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回らない地球

お父さんとは呼んでやらない

作者: 水谷 蜜柑

家出は始めてじゃなかった。

親と仲が悪い(というかお互い良くする気がない)から、あたしが学校で呼び出された後なんかはほとんど家に帰らなかった。そういうときは大抵掲示板で近くの手頃なおっさんを見繕って、ヤらせるなりして適当に済ませるのだ。

タダだし風呂も入れる。飯も食えるしベッドで寝れる。家より環境が良いことある。見返りが宿泊費の援交みたいなもんだ。


今日も香川の虐めで呼び出しを喰らって、それをサボってきたところだった。虐めが見つかるようなヘマはしなかったが、たぶん誰かがチクったんだろう。

掲示板を覗いて比較的近所にいたおっさんと連絡をとり、電車に乗ってその住所に向う最中、しょぼそうなヤンキー共に絡まれた。

一人のいきった野郎と、いかにも仕方なく連れてこられましたみたいな奴が二人だった。

この辺りはラブホも多くて治安も悪い。こんな奴らに絡まれるのは珍しいことじゃないが、ここまでしょぼい奴らは始めてだった。一人黙らせてちょいとビビらせてやればすぐに逃げそうだ。

引け腰でおらおら言っているヤンキーを華麗に無視し、急所に狙いを定めていたときだった。

「さ、佐紀子っ!」

大声が向こう側から聞こえてきて、見たことないサラリーマンが必死の形相で走ってきた。ヤンキーが三人揃ってそっちに振り向く。アホ丸出しだ。

きっと近くで何かトラブルがあったんだろう、おっさんが気を引いてるうちに後ろから蹴り入れてやろうか、と思案していると、そのおっさんがそのままあたしたちの方に来るではないか。

こいつらの仲間か?と疑っていると、

「さっ、佐紀子、こんな時間に何をしてるんだ、さ、さあ、帰るぞ!」

と言ってあたしの腕を強引に掴んで、そのまま引っ張って連れて行った。

「えっ、ちょっ、はぁっ!?」

訳が分からない。

だが訳が分からないのはあたしだけじゃないらしい。ヤンキー共もぽかーんとして突っ立っている。

とりあえず抵抗しようかとも思ったが、おっさんの力は想像以上に強く、振り解けない。無理やり走らされている状況だ。

必死なおっさんの顔に少しだけ恐怖を感じた。

「離せよっ!」

あたしがそう叫ぶと、おっさんはハッとしてあたしの方を振り向き、同時に後方を確認した。

「す、すまない!」

おっさんは手を離すと同時に頭を下げて謝ってきた。

「は?」

またもや訳が分からない。

なんでこのおっさんはいきなり謝ってるんだ?

何かしてくるんじゃないのか?

頭を上げたおっさんはあたしの疑惑の表情を見て察したのか、突然わたわたと弁解を始める。

「いや、そのだな……君がチンピラに襲われていたように見えたから……ええと……だから君を…………」

おっさんは自信なさげにぼそぼそと喋った。あたしはそれを聞いて不審がった。

「……要するに助けようとしてくれたってこと?」

「う、うん。でも怖い思いをさせてしまったみたいで……すまない」

またおっさんは頭を下げる。動機もそうだが、ここまで態度が低いと何か疑ってしまう。

本当に、親切心だけか?

自慢じゃないが、あたしの見た目は決してか弱い乙女みたいな感じじゃない。むしろ掛け離れてる。この歳くらいのおっさんだったら、嫌な目を向けてくることの方が多いんだけど。

「いや、別にいいんだけど……あ、そうだ」

いいこと思いついた。

「な、なんだ?」

「おっさんさ、家に家族いる?」

「え?いや、独り身だが……」

「じゃあさ、今晩あたしを泊めてくんない?」

「……は?」

「ヤらせてあげるからさ、いいだろ?」

あたしがそう言うとおっさんは露骨に顔を赤くして否定した。

「なっ……何を言ってるんだ君は!」

「あたし親に追い出されて帰れる家がないんだよねーあーおっさんが最後の頼みだったのになー今日は野宿かなーお金もないしー怖いなー女子高生が野宿なんてー」

もちろん嘘だ。しかも棒読み。

おっさんにたかろうとしているのは、単に気弱そうだからだ。掲示板なんかで家出の女を募集してるような奴よりは丸め込みやすそうだった。

別におっさんがだめなら、多少面倒だがそちらに行けばいい話だ。引っかかったらいいなー程度。

しかしおっさんはあたしの言葉を真摯に受け止めていた。あたしが喋り終わった後も、真剣な顔で何かを考えている。

少しの沈黙があって、こりゃだめかなと思い始めたとき、おっさんが口を開いた。

「……一晩だけなら」

「……まじで?」

「うん、女の子を野宿させるわけにはいかないからね」

おっさんは覚悟を決めたのか、さっきまでとは打って変わって凛々しくそう言い放った。

「夜、食べた?」

「いや……」

「そうか、私もまだなんだ。何か食べたいものはあるかい?」

「肉」

「即答か。じゃあ、私の家のの近所に焼肉屋さんがあるから、そこで食べて帰ろうか」

おっさんはそう言うと、ついてきて、と言って歩き出した。

……着いていっていいのか?

今までも掲示板でそこそこ優しい奴はいたけど、ほとんどコンビニで済まされた。どっか食べに行くって。

それどころかあたしの食べたいものまで。

親にだってそんなことされたことはなかった。

きっと、何か裏がある。そうに違いない。そうでなければこんな対応するはずがない。逃げられたら困るから、優しく装ってるだけだ。

しかし、おっさんの背中からはそんな気配は一切感じられない。

あたしはおっさんの慣れない優しさにもざもざしつつ、おっさんの後ろに続いた。




おっさんの名前は菱田将貴。四十一歳独身。どっかの会社の課長らしい。微妙だ。

歳のわりには若い見た目で、服装に気を遣えば三十代前半に見えないこともない、と思う。まだ腹は出てなくて、中背中肉。幸薄そうな顔で、眼鏡で誤魔化し切れないほどのクマがくたびれた印象を加速させる。

あたしはおっさんに助けられた(?)あと大人しく着いて行ったが、心の中ではずっと警戒していた。どう見ても怪しい。会って十分の女子高生相手に、嘘くさい身の上話をされただけで一晩泊まらせるなんて異常だ。

絶対何かある。

そう思って神経を張り詰めていたのだが、結果だけ言えば本当に何もなかった。本当に焼肉屋で焼肉食って(しかも食べ放題じゃない結構いいやつ)、おっさんが全部払って、おっさんの住むマンションに入れてもらった。

そしてあたしは今、風呂に入っている。

家に入ってすぐおっさんは「この時期は冷えるでしょ?お風呂入れるから入って」と言って、浴槽を洗って湯を沸かした。沸くまでの間二人で床に座ってテレビを見て、風呂が沸いたら半ば強制的に風呂に入れられた。

あたしが風呂に入ってるあいだに何かするのかとも思ったが、そんな物音もしない。それに、鞄の中にも盗られて困るようなものは残してない。

つまり、本当に風呂に入れてもらっているだけだ。

……何でだろう?

ここまでするなんて、本当におかしい。

あたしは親の影響で常に人を疑って生きてきた。人は自分が一番可愛いと思う生き物で、自分のためなら他人を蹴落とすことも厭わないのだ。他人を信用してはいけない。信頼してはいけない。決して。

あたしの母親が父親を信じて馬鹿を見たように。

信じるものは救われるなんて言うけど、そんなものは虚言だ。空っぽの嘘だ。信じるものは騙される。それが真理なのだ。

だからあたしは他人と深く関わろうとはしなかった。クラスにもよくつるむやつはいるが、表面だけの薄っぺらいもんだ。今日の呼び出しがあったから、たぶんもうあいつらをつるむことはないだろう。あたしのコミュニティなんてその程度だ。

でもあのおっさんは……菱田は何なんだ。もしあたしと一緒にいるのが知られたら罪を被るのは菱田だ。もしあたしがこの家の金を全部かっさらっていったら、泣きを見るのは菱田だ。リスクを被るのは菱田だけなのだ。

まったく、調子が狂う。

だがあたしは今、現にこうして久しぶりにゆっくり風呂に浸かれている。

一体、何なんだろう。この状況は。

菱田は。


あたしは存分に風呂を堪能したあと、タオル一枚巻いて風呂を出た。どうせヤるんだろうし、替えの服もない。

そう思ってリビングに戻ると、新聞を読んでいた菱田はあたしの格好を見て、また赤くなって慌てた。

「ああああごめん!パジャマなかったよね!下着も!どどどどうしよう私のパジャマしかないのだが……」

あたしはそんな菱田を冷めた目で見る。

「いや、このままでいいよ。どうせヤる時脱ぐんだから」

あたしがごく当たり前のことを言うと、菱田はより一層赤面した。もう真っ赤っかだ。

「や……ヤるわけないだろっ!まだ言ってるのか!」

「……は?」

「そんな、まだ会って、数時間しか経ってないおっさんに、そんなこと言っちゃだめだ!」

「う、うん……?」

菱田はやはり慌てた様子であたしに熱弁してきた。

そしてその後急に熱が冷めたように静かに言った。

「分かったか?」

「わ、分かったよ……」

「それじゃあ、私は今から下着とパジャマを買ってくるから。すぐ帰ってくる」

そう言って菱田は上着を羽織る。

「待てよ!」

「な、なんだ?センスは悪いかもしれないが、それは我慢してーー」

「ひ、菱田のパジャマでいいから!直も慣れてるし!」

あたしは菱田の言葉を遮って、止めた。

「そ、そうか……?でも四十過ぎたおっさんのパジャマなんてーー」

「あたしがいいって言ってるだろ!早く持ってきて!」

「あ、ああ!……ありがとう」

なぜだか大声を出してしまった。

菱田はそそくさと上着を脱ぎ、隣の部屋に入ってすぐにパジャマ一式を持って帰ってきた。

「これなんだが……本当に大丈夫か?買ってくるぐらいーー」

「菱田はあっち向いといて」

「え……あ、ああ、すまない!私もお風呂に入ってくる!」

さっさとあたしがタオルを脱ごうとすると、菱田は慌ててどたどたと風呂場に行った。

「……まったく」

無意識のうちに笑みがこぼれた。

なんであたしはパジャマを買いに行かせなかったんだろう。四十過ぎのおっさんのパジャマをノーパンノーブラで着るなんて、さすがに嫌だ。

でももう着ないわけにもいかない。あたしはバスタオルを落とし、菱田から渡されたパジャマを着た。

やっぱりちょっと大きい。手は袖ですっぽり隠れてしまう。ズボンなんてずり落ちそうだ。

これが菱田の匂い……。

使い古されたパジャマ特有の、着ている人の匂いがした。その匂いは、不快なはずなのに、どこか落ち着く感じがして……。

菱田が出てくるまであたしはテレビも見ずにずっと匂いを嗅いでいた。




結局昨日の夜は求められることはなかった。

それどころかあたしが寝ている間に制服を洗い、乾燥機をかけ、朝食も作ってくれていた。完璧だ。あたしが不満なことは何もなかった。

……いや、その表現はある意味正しくない。

不満に思うようなことが一つもないことが、不満だった。

なぜだが分からないけど、寂しかった。

でももう菱田と会うこともないのだろう。

一晩だけという約束だった。いつもなら口約束なんて気にもしないのだが、菱田とのその約束を破りたくなかった。

今晩こそはいつもの援交まがいの方法で宿を確保しなければならない。昨日呼び出しをサボったせいで、今日は親も呼んでの指導らしい。

今日も家には帰れない。

その相手をスマホで検索しながら、あたしは指導室で両親の到着を待っていた。

外面だけは立派なうちの両親だ。時間までは後十分ある。おそらく遅くても五分前くらいには来るだろう。

今日は平日だが、母さんは来れるのだろうか。あいつ(父親)はどうせ暇だろう。

なにせ無職なのだから。


あいつの家での振る舞いは酷いものだった。働かないのはもちろんのこと、母さんを殴る蹴るは当たり前、血が出ることもあった。それでも母さんはパートで働いて、なんとか生活費とあたしの学費を稼いでいる状態だった。

あたしは小さいころから、あいつに要らない物扱いをされ続けてきた。母さんに向かって、あんな奴いなければよかっただの、お前が勝手に産んだんだろだの言っているのを何度も聞いたことがある。

あたしが非行に走るまでそう時間はかからなかった。

小学校に入ってすぐ、他人を虐める快感を知った。それはあたしが産まれて初めて人の上に立った瞬間だった。人に認められた瞬間だった。

それから家で溜まるストレスをあたしは外で発散した。虐め、酒、煙草、セックス、援交、家出……。

そんなことをしてもあたしの心にぽっかり空いた穴は埋まりやしない。ましてや、何の解決にもならない。

でもあたしがマトモに生きていくにはそうするしかなかった。


結局あいつらは五分前に来た。

あいつの方はご立派にスーツを着ていた。

担任の話は長くて退屈だったが、ここでサボると留年もあり得る。留年はさすがにだるい。それだけは勘弁だった。

あいつらも大人しく、はい、はい、と分かっているのか分からないような返事を繰り返していた。

指導が終わって、三人で帰る。家と学校が近いので、全員徒歩だ。近すぎて道もひとつしかない。

家に着くや否や、あいつが母さんに殴りかかった。母さんは無抵抗に殴られ、壁に倒れるようにして寄りかかった。

「めんどくせぇだろうが!」

あいつは壁に寄りかかる母さんの腹をもう一度殴った。そして母さんは倒れこんだ。

「お前がちゃんと教育しねぇから!」

あいつが蹴りを入れる。

「勝手に産まれて巻き込まれる俺のことも考えろよ!なあ!」

「……」

「なんか言えや!」

「……ごめんなさい…………」

「何を謝ってんのか分かってんのか!謝っとけばいいと思ってんじゃねぇぞ!」

「ごめんなさい…………」

「チッ!」

あいつは最後に大きく蹴りを入れて、母さんはううっ、と呻いた。

「お前もよぉ……!」

あいつはあたしに目線を移す。

「迷惑ばっかかけやがって!お前なんか生まれなきゃよかったんだ!お前のせいで!お前のせいで俺は……!」

あいつはあたしに殴りかかってきた。

あたしはそれを軽くいなす。伊達に喧嘩ばっかりやってない。中年のおっさんなんて敵じゃなかった。

「くそっ!死ね!」

「……」

「出ていけよ!」

あいつは血走った目であたしを殴ろうとしてくる。当然かすりもしない。すると腹を立てたのか、あいつは鞄からカッターを取り出して、それを掲げた。

「へへっ……死ね」

あいつはそれを無遠慮に振り回した。でもそれもあたしには当たらない。簡単に避けられる。

怖くもない。恐ろしくもない。

ただ、哀れだと思えた。

その次の瞬間、あたしはくるりと後ろを向いて扉を開けていた。

「おい!」

「出て行く」

あたしはそれだけ告げて扉を閉めた。

中からまた叫び声と鈍い音が聞こてきた。

逃げるようにして、家から離れた。




何処に行こう?

行くあてもない。

でも何か食べなければ死んでしまう。

死ぬ?

死ぬのってだめなことなのか?

別にいいんじゃない?

どうでも。

生きてたって何もいいことない。

あたしが心から楽しいと思えたことがあった?

幸せだと思えたことはあった?

生きていて、何になる?

このまま凍え死んでしまえばいい。

そうすれば、こんなしょうもない生活もしなくてよくなる。

何も考えなくてよくなるーー。




目が覚めると、部屋にはあたし一人だけだった。

大きなベッドに隠す気のないシャワールーム。おぼろけな照明、小さいテーブル。その上に載せられた万札。

そうだ、あたしーー。

家を出たあとふらふらと道を歩いていると、スーツ姿の男に声をかけられた。適当に返事しているとタクシーに乗せられ、このラブホに着いた。部屋に入った後からのことはほとんど何も覚えていないが、男が妙に臭かったのは覚えている。

さっさと出よう。

そう思いあたしは服を着なおして、チェックアウトした。

お腹が空いていたから近くのコンビニでパンを買って口に放り込む。

これからどうしようか。

もうやりたいことも、やるべきこともない。のたれ死ぬのはしんどいだろうし、いっそ自殺でもしてやろうか。

楽な自殺の方法をスマホで検索をかける。

「ね、ねえ」

そのとき、後ろから男の低い声が聞こえた。

またお誘いか?

うんざりしながら聞こえないフリをする。

背後に気配がするが、男は黙ってあたしの様子を伺っているみたいだった。

……めんどくせぇ。

「なんだよ!」

「うわっ!ご、ごめん!」

あたしはその男を見て目を見開いた。怒りが戸惑いに変わった。

「……菱田?」

「そ、そうだよ。坂本さん、だよね……?」

そこには一昨日世話になった菱田が立っていた。

「なんでここに?」

「いや、ここうちの近所だから……。坂本さんこそ」

そう言われてみると、このコンビニも菱田の家から帰るときに見たような気もする。

……面倒くせぇ。

「……もしかして、仲直りできなかったの?」

菱田は心底心配そうに言った。

そういやそういうことになってたな、と思い出す。

「……一晩だけだろ。もう菱田には関係なーー」

「そんなことない!」

朝っぱらから大声を上げる菱田に、周りの人の視線が突き刺さる。

菱田はそんなこと御構い無しで、言葉を続ける。

「心配なんだよ、坂本さんのことが」

あたしは菱田の真剣な眼差しに動揺した。

「一昨日はあえて聞かなかったけど、昨日あんな時間にこんな辺りを制服姿でフラついてたのも気になるし、今日も制服なのに学校も行かずにここにいるのもおかしいし、そもそもその制服はここからちょっと離れたところの制服だしーー」

菱田はたかが外れたように喋り続けた。

その内容のほとんどは、あたしを心配していたという内容だった。

あたしの心が揺らいだ。

なんでこいつはこんなに必死なんだ?

あたしのことなんて、赤の他人のことじゃないか。

一晩泊まっただけの、細い、細い関係。

あんたには関係ないじゃないか。

あたしに何をしたって得にもなりやしないのに。


なんでこいつは、こんなあたしを心配してくれてるんだ……?


「あれ……?」

気づけばあたしは泣いていた。

その涙を見て、菱田が喋るのを止めた。

痛くもないのに。悲しくもないのに。

胸の奥から涙が溢れ出してきて、手で拭って止めようとしても、また次から次へと涙がこぼれてくる。

わからない。

何であたしは泣いてるんだ?

ぽん、と頭が撫でられた。

菱田が手を乗せてきたのだ。

温かくて、大きな手だった。

あたしはその手に導かれるようにして菱田の方に寄っていった。

すると菱田はあたしをふわっと抱きしめた。

あたしも菱田の腰あたりまで手を伸ばして、服を掴んだ。

菱田の胸は思っていたよりもしっかりしていて、菱田のあの落ち着く匂いがした。

胸に身体を預けた途端、一層涙が溢れてきた。

他人の胸で泣くなんて生まれて初めてだった。

あたしは菱田にしがみつくようにして泣き続けた。




そして今は、あたしはあいつのいる自分の家の前に立っていた。隣にはまたスーツに着替え直した菱田の姿もある。

あたしは泣いたあと、再び菱田の家に招かれた。

あれだけ盛大に泣いたのに、菱田はそれを引くどころか受け入れてくれた。優しい声で「うちで休む?」と言ってくれた。

今度は警戒心なんてこれっぽっちもなかった。

家に着いてからも、菱田はあたしが落ち着くまで根気よく待ってくれた。会社にも休むと連絡を入れていた。

それからあたしは、菱田に本当のことを打ち明けた。

あいつのこと。家のこと。学校のこと。香川のこと。援交のこと……。

菱田には、話しておきたかった。

もしそれで嫌われて、このまま追い出されたとしても。

本当のことを言わないのは嫌だった。

あたしの話を菱田はずっと静かに聞いてくれた。話が終わると、菱田はただ一言「大変だったね」と言って、それを聞いたあたしはまた泣き出してしまった。

その後菱田はまたスーツに着替え直した。あたしの涙やらで汚れてしまったからなのだが、なぜスーツなのだろうと疑問に思っていた。

「坂本さんの御両親と話がしたいんだけど、いい?」

菱田は上着に袖を通しながらそう言ったのだ。

「……あいつらと?」

「うん。ほっとけないし」

「……いいよ。いこ」

「ありがとう」

ここまで来てもう悩むこともない。

あいつらと菱田、どっちの方が信用できるかなんて比べるまでもなかった。

菱田はスマホを取り出して、あたしに家の電話番号を聞いて電話した。高校のカウセリングの先生という設定でいくらしい。電話に出た母さんが戸惑っているのが明らかに伝わってきたが、菱田は強引に押し切って約束を取り付けたみたいだ。

家を出てから、あたしと菱田のあいだに会話はなかった。

そして今に至る。

「坂本」

菱田が小声で話しかけてきた。

「なに」

「話し合いの最中、別に居なくてもいいんだよ」

「……あたしの問題だから」

「そうか」

会話はそれだけだった。

インターフォンを押し数秒して母さんが出てきた。表面上は何異常もない様子だが、昨日の夜、あたしが出て行ってから散々な目にあっただろうことは想像できた。

母さんはあたしと目を合わそうとしなかった。

客として家に入るのはなんとなく不思議な気分だ。しかもやけに丁寧に対応されるものだから、奇妙な光景だ。

リビングに入るとあいつがスーツ姿で立っていた。家にスーツが二人いるというのもまた奇妙だ。あいつはいつも通り、体裁よく挨拶する。

全員が席に着くと、菱田が口を開いた。

「娘さんのーー環さんのことです。話は環さんから聞きました」

はい、とあいつが頷く。

「父親が暴力を振るい、それがストレスがまともに生活が送れないのだ、と」

そう言った瞬間、あいつの顔が醜く歪んだ。

「それは違います」

「と、言いますと」

「私はあくまで教育の一環として行っているだけで、それが環の、家庭のためだと思ってやっていることなんです」

そんなわけないだろ、と心の中で毒づいた。

よくもまあ咄嗟にそんな嘘が吐けるものだ。

そう思うと同時に、あたしも始め菱田に対してスラスラと嘘をついていたことを思い出し、吐き気がした。あたしがなんと思おうと、あたしの血にはこいつの血が流れていて、無意識のうちにあたしを蝕んでいるのだと、はっきりと認識してしまったから。

「ですが実際娘さんはそのことにストレスを感じて、私に相談してきたのです。心当たりはありませんか?」

「いえ……ありません」

「ですが……」

菱田も真っ赤な嘘だと気付いているだろう。あえて丁寧な口調でしつこく責めた。次第にあいつの顔が目に見えて曇っていった。最初の余裕はまるでなく、険しい表情をしている。

そして。

ついに、爆発した。

「ですがですねーー」

「うちの問題だろうがっ!あんたには関係ないだろっ!教育以外の目的ななんにもない!話は終わりだ!さっさと帰ってくれ!」

あいつは立ち上がって、顔を真っ赤にして叫んだ。

隣にいた母さんはビクッとしたが、あたしと菱田は全く動じなかった。予想通りだ。

「……あなたは、知っていましたか?」

菱田は座ったまま静かに、でも力強く喋り出した。その声音にあいつは睨んだまま黙った。

「娘さんの非行は、全て家のストレスによるものなんですよ。それをあなたが認めない限り、状況は変わりません。負のスパイラルから抜け出すことはできません。娘さんが帰ってこない夜、彼女が何をしていたのか知っていますか?援助交際ですよ。もちろん彼女は遊ぶためのお金を稼いでいたわけではありません。気が狂わずに生きていくために、ですよ。自分の生を確認するために、自分が自分であることを確認するために、です。その事実を直視しようともせずに教育だなんて、よく言えたものですね」

菱田は、怒っていた。

今日の朝、あたしに怒ったときと同じように、たかが外れたように一人で喋り続けていた。

しかし、朝とは違う。

明確な敵意をもって、喋り続けた。

その言葉の一つ一つがあいつを叩きのめす。

「あなたの存在はーー」

「俺だってなぁ!」

ずっと黙っていたあいつが声を荒げた。

その手は震えていた。

「こいつのせいで人生めちゃくちゃだ!今までやってた仕事も子供ができて動きづらくなった途端どんどんプロジェクトから外されて終いにはクビだ!再就職するにも難しい、バイトでさえ妻子持ちは落とされる!そのくせ生活費はかさんで苦しくなるばっかりだ!俺は!俺の人生はこいつのせいでーー」

「そんなことがっ!」

菱田はあいつの叫び声を上回る声量で叫んだ。

周囲が一瞬の沈黙に包まれた。

「坂本さんの人生を潰す理由になんてなるんですかっ!」

菱田の目は潤んでいた。

あいつは膝から崩れ落ちて、床を叩きながら泣き叫んだ。

くそっ、くそっ、くそっ、くそっ…………

その声はだんだん弱々しくなって、最後にはただの嗚咽に変わっていった。


最終的にあたしと母さんが話し合って、あたしは菱田のもとに引き取られることになった。菱田もそれで了承した。母さんはあたしに、何もしてあげられなくてごめんなさい、と泣いて謝ってきた。あたしはそれに、うん、としか返せなかった。

あたしと菱田はあたしの制服と鞄、ほとんど残っていない教科書類だけもって家を出た。


外の空気は冷たくて、あたしたちの頭を無理やり冷やしてくれた。

菱田の家に到着するまでのあいだ、やっぱり二人のあいだに会話はなかった。

家に着くと、菱田は置物部屋の整理を始めた。あたしの部屋にするつもりらしい。あたしもそれを手伝った。

そのあと遅めの昼食をとった。菱田は外食を提案したが、あたしがそれを断ってコンビニ弁当で済ませた。

それでようやく一区切りついて、落ち着いて話す時間ができた。

「……坂本さんは、これでよかったの?」

菱田が弱々しく尋ねてきた。

「よかったって、何が?」

「御両親とやり直したかったんじゃないかと思って」

「……あいつらより、菱田の方がいい」

「……そう」

また沈黙が流れた。

今日からここに住むのか、と思うとまだ現実味がない。

菱田とは知り合ってからまだ三日だ。最初に会ったときにはこんなことになるなんて思いもよらなかった。

それでもあたしはこの環境に感謝していたし、喜んでもいた。不安がないと言えば嘘になる。でも、それもなんとかなるだろうという、根拠のない確信もあった。

「坂本さん」

「なに?」

「一応僕が保護者なわけだし、菱田って呼ぶの止めてほしいんだけど……」

「じゃあなんて呼べばいい?」

「……お父さん、とか」

菱田は恥ずかしそうに俯く。

「プッ……あははははっ!」

その様子がなんとなくおかしくて、あたしは吹き出してしまった。

「な……なんで笑うのさ!」

「いやぁ……その考えはなかったから」

「じゃ、じゃあ他になんて呼ぶんだ?」

「そうだなー、じゃあ将貴で。将貴もあたしのこと環って呼んでよ」

「えっ……坂本さんがそういーー」

「環」

「た、環がそう言うならそうします」

「よし」

なぜか敬語になった将貴がやっぱりおかしくて、あたしはまた笑った。こんなにスッキリした気分で笑うのは久しぶりだった。

その後もいくつかこれからの約束を決めると、将貴は気恥ずかしいのか、シャワーに入ってくると言ってそそくさと風呂場に行ってしまった。

将貴に出された、この家に住む条件は三つだった。

ひとつはもう非行に走らないこと。ひとつは香川と仲直りをすること。もうひとつはちゃんと大学に進学すること。

どちらも面倒なことこの上ないが、将貴に言われたからにはやらないわけにもいかない。だがこれからの生活が少し楽しみになっているのも確かで、そのための第一歩だと思えばやれる気がした。

将貴は四つ目にお父さんと呼ぶことを挙げたのだが、あたしが無視した。立場上はそうなるのかもしれないが、将貴のことをお父さんと呼ぶのは躊躇われた。

あいつを思い出させるから、というと将貴は謝って免除してくれたが、それは小さな小さな理由で、いわば建前でしかない。

本音は違う。

そんな後ろ向きな理由で、嫌がったわけじゃなかった。

だって……。


あたしは将貴のお嫁さんになりたいから。

だからお父さんとは呼んでやらないーー。







とあるアパートの一室、二人の男女が同じベッドに寝転がっていた。女はまだ大学生で男はもう四十半ばだったが、二人は仲睦まじく談笑していた。

「……今日はそのパジャマなんだな」

男が女に話しかける。女はかなり使い古された、ジャージのような灰色のパジャマを着ていた。それは二人の思い出のパジャマでもあった。

「うん。この方が落ち着くし、今日は危険日だから。この方がヤりやすいでしょ?」

「そりゃ、脱がしやすいけど」

「でしょ?だから、ヤろうよ」

「……危険日だから?」

「そう。将貴は赤ちゃん欲しくない?」

「……欲しいけど」

「じゃあ、いいじゃん」

「でもまだ大学生じゃないか」

「高校生のときもそういってヤってくれなかったくせに。もう結婚して二年だよ?そろそろ赤ちゃん欲しいなー。……欲しいなぁ」

「……仕方ないな」

「やったやった」

そう言って女は男に抱きついた。幸せでたまらない、そんな表情だった。

「大好き、将貴」

「僕も大好きだよ、環」

そうして二人は愛し合った。

心から嬉しそうに、心から幸せそうに。

ご覧いただきありがとうございました!

『回らない地球』シリーズ第三作目になります。


今回は今までのヒロインたちとは違うタイプの子で、私も書くのに苦労しました。でもこういう子が気を許す瞬間が書きたかったんです。しかも年の差!


少しでもかわいいと思っていただけたなら嬉しいです。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

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