わらわれる
女の名前は、美南というらしかった。
らしかったというのは、彼女がたまに私ではなく美南と自分を呼ぶからそう思っただけだ。自己紹介などもちろんされていない。
そして彼女は、僕の名前をすぐに割り出した。
「鈴木幸太郎? あんた、名前に幸が入っているくせにしあわせじゃないの? そういう願いを込めて名づけてくれた両親に申し訳ないと思わないの?」
予想通りにからかわれ、僕はとてもいやな気分になったが、とりあえずは黙っておいた。
あくまでとりあえずだ。
彼女が定位置にしたいらしい隅っこに戻ったころを見計らって、
「みなみちゃん」
「なに」
「普通、運勢が悪いのは北枕だよね」
「うっさい!」
小さい復讐を果たして、僕は悦に浸った。
直後にラップ音の爆撃に襲われ、とても後悔したのだけれど。
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翌朝、期日から四日遅れて科学のレポートを出してみたが推定幽霊の女は僕から離れることはなかった。失望のあまり、僕はUターンして教授に抗議する。
「教授、あんまりです」
「何の話?」
イタコ直系の女教授は、少し曲がったメガネを直しながら首をかしげた。
――どうやら、しらを切るつもりらしい。
僕は口の中で文句を転がし心半分な挨拶を残して退出すると、推定幽霊の美南にびしっと指を突きつけた。
「成仏光線―」
「……」
「…………」
耐え難いほどに痛い沈黙がその場を支配した。
指のさし示す先、美南の向こうには三人組の女の子がいた。
彼女たちの表情が『嘲笑』に変わる直前に、僕は回れ右をしてあさってのほうを指差した。
「成仏こうせ――」
なぜか親子連れがいた。前後から失笑が弾け、僕はなす術もなく立ち尽くす。
「大型新人級の馬鹿だね」
美南があきれたようにつぶやいた。
「私は他の人には見えないよって、前もって言ったじゃない」
「……そうだったね」
恥ずかしさに耐え切れず、うつむいて逃げ出す。やがて笑い声の追撃が収まるところまで逃げてから、僕はあらためて指をつきつけた。
「じょうぶつ――」
研究室にいたはずのイタコ教授が立っていた。
「鈴木君」
イタコ教授は、何かとても汚いものを見るような目つきで、
「精神科、紹介しようか?」
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「メジャーリーガー級の馬鹿だね」
美南は、容赦ない口調で決め付けた。
「三度も繰り返すなんて。お天道様も、こんな馬鹿は毎週財布を忘れて買い物に行くサザエさん以来だってきっと笑ってるよ」
「うるさいっ」
ぜぇはぁ言いながら、僕は必死に抗議する。あてもなくひたすら逃げ回っているうちに、いつの間にか食堂裏の喫煙所までやってきてしまっていた。お昼時はスモーカーで溢れかえるここも朝一番では誰もいない。残り香は一日ぐらいで消えたりはしないので多少頭がふらふらするが、四度目はきっと人間として大切なものを失ってしまう。
「映画でも普通ないと思うよ。だいたい成仏光線ってどんなネーミングセンス? 幸太郎ってひょっとしなくても一人でネット見てデュフフとか笑うタイプ?」
「ほっといてよ」
「女装癖にレオタードフェチってだけでもアレなのにこれ以上負の要素追加しないでくれるかな」
「だから、うっさいって! だいたい都合よすぎじゃないか。最初に会った時に僕の頭を景気よく振り回してただろ」
「うん。あなたには思う存分ちょっかい出せるみたい。よく分からないけど」
「どうして」
悲嘆にくれるが、美南はすまし顔で唇を尖らすだけだ。
「仕方ないじゃない、幽霊なんだから。細かいことにうじうじしない」
「ぜんぜん細かくないよ」
「何よ。みんなに見えたらなおさら気持ち悪がられるじゃない。こんなところを」
と、手を壁に添える。その指先は壁の中に、まるで何もないようにするりと入り込む。
「マジックショーをやったらさぞかし人気が出るかもよ」
「まぁた変なことを」
「そして僕はマネジメントでがっつり大もうけっ」
「――まぁ、お金があればたいていのものは手に入るってよく言うけど」
「そだね。愛としあわせ以外はなんでも買えるかもよ」
「……あのね」
美南は、おおげさに肩を落として嘆息した。不思議なもので、息を吸っているわけもないのにまるで呼吸しているように胸が薄く上下し、息を吐く音もする。
彼女が手をすり抜けさせた壁に視線を移す。昨日今日で、彼女が干渉できるものにだいたいの理論がつかめていた。僕を触ったり殴ったりする事はできるが、他の人間には何もできない。物や自然に触れる事もできない。僕を蹴飛ばす事はできても、僕の衣服を剥いだりという事はできないようだ。
同じように、僕は彼女に触れる事はできても、彼女が着ている服を脱がせたり、頭から掴んで地面に叩きつけるなんてことはできない。まずやらないけど。
「幸太郎って、あれでしょ。厭世主義者って奴。世の中のすべてに嫌気が差して、生きているのがつらいつらいって毎日ごねるくせに、心の片隅で理想郷を夢見てるとか」
「そんなことはないよ」
僕は大真面目に首を振った。
「ただへ理屈をこねるのが大好きなだけ」
「余計に悪いっ」
美南は声を荒げて叫んだ。びしっと指を突きつけて、
「しあわせになれ!」
「強制されてもなれるもんかっ」
「つべこべと言わない」
「言うさ! 恥ずかしい思いもしたし。自業自得だけど!」
「あんたねー」
どこか僕に似たようなしぐさで、美南がかぶりをふる。
「大学生でその性格だと苦労してるでしょ」
「学食は嫌いだけど」
「そういう意味でなくて。友達とかに呆れられてない? 大きなイベントがあると、なぜかミーティングの日を間違って教えられたり」
「なんで分かるの」
心底驚いて聞き返す。
「すごいな。幽霊だから?」
「ううん。私もそうしてただろうから。ていうか同じキャンパスで貴方に出会わなかった幸運に感謝してるし」
「ひどいなぁ」
僕はとりあえず抗議の声をあげるが、残念ながら効果的な反論は浮かんでこない。
美南はすっかりそっぽを向いてしまっている。その横顔を見ているうち、そういえば彼女のことを何にも知らないことに思い至った。向こうは幽霊だからかそれとも洞察力からか僕の本性にものすごく迫っているみたいだけど。
「ねぇ」
「何」
ものすごく面倒くさそうな返事。
「思ったんだけど」
「うん」
「初めてのキスはいつ?」
すごい顔でにらまれた。