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薔薇の行方

 セバスチャン様が警察に連行されて、次の日の午後。

 メイドの仕事もあまりサボるわけにもいかず、洗濯を終えてラウルの寝室に戻ると、フレデリック様がラウルの上に乗っかっていた。


 わたしは目が点になった。

 ラウルはほぼ人間の姿のまんま、ベッドにうつ伏せになって、狼のしっぽだけを包帯の隙間から覗かせている。

 そしてフレデリック様はラウルに、怪我人の背中にまたがって、しっぽをぎゅうぎゅう引っ張っていた。

 状況が理解できた時には、わたしは椅子を掴んでフレデリック様に殴りかかっていた。


「おわっ! ちょ! 待ちたまえ!」

「違うんだ、クローディア。俺の方から話したいって言ったんだ……」

「そうだ! この庭師がボクに訊きたいことがあるって言うから、教えてほしければボクの質問に答えろって言ったんだ!

 そうしたらこいつが、自分が本物の狼男だって証拠にしっぽを出してきたんだ!」


「…………」

 わたしは警戒を続けながらゆっくりと椅子を下ろした。


「これで納得してもらえましたか?」

「うむ。じゅうぶんだ。何せ目の前で生えてきたのだからな、もはや疑う余地はない。

 約束だからな。知りたいことを話してやろう。ボクは約束は守る男だからな。

 セレーネ・ローズの花が咲いたかどうかだったな?」

「はい。それと、ダイアナ様に見てもらえたかを……」

「一輪だけ咲いたが、ダイアナの部屋からは見えない位置だった。

 ダイアナはずっと部屋から出ていないから、生前は見ていないはずだぞ」


 生前。

 その単語にラウルの肩がピクリと震えた。


「その薔薇はボクが摘ませてもらった。

 文句を言える奴なんてこの別荘には一人も居ないからな。

 胸に飾って、時々手に持って眺めたりしていたんだが、いつの間にかなくなっていてね。

 ボクはたかが薔薇一輪をわざわざ捜して回ったんだ。

 薔薇を落としたのは教会の床でね、神父が拾ってダイアナの棺に入れたそうだよ。

 棺の前に持ってきたんだからそういうことだろうと勝手に決めつけられてしまってね」


 棺。

 ラウルの指がシーツを掴んだ。


「死者から取り戻す気にはなれなかったんでそのまま埋めたよ。惜しいとは思ったがね」

「ダイアナは……死んだんですね……」

 呼び名から“様”が消えていた。

 きっと子供の頃はそう呼んでいたのだ。


「うん? 昨日ので聞いたと思っていたが?」

「あの時は耳鳴りがひどくて……」


 それのせいだけじゃない。

 聞かないようにしていたのよ。


 ダイアナ様が亡くなったことは警察でも聞かされている。

 でもその時は、本当なのか脅しのための嘘なのかわからなかった。

 だから嘘だと思い込もうとしていた。


 でも、フレデリック様に言われてしまったらどうしようもない。

 わたしが椅子に目を戻すと、フレデリック様がその椅子にしっかりしがみついてガードしていた。


「いいんだ、クローディア」

「ラウル?」

「ありがとうございます、フレデリック様……神父様にもお礼を言わないと……」

「ラウル……」

「クローディアも……ありがとう……ごめん、しばらく一人にしてくれ……」

 そしてわたしに背中を向けた。

 傷が開いてしまったのか、包帯に血がにじんでいた。


 ラウル……わたしはあなたが……

 泣き喚きたいなら抱きしめて慰めたい。

 安らぎたいなら手を取って一緒に祈りたい。


 だけど何をしたいのかラウル自身も決めかねている。

 わたしは何もできなかった。


 ラウルはその日の夜はひどい熱を出してうなされた。

 けれど翌日からは食欲も出て、傷の治りは早くなった。






 セバスチャン様が逮捕されてから二日。

 ロンドンから手紙が三通、同時に届いた。


 一通はフレデリック様へお母様から。

 いつまでも遊んでいるなと叱られて、フレデリック様は慌てて荷物をまとめて一人ロンドンへ帰っていった。


 もう一通は使用人に宛てたもので、別荘を売りに出したことと、別荘の買い手がつくまでは今居る使用人に建物の管理や番犬の世話を任せる旨が書かれていた。


 三通目はハンナおばさまへ、ダイアナ様のご両親から。

 手紙を見るなりハンナおばさまはひどく不機嫌になった。

 また雇ってほしいと頼んだ返事は、色よいものではなかったらしい。






 さらに翌日、わたしは番犬五頭を一度に連れて森へ散歩に出た。

 五本のリードを操るのは思ったよりも大変で、半日がかりの作業になった。


 さんざん振り回されてクタクタになって、夕方どうにか別荘に戻ると、門の前で番犬が急に吠え出した。

 この吠え方には覚えがあった。


「ラウル?」

 呼びかける。

 門柱の陰から姿を現した細身の青年は、包帯はもう必要なく、きっちりと服を着込んで、手には大きなカバンを提げていた。


 番犬がラウルに飛びかろうとして、わたしは慌てて引き止めた。

「一回ぐらい撫でたかったな」

 ラウルは寂しげに頭を掻いた。

 どこまでも穏やかな仕草だった。


「ラウル……出ていくの?」

「ああ。

 君にだけはちゃんと挨拶しておこうと思って。

 何もかもありがとう」

「どうして……?」

「いつも追い出されたり置き去りにされてばっかりだったからな。

 たまには自分から居なくなってみるのもいいかな、って」


 こうして話している間も、番犬は低く唸り続けている。


「これからどうするの……?」

「狼の群れに入るつもりだ」

「入れてもらえるの?」

「ボスにはいつでも来いって言われてる」


「狼が、近くに居るの?」

 急に脅え出したわたしに、ラウルはクスッと笑って肩をすくめた。

「そんなすぐ傍じゃあないよ。

 人間達が森の中で騒いでたんで、今は離れた場所に行ってるんだ。

 森は広いからな。

 でも四日後には会える」

「ラウル……」


 行かないでほしい。


「ねえラウル」

 行かないで。

「ちょっと待って」

 行かないで。

「例えばほら」

 行かないで。


 ラウルは儚い微笑を浮かべてわたしを見つめている。


「生まれ故郷へ行って本当の家族を捜してみるのは?」

「何度もやってみたけど収穫はなかったよ」


「養父母のところへ押しかけるのは?」

 ラウルは黙って首を横に振った。


「フレデリック様に雇ってもらえるように頼んでみるのは?」

「人のしっぽを引っ張るような人だぞ」


 わたしはハッとなってうつむいた。

 わたしもラウルのしっぽに触れてみたいな、なんて、軽々しく考えてしまっていたから。


 わたしはラウルが人として生きたいって望んでいたのを知っている。

 だけど人の世界が狼男を受け入れないのを見せつけられた。

 ラウルに行かないでほしいなんて願うのは、わたしのわがままだ。


 でも……だったら……


「わたしを噛んで!」

「クローディア……」

「わたしも連れていって!! わたしも狼女にして!!」

「駄目だよ、クローディア。

 君がちゃんと人間として暮らしてるところを想像するだけで、俺、少しは幸せになれるから」


 何も言えなかった。

 泣かないようにしているだけで精一杯だった。


「君を忘れない。

 でも君は、俺みたいな狼男なんかのことは忘れてくれ」


 嫌だ。

 泣きたくない。

 ラウルを哀れんで泣いているみたいに思われたくない。

 追い出され……置き去りにされ……

 ラウルは“捨てられた”という言葉をわざと避けてた。

 これはあくまでわたしのための涙。

 わたしが悲しいからの涙。

 そんなものラウルには見せられない。


「じゃあ、元気でな」

「うん……さようなら……」


 ラウルは最後まで微笑み続けていた。

 その瞳はどこまでも透き通っていた。


 ラウルの姿が見えなくなるのを待ってから、わたしは泣き崩れた。

 わたしはラウルを守れなかった。

 ラウルの背中は、いつかの悲しい予感のように、森の緑の向こうに消えた。




 別荘に戻ると、二人部屋の寝室からメラニーの荷物が消えていて、机の上に置き手紙があった。 

『狼男と暮らすなんて怖いから出て行くね。

 クローディアも食べられないように気をつけてね』

 結局、最後までわかってもらえなかった。

 ううん、メラニーは最後まで“自分は悪くない”から逃れられなかったのだ。


 ハンナおばさまも、書き置きはないけれど部屋は空っぽになっていた。

 二人とも荷造りはあらかじめしてあったのだ。






 ラウルが出て行ってみんなも居なくなって、一人ぼっちになった次の日も、わたしは犬の散歩をしていた。

 別にいつまでもここに居たいってわけじゃない。

 だけど他に行きたい場所なんて思いつかない。


 犬を連れて森を歩く。

 木漏れ日の下で犬が何かを見つけた。

 ラウルのカバンが捨てられていた。


 犬が引っかいて蓋が開いた。

 中身は着替えと、園芸の本。

 それにお財布まであった。


 狼として暮らすのに、人間の荷物は必要ないのね。

 使わないなら部屋に置いていっても良かったのに。

 何度も襲った寂しさが、しつこくまた込み上げてくる。

 部屋を空にしたのは、もう戻らないっていう決心の現われなんだわ。



 カバンの近くには最後に逢った時に着ていた上着が、その少し先にはシャツが、点々と落ちていた。

 脱ぎ捨てられた靴と靴下。

 裸足の足跡の先にズボンと下着。

 人の足跡が小石を踏んで、そこからは狼の足跡に変わる。


 ……嫌な感じで心臓が跳ねた。


 ラウルの言葉を思い出す。

 狼男は、満月の夜には人間の姿でいられない。

 新月の夜には狼の姿になれない。

 新月が来たらどうするのかしら?

 その日だけ群れから離れるのかしら?


 ラウルは四日後に狼の群れに加わるって言っていた。

 一日経って、三日後になっている。

 その三日後が、ちょうど新月だ。


 人間の姿で狼の群れに入って……

 それはつまり……


「ああああああああああああああああッ!!」


 わたしは別荘に駆け戻った。

 庭園では枯れ落ちた薔薇の葉が風に舞っていた。


 ラウルが食べられちゃう!!

 狼に食べられちゃう!!

 狼男ではなくただの一人の人間として狼に食べられてしまう!!


 ラウルはずっと眠ったままだったから、今が何日かわかっていないの?

 それともわかった上でなの?


 どちらでも同じ。

 ラウルの行く先は薔薇の行った先。

 自分もあの一輪だけ咲いたセレーネ・ローズのようになろうとしている!!




 わたしは元・管理人夫婦の部屋に飛び込み、猟銃を手に取った。

 ピーターソン先生の隠れ家の近くで崖から落ちた際になくしたものを、セバスチャン様が逮捕される前に回収して、手入れして、危なくないように弾を抜いておいたのだ。


 震える指で弾を込め直す。

 手が滑って何度も落とした。

 それでもどうにか装填を終えて、わたしは猟銃を胸に強く抱きしめた。


 もうすぐ月のない夜が来る。

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