅貴族王都上空からの映像……。
広大な王都の地面を、正体不明の巨大な魔術の陣が檻の役割を果たすかのように浮かび上がっている。すでに王都の一部が禍々しい黒銀と紫の交ざり合うそれに呑み込まれ、虚無と化した。
「これは……、何の為に現れたのだろうね。ろくでもない事なのはわかりきっているけれど」
平静を装いたくとも、その場にいる者達に向けたその低い声音は、微かに震えている。
ウォルヴァンシア現国王、レイフィード・ウォルヴァンシア。
幸希と同じ蒼の髪と、水面下で不安に抗っている濃いブラウンの瞳を抱く彼女の叔父は、険し気な視線を自分から向かって右斜め前にいる銀髪の男性に向けた。
「申し上げます。ゼクレシアウォードの地を穢すこの陣は、遥か昔の獅貴族の術式が組み込まれております。恐らく……、その時代に仕掛けを施したものの、今日に至るまで、使用されなかったものではないかと」
白衣姿のその男性は、獅貴族の地で幸希を助けようとしているルイヴェルとよく似た面差しで深緑の双眸を細めた。レゼノス・フェリデロード、ルイヴェルの父であり、現フェリデロード家当主。
彼は興味深そうに、視線の下で徐々に王都を浸食していく陣を見つめ続けている。
虚無……、それは、建物を破壊する、というものではなく、そこに在るものを大口を開けた恐ろしい闇の中へと呑み込み、――その場所を虚無へと変えてしまう。
最初から建築物も、地面も、生えていた草も木も、存在を否定される。
その代わりに、エリュセードの生命にとって脅威となる『瘴気』が世界を喰らい始めた。
だが、……遅い。ゆっくりと、ゆっくりと、その術式は王都の息吹を呑み込んでいく。
「これを創り上げた術者が発動させたのは間違いありません。ですが……、陣は主の存在を失い、非常に不安定となっています。現在、ウォルヴァンシア、ガデルフォーン、ゼクレシアウォード、三国の魔術師団に干渉を開始させていますが、……これを創り上げた術者は、禁忌を犯しているとしか思えません」
「報告にあった、『彼』で間違いなさそうだね……。レゼノス、向こうから何か追加の報告は来ていないかな?」
フェリデロード家当主レゼノスは、獅貴族の王国にいる自分の息子へと連絡を取り始める。
最後の報告は、今目にしている魔術の陣が現れた時。つまり、今から一時間も前の話だ。
それ以降、ルイヴェルは何も言ってこない。
何かあったのだろうか……、レイフィードとレゼノス、そして、玉座の間に集まっている者達が、不安に顔を歪めていく。
「……あの愚か者が。何故通信を遮断している?」
「お父様……、ルイヴェルに何か」
「いや、問題ない。強制的に繋いで引き摺り出す。案じるな、セレスフィーナ」
レゼノスの隣で父親の白衣の袖を掴んで尋ねたのは、憂い顔であっても凛とした美しさを失わない彼女、ルイヴェルの双子の姉、セレスフィーナ・フェリデロード。彼女は不安故か、微かに震えている。
ウォルヴァンシアにいるレゼノスと情報を共有し、どんなに些細な事であっても報告しろと言われている双子の弟が、自分から連絡を取れないようにしているとは……、何故だ?
レイフィードも、奇妙な不安を胸に抱えながら、嫌な予感を覚えていた。
ルイヴェルが最後の連絡を寄越す少し前、何かに胸を貫かれるかのような恐ろしい感覚が彼を襲い、今もまだ、鈍い痛みのようになってそれが続いている。
その時、レイフィードの脳裏に浮かんだのは、今は記憶を失くし、獅貴族の国で過ごしている幸希の悲しそうな顔だったのだ。
血の繋がっている大切な姪御、今は魔力も気配も封じられているはずの、その存在が、気配に探りを入れたわけでもないのに……。あの子の存在がまるで一体になったのかのように感じられた。
(ユキちゃん……、どうか、無事でいておくれ)
出来る事ならば、今すぐに獅貴族の地へと駆け付けたい。
けれど、ウォルヴァンシアの国王たるレイフィードは、生身で危険な場所に行く事は出来ない。
どんなに願っても、幸希達の無事をこの目で確かめたくとも、今の彼にそれは許されないのだ。
幸希の父である、レイフィードの兄、ユーディスは妻である夏葉の許にいる。
子を宿している夏葉を不安にさせない為に席を外して貰っているが、兄もまた、先程の嫌な胸騒ぎを感じているのだろうか。
「――この大馬鹿者が!!」
「きゃっ」
これから先の不穏をどう退けるべきか、幸希の事も合わせてレイフィードが思考に沈んでいると、滅多に声を荒げないレゼノスが玉座の間に響き渡る程の怒声を響かせた。
その身体は抑えきれない怒りに震え、連絡がとれたらしき息子、ルイヴェルへの苛立ちを遠慮する事もなく怒鳴り続けている。
「お前は何をしていた!! ユキ姫様の御身に何かあれば、その命を以てしても贖えるものではないぞ!!」
「レゼノス、ユキちゃんに何が……っ」
胸の奥でざわめいていた正体不明の不安が、抑えきれずに溢れ出す。
何か起きている。あの子の身に、愛しい姪御の命に関わる何かが。
レイフィードの狼狽えるその頼りない姿が、膝を屈しそうになったのを察し、セレスフィーナが慌てて支えにやってくる。
「陛下! お顔の色がっ」
「僕の事はいい……。それよりも、レゼノス、ユキちゃんに何が? ルイヴェルは今一体……」
「ルイヴェル、お前が陛下にご報告申し上げろ」
音声だけであった通信を、玉座の間の誰もが見聞き出来るように、レゼノスは映像のすぐ上、宙に息子の姿を映し出す。……レイフィードと同じように、悲壮な気配の漂う、ルイヴェルの顔。
地上でも上空でもなく、どこか……、あぁ、そうだ。これは『獅貴花』の眠る場所。
以前に、昔の学友である獅貴族の王子ナッシュフェルトに招待された際、特別に通して貰った、彼らゼクレシアウォードの王族にだけ反応して開く、宝物庫の中だ。
それを思い出すのと同時に、見えてしまった光景……。
『ご報告申し上げます。ユキ姫様は……、不穏なる神の仲間であった男、ヴァルドナーツの魂を取り込み、その際に負った傷のせいで……、現在、治療を』
「なんでそういう事になってるんだ!! ユキちゃんは……、アレクが護衛をしていたはずだろう? 獅貴族の姫と……、ウォルヴァンシアに避難してくるはずじゃ」
国王である事も、ルイヴェルも辛い思いを抱えているとわかっているのに、レイフィードは感情が抑えられなかった。記憶もない、力もない、無力な状態となっている姪御が、何故。
「……悪かったね。見苦しいところを見せた。……それで、ユキちゃんは、何故、ヴァルドナーツの魂を?」
酷い息苦しさに襲われながら、レイフィードは必死に感情の乱れを抑え込みながら尋ねた。
ルイヴェルの話では……、幸希は神の本能とやらに目覚めたらしく、過去から続く悲劇と、災厄を抱くディオノアードの浸食により消滅しかけているヴァルドナーツを救う為に、自ら剣を取り、敵の懐へと飛び込んだらしい。その際に、胸を抉られ、どうにか肉体の修復は成された、と。
ただ、その男によって奪われた生気と命の根源たる力がすぐに回復する事はなく、『獅貴花』に宿る女神の助けを借りて、ルイヴェルは治療に当たっている。
血の気のない姪御の痛ましい姿……、その光景に、レイフィードの中で何かがよぎった。
「ルイヴェル……、ユキちゃんは、助かるのかい?」
「お救い出来なければ、私が愚息の心臓を握り潰すところです」
「お、お父様……っ」
幸希をこんな目に遭わせてしまった責任も、それを救いたいと願うルイヴェルの気持ちも、言葉にはされなくても誰しもがわかっている。
フェリデロード家次期当主、ウォルヴァンシア王宮医師、魔術師団長……、ルイヴェルの背負っているものは、とても重いものばかりだ。
そして、その地位と責任を果たす為に、彼は努力を重ねてきた確かな存在。
きっと幸希を救ってくれる……、縋るような想いでレイフィードは問いを重ねる。
『陛下、お任せください……。ユキ姫様の命は、このルイヴェル・フェリデロードが必ず』
そう、力強い光を宿したルイヴェルの深緑に、レゼノスが同じ色で頷きを返す。
セレスフィーナも、双子の弟ならばきっと幸希を救ってくれると、胸の中の不安を打ち払う。
「ルイヴェル、私に連絡を寄越さなかったという事は、何か手段を見つけたか?」
『あぁ……。俺の命を賭けるよりも確かな、『救済』がこの『獅貴花』の間にある』
「ならばいい。ルイヴェル・フェリデロード。お前の責務を果たせ」
レゼノスのその言葉を最後に、通信は終わった。
幸希を救える手立て、それを、ルイヴェルは見つけている。
通信が終わるのと同時に、レイフィードはぐったりと真っ赤な絨毯の上に膝を着いた。
「陛下!!」
「はぁ……、ルイヴェルなら、大丈夫……、だよ、ね」
それでも治まらない不安を抱えながら、彼の中で何かが荒れ狂うように存在を主張し始める。
おかしい……、幸希に関する嫌な予感を覚えてから、自分の中の力が上手く制御出来ない。
「お父様、陛下が!」
苦しい……、魔力のバランスが、ウォルヴァンシア王家の色濃い血が、レイフィードの中から出たがっているかのように暴れ狂っている。
ブラウンの双眸が、勝手に黄金のそれへと変化していく。
彼の魔力である蒼の光と、王家の特別な血を引く覚醒者の抱く黄金の光が、レイフィードの身体からゆらりと滲み出す。
その異変に表情を変えたレゼノスが、息を乱し酷い汗を掻いているレイフィードを腕に抱き上げる。
「セレスフィーナ、すぐに陛下を『あの場所』にお連れするぞ!」
「は、はい!!」
これは、間違いなく『暴走』だ。自分の意思に反して、沈まれと念じても効果がない。
この数十年、レイフィードは自身の力を抑制し、暴走が起こらないように努めてきた。
幼い頃は、あまりに強すぎる力のせいで色々と大変な目にも遭ったものだが、今は、駄目だ。
自分が力を暴走させてしまえば、――『彼女』にも影響が出てしまう。
だから、何としてでも耐えなければ……、獅貴族の件も片付いていないのに、幸希までもが、あのような状態に陥ってしまったのに、自分が逃げるわけにはいかない。
「お父様、陛下の身体から……っ」
「一体何が起こっている……。陛下、すぐに対処いたします! どうか、それまで御辛抱を!」
「ごめんね……、レゼノス、セレス、フィーナ……。こんな、時に」
身体が熱い……、息をするのも苦しくて……。
レイフィードは気を失うなと自身に心中で叱咤を飛ばすが、瞼に力が入らなくなっていく。
意識さえも闇に浸食されていくかのように、彼は……。
(これ……、は)
最後に見えた、自分の身体から滲み出す、もうひとつの光。
とても綺麗な色だと、懐かしささえ感じるその光景に……、レイフィードは今度こそ意識を失った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『姫様を仮死状態にした場合、一時的に神の力も弱まります。そうなった場合、彼の魂を浸食しているディオノアードの存在が、災いを成してしまうかもしれません。ですから……』
「『獅貴花』の女神……。正直、過去にヴァルドナーツに災厄を授けたお前を信じられるかどうかは半信半疑だ。だが……、完全に否定出来るわけでもない。ユキがお前の所に自分を連れて行けと指示を出した以上、俺もまた、お前を信じるべきだろうな」
レゼノスとの通信を終えたルイヴェルは、浅く呼吸を繰り返す幸希の髪を指先で梳きながら、目の前で両手を神に祈りを捧げる聖女のようにしている『獅貴花』の女神に真剣な視線を据えた。
すでに、出来る限りの治療用の魔術は全て試している。だが、……効果が薄い。
女神もまた、幸希に神の力によって癒しを成しているが、それでもまだ。
父親であるレゼノスに連絡を取ろうとした矢先、女神が提案してきた話を受け入れなければ、きっと焦りと不安で、やはり、禁呪に手を出していたかもしれない。
あまりに突飛で、けれど……、実例を見ているからこそ、可能性を見いだせた話。
「それで、確実にユキを助けられるんだな?」
『はい。私が貴方の……、いえ、貴方様の『覚醒』をお手伝いいたします。強大な力を秘めたる神々は、覚醒の儀にてその力を抑え込む必要があり、神同士の方が穏やかな目覚めを迎えられると思いますから』
神は、神を知る、か……。
不完全な神しか傍にいなかった為か、欠陥のない神にルイヴェルは安堵した。
災いを成したのもこの女神だが、救いの手を提案したのも、また彼女。
本来、神は天上にて面識のあった神々の顔や名前を憶えているものらしい。
たとえ、地上の器の中で眠っていても、――自身の存在を証明する輪郭を忘れない為に、髪や瞳の色は違っても、顔はそのままなのだそうだ。
勿論、その顔だちをしていてもおかしくない両親の間に生まれてくるらしく、ある意味呆れてしまうほどに便利だと思えた。
そして、ルイヴェルは『獅貴花』の女神が知る、神の一人……。
以前ならば、何の冗談だと笑い飛ばしていた事だろう。
けれど、それは出来ない……。ガデルフォーンで体験した不可思議なイメージ。
覚醒前に狼姿のアレクに寄り添った時にも見えたもの……。
『お任せください。このくらいの事で罪を償えるとは思っておりませんが……、私も姫様をお救いしたいのです。彼の魂も……』
「では、さっさとやってもらおうか」
『ですが、少々心配な事が……』
「時間がない。そんなものは後で片付ければいいだろう?」
どうにか幸希の生命を維持しているものの、状態は悪いとしかいえない。
何か不都合があるのだとしても、まずは幸希を救ってからの話だ。
冷静に『獅貴花』の女神を射抜いたルイヴェルに、彼女は憂い顔で頷いた。
「神の覚醒は、力と記憶を取り戻すだけですので、今の貴方様に害も支障も生じません」
「それは有難い話だな。俺にとっては得な事ばかりだ」
さっさとやれ。そう脅してくるルイヴェルに、女神は自身の力を使い、覚醒の儀に入り始めた。
その透けている身体が、不安そうな瞳が、震える可憐な唇が、何かを恐れているようにも見える。
『貴方様ならば、感情と記憶に引き摺られず、姫様を救ってくださると信じております』
風の息吹などなかったはずの『獅貴花』の間に、清らかなそれが二人の中心から吹き荒れるように現れる。ルイヴェルの銀の髪が舞い上がり、深緑の双眸が閉じられていく。
『偉大なる御方……、どうか……、あの御方をお許しください』
狼王族の器、その奥に眠る……、神の魂。
ルイヴェルの頭の中で、ガデルフォーンで出会ったイメージが、はっきりと色づいた世界を縁取っていく。誰だと問いかけた者達の姿も、名も、全てがルイヴェルの中で解き放たれる。
ルイヴェル・フェリデロードの存在が、神の輪郭を抱き始めていく。
「『あぁ……、そうだったな』」
それは自分の声に他ならないはずなのに、二人存在しているかのように重なって聞こえた気がする。
ルイヴェルと神が、ひとつになっていく瞬間なのだろう。
ゴーレムのライや、何も言えずに幸希の事を見守っているレアンの目の前で、滅多に出会えるものではない光景が舞い降りる。
徐々に落ち着いてきた風が、光と共に掻き消えた。
ルイヴェルが、ゆっくりとその瞼を開く。
『お久しぶりでございます……』
女神の目に、圧倒的な力を有する神がその双眸を現した。
眼鏡の奥に佇む、深緑の双眸が……、左目だけ、危うい魅力を抱くアメジストの輝きを抱いている。
ルイヴェルは自分の両手を確かめるように握り開きを繰り返すと、その銀髪を掻き上げた。
「確かに、今の俺ならユキを救うのは造作もないな。『獅貴花』の女神よ、お前の責任は後に問う事にしよう。手を貸せ、治療を始める」
『仰せのままに……』
幸希の胸へと手を当て、ルイヴェルは目覚めた神の力を揮い始める。
死なせてなどなるものか。『あの時』のように、彼女を犠牲になどさせない。
それは……、神とルイヴェル、交じり合い本来の輪郭を取り戻したルイヴェルの意志。
胸に抱くのは、後悔と救済の想い、そして……、激しい憎悪の感情。
許したいのに、許せない……。その複雑な部分だけが、ルイヴェルと神である彼をぶつかりあわせるかのように、その心を酷い苦痛によって苛む。
「まずは、ユキを助けてやるのが先だがな……。それ以外は、今は必要ない」
『……仰せの、ままに』
今のルイヴェルは、幸希にとっては救世主だ。決して害を成す事はない。
だが……、『獅貴花』の女神が抱くもうひとつの不安は、決して消える事はないのだった。