おこられる
ちっ、ちっ、ちっ、かちっ。
『ぴんぽんぱんぽーん。おはようございます、ご近所の皆々様。これから僕、鈴木幸太郎の誰にも言えない秘密を白状いたしますので、ご清聴のほど宜しくお願いします。実は、僕は大のレオ』
「うわっちゃああぁぁぁぁっ!」
僕は音速で布団から飛び上がって目覚し時計のスイッチを破壊しても構わない勢いでねじ伏せる。
心臓の動悸が収まらない。爆発的に心拍数を上げてしまい、内臓が悲鳴をあげている。息も荒い。かいてもいない額の汗を拭い、僕は自らを落ち着かせるようゆっくりと息を吸った。十秒ほどしてから、
「あ、危ない所だった……」
「……なに、今の」
いつもの隅っこでひざを抱えていた美南が、ブタの生け作りでも眼前に出されたかのような眼で僕を見る。
「どうしても起きなくちゃいけない時に使う目覚まし」
「色んな意味ですごくギリギリだと思う」
「うん。僕も墓場まで持っていくつもりの話だから」
「同士は求めないんだ、レオタードフェチ」
「違うって言ってるのに」
言いながら、足に引っかかっていた布団を跳ね除ける。
僕の姿を見て、あっ、と、美南が目を丸くする。
「ふふふ、どうだい美南。今日という日に備えて、昨日のうちにちゃんと服を着ておいたのだ!」
「でもしわしわになってる」
「朝ご飯もテーブルの上に用意してあるし」
「寝てる間にはえがたかってたよ。六本足の不気味な昆虫も」
「髪型も無造作ヘアでばっちり!」
「ただの寝癖じゃん」
「戦いは、始まる前に決していたのさ!」
意気揚々に唱えると、僕は洗面台で顔を洗い、袖で水をふき、食事が置かれたちゃぶ台の前に膝をつく。意気込みそのままにぱさぱさしたご飯に水と味噌がはっきりとわかれた味噌汁を混ぜ、一気にかきこみ、
「まずっ!」
「そりゃ、丸一日ほったらかしだったし。ね、ところで幸太郎、」
「これで朝のエネルギーはばっちりさ!」
勢いだけを大切にそう叫ぶと、僕はおわん両手に百八十度ターンを決め、水を張った流し台にそれを投てきする。玄関脇にほっぽり出してあったかばんを背負い、靴に足をねじこむ。
「ようしっ、いざ行かん!」
そして、ドアを開け、飛び出した。
さんさんと、
廊下の天井に取り付けられた安電灯が照らす、
夜の、帳の中へ。
「…………………………………………………………………………………………………あれ?」
「幸太郎」
どことなく窮屈そうな美南の声が追いかけてくる。
「幸太郎? 聞いてる? 聞いてない? ひょっとして放心状態?」
「……ぇぇと」
「幸太郎、目覚ましセットしたじゃない」
「うん。八時に」
「でもセットした時にはもう朝の八時を過ぎてたんだ。実況動画の最初の一個だけのつもりが、20話まで見てたじゃない」
「……うん」
「だから、朝じゃなくて、次の八時に目が覚めたの」
「…………うん」
「つまり、夜の八時ね」
「……………………」
「ついに声も出ない?」
「………………………ぁう」
気力を振り絞って振り返る。
私の方を見ないでよ、と幽霊がお手上げのポーズをとっている。
「ねぇ、美南」
「なに、幸太郎」
僕はせき払いを一つ挟むと、仕切りなおす。
「美南さぁ」
「なぁに、幸太郎」
今度は美南も作為性に気付いたのか、お互いに微妙に視線をそらしながら黙り込む。僕はもう一度せき払いして、
「自家発電、していい?」
「だめーーーーーーーっ!」
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ぴろりん。
「約束すっぽかしてのうのうとオンラインだなんていい読経してるじゃない!」
「度胸。ていうか最初がそれってなんかおかしくない?」
「だまれこの浮気野郎!」
「浮気なんかしてないよ。寝てただけ」
「誰と!!!???」
「愛と勇気と希望と」
「三姉妹と!?」
「おお、ナイスボケ」
「なぁぁぁぁぁぁぁんで寝てたのよおおおぉぉぉぉぉ;;」
「目覚まし掛け間違えて」
「ひどいわっ! 泣いてやるぅ! 給湯室でハンカチをかみ締めながらさめざめと泣いてやるぅ!!」
「寝てる間に綾瀬はるかと能登半島を二人きりでデートしてた事実は否めないけど」
「否めるよぅただの夢じゃないぃぃぃひどいよぉぉぉぉぉぉぉ」
「本当にごめん」
「せっかく三時間かけて会いに行ったのにさぁぁ。電話だって三十回ぐらいしたんだよぉぉぉ」
「うん、着信拒否設定してた」
「どおしてっ!?」
「最近嫌がらせの電話が多いから」
「だからって私の番号まで拒否しなくたっていいじゃないぃぃぃ」
「それもそうだね」
「もー」
「本当にごめんなさい」
「もー」
牛のごとき一言を繰り返して、彼女はオフラインとなった。
「もー」
つられて、僕も口に出してみる。なぜだかしっくり来ない。もういっぺん、慎重に。
「もー」
「どうしたの? 今度は牛の皮にでも目覚めた?」
「……なんていうか、タイミング外さないね」
幽霊らしく背後からかけられた声に、僕は肩を落とす。美南が続けてくる。
「動物へのフェティシズムは人としてどうかと思うよ」
「や、そのネタはいいから。ていうかどうして起こしてくれなかったんだよ」
僕は椅子ごとくるりと体を回転させる。嫌味の主は、予想通り向かって右隅に座り込んで、全身から「こいつうぜぇ」ってオーラを滲み出させて僕を見ている。
「起こして欲しいんだったら、頼めばいいじゃん」
「……ええと」
いきなりの正論に僕はたじろく。
「た、頼んでも、してくれなさそうだし」
「理由も教えてもらえないならねぇ」
「ううう」
「幸太郎、コミュニケーションって知ってる? とっても大事な概念だから一度辞書で調べてみるといいよ」
「知ってるし、よくしてるさ」
「幸太郎はわけの分からない事を延々と喋ってるだけ。意思疎通にはなってないから」
「それは美南だっておんなじじゃないか」
「美南は、自分の言いたいことは全部伝えるよ。例えば幸太郎だったら、とっととしあわせになりやがれって」
「その粗暴な言い方が本性なんだ」
「幸太郎相手にはそれくらいがちょうどいいの。牛皮フェチにも目覚めたみたいだし」
「うわ、まだ引っ張ってる」
「あのさぁ」
うんざり顔の幽霊がこちらを睨む。
「いい加減、こっちも引っ張るの嫌なんだ」
「新ネタ開発に苦労してるんだね。悪かったよ、僕も違うボケができるようにがんばるから。そうだな、ナメクジに塩をかけてだんだん溶けていく様を眺めるフェチなんてどうだい?」
「フェチの話じゃないっ!」
ぴしゃりと言い放たれる。
「幸太郎。美南がきてからもう二週間たったよね?」
「うん。エロ本が引出しの中で待ちくたびれているよ」
「そんなものは燃えるごみに出しなさい!」
「そんなことするくらいなら古本屋に売るよ。未使用だし結構いい値で売れるかも」
「未使用とか言わないっ! 本は開いた時点でもう使用されてるのっ!」
「そんなこといったらコンビニのジャンプはことごとく使用済みだよ。それに世の中には違う解釈をする人もたくさんいるよ。下の田中さんなんてページ別に未使用と使用済みを」
「知りたくない知りたくないそんなことは少しも知りたくなぁぁぁい!」
耳に手を当てて力いっぱい髪を振り乱す。うん、実に幽霊チックな光景だ。
「僕はまだマシなほうだって」
「あんたの異常な性癖がマシなら世の中の男の九割五分は粗大ゴミだって!」
「だから女の人は恋をする男を選ぶんでしょ。男は本能で寄っていくけど」
「うまいこと言ったつもりでも騙されないしそういう話をしてたわけでもないっ!」
美南は烈火のような勢いでまくし立てると、一気に立ち上がって僕に詰め寄った。
「幸太郎、幸太郎、幸太郎!」
「はい、はい、はい」
「あんた実は結構今の人生に満足してるでしょ?」
「まぁ、それなりに充実してると言えるかもしれない」
「だったら、しあわせと言い換えても問題はないよね?」
「問題はないけど」
「けど?」
「この人生に満足してしあわせだって言ったら、これ以上高みを望めないじゃないか」
「いいじゃない別に! なんでそういうとこだけ中途半端に向上心があるの! その生き様みたいにいーかげんな判断をしていればいいじゃない!」
「エロ本を週一の楽しみにつまらない大学をしのぐ日々なんて、思いっきり後ろ向きな人生じゃないか」
「分かってるなら改善すればいいのに……」
「だって僕まだティーンエージャーだし」
「あと数ヶ月だけの癖に」
「そしたら憧れのスイートトゥエンティー。お酒も飲めるし結婚もできる!」
「結婚はもうとっくにできるでしょ」
「彼女がまだできないんだ」
「あんたいくつ年下の子と付き合ってんのよ!?」
そんなに驚かれるようなことか。
「今年高校に上がったばっかり」
「……まぁ、それぐらい若くなくちゃその性格隠し通せないだろうけど」
幽霊の目つきが、言葉と裏腹に、この性犯罪者とかロリコンとか雄弁に語っている。
「でも、もうすぐできるようになるから、式場の準備ぐらいはしておこうかな」
「彼女の承諾くらいとっておいたら。というかさっき思いっきり振られてなかった?」
「大丈夫、こういうことは事後承諾でも。僕は渚のシンドバッドだし、こないだプロポーズしたと勘違いされたし」
「冠婚葬祭はクーリングオフ効かないからしっかりしておきなさいよ」
「みんな最初はそう言うんだ」
「痛い目見てる人がいっぱいいるからね」
「大丈夫。香織は従順な子だから、僕には逆らえないはずさ。あ、香織って彼女の名前ね」
「へぇ。偶然だね、美南の妹も香織だよ」
「へぇ」
僕は適当に相槌を打って、
「――いや、ちょっと」
あわてて、片手を上げて続けようとする彼女を制する。
空いている手をこみかめに添え、しばし黙考。
「なに」
「いや、そんなはずはない……よね」
「だから、なにが」
僕はごくりとつばを飲んで、
「美南ちゃん、実家はどこ?」
「関西」
「の?」
「兵庫」
「……の?」
「淡路」
「…………か、関西弁は?」
「高校の時に上京したから、すっかり標準語に慣れちゃって。それに兵庫は関西弁というよりは兵庫弁」
僕の質問の内容と表情に何かを感じたのか、彼女は怪訝そうに瞬きを繰り返す。背中につめたい汗が流れるのを感じながら、僕はあいまいに笑う。
「――ひょっとして……?」
「……うん。彼女、淡路に住んでる」
「最近、身内で不幸が?」
「そういえば、春先にお姉さんが死んだとか死なないとか」
耳が痛くなるほどの静寂の中、僕らは目と目が火花を散らさんばかりに見つめ合う。いわゆるボケ待ちであることはひしひしと感じられた。オチを用意してあげられたらよかったのだけれど、こんな時どう落としていいのか分からない。
「……えっ、うそ、本気の話? 本当に香織と付き合ってるの?」
「や、まだ確定というわけじゃないけど」
「確定というわけじゃないって、一体淡路に何人姉を亡くした香織って高校生がいると思うの」
「探せば案外居たりするかもしれない。油断のならない世の中だから。っていうか、いやいやいやいや!」
僕はいきおい立ち上がって、力いっぱい否定する。
「絶対ありえないでしょ! なんだよこの書き始めた時には絶対予定されてなかったけど人気出たから伸ばすために付け足したみたいな偶然! こんな話通したら絶対どこかに不自然なところ出てくるって。話が破綻したり今週のつまらなかった作品に番号書かれたりされちゃうよ!」
「でもこれなら美南があなたにくっつけさせられた理由も納得できるかも。妹の彼氏を真人間に矯正してしあわせにするって道徳的にもそれっぽいし」
「さりげなく怖いこと言わないでよ!?」
不穏当な発言に先ほどまでとは違う意味でひやりとする。既にラップ音を聞くと反射的に謝罪の言葉が口をつく程度にはパブロフ犬にされているのだ。
「些細なことは気にしない」
「気にするよ! ていうか本当にこんな偶然あるわけないだろ! なんで美南はあっさり受け入れる方向になってるんだよ!」
「だってどうせ美南死んでるし。幽霊になって他人に取り付かされているし、世の中なんでもありでしょ」
「僕はまだそこまで悟れないよ!」
想像を越えた事態を脳みそが受け入れられるまでの息抜きにと、パソコン画面へ視線を移すと、つけっぱなしになったままのメッセンジャーが目に入る。
彼女はヘソを曲げてオフライン。
僕を悩ませている幽霊が本当に存在する事も、それが彼女の死んでしまったお姉さんであるかもしれないことも、僕が本当は浮気なんかしてないという事も知らないでオフライン。
美南は、何かを考え込んでいるまま。妹の身代わりになって死んだと言った。ココアでダイエットできるというようなマユツバな話だと、あるいは何か裏がある話だと疑っているのだけど……そもそも幽霊が実在してしまうなら、なんだってもうアリな気はする。
のろのろと携帯を拾い上げ、必要な作業を経て電話をかけるが、案の定彼女には繋がらない。今は何をしているのだろう。泣いているならまだしも、身近な男の友達のところへだけは行っていてほしくない。ましてやそこでやさしさと体を混ぜあわせたりなんて――
「いやいやいや!」
不毛な想像を身震いして振り払う。
結局、その日のうちに彼女とは連絡が取れなかった。