表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/19

振り返る時はいつも

 日の暮れた森の中で焚き火をして、わたしは猟銃を抱えたまま別荘から持ってきたビスケットをかじった。

 本当は胸がいっぱいで空腹なんて感じるどころじゃなかったけれど、体力は少しでも維持しておかないといけないから。


 ラウルはわたしよりも一日早く森に入ったのだし、普通に考えたら男の狼の足に人間の女の足で追いつけるわけがない。

 だけどラウルは何の荷物も持っていかなくて、服すら着ていないのだから食べ物をポケットに入れてもいない。


 水や食料をその場で調達しているのならば時間がかかって、飲まず食わずで進んでいるなら体力が落ちて移動のスピードも落ちる。

 再会ができるとしたら、そこに賭ける以外にない。



 番犬は一頭だけ連れてきた。

 訓練なんてされていないのにいきなり警察犬の真似なんてできるのか不安だったけど、ちゃんとラウルのニオイを追ってくれた。

 愛情ではなく敵意に基づく行動なのは気に入らないけど、不思議と犬が相手なら、人間に対するほどの怒りは湧いてこなかった。

 犬がラウルを嫌っても、ラウルは犬が嫌いじゃないみたいだったからかしら?

 いいえ、違うわね。

 人間だって……ラウルは嫌ってなんかいなかったもの……


 犬は今は焚き火の隣に落ち着かない様子でうずくまっている。

 残りの犬とアンドレアは別荘の庭に放しておいたから、今頃ネズミでも芝生でも勝手に食べているでしょう。


 カサカサッ。


 背後で木の葉が音を立てた。

「ラウル!?」

 誰も居ない。

 風の音だ。

 わたしは抱えた膝に額を押し当てた。

 こんなことをもう何度も繰り返していた。

 何度振り返ってもいつも誰も居ない。






 二日目は朝から歩き続けた。

 ラウルまでまだ距離があるからか、犬の反応に変化はない。


 大きな木の根を乗り越える。

 斜面で足が滑らないようにしっかりと地面を踏みしめる。


 ちょっとした隙にでもラウルとの思い出がよみがえる。

 数えるほどしかない、思い出すほど切ない記憶。

 わたしを助けてくれた狼男さんの正体がラウルだってわかった日のラウルの言葉。

 あの言葉を言った人をここまで追い詰めてしまった。


 あれはわたしのせいでラウルが怪我をした日。

 あれはわたしのためにラウルに辛い身の上話をさせてしまった日。

 あれはわたしの不注意でラウルが狼に変身するところを他の人に見られてしまった日。


 わたしがラウルを傷つけたんだ。

 わたしがラウルを苦しめたんだ。


 そんな風に考えていると、このまま倒れて別の世界へ逃げたくなる。

 でもそれじゃ駄目だから、気持ちをそらすためにラウル以外の人の、悪い人達の記憶を引っ張り出す。


 セバスチャン様が憎い。

 ダイアナ様が憎い。

 メラニーが憎い、イリスが、ドリスが、ハンナおばさまが憎い。


 他の人を憎んでいると、気持ちが少し楽になる。

 自分の失敗よりも深い罪がこの世にはいっぱいある。

 この銃をあの人達に向けて撃ったらどんなに気持ちがいいだろう。


 日が沈む頃、考える。

 何だろう、今日のわたしは、ラウルを愛している時間より、みんなを憎んでいる時間の方が長かった気がする。


 辛い。

 こんなに辛いのに神様が助けてくれないのは、わたしの心がきれいじゃなくなってしまったから?

 憎しみに満ちて醜く汚れてしまったから?

 このまま二人とも死んだとしても、天国と地獄で離れ離れになってしまうんじゃないかしら?

 猟銃は銃身が長すぎて、銃口を自分に向けると引き金に指が届かなくなる。


 新月が近づけば、月が空に昇る時間は遅くなる。

 まだ死にたくない、死なせたくない。

 わたしはラウルにかけるつもりの言葉を一人唱えた。


「あなたにはまだやることがあるわ」

 ちゃんと言えるように練習しておく。


「実の両親を捜しに行きましょう、今度はわたしも手伝うわ。

 育ての親のところへ押しかけましょう、わたしが代わりに引っぱたいてあげるわ」

 ちゃんと言えるように。


「薔薇が枯れても次の場所があるわ」

 つぶやきは空に向かって消えた。






 三日目の朝が来た。

 今夜が新月だ。


 目が覚めると番犬が居なくなっていた。

 疲れのせいで紐の結び方がいい加減になってしまっていたのだ。

 わたしは磁石を取り出して、今まで進んできた方角へそのまま進んだ。



 太陽は昇り、傾き。

 あせりと不安でつぶされそうになりながら、日が没して足もとが危うくなってからもわたしは歩き続けた。


 本当にこっちで合っているのかしら。

 もうすでに手遅れなんじゃないかしら。

 足もとがフラフラする。

 時間も空間もわたしの周りだけグニャグニャしているように感じて、くたびれ果てて何度も倒れて、それでもランタンを手にひたすら進む。



 ……聞こえた。

 狼の遠吠えだ。

 もう一度、聞こえた。

 幻聴じゃない。


 胸が高鳴る。

 声を頼りにそちらへ走る。

 また聞こえた。

 近い。

 わたしは走った。



 息を切らして茂みを掻き分ける。

 開けた場所に星明りがそそぎ、闇の中で狼達の目が光っていた。

 わたしが狼達の姿を確認した時には、彼らの視線はすでにわたしに集まっていた。

 ランタンの光を見られて気づかれた。

 そんな注意もできないほどに、わたしの意識は弱っていたのだ。


 夜露で湿ったにおいをただよわせている草の上、輪になって並んだ狼達に完全に取り囲まれた中央で、ラウルは目を閉じたまま仰向けに倒れて、動物でいう“服従のポーズ”で腹を見せていて…… 

 その上に、群れの中でもひときわ大きなボス狼が馬乗りになって、ラウルの首の辺りのニオイを嗅いでいた。


 わたしを見ていないのはボス狼だけだった。

 気づいていても構う必要はないと思われているのだ。

 ボス狼の口がラウルの首もとにある。

 わたしはランタンを投げ捨てて、ボス狼に向けて猟銃を撃った。


 ダーン!!


 人生で初めての発砲だった。

 ……それで当てられるはずがなかった。

 弾はあさっての方向へ飛び去り、わたしは反動でひっくり返った。


 銃を落としそうになり、必死でこらえる。

 だけど距離があったはずのボス狼が一瞬でわたしに飛びかかり、猟銃をその大きな口でくわえて奪い、投げ捨てた。

 群れを率いる壮年の狼は、過去に何度も猟師に狙われてきたから、人間は武器がなければ何の抵抗もできない無力な生き物なのを知っているのだ。

 頭のすぐ脇でランタンの炎が揺れる。

 ボス狼は、今度はわたしに馬乗りになって、鋭い目でわたしを見下ろしていた。

「お願い……ラウルを食べないで……」

 ランタンの光に浮かぶ視界は狭く、その世界をボス狼の牙が埋め尽くした。


 ダーン!!


 再び銃声が響いた。

 ラウルが猟銃を拾って、ボス狼に向けて構えたまま立っていた。

 弾は今度も当たらなかった。

 ラウルだって見よう見まねでやっているだけなのだ。


 群れの仲間に殺気が走った。

 ミミシロが咆えた。


 ボスが笑ったような気がした。

 狼は笑わないって教わっているけれど、それでも笑ったように感じた。


 ボスは悠々とした仕草でわたしに背を向けて、ラウルの隣を通り過ぎ、森の木々の向こう、茂みの向こうへ去っていった。

 群れの狼達もそれに従う。

 ミミシロだけが最後に少し振り返ったけど、結局、彼女も行ってしまった。




 ラウルは狼達が去った方向を見送って、わたしに背中を向ける形でたたずみ……

「熱っ」

 猟銃を投げ捨てた。

 弾を撃ったばかりの銃身に触れてしまったのだ。

 やけどした腕を舌でペロペロと舐める。

 完全な人の姿をしているのに、その仕草は獣じみていた。


 またラウルに助けられてしまった。

 またラウルに痛みを負わせてしまった。


「これでもう狼の群れに入ることもできなくなったな」

 ああ。わたしはラウルから最後の居場所まで奪ってしまったんだ。


 ランタンのちらつく明かりがラウルを照らす。

 人間の姿の背中には、狼男の時ほどの筋肉の盛り上がりはなくて、それでも懸命で優しくて、だからこそ悲しい。

 手のやけども地面に打ち据えられた際の擦り傷も掻き消すように消えていくけど、左肩のアイアンメイデンで刺された跡だけは、塞がってはいてもまだ痛々しく残っている。


 抱きしめたい。

 ここで抱きしめなければラウルはまた居なくなってしまう。

 だけどわたしはその左肩に手を伸ばせずにただ泣いた。


 フレデリック様への売り込みや、育ての両親や実の両親。

 言うべき言葉はいくつも用意していたはずなのに、涙で一つも声にならない。


「……ごめんなさい……」

 それだけしぼり出すのがやっとだった。

「そうじゃない、クローディア!! 違う、違うんだ!!」


 ラウルは向こうを向いたままブンブンと首を振った。

 辺りは静まり返っていて、鳥の声すらしなかった。


「警察署でダイアナが死んだって聞かされてもなかなか信じられなくて。

 俺の呪いだって言われてアイアンメイデンで串刺しにされて、でもこれでダイアナのところへ行けるって思って。


 目が覚めたら目の前に君の寝顔があって。

 あ、俺、一人じゃないのかもって思ったら、急に怖くなったんだ。

 この人も今に居なくなるんじゃないかって。


 満たされるのが怖かったんだ。

 満たされるって、別の世界の言葉だから。

 知らない世界へ行くのが怖くて、知らない世界で置き去りにされるのが怖くって、君の好意を知ってて逃げた」


 息を吸う。

 その音が震えてる。


「風の音がして振り返る度に、君が居るんじゃないかなんて期待した。

 情けないよな、自分から逃げたのにさ。

 俺は狼の仲間を捜しているはずなのに、振り返る時はいつも……

 狼でもダイアナの幽霊でもなく、君の姿を捜してた」


 ラウルはまだわたしに背中を向けたまま。


「なあ、クローディア。

 今度は幻じゃないんだよな。

 振り返っても誰も居ないなんてことはもうないんだよな」


 答えようとしても言葉が出なかった。

 だけどわたしの嗚咽はラウルの耳に届いているはず。


 ラウルが振り返った。

 わたしはラウルの胸に飛び込んだ。


 ラウルの手がわたしの背中に触れた。

 最初はためらいがちに、すぐに存在を確かめるように強く強く抱きしめる。

 空に月はなく、偽りは消え、遠い星々だけがわたし達を見守っていた。


 二人の物語に最後までお付き合いいただきありがとうございました!

 お気に召していただければ、そしてできれば評価・感想等いただければ幸いでございます!


 後日談「菊 ~chrysanthemum~」もよろしくお願いします!

  http://ncode.syosetu.com/n9071cx/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ