三日月と牙の夜 前編
空に三日月。
森の中。
狼の群れに囲まれて、わたしはどうしてこうなったのかを考えていた。
あれは昼過ぎに汽車を降りて馬車に乗り換え、ガス灯がやっと立てられ始めたぐらいの田舎の町を出て、花咲く村を二つ抜け、森に入ってしばらくした頃だった。
「セバスチャン様! 奥様が、馬車を止めてとおっしゃっています!」
わたしの声に、御者台の執事が手綱を引いた。
「乗り物酔いでございますか?」
問い返すセバスチャン様の声は、白髪交じりの落ち着いた外見の割りにちょっと甲高いけれど、穏やかなしゃべり方のおかげで聞きづらくはなかった。
「いえ、イヤリングを落とされたようで……わたし、捜してきます!」
そしてわたしは紺のスカートと白いエプロンと、亜麻色の長い髪をひるがえして馬車から飛び降りた。
この時は、すぐに見つかるとばかり思っていた。
けれど舗装も何もされていない小道に残った馬車の轍とその周辺を捜してもイヤリングはそこにはなかった。
奥様の方を振り返ると、涙のような透き通った雫形の宝石が右耳だけで揺れていた。
大粒でとてもキラキラしていた。
もう一度地面を見たけれどその片割れは見当たらなくて、念のために馬車の車体を調べてもどこにも引っかかってはいなかった。
「もしかしたら車輪に弾かれて遠くへ飛ばされてしまったのかもしれません」
わたしが言うと、奥様は困ったように頬に手を当てた。
「ごめんなさい、ええと、何ておっしゃったかしら?」
「クローディアでございます、奥様」
仕え始めてまだ三日。
いろいろ慌しかったし、年の近いメイドを同時に四人も新しく雇ったわけだから、覚えていただけていなくても無理はない。
アップに結った黒髪の下、ダイアナ様の肌は月光のように青ざめて、疲れも溜まっておられただろうし、やっぱり乗り物酔いもなさっていたのかもしれない。
二十歳の若さで自分の父親のような年齢のフランク様に嫁いで五年。
わたしも年齢だけは残り二年で二十歳だけれど、一介のメイドの身では一生わからないような波乱を体験なされているはず。
「クローディアさん、もう少し捜してちょうだい。お願いね。セバスチャンも。あのイヤリングは夫からいただいたものなの」
「かしこまりました、奥様」
わたしは道端の草を掻き分けてみたけれど見つからなかった。
セバスチャン様と一緒に茂みの奥へ入ってみても見つからない。
セバスチャン様と左右に分かれてもっと奥を捜してもやっぱり見つからない。
それで、もっと奥へ……もっと奥へ……と、入っていってしまって……
しばらく経って、遠くからセバスチャン様の声が聞こえて振り返ったら、馬車は木々の向こうに隠れて見えなくなってしまっていた。
「ダイアナ様の具合があまりよろしくありませんので、先に別荘へお連れします! 別荘までは一本道ですし、大した距離ではないから一人でも大丈夫ですね? もしイヤリングが見つからなくても、日が暮れるまでには引き上げるように!」
「かしこまりましたー!」
わたしはそう答えてしまった。
そう。わたしがこうなってしまった原因は、あの馬車に乗っていた三人ともが都会育ちだったから。
森というものの恐ろしさを、誰も知らなかったのだ。
結局イヤリングは見つからず、あきらめて引き返そうとしたら今度はもとの道が見つからず、進めば進むほどにわたしは森の奥深くへと迷い込んでしまったのだ。
そして日は暮れて空に三日月が冷たく輝き、野生の狼の、闇にまぎれる灰色の毛皮と、闇の中で光る金色の瞳が、群れをなしてわたしをグルリと取り囲んでいた。
群れのボスと思われるひときわ大きな狼が、わたしを正面から値踏みするように睨みつけている。
大きな牡牛でも引きずり倒しそうな、大きな牙を持つ大きな口。
ボスの両脇に控えた二頭が息を合わせて、ぞっとするようなジャンプ力でわたしに襲いかかり、わたしは思わず目を閉じた。
何かがぶつかる音と、地面に落ちる音が響いて、わたしはそっと目を開けた。
わたしの目の前に、背の高い灰色の人影があった。
その人影が、襲い来る二頭の狼を、左右の拳で殴り飛ばしたのだ。
わたしはハッと息を飲んだ。
何度も瞬きをして、目を擦った。
その人影は、人ではなかった。
顔はどう見ても狼だった。
鼻も口も狼だ。
全身は灰色の毛皮で覆われていて、服は着ていない。
だけど二本足で立つ姿勢や、肩や肘の関節は、人間のものにしか見えなかった。
「お、狼男……ッ!?」
わたしの震え声に、彼のピンと立った三角の耳がピクリと揺れた。
突然現れた半人半獣の怪物を前にして、狼達は目に見えて困惑していた。
わたしに向けたのとは明らかに異なる声で吠える。
脅えている。
その中で一頭だけ冷静なボス狼からの問いかけるような唸りに、狼男は牙を剥き出すことで答える。
狼男の方が上背があるので、狼達を見下ろす格好。
月下に光る爪と牙の鋭さは同等。
そして狼も狼男も、人間が鍛えてもこうはならない野生動物の筋肉をそなえている。
ただ、数では、狼男は圧倒的に不利だった。
取り巻きの中の血気盛んな一頭が、ターゲットをわたしから狼男に切り替えて跳びかかり、それに仲間が三頭続く。
それは呼吸を一つするぐらいの間だった。
狼男の伸びやかな蹴りが、最初の一頭の鼻にヒットし、続く二頭目を拳でねじ伏せながら重心を整え、三頭目の脇腹に回し蹴りを決めて、勢い良く吹き飛ばされた三頭目の体が、四頭目の狼の上に落ちる。
(今のうちに……!)
わたしは足音を忍ばせて狼の輪から抜け出そうとしたけれど、別の狼に回り込まれてしまった。
(でも……この仔……)
他の狼よりも体が小さく、耳の先だけ白い毛には何だかヌイグルミめいた雰囲気があって、他の仲間に比べてずいぶん弱そうに見える。
わたしは足下に落ちていた木の枝を拾って、耳の白い狼に殴りかかった。
そして次の瞬間に、わたしは星空を眺めていた。
小さな狼に、あっけなく押し倒されてしまったのだ。
木の枝がどうなったのかはわからないけれど、少なくともわたしの手の中にはなかった。
耳の白い狼の生暖かい息がわたしの顔にかかる。
小さくても、一頭だけでもこんなに強い。
狼とはそういう生き物なのだ。
その狼の群れに、わたしは取り囲まれている……
ボスが吠え、小さな狼がさっと身を引き、次の瞬間、狼男の爪が空気を切り裂いた。
「あなたは誰……?」
どうしてわたしを助けてくれるの?
ボスが再び吠えた。
今度のは号令だ。
狼の群れがわたし達から離れ、茂みの向こうへ消えていく。
最後の一頭、耳の先の白い狼だけが不満げにこちらを振り返ったけれど、結局は仲間とともに立ち去った。
「逃げ……た……?」
「引いたんだ。狼は、仲間を危険にさらすような狩りはしない」
獣の牙が邪魔しているのか、言葉はもそもそしていて聞き取りにくいし、声も低くてくぐもっている。
「怪我はないか?」
その茶色の瞳は穏やかで優しげで、間違いなく人間のものだった。
「は、はい! 大丈夫です! 転んだ時にちょっと擦り剥いただけで……あの……」
わたしは彼の瞳を見つめようとしたけれど、できなかった。
ドキドキ、したから。
狼男さんは近くの茂みにかがみ込み、何かを拾ってわたしに投げ渡した。
それは、ダイアナ様の雫形のイヤリングだった。
「あ、ありがとうございますっ。でも、どうして……?」
「……ニオイだ」
「あの、その……ほ、本当になんてお礼を言ったらいいか……」
「ついて来い。屋敷はこっちだ」
そう言ってクルリと向けた狼男さんの背中では、わたしを助けるために狼に噛まれ引っ掻かれして負った傷が赤く口を開いて、青白い月光に照らされていた。
夜の森の中を狼男さんは迷うそぶりも見せずに進み、わたしはその後ろについていく。
何もせずただ歩いているうちに、狼男さんの傷口は、まるで魔法でもかけたみたいに見る見るうちに塞がっていった。
「怖いか?」
「え?」
「だろうな」
「何がですか?」
「…………」
形の良い筋肉が毛皮越しでもうかがえた。
わたしはいつしか傷口でも進む先でもなく狼男さんの背中そのものに見惚れていた。
お屋敷までの道程で狼男さんは一度もわたしの方を振り返らなかったけれど、わたしの足音をしっかり聴いているみたいで、わたしが少しでも遅れたらその度に歩を緩めてくれた。
やがて轍の残る道に出て、番犬の吠え声が聞こえ、木々の向こうにお屋敷の屋根が見えてきたところで狼男さんが足を止めた。
「後は一人で行けるな?」
「え……?」
本当は、もう少し一緒に居たかった。
狼男さんは犬が嫌なんだろうなと何となく感じた。
引き止める理由なんてない。
何かお話をしたいけど、何か話すことがあるのかと問われれば何も思いつかない。
引き止めて良い理由がない。
わがままを言って嫌われたくない。
「あの……またお逢いできますか!?」
狼男さんは何も答えずに走り去ってしまった。
獣の足の速度だった。
一陣の風が木の葉を揺らした音だけが、いつまでもわたしの胸に残っていた。