三日月と牙の夜 後編
お屋敷の門の前まで来て、わたしは番犬の吠え方が異常だと気づいた。
最初は狼男さんのニオイに反応しているのかと思ったけれど、狼男さんが帰ってしまってからもずっと吠えている。
ひどく胸騒ぎのする吠え声だった。
わたしは走り出した。
玄関の鍵は開いていた。
お屋敷の正面玄関は雇い主の家族やお客様が通るためのもので、普通ならわたしみたいな使用人が使ってはいけないのだけれど、初めての場所で裏口を探す時間は今は惜しい。
扉を開けるとまずは吹き抜けのホールが広がっている。
ホールに明かりはなく、窓からのほのかな月光の中、階段の下にわたしのメイド仲間のメラニーとドリスがネグリジェ姿でうずくまっていた。
「二人とも大丈夫!? 何があったの!?」
けれどメラニーは脅えきって泣くばかりだし、ドリスは十字架を握り締めて何やらブツブツつぶやくばかり。
ただ、二人の視線が二階の廊下に向けられているのだけはわかった。
誰の部屋なのか豪華な扉の前で、コックのハンナおばさまがダイアナ様の体を支えている。
青ざめた二人の視線の先にあるものは、わたしの角度からでは見えない。
わたしは急いで階段を駆け上がった。
階段を上りきって、やっとそれが見えた。
二階の廊下に、首の辺りを血まみれにした中年男性が仰向けになって倒れていた。
「フランク様!?」
ロンドンで一度だけご挨拶をした、わたしの雇い主だった。
わたしは目まいを起こして壁にぶつかった。
わたしの靴が何かを踏んで、ビシャリという音がした。
血溜まりからは離れているのにどうして?
それは吐しゃ物だった。
メイド仲間の最後の一人、イリスがうずくまって吐いていた。
「フランク様……お、お医者様を……」
「何言ってんのよッ! どー見ても死んでるでしょッ?」
わたしが絞り出した声に、イリスが引きつった声で怒鳴る。
「いったいどうして……」
「誰かに殺されたのよッ! 見てわからないッ!? 犯人がまだどこかに居るのッ!!」
「誰がそんな……」
「知らないわよッ!! 知るわけないでしょッ!? 悲鳴が聞こえたんで来てみたら死んでたのッ!!」
「警察を呼ばなきゃ……」
「どうやってッ!? 村まで馬車で何時間もかかるのよッ!? ここはロンドンじゃないんだからッ!! こんな山奥の別荘に電話なんかあるわけないじゃないッ!!」
何でわたしがイリスに怒られているんだろう……?
いえ、それよりも……
「セバスチャン様は?」
「……知らない」
「お庭ですよ。番犬のところへ行っています」
ハンナおばさまが代わりに答えた。
「お一人でですか?」
「ええ」
番犬達はさっきから狂ったように吠え続けている。
わたしは廊下の突き当たりの窓を開けた。
ダイアナ様のお祖父様によって建てられ、ご結婚のお祝いにフランク様に譲渡された森の別荘の小ぢんまりとした庭園。
三日月の明かり程度では植物の種類まではわからないけど、生垣と植木が規則正しく配置されている。
セバスチャン様がロンドンから連れてきた五頭の番犬は一本の木の下に集まっていて、セバスチャン様自身の姿は見当たらなかった。
一瞬、窓から飛び降りようかなんてことがわたしの頭をよぎったけれど、すぐに考え直して階段へ回り、ハンナおばさまの引き止める声を振り切って木の下へ駆けつけた。
番犬達はわたしに見向きもせずに頭上の一点に向かって吠え続けている。
その視線をたどり、見上げると、木の幹に見知らぬ青年がしがみついていた。
わたしは恐る恐る近づいて青年を観察した。
年はわたしと同じか少し上。
汗でベトベトになった髪。
作業用の冴えないズボン。
「あなたは誰!?」
わたしは番犬達に混じって吠えた。
「ここの使用人だ!」
「嘘よ! ロンドンでの打ち合わせには、あなたなんか居なかったわ!」
この別荘に来ている使用人は、わたしを含めたメイド四人と、フランク様が最も信頼している執事のセバスチャン様と、ダイアナ様がどうしても必要だとおっしゃられたコックのハンナおばさまで全部。
奥様の静養が長引けばもっと大勢呼び寄せられることになるだろうけど、こんな人の話なんて聞いていない。
「前からここに住んでるんだよ! おい、犬ども! 俺はお前らの先輩だぞ!」
「前からっていつからよ? この別荘の管理人は結構なお年のご夫婦だったって聞いてるし、二人とも今は外国へ行っているはずよ!」
奥様のお祖父様から別荘を譲られて、奥様と旦那様は新婚旅行から帰ったらしばらくは別荘で過ごすつもりだったのだけど、奥様の持病が悪化して新婚旅行ごと中止になり、その後はフランク様もお仕事でお忙しく、それっきり別荘へ行くことはなく管理人夫婦へのお給料だけがセバスチャン様を通じて支払われていた。
その管理人夫婦から仕事を辞めて外国で暮らしたいと手紙が届き、その手紙を見てフランク様は別荘の存在を思い出して、奥様の静養にちょうど良いと考えたのだ。
と、ロンドンでの打ち合わせの際にハンナおばさまから聞かされた。
「だからその管理人の息子なんだよ!」
「嘘おっしゃい! 管理人夫婦は息子さんと一緒に暮らすために別荘の仕事をやめたのよ? なのに何でその息子がここに居るのよ?」
「俺は養子なの! 家出してずっと音信不通になっていた実の息子から手紙が来て、外国で成功して孫も生まれたから一緒に暮らそうって書かれてたんでそっちにスッ飛んでったんだよ!」
「え……? うそ……」
「……………」
冷たい夜風が二人の髪を掻き乱した。
気がつけば番犬達は吠えるのをやめ、静かな唸りに変わっていた。
背後から咳払いが聞こえ、振り返るとセバスチャン様が立っていた。
「本当ですよ。彼は庭師のラウル君です」
「セバスチャン様! いったいどちらに!?」
「裏庭の様子を見ていました」
「……何かあったんスか?」
木から降りてきた青年は、背が高くって痩せていて、目つきは鋭いけれどその声色には緊張感はあまりなかった。
「詳しくはハンナに聞きなさい。二人とも早く屋敷の中に入ってしっかり戸締りをするように。私はもう少し外を調べます」
そしてセバスチャン様は、番犬達を引き連れて、庭園を飾る生垣の向こうへ消えていった。
屋敷の中へ入るとすぐに、ラウルはただならぬ気配を察して階段を駆け上がった。
わたしもしっかりと鍵を閉めてからそれに続くと、ダイアナ様のお部屋の前でイリスとドリスがフランク様の遺体を挟んでケンカをしていて、メラニーがイリスの吐しゃ物を掃除していた。
「奥様! 奥様!」
ラウルが遺体のすぐ側の部屋のドアを激しくノックする。
「ラウル……?」
中から、か細い声が聞こえた。
「奥様! 大丈夫ですか!?」
ラウルが手を止め、ドアに耳を押し当てる。
「ええ……わたくしは、大丈夫です」
「ここを開けてください!」
鍵穴から中を覗こうとする。
「それは……駄目……一人にしてください。一人で居たいのです」
「本当にお一人なんですか!? クローゼットの中に誰か居るのでは!?」
ラウルの言葉にわたしの背筋を冷たいものが走った。
わたしの脳裏に、奥様の部屋の前で殺人を犯した犯人が、いったん庭へ出て、窓から奥様の部屋に侵入し、フランク様の血で濡れた凶器で奥様をも狙っている姿が浮かんだ。
「誰も居ませんわ。わたくしが自分で調べました」
「ベッドの下は!? バルコニーは大丈夫ですか!?」
ラウルを押しのけてわたしが叫ぶ。
「調べました。誰も居ません」
その声のトーンは、犯人に脅されて言わされているというようには聞こえなかった。
「ですが奥様!!」
「もうおよしっ」
怒鳴られて振り返ると、ハンナおばさまが隣の部屋の戸口でシーツを抱えて立っていた。
「ダイアナ様が一人になりたいとおっしゃってるんだ。使用人が出すぎた真似をするんじゃないよっ」
そしてシーツをフランク様の遺体にかけようとする。
「あ……」
そんなことをしたら警察の捜査の邪魔になるのではないか、と言おうとして、思い直してわたしは口をつぐんだ。
「ちょっとオバサマぁ! 警察が来る前に死体をいじっちゃダメだよォ!」
「何てことをおっしゃいますの!? 旦那様をこのままにしておけるわけないでしょう!?」
イリスとドリスがわめき合う。
この二人、姉妹みたいな名前だけれど、偶然で他人。
で、仲はあまり良くない。
たぶん名前のせいで二人セットみたいな扱いを受けるのがお互い気に入らないのだと思う。
それにしてもイリスってば、流行の小説の探偵みたいな態度をしてるのは、また吐かないための強がりかしら。
「二人ともお黙り! ワタシがメイド長なんだよ!」
ハンナおばさまがバッと広げたシーツの端っこを、わたしも引っ張って少しだけ手伝う。
警察署がある町は森を出て村を二つ越えた先だから、一つ目の村から電報で呼ぶにしても来てくれるまで何時間もかかるし、春先のこの季節ではすでにハエが寄ってきている。
このハエ達はわたしが窓を開けたせいで入ってきたのだろうなと思うと、さすがに見ていられなかった。
ドリスがわたしを押しのけるようにシーツに手を伸ばし、メラニーも慌ててそれにならう。
取り残される形になったイリスは、ダイアナ様の部屋のドアを見つめたままのラウルに擦り寄るように話しかけた。
「ねー、ラウルぅ。この別荘に、前に泥棒が入ったことってあったのぉ?」
「少なくとも俺が来てからは一度もないな。建っているのがこんな場所だし」
「そーだよねー。しかも番犬はこの別荘に連れてこられてから神経過敏で昼間でも意味なく吠えまくってるのに、犯人が“外から”ノコノコ入ってくるとは考えにくいよねー」
「ん? ああ。そうかもな」
「フランク様がぁ、運悪く強盗と鉢合わせしただけだっていうんじゃなかったとしたらぁ、やっぱ怪しいのはダイアナ様だよねーェ。こういうのってたいてい身内が……」
「何を言うんだッ!?」
イリスが言い出したことにも驚いたけど、それよりもラウルがいきなり上げた大声は、番犬の威嚇の声よりも背筋に響いた。
「イ、イリス! 失礼なことをお言いでないよ! メイドの立場をわきまえな!」
ハンナおばさまが、ちょっと出遅れた感じで怒鳴った。
「だって状況から考えてえーェ……」
「お黙り! それよりラウル! アンタいったい今までどこに行っていたんだい!? 夕食の時も居なかったじゃないかい!!」
「……納屋で寝ていました」
急に切っ先を向けられて、ラウルが不機嫌そうにうつむく。
「それで? 何にも気づかなかったのかい?」
「……はい」
なかなか戻らないセバスチャン様を待つ間、残りの使用人六人は、二人一組になって屋敷中の明かりを点けて、ドアというドア、窓という窓の鍵を確かめて回ることになった。
立っている位置が近かった人同士、ハンナおばさまの指示で適当に組んで……ハンナおばさまの後ろを歩くメラニーは、ひっきりなしに弱音を吐いてはハンナおばさまに叱られている。
イリスとドリスは部屋に入る度に戸口で肩をぶつけ合い、同じ燭台に駆け寄って同じ窓に駆け寄ってどちらが良く働くかを競い合っているけれど、手分けして効率を良くするために相手から離れるつもりはないっぽい。
わたしもみんなみたいに大騒ぎできれば少しは不安も紛れるだろうけど、わたしはみんなみたいに器用じゃないし、それはラウルも同じなようで、二人の周りだけ静か。
……なら、今のうちに言っておいた方がいいかな。
「あの……ごめんなさい……」
「何が?」
「さっきの……お庭で話したこと……」
「あー。しょうがないよ。あの状況じゃどうしたって俺が怪しく見えるからな」
「そうじゃなくて、ご家族のことを……あんな話になるなんて思ってなくて……」
「ああ。別に」
「だ、だって……」
プイと顔を背けられ、二人また押し黙る。
同情するそぶりを見せたのが余計にいけなかったのかしら。
イリスとドリスのケンカの声が、やけに響いて聞こえてくる。
「はァ!? ナわけないじゃん!!」
「いいえ、あれは間違いなく歯形ですわ!!」
「だからナイフをこう持って肘を軸にこう動かせば半円形の傷になるんだってばァ!!」
「ではなぜ心臓を狙わなかったんですの!? 獲物の首を狙うのは獣の殺し方ですのよ!!」
……嫌な会話。
空き部屋に入り、ラウルが窓に歩み寄ると、床がギィギィと音を立て、この建物は良く手入れされていてもやっぱりあちこち古びているのだと告げた。
「ねえラウル、狼男の存在って信じる?」
ロンドンでこんな質問をすれば馬鹿にされて終わりだけれど、田舎にはまだ迷信深い人も多い。
「……そんなの居るわけないだろ」
わたしも、本物に逢うまではそう思ってた。
「地元の人はみんなそんな考え?」
「いや……」
「信じている人も居るのね。でも、仲良くご近所付き合いをする感じではない」
「ああ」
「狼男を怖いと思う?」
「俺は思わない。けど怖がるのが普通だろうな」
そして再び沈黙が落ちた。
次の部屋へ行こうとした時……
「きゃああああっ!!」
メラニーの悲鳴が響いた。
「裏口だ!!」
ラウルが走り出し、わたしもそれを追いかける。
駆けつけたその場所で、メラニーがハンナおばさまにしがみつき、震えながら床の一点を指差していた。
そこには裸足の足跡があった。
「何、これ……?」
遅れてきたイリスが、わたしの肩越しに覗き込む。
その足跡は、大きさは人間の、おそらく男性のものだった。
「やっぱりよ! やっぱりだわ! 思った通りよ!」
ドリスが叫ぶ。
その足跡は、形は獣のものだった。
四本の指と爪には人間の小指と人差し指のようなはっきりとした違いは見られず、親指の跡はない。
「ねえ、イリス! あたくしの言った通りでしょう!?」
ドリスの声は恐怖に震えながらも嬉しそうでもあった。
肉球は人の足の長さに合わせて縦に引き伸ばした感じで、狼らしい四つん這いよりも二足歩行に適しているように思えた。
「迷信なんかじゃないのよ! 本当に居るのよ!」
ドリスが紡ごうとしている言葉にわたしは脅えた。
「旦那様を殺したのは狼男なのよ!!」