水槽
男の子が教壇に立つ。
教室内には数十人の老若男女がいた。
すべての視線が男の子へと集中する。
自身に注がれる視線に男の子は、照れ笑いを浮かべながら頭を下げて応える。
ほほえましく思いながら観客は皆、あたたかい拍手を送った。
拍手がおさまるのを待ち、男の子は教卓の下からなにかを取り出した。
黒い布が掛けられており中身は確認できないが、正方形の物体だ。
バッと勢いよく布がめくりあげられる。
正方形の物体は水槽だった。
たっぷりの水と共に、メダカと小さな水草、そして丸い酸素タブレットがいれられている。
よく見ると、メダカは目に黒い縁取りがある。パンダメダカだ。
観客は小さく感嘆の声を漏らす。
男の子は自分の作業に集中する。
教卓の下から、今度は小麦粉を取り出した。
薄力粉と書かれたそれを、男の子は水槽のうえでゆっくりとふるいにかけていく。
水面に乗った白い粉をエサだと思ったメダカが必死でパクつく。
ふるわれてくる粉の多さに、メダカの食欲も徐々に追いつかなくなる。
水槽内に薄力粉が積もっていく。
それでも男の子はリズミカルにふるいをかけ続ける。
水槽内に雪が降り積もるかのように、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
手持ちの薄力粉をふるい切ると、ふたたび小麦粉を取り出した。
強力粉と書かれている。
今度はふるいにはかけず、手に取ってこぼすように水槽へ投入する。
メダカは強力粉をすべて器用に回避した。
満腹なのだろうか。
強力粉と薄力粉で水槽のほとんどが埋まってしまった。
さらにそこへ室温のバターと少量の塩を加えた。
男の子は小さなおわんを取り出した。
ドライイーストと砂糖がはいっているようだ。
そこへ水槽から小さじで水をくみあげて混ぜ合わせる。
しばらく練り続け気泡が出たのを確認すると、それも水槽へ流し込んだ。
カラになった容器をしまうと同時に、男の子はステッキを取り出した。
それを高く掲げて観客へと見せる。
直径一センチ、長さ四十センチ程度。白い木の棒で、先にいくほど細くなっている。
銀色のシンプルな装飾が施されたおしゃれな魔法のステッキだ。
ステッキを水槽に突っ込んでかきまぜはじめた。
水槽のなかにあったすべてのモノがステッキの作り出す渦に飲みこまれていく。
メダカだけが、ステッキも粉も水草もかわして激しい水流のなかを悠々と泳いでいた。
すっかり混ざったのを確認するとステッキを引き抜いた。
水槽の中身はグルグルと回り続けている。
元のように黒い布をかけて水槽を覆った。
全方位から水槽が見えていないことを確認する。
男の子はステッキで二・三度水槽の端を軽くたたく。
「さんっ、にぃっ、いちっ――」
そんな男の子の声を背に受けながら私は教室を出た。
後ろ手に閉めたドアの向こう側で、爆発にも似た阿鼻叫喚の声が響く。
人々の驚きや悲鳴や泣き叫び。
ガラスの割れる音やモノがなぎ倒される音、なにかがたたきつけられる音が聞こえてくる。
壁や床、教室全体が激しく振動し、建物全体を揺らしていた。
いつのまに逃げだしたのだろうか、私の目の前をパンダメダカが泳いでいく。
ゆらゆらと通り過ぎていき、近くにあった水飲み場の排水溝へと姿を消した。