満ちゆく月におびえて
ラウルが殺人を犯したと裏付ける証拠なんかない。
当然だ。
ラウルにはアリバイがあるのだから。
それなのにラウルは捕らえられた。
狼男であることが、殺人を犯す動機。
狼男であることが、殺人犯である証拠。
警察がラウルを捕まえに来た時、ダイアナ様は庭に居るラウルに知らせに走った。
ダイアナ様はラウルを逃がそうとして、フランク様が殺された夜以来、初めて部屋をお出になった。
生垣の手入れをしていたラウルはダイアナ様のお姿を見て、驚いた弾みで薔薇の棘を指に刺してしまった。
ダイアナ様は自分のせいでラウルが怪我をしたと思って慌てた。
久しぶりだったから、ダイアナ様はラウルの治癒力のことを忘れていたのだ。
ラウルはダイアナ様を安心させるために指を掲げて怪我が治るところを見せた。
その様子を、警官達も見ていた。
ラウルはその場で取り押さえられ、手錠をかけられた。
人間が相手ならばそんな乱暴な真似はされない。
異常な治癒力があることと、殺人犯であることに、何の繋がりがあるものか。
ラウルは獣として、バケモノとして、捕獲されたのだ。
迷信深い警官だけでなく、それまで狼男の存在に懐疑的だった警官も、ラウルを恐れて脅えて憎み、その暴走を正義と呼んだ。
連行される時、ラウルは抵抗しなかった。
ただ一言、ダイアナ様に、大丈夫だとだけ言った。
眠れない夜を過ごして、早朝、わたしは馬小屋に忍び込んだ。
アンドレアに鞍を乗せる。
警察署のある町までは遠いし、狼の出る森を抜けるのは徒歩では無理だ。
静かに、静かに。
バレないように。
アンドレアは不機嫌そうに鼻を鳴らしている。
お願い、わたしをラウルのところへ連れていって。
わたしが跨ると、アンドレアはものすごいスピードで走り出してしまった。
「きゃああ!!」
庭園に飛び出して駆け回る。
芝生を踏み荒らし、置石を蹴り倒す。
お願い! 薔薇の方へ行かないで!
必死で手綱を引っ張ると、アンドレアは激しくいなないて暴れ、わたしを振り落とした。
「……ッ!」
足が痛い。
左足だ。
歩けない。
アンドレアは立ち止まってこっちを見ている。
「きみきみ! 大丈夫かね!?」
知らない人がわたしに駆け寄ってきた。
白髪に眼鏡の小太りな男性。
……誰?
そのおじいさんは旅行カバンから包帯や薬を取り出して、応急手当ではないキッチリした治療を施してくれた。
おじいさんは、ダイアナ様の主治医のピーターソン先生だった。
新聞を見て心配になってロンドンからはるばるやってきたのだ。
「骨は折れていないけれど、数日は安静にしていなさいね」
そう言われて、わたしは泣き出した。
馬を勝手に使おうなんて、ズルイことなんてしなければ良かった。
良く考えれば村までは子供の頃のラウルでも通学できた距離なのだ。
わたしには狼男のような力はないけれど、それでも頑張れば、無理をすれば歩いて行けなくはなかったはずだ。
無理をしてでもラウルに会いに行きたい。
だけどみんなに叱られ、止められた。
フレデリック様に、行っても何の役にも立たないって笑われた。
面会すらさせてもらえないだろうって……
その通りだ。
じゃあ、わたしには何ができるの?
セバスチャン様に部屋で休むよう命じられた。
メイドが馬を盗むなんて普通なら即刻クビだけど、ダイアナ様は許してくださった。
イリスが仕事を押しつけられたと言って怒って、メラニーもイリスの陰に隠れながら文句を言ってきた。
イリスはレディメイドだから関係ないだろうと思ったら、嘘をついたのを咎められて昨夜のうちにドリスと交代させられたらしい。
わたしはベッドに横たわって昨夜のことを思い出した。
イリスの態度。
狼男が実在するってわかったことで、科学信奉を掻き消すようにイリスの探偵気取りには前とは別の方向の拍車がかかって……
森で見つけたアレクシアの死骸について、泥棒が盗んだ馬をあんな場所に置き去りにするわけがなく、馬を木に繋いだのは食べるためだったのだと言い張っていた。
そんなわけないのに!
……あの場所について、もっと調べる必要がある。
一昨日の人影。
アレクシアの死骸の前で、穴に落ちる前に見たあの人影を、セバスチャン様は熊だと言っていたけれど、わたしにはそうは思えなかった。
あの距離ならこの怪我でも行けなくはない。
わたしは寝室の窓から抜け出して森へ向かった。
拾った木の棒を杖にして、痛む足を引きずりながらその場所へ行ってみると、周囲の木の枝が折れていた。
誰かが居たのは間違いない。
下草の隙間の土に、足跡が残っていた。
爪があって肉球がある。
動物のものだ。
はて……?
狼男のものに似ている気がする。
でも……熊の足跡ってどんなかしら……?
少なくともこれは人間の足跡ではないし、きっとセバスチャン様がおっしゃった通り、熊のよね。
これを追いかけても犯人は見つからない。
わたしが探しているのは犯“人”だ。
人なのだ。
がっかりして、お屋敷へ帰ろうと踵を返したその瞬間、杖の先が何かに触れた。
ガシャンという金属音。
見下ろすと、二つの半円状の金属の輪が、まるで獣が噛みつくように杖の先端をはさんでいた。
トラバサミが……
狩猟用の罠が土に埋められていたのだ。
「あは……は……」
杖がなければ足をやられていたかもしれない。
トラバサミにはギザギザの歯がついていて、木の皮を破って食い込んでいる。
バネはなおもキリキリと輪を締め上げて、杖の先がボキリと折れた。
もしも足を挟まれていたら、落馬の捻挫どころじゃなかった。
そう考えると捻挫して杖をついていたのはラッキーだったのかもしれない。
屋敷に戻って、誰にも逢いたくなくて、納屋に隠れた。
納屋にはラウルの足跡が残っていた。
狼男の姿の時のもの。
三日月の夜にわたしを門の前に送り届けた後で、ここで人の姿に戻って服を着直したのかもしれない。
爪があって、肉球があって、親指がないのは、狼と同じ。
人差し指が長くて小指が短いのは人間と同じ。
愛おしくて指でなぞった。
……見落としていたことに気づいた。
でも……これは……え……?
もしかして……そういうことなの……?
夕方になってフレデリック様がお屋敷に帰っていらした。
アンドレアに乗って村まで遊びに行っていたらしい。
見事に乗りこなしていてうらやましい。
わたしはみんながフレデリック様を出迎えている隙にこっそりと母屋へ戻り、出た時と同じように窓から自分の部屋に入って、ずっと寝ていたみたいな顔をしてドアから出た。
「何だアンタは! いったいいつまでここに居るつもりなんだ!」
フレデリック様の怒声が響いて駆けつけると、階段の下でピーターソン先生に詰め寄っているところだった。
「今夜はここに泊まるつもりか!? ダイアナの部屋で寝るつもりかい!?」
わたしはポカンとしてその様子を見ていた。
そういえばロンドンのお屋敷ではダイアナ様が不倫をしているなんて噂が流れていたんだっけ。
ピーターソン先生のようなお年寄りが相手というのは無理があるけど……
そうね……
フランク様を殺害した犯人は、強盗とは限らない。
ダイアナ様の汚点を探るようなのは気が滅入るけど、そんなことは言っていられない。
ピーターソン先生は逃げるように屋敷から出て行こうとする。
わたしは慌てて呼び止めた。
「先生、町まではどうやって……」
「ああ……迎えの馬車が来ることになっているんだよ」
「でしたら馬車が着くまでお屋敷の中でお待ちになれば……」
「いや、少し散歩がしたいんだ」
「ですが森には狼が……」
「銃を持っているから大丈夫だよ」
そしてピーターソン先生は黄昏の森へ消えていった。