月は雨雲に隠されて
次の日は朝から雨だった。
森に残る犯人の痕跡は、これで流されてしまった。
濡れる生垣を窓越しに見る。
セレーネ・ローズの花はまだ咲いていない。
元気がないように見えるのは、雨の景色のせいなのだろうか。
世話の難しい薔薇だから、もう咲けなくなってしまったのかもしれない。
わたしは泣きたいのを堪えて今やれることを探した。
怪我という理由ができたおかげで、メイドの仕事はしなくていい。
まずは使用人仲間に話を聴いて回る。
「本当に騙されましたわ! アタクシの初恋を返してほしいですわ!」
ドリス曰く、思えば昔からラウルは怪しかった。
クラスメートにどんなにひどく殴られても翌日にはケロッとしていた。
いつだったか、ラウルが珍しく学校を休み、クラスの悪ガキ連中が青い顔をしていたことがあった。
数日後にラウルが登校してくると悪ガキ連中はますます青ざめた。
悪ガキ連中は悪ふざけの果てにラウルを崖から突き落としていたのだ。
殺してしまったとばかり思っていた。
「あの時はそんな話を信じたりはしませんでしたけれどね。普段から嘘ばかりついている子達でしたから。ああ、ちゃんと信じてあげていれば今回のような事件は起こらなかったのかもしれませんわね」
その話を信じていれば、その子達は殺人未遂になるはずなのに。
「ワタシは最初から怪しいと思っていましたよ」
ハンナおばさまは、ラウルが子供の頃の、ダイアナ様のご実家のお屋敷での日々を話し……
自分がラウルをいじめていたことを、自分の口で自慢げに語った。
イリスはイリスでこじつけの推理でラウルを貶めて、ここで聞き込みを続ける気力が尽きた。
わたしの目の前でイリスとドリスがケンカを始めた。
きっかけは、ドリスからイリスに。
「狼男なんか居るわけないなんて自信満々で言いふらしていて馬鹿みたいですわ」って。
数日前までイリスがドリスの迷信深さを馬鹿にしていたのを根に持っていたのだ。
そしてお互い相手に「ちょっと前までラウルを好きだって言ってたくせに!」ってののしり合って……
ハンナおばさまが出てきて、三人でラウルの悪口を言い合うことで場が収まった。
みんなラウルが悪者だって思っている。
……悪者とされている人の味方をすることで、自分まで悪者扱いされることを恐れている?
他人に悪者だと言われた相手を一緒に攻撃することで、自分が正義の味方だと他人に認めてもらえる……ような気になってる?
わからない。
ただ彼女らは、そうすることに居心地の良さを覚えている。
人間は残酷。
わたしの中にも残酷さはある。
わたしはラウルを悪く言う人間全員が何かひどい目に遭えばいいなと思っている。
自分でやるような余裕はないけど。
ダイアナ様の部屋のドアの前に立つ。
三日月の夜、この場所にフランク様の遺体が倒れていた。
今は血で汚れたカーペットは処分され、新しいカーペットが敷かれている。
フランク様は首を何回も刺されて倒れていた。
その刺し跡は、狼の歯形に似ていた。
被害者の立場になって考える。
わたしは首を押さえて廊下に倒れた。
わからない。
何故、犯人がそんな殺し方をしたのかも。
どうしてフランク様が近づいてくる犯人に気づかなかったのかも。
気づいても危険だと思わなかった?
犯人はフランク様と顔見知りだったってこと?
じゃあ、犯人は強盗じゃあないの?
次は犯人の立場。
立ち上がり、足の痛みに顔をしかめる。
ナイフを持つようなポーズをしてみる。
フランク様は背が高い。
順手でナイフを持って首を刺すのは、できなくはないけど無理がある。
逆手で首を狙う。
どうして首なの?
喉を潰して悲鳴を上げられなくするため?
でも、フランク様は悲鳴を上げてる。
フランク様は、刺される前に自分が殺されるって気づいた?
だったらどうして防げなかったの?
「女の腕力でフランクが殺せるとは思えない。セバスチャンの奴も揉み合いになればフランクには勝てないだろう。となれば残るのは……」
いきなり後ろから声をかけられた。
フレデリック様だった。
「フランクに声を上げさせたくなかったのなら、肺を潰した方が良いのだがな。まあ、ただの庭師ならそんな知識がなくても無理はないかな」
「フレデリック様! フレデリック様も、ラウルが狼男だからって……」
動機も殺害方法も全て“狼男だから”の一言で片づけようなんて……
「おいおい、キミも狼男なんてものの存在を信じているのかい?」
「え……?」
「庭師と貴婦人の間に、使用人と雇い主という以上の関係があったんだ。それでもう充分だろう」
ちょっと待って。
何を言っているの?
「ラウルは人を殺すような子ではありません!」
叫んだのは、わたしではなかった。
ダイアナ様が部屋を飛び出してきたのだ。
わたしは嬉しくって泣き出しそうになった。
夫を殺されて、誰かに八つ当たりをしたくなっても……その誰かがラウルであってもおかしくないはずの状況なのに、奥様はわたしと同じようにラウルを信じてくれているのだ。
ううん、わたしは、わたし自身がラウルのアリバイの証人だからこそ確信を持っていられる部分もある。
みんながわたしを信じないのが問題なだけで、アリバイ自体は完璧だ。
でもダイアナ様は本当に心だけでラウルの無実を信じておられるのだ。
ふと……ダイアナ様の傍らに隠れるようにメラニーが控えているのに気づいた。
「何だ? まさかレディメイドを持ち回りでやるつもりなのか?」
フレデリック様が茶化す。
「だ、だって、あたしだけレディメイドをやったことがないから……」
そういうものじゃないと思うんだけど。
「ドリスよりうまくやれよ」
「は、はいっ!」
フレデリック様の言葉に、メラニーは明らかにびくびくしている。
「例えば客が来ているのに貴婦人がアクセサリーの一つも着けていないというのはどうなんだい?」
「わわわわわわっ! ご、ごめんなさい!」
慌てて部屋へと駆け戻る。
責任のある役目を一人でやるのはメラニーには向いていないと思う。
いえ、そんなことは今はどうでもいいわ。
「ダイアナ様、お願いです! 事件があった時のことを詳しくお聞かせください!」
わたしの頼みに、ダイアナ様は顔をそらした。
「……ごめんなさい。……思い出したくないの」
「お願いします!」
「……ショックが大きすぎて。……ごめんなさい」
「ダイアナ様! このままではラウルが!」
「おい! よさないか!」
フレデリック様に叱咤された。
わたしは下唇を噛んだ。
ダイアナ様もお辛いのだ。
配慮が足りなかった。
「ダイアナ、こっちへ来て少し休まないかい? 二人きりで」
フレデリック様がわたしを押し退けてダイアナ様の手を取った。
ダイアナ様は無言でその手を振り解いた。
昨日ハンナおばさまが話していたのを思い出す。
フレデリック様はフランク様の後釜を狙ってダイアナ様に取り入ろうとしているらしい。
目の前の二人のやり取りは、かなりあからさまだった。
「クローディアさん、あなたがラウルを信じてくれるのは嬉しいのです。それだけは、本当に嬉しいのです」
ダイアナ様のそらしたままの目が潤む。
「奥様っ! 今日のお召し物にはこちらがお似合いになるのではないかとっ!」
重い空気を破ってメラニーがドアから飛び出そうとして、ドア枠につまずいて転び、宝石箱をひっくり返した。
飛び散った宝石をわたしも手伝って慌てて拾い集める。
わたしの指が、雫形のイヤリングに触れた。
イヤリングは、二つで一つ。
二つはすぐ近くに落ちていた。
わたしは左右の手で一つずつイヤリングを持って見比べた。
脳髄に電撃が走った気がした。
「メラニーったら! これはフランク様が奥様にお贈りになった物なのよ! なくしたらどうするのよ!?」
わたしはわざとヒステリックな声を出して怒鳴った。
「ひっ」
メラニーは拾いかけのネックレスを取り落として、助けを求めるようにダイアナ様の方を見た。
「クローディアさん、そんな、あなたが怒らなくても……」
「でも奥様! 同じ物が二つも三つもあるわけではないのでしょう!?」
「それはそうですけれど……」
それはそう。
ダイアナ様は確かにそう言った。
聞きたい言葉が聞けた。
わたしの態度は不自然だったかもしれないけれど、それでも目的は果たせた。
「おい、もうやめないかね」
フレデリック様がわたしの腕を乱暴に掴み、この場から引き離した。
同じイヤリングが二つあるわけではないのは良く知っている。
わたしは少し前まであの宝石箱を預かっていたのだから。
念のためにダイアナ様に確認をしたかっただけ。
宝石箱の中には雫形のイヤリングが“一対”あった。
一つではなく、一対。
自分が預かっていた時は、それをおかしいとは思わなかった。
フランク様が殺される数時間前の森の中で、このイヤリングはダイアナ様の耳を離れて馬車から落ちた。
落とさなかった方の一つは、奥様が別荘に運び、宝石箱にしまった。
落とした方の一つは、ラウルが見つけて、わたしに渡した。
そう思っていた。
これならイヤリングが二つそろうのは当然だ。
だけどラウルは言っていた。
ダイアナ様は“落とさなかった方のイヤリング”をラウルを通じてわたしに届けさせた。
落とした方のイヤリングはラウルでも見つけられなくて、今も森のどこかにあるはずだ。
ダイアナ様が“本当に”イヤリングを落としたのであれば。
どうしてダイアナ様はそんな嘘をついたの?
ダイアナ様が、落としてもいないイヤリングを落としたって言って、それからどうなった?
わたしはイヤリングを捜すために森に置き去りにされた。
何のために?
ただの意地悪?
わたしは何か奥様に嫌われるようなことをしていた?
まだ雇われたばかりだし、そこまでのヘマなんてしていないはず。
その時わたしは“何”だった?
レディメイドだ。
奥様がわたしに宝石箱を渡した理由。
口止め料。
レディメイドはフランク様に奥様の不倫を探るよう命じられているはずのスパイ。
実際にはそんな指示なんてされていなかったけど、ダイアナ様はそう思い込んでいた。
だから遠ざけたかった。
ラウルを迎えによこしてくれたのだから、あのまま森で死ねばいいって思ってたってわけじゃない。
奥様がスパイを遠ざけようとしたのは、せいぜい数時間。
その間に何をしていたの?
奥様はわたしに不倫の調査をさせたくなかった。
つまり不倫にまつわることをしていた。
……不倫相手と会っていた?
ダイアナ様はラウルの味方ではない。
強烈な孤独感がわたしを襲った。
窓を睨む。
ガラスを雨粒が伝う。
ダイアナ様が馬車を止めさせた森の道。
あの時、あの場所に、誰かが居たのなら……
雨が降る前に気づいていれば、足跡か何かの痕跡を見つけられたかもしれないのに……
階段の下でわたしはフレデリック様の腕を振り解いて向き合った。
ラウルのこと、事件のこと、何でもいいから教えてほしい。
主の客に対してメイドが取るべき態度ではないと叱られたけど、食い下がった。
するとフレデリック様はいやらしく笑って、わたしの肩に腕を回した。
「昨日、町の警察署へ行って、例の庭師に面会してきたんだ。
セレーネ・ローズの苗をどこで手に入れたのか訊きたくてな。
そうしたら鞭を打つ音が建物の外にまで聞こえていたよ。
いやいや、落ち着きたまえ。
さすがにボクも拷問はマズイと思ったんだがね、奴は怪我はしていなかったよ。
音で脅されただけで実際に打たれたわけではないんだ。だからいいってわけでもないが」
ラウルの治癒力の話をしても、フレデリック様は信じないだろう。
「庭師は薔薇のことはすんなり話したが、事件についてはダンマリだった。
しかし警察のやり方はかなりイカレてたね。
庭師に向かって、さっさと狼の姿になって見せろって。
罪を認めろならいざ知らず、変身なんかできるわけないじゃないか。
バケモノなんかのために弁護士を呼ぶ必要はないとか言ってさ。
人としての権利がないならせめて動物として保護してやれよなんてからかってみたら、何故かボクが叱られたよ。
あれじゃあ満月が来て狼男なんか居ないってわかればいろいろ問題になるだろうな」
問題には、ならない。
狼男は、居るから。
「ああ、そういえば村の奴らが狼男をアイアンメイデンにかけろとか言って騒いでいたな。
村の神父は満月の夜まで待てとか言っていたが……
迷信深い連中は暴動寸前だったね。
ボクは迷信なんか信じないが、それでもあの雰囲気には流されそうになってしまったよ」
フレデリック様はまだ何か語り続けている。
わたしの肩から手を放す様子もなく、どうやらわたしは口説かれているらしい。
「庭師のことなんかあきらめろ」
その言葉を最後に、フレデリック様の言葉も激しい雨の音もわたしの耳には入らなくなった。
満月までは後三日しかない。