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月の罪

 夜には満月が昇るはず。

 その朝は、怖いぐらいの快晴だった。


 ダイアナ様の部屋の前に立ち、ドアに額を押し当てて考える。

 ここでストレートにダイアナ様の嘘を追及したらどうなる?

 ご機嫌を損ねて、セバスチャン様を呼ばれて、部屋から摘み出されてそれでお終い。

 チャンスは一回しかない。

 しっかりと準備をするのよ。


 三日月の夜、何があったのか?

 一つ一つ思い出す。

 あの時はわたしはラウルがわたしを助けてくれた狼男さんだとは知らなかった。


 ラウルの臭覚なら犯人を突き止めることができたはず。

 それなのにそうしなかったのは、それをすればラウルが狼男だってバレるから。


 ラウルはあの時、ドアに耳を押し当てて、誰かが居るんじゃないかって訊いた。

 ラウルは鼻だけでなく耳もいいのだ。


 ダイアナ様は自分しか居ないって答えた。

 だけどダイアナ様の言葉は嘘だらけだ。


 ラウルはあの時、何て言った?

 ダイアナ様のお部屋に誰かが居るんじゃないか。

 クローゼットの中やベッドの下やバルコニーに。


 違う。

 ラウルが言ったのはクローゼットだけだ。

 他はわたしが言った。


 わたしはあの時、思いついたものを片っ端から上げていった。

 だけどラウルが言ったのはクローゼットだけだ。






 ダイアナ様のお部屋に入り、レディメイドとしての挨拶を済ませてから、室内を見渡す。

 あの日、ドアの外に居たラウルは、誰かが立てる音を聞いたのだ。


 クローゼットの方に目をやる。

 部屋のドアと、クローゼットのドア。

 二つのドアを通した音。

 だからラウルはそれがクローゼットだと考えた。

 フランク様が殺された夜、奥様の部屋のクローゼットの中に、奥様ではない誰かが居た。


 わたしは奥様の服を選ぶフリをしてクローゼットを開けた。

 床は掃除されている。

 それはわかっている。

 わたしが掃除したのだ。

 イリスやドリスやメラニーもやっただろうけれど、最初に掃除したのはわたしだ。

 隠れていた人の痕跡は、あったとしても、すでに拭き取られていた。


 それでも何かないかと探していると、あるドレスの裾が目に入った。

 フランク様が殺害されて以来、奥様は黒い服ばかりを着続けている。

 ずっとほったらかしにされていた、今の季節にはふさわしいさわやかな緑色のドレスの裾に……

 慌てて隠れたせいで落として踏んでしまったのだろうか……

 足跡が残っていた。


 大きさからして成人男性。

 爪があって、肉球がある。

 だけどラウルのものではない。

 納屋にあったラウルの足跡は、人差し指が長くて小指が短かった。

 ここにある足跡は、人差し指と小指がほぼ同じ長さだ。


 間違いない。

 第二の狼男が、ダイアナ様の愛人だったのだ。






 緑の服にじっと見入っていると、ダイアナ様に「黒にしてちょうだい」と言われた。

 黒は何着もある。

「こちらでよろしいでしょうか?」

「ええ」

 落ち着いたデザインのドレス。

 服に合う髪型を考え、くしを手に取った。


 貴婦人の方へ振り返りながら窓に目をやる。

 フレデリック様とセバスチャン様が、薔薇を指差して何か話している。


 フレデリック様はラウルを助けるつもりはないけれど、セレーネ・ローズには興味があるらしい。

 お願いだからラウル以外の庭師を連れてこようなんて考えないで。


 二人が何を話しているのか。

 距離があるので聞こえない。

 つまりこちらの会話が聞かれてしまう心配もない。


 貴婦人の髪をとかしながら話しかける。

 闇より黒い艶やかな髪が、月のように青白い肌を引き立てる。


 まずは、できるだけ穏やかに。

 あくまでも何気ない世間話を装って、ラウルのことを考えさせて、貴婦人の心に揺さぶりをかける。


「このお部屋……お屋敷全体がそうなんですけど……ずっと使われていなかった割には痛んでいませんよね?

 このお部屋もラウルが手入れをしていたのでしょうか?」

「いえ、室内のことは管理人夫婦が」

 軽く空振り。

 この程度ではメゲない。


「庭の薔薇が咲くのはもうすぐでしょうか」

「ええ、そうね」

「でもラウルが居ないと駄目かもしれませんね」

「ええ……そうね……」


 わたしと貴婦人の視線は自然と庭へ向かった。

 フレデリック様は居なくなっていて……

 セバスチャン様だけが、まるでラウルの代わりができるとでも思っているかのように、セレーネ・ローズの生け垣の間を歩き回っていた。



「子供の頃……ラウルとは、ずっと一緒に暮らしていたの。

 わたくしは体が弱いせいで狭い世界に閉じ込められて、ラウルだけがわたくしの寂しさを癒してくれた。

 でも、両親に見つかって引き離されてしまった……」


 森で拾って、犬のように飼っていたのよね。

 狼だってバレて捨てられて、人間になって戻ってきた。


「ずっとラウルに会いたかった。

 ラウルを閉じ込めていたクローゼットは、わたくしの世界よりも狭い世界。

 ラウルを捜すために一人で屋敷の外へ出て、そして初めて自分が幼いラウルに犯した罪の重さを知りました。


 再会したラウルは、わたくしの知らない世界を知っていました。

 それはとても辛い世界だったけれど、それでもわたくしの知らない世界だというだけでわたくしはそれを羨ましく感じました。


 わたくしと再会して、また同じ屋敷で一緒に暮らせるようになって……

 でもそれは、ラウルを再び狭い世界に閉じ込めてしまうことでした。

 わたくしの知っている世界に。

 だからわたくしはラウルを屋敷から出しました。


 別荘はわたくしも知っている世界ではあるけれど、わたくしの居ない別荘はわたくしの知らない世界。

 それにラウルは健康な子です。

 森の中は不便だけれど、そこから村にも町にも行ける。

 町へ行けば汽車に乗ってもっと遠くへも行ける。

 わたくしのように付き添いが居なくても、ラウルなら一人で汽車に乗れる。

 ラウルにはわたくしの知らない世界を知ってほしい。

 ラウルにはわたくしのような思いは……狭い世界で寂しい思いはさせたくなかったのです」


 実際にはラウルは手間のかかる薔薇の世話にかかりっきりで、別荘と学校を往復するだけの暮らしを送ってきた。


「あの……クローディアさん?」

「あ……はい、奥様」


 髪はとっくに結い上がっている。

 わたしの手が止まっているのを不審に感じさせてしまったようだ。


 この国では大人の女性は髪はアップに結う。

 わたしも年齢的にはそろそろアップにした方がいいのかもしれない。

 その時は、最初にラウルに見てほしい。


 コルセットを取り出して貴婦人にまとわせる。

 ウエストを締め上げる上等で上品なその下着は、見ているだけで息苦しい気持ちにさせられる。


「わたくしはフランクと結婚をしました。

 政略結婚ですが、何の不満もありませんでした。

 年が離れていることを不自然だと言う人も居ました。

 フランクが仕事で留守がちなことを不憫だという人も居ました。

 ですがフランクは、わたくしと年の近い殿方はもちろん、フランクと同年代の殿方よりもたくさんの国を旅して広い世界を知っていました。

 わたくしに関する悪い噂が流れているのは知っています。

 フランクに絶対の誠実さを誓っていたかと問われれば、迷いなくうなずくことはできません。

 だからといってわたくしがフランクが語る世界を愛していたという事実に変わりはありません」


 コルセットの紐を締め上げる瞬間は、着せられる方も苦しいけれど、着せる方も緊張する。

 互いの間に沈黙が落ちる。

 だけど紐を結び終えると貴婦人はすぐにまた唇を開いた。


「クローディアさんは、人の話を黙って聞く方なのですね。

 ロンドンのお屋敷でのレディメイドはとてもおしゃべりでした。

 使用人の世界はわたくしの知らない世界。

 だけどやっぱり住み込みの使用人ではどうしても狭い世界になってしまって……

 身内の陰口や噂話ばかりで退屈でした。


 ハンナも、ね。


 ああ、セバスチャンは陰口が大嫌いなので余計に退屈でした。

 出かける時はだいたいいつもフランクと一緒なのだから、わたくしの知らないフランクの姿を聞かせてほしいのに。

 フランク自身がわたくしに見せたがっている整頓された姿ばかりを見繕って話すからつまらないのですわ。


 わたくしは自分の世界を広げたかった。

 だからいろいろな人と仲良くなろうとした。

 それが、悪い噂の原因」


 最初に用意した堅苦しい真っ黒なドレスをお着せする。


「別荘での静養、楽しみにしていましたのよ。

 久しぶりに汽車に乗って……

 わたくしが辛そうに見えました?

 確かに移動は体力を使いますわ。

 でもとても楽しかったんですのよ」


 背中のボタンをできるだけゆっくりと閉める。


「馬車に乗って……

 町も村も、子供の頃に見たきりだけど、何も変わっていなかった。

 ロンドンのような慌しさはない。

 のどかで良いのかもしれませんが、一度見た景色を二度見てもつまらないですわね」


 袖口と、スカートの裾を整える。


「ああ、森の空気は好きですわ。

 独特の匂いがありますもの……」


 貴婦人のあるべき姿が整っていく。

 美しいドレスと、美しい記憶。


「木々の向こうに別荘が見えてすぐに、ラウルが門から飛び出してきましたわ。

 馬車の音を聞きつけたんですのね。

 ラウルはすっかり大きくなって、すっかり男らしくなっていた。

 そして変わらずわたくしに忠実だった」


 貴婦人は森の中での出来事を飛ばそうとした。

 わたしは、そうはさせじと宝石箱に手を伸ばした。


「その前にお化粧を……」

「……かしこまりました」


 この貴婦人は肌が弱いので化粧をあまりしない。

 化粧などしなくても、ろくに日に当たっていない肌は充分に美しい。

 それでも今日はお化粧をなさるというのは、夫の従弟であるフレデリック様を、気楽につき合う親戚ではなく、お客様として捉えているからだろう。


 化粧をしている時は口を閉じるので会話はない。

 化粧は偽りの象徴。

 その化粧を施す間、貴婦人は死人のように口をつぐんだ。


 わたしは宝石箱の中から雫形のイヤリングを選び出し、貴婦人の耳にお着けした。

 フランク様から贈られ、森で落としたはずのイヤリングを。

 右と、左。

 両耳に。


「両方、そろっていますね」

「ええ。……え?」

「奥様、あの時、どうしてイヤリングを落としたなんて嘘をおつきになられたのですか?」

「……なんの……ことでしょう……?」


「ラウルから聞いています。

 あの三日月の夜にあなたが本当にイヤリングを落としていたなら、それはまだ森のどこかにあるはずです。

 なのにこうして両方そろっている。

 あなたはイヤリングを落としてはいない!

 それなのに落としたと嘘をついて馬車を止めさせ、わたしとセバスチャン様にイヤリングを捜させて、馬車から、あなたから、遠ざけた!


 その間にあなたはいったい何をなさっていたのですか!?

 当てて見せましょう!

 それは、別荘に着いてからではできないことだった!

 それは、人に見られてはならないことだった!

 それは、あなたが別荘送りにされた理由と……静養なんていう表向きの理由ではない、本当の理由と……関係の深いことだった!

 あの時あなたは森の中で愛人と連絡を取っていたんです!!


 そしてわたしを森に残した。

 レディメイドであるわたしは、フランク様がダイアナ様の不倫を監視するために用意したスパイ。

 実際にはその命令は届いていませんでしたが、あなたはわたしがソレだと思い込んでいた。

 そしてそのわたしが居ない間に、あなたは愛人を別荘に連れ込んだ。


 スパイが別荘に着いてしまえば、愛人と密会できるチャンスはぐっと少なくなる。

 だから最初の日にいきなり愛人を連れ込んだ。


 ところがここで思いがけないことが起きた。

 ロンドンに居るはずのフランク様が、初日にいきなり別荘に来てしまった。


 主人と鉢合わせした愛人との間に、どんなやり取りがあったか、あるいは話す暇もなかったか……

 愛人はフランク様を殺してしまった。


 あなたは愛人をクローゼットに隠して知らぬ存ぜぬを決め込んだ。

 クローゼットの床はキレイでしたけれどね、中にかけられたドレスの裾に、愛人が踏んづけた跡が残っていましたよ。


 ラウルはその人の存在に気づいていた!!

 だけど告発はしなかった!!

 あなたがかばっている人をラウルもかばった!!

 そしてラウルが、ラウル一人だけが犯人にされてしまった……!!」


 わたしは一息ついて宝石箱から髪飾りを取り出した。

 仕上げのために貴婦人の髪に触れる。

 最初に触れた時のようなリラックスした雰囲気はもうなかった。


 美しい黒髪。

 不健康な色だけれど、すべらかな肌。

 細い首筋を締め上げてやりたい衝動を抑える。

 彼女の証言が必要なのに、喉をつぶしてはいけないのだから。


 貴婦人は青ざめて震えていた。

 髪も服も全て整い、貴婦人の身支度は完成した。

 だけど貴婦人は化粧台の椅子に座ったまま鏡の中の自分の姿を呆然と見つめ続けて……

 わたしから逃げようとはしていなかった。


「ラウルは大丈夫ですわよね? 警察の方ってどなたも親切ですし」

「はァ!? 何なんですかその世間知らずは!? それはあなたが貴族の家に生まれた人だからそうしているだけです!!」

「そんな……! でも……だって……」

「ラウルは拷問されています!! 鞭で打たれて……!! 狼男の正体を表せって……!!」


 わたしにとって辛い事実が、貴婦人にも辛く感じられるものであってほしい。

 それは、それだけは、叶えられた。


 貴婦人の目が見開かれた。


「どうしてラウルは逃げ出さないのですか!?

 あの子には狼の群れを一人で追い払えるほどの力があるのですよ!?

 こんな田舎の警察なんてどうせ人数も少ないですし、あの子なら簡単にやっつけられるはずではありませんか!?」

「警官は銃を持っているし、留置場には鉄格子がついてるんですよ!?

 まさかそんなことすらご存知ないんですか!?


 ラウルは今夜には……

 満月が昇って狼に変身したら……

 迷信に踊らされた村人達に殺されてしまいます!!

 アイアンメイデンで串刺しにされて!!

 ラウルはちょっとの怪我ならすぐに治るけど、即死するような怪我の場合にどうなるのかはラウル本人にもわからない!!


 裁判なんて開かれません!!

 みんなラウルを人間ではなくバケモノだと思っているから!!

 あんな優しいラウルを!!


 警察も教会も止めてなんてくれない!!

 いいえ、今こうしている間にも、そろって暴走を始めてしまうかもしれない!!」


 貴婦人が泣き始め、ついさっき施したばかりの化粧が崩れた。


 太陽は咎めるように強い光を東側の窓から投げ込む。

 月が昇るまで半日。

 そしてそれがラウルの……

 薔薇を愛し、土と肥料にまみれて微笑んでいた青年のタイムリミット。


「奥様。別荘に着いて、それからどうなさったんですか?」

「……ラウルがわたくしを出迎えて……ラウルはとても喜んでくれて……」

「その後です」

「部屋で少し休んで、それから遅い夕食を取りました」


「それから?」


「セバスチャンに、クローディアさんを探しに行くよう命じようとしました。

 でもセバスチャンは、ラウルに行かせた方がいいと言いました。

 ラウルの方が森に詳しいはずだから、と。

 ラウルはわたくしが頼むとすぐに飛び出していきました。

 その背中を見送ってから、わたくしはラウルがニオイに敏感なことを思い出しました。

 あの子が屋敷に居たのでは“あの人”の存在に気づかれてしまいます。

 セバスチャンはラウルが狼男だなんて知らないし、今でも狼男の存在を信じていないようですが……

 偶然とはいえセバスチャンの提案は完全にわたくしの都合に合っていました」


「それから?」


「それからわたくしは……

 使用人が寝静まるのを待って……

 バルコニーに出ました。

 ランプシェイドを開け閉めすることで光を操って、庭園に潜んでいた“あの人”に合図を送りました。

“あの人”もランタンを使って返事をしました」


「それから?」


「森の中で打ち合わせした通り“あの人”は裏口へ回りました。

 わたくしも“あの人”も知らなかったのです。

 わたくしの部屋の前でフランクが待ち構えていただなんて!

 フランクの悲鳴を聞いて部屋から飛び出した時にはもう……!!」


 貴婦人の言葉が詰まり、わたしが引き継ぐ。


「愛人がフランク様を殺していた」


 貴婦人は、それには答えず、ただ微笑んだ。


「森の中で“あの人”が合図を送っているのに気づいて馬車を止めて……

 クローディアさんとセバスチャンを、落としてもいないイヤリングを探させるために馬車から遠ざけた時……

 セバスチャンの手帳が御者台に置きっぱなしにされているのに気づいたんです。


 しっかり者のセバスチャンには珍しいことです。

 滅多にないチャンスです。


 わたくし達は手帳を見ました。

 明日の昼にフランクが別荘に来ると書いてありました。

 そしてそれはわたくしには秘密にするようにと書かれていました。


 抜き打ちでくること自体は予想通りでしたが、こんなに早いというのは驚きました。

 ならば逢瀬はその前に済ますしかないとわたくし達は考えました。


 あの夜にフランクが居るはずはなかったのです。

 手帳には翌日だと書いてあったのです」


 貴婦人はふらふらと立ち上がって窓へと歩いた。

 窓を開けるなんてメイドに命じてやらせるべき仕事なのに、貴婦人は自ら窓を開けた。

 薔薇の生垣の合間では、セバスチャン様の白髪交じりの頭が相変わらず見え隠れしていた。


「月は罪。いっそ消えてなくなってしまえばいいのに」

 そうつぶやき、月の女神の名を持つ貴婦人がバルコニーへと踏み出す。


(自殺でもするつもりなの?)


 バルコニーの手すりは高く、貴婦人のドレスの裾は長い。

 もしも危険な動きをしても、手すりを乗り越える前に止められる。

 そう判断して、わたしは貴婦人と適当な距離を保って背後に立った。


「わたくしが夫を殺したのです」


 嘘だ。

 この貴婦人にあんな殺し方をする力はない。


「おろかなフランク。

“あの人”も、ね。

 二人とも、わたくしの愛人が“あの人”一人だけだと思っていらした……


“あの人”と出会う前はセバスチャンがわたくしの相手でしたの。

 会話が面白くなかったのですぐに終わりましたけれどね。


 フレデリックも悪くはありません。

 夫の遺産が目当てと言われても別に気にはしませんわ。

 それはそれで興味深い世界です。


 わたくしがフレデリックをしとねに誘わない理由は一つだけ。

 あの方はいかにも口が軽そうだからです。


 おしゃべりが上手で、おしゃべりではない。

 この両方を満たす殿方は貴重な宝石のようなものです。

 ですから運よく出逢えた時は、宝石にするように貪欲に手を伸ばしてきました」


 貴婦人がバルコニーの中央に歩み出た。

 強い日差しが影を濃くして、逆光で表情が見えなくなった。


「ああ、信じられないでしょうけれども、わたくしはフランクを本気で愛していました。

 他は全て好奇心。

 愛情ではありません。

 愛していたのはフランクだけです。

 ふしだらな女とお思いでしょうね?

 ですが、高き山に登ることも遠き海へ漕ぎ出すことも叶わぬ我が身にとって、世を知る男に触れることだけが、世界を広げることなのです」


 貴婦人が手すりに近づく。

 視線は低い。

 セレーネ・ローズを見ているのだろうか?


「安心なさい。

 ラウルに“だけ”は手を出していませんわ。

 あの子をそんな風に扱うほどにはわたくしも恥知らずではありません」


 手すりの前で立ち止まり、振り返る。


「わたくしがフランクを殺しました」


「嘘です。

 あなたにあんな殺し方をする力はありません」


「“あの人”はご自分が何をなさったかわかっていないようでした。

 ですからわたくしは“あの人”に申しました。

 これはわたくしの罪なのだと」


 貴婦人の背後で、何かが光ったように見えた。

 広い庭の、遠い隅っこの茂みの奥で。


「わたくしの罪なのです」


 わたしは庭を覗こうとした。

 その時ちょうど貴婦人がよろめいて、バルコニーの手すりに背中をぶつけた。


 落ちるようなぶつかり方ではなかった。

 自ら落ちようとしていたわけでは決してなかった。


 一瞬だった。

 バルコニーの手すりが壊れた。


 ダイアナ様は助けを求めるように手を伸ばした。

 わたしはその手を掴もうとしたけれどもわずかに届かなかった。


 ダイアナ様の姿がわたしの視界から消えて、下から嫌な音が響いた。


 背中からぶつかって、後ろから落ちた。

 手すりの上半分が壊れ、下半分に引っかかった体が回転して、頭から落ちた。



 わたしはバルコニーの床にペタンとへたり込んだ。

 庭のセバスチャン様が大慌てで駆けてくるのが見えた。


 ここはほんの二階に過ぎない。

 打ち所がよっぽど悪くない限りは命に別状はないはず。

 よっぽど悪くない限りは……


 怖いぐらいの快晴の空に、セバスチャン様の悲鳴が響いた。

「何ということだ!! ダイアナ様が死んでしまった!!」

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