あらわれる
「しあわせになりなさい」
背後で、突然、ラップ音と女の声がはじけた。
「いますぐに」
すさまじく理不尽で高圧的なその声に、僕は、読んでいた本を置いてゆっくりと振り返った。
そこに、女がいた。
どこにでも売っているような、それでいて探そうと思ってもどこにも見つからないような、ひどく個性の薄いポロシャツにジーンズを履いている。
髪は長い。前髪を横に流している。体は透き通っているような透き通っていないような、血は通ってるようなか酔っていないような不健康っぷりを体現していながら顔だけは生気がみなぎっていて、どういうわけか、ものすごく怒っているようだった。
多分、幽霊だった。
「えくすきゅーずみー?」
「西洋人の振りしてんじゃないわよこの百パーセントモンゴリアン。たたるよ」
「それだけはご勘弁を」
彼女の言葉に続いたラップ音に、僕は平身低頭して謝った。
木造アパートの二階、階段から一番奥の部屋。靴が六足はおさまる玄関、そして二歩で横切れる名ばかりの台所とトイレ、そして居間と居住区兼用の八畳。居間とトイレの間には押入れまである。夏場は涼しく、冬場は暖かい。ゴキブリもムカデもそれほど出ない。四万五千円という家賃は少し安すぎるような気はしたのだ。
「わたくしめにいったいどのようなご用件でしょうか」
「しあわせになりなさい」
「はい?」
「今、すぐに!」
ものすごく高圧的な態度で、彼女は言った。
「今、すぐに?」
「今、すぐに!」
――なむさん。
僕は天を仰いだ。
これは、科学の課題を出さなかったのが原因に違いない。
あの女教授は恐山に住むイタコの直系の子孫だと常々うわさになっているというのに、提出日前に遠距離恋愛中の彼女と深夜までチャットしてしまうなんて。
しかし、あんまりだとも思う。中島なんて、一度も課題を提出してないのに、毎日楽しそうに彼女とキャンパスを歩いているじゃないか。それなのに、たった一度期日までに出せなかった程度で、こんな理不尽な幽霊を送ってくるなんて!
偏頭痛をこらえながら、僕は説得を試みた。
「しあわせになんて、すぐにはなれないよ」
「なりなさい。今すぐに。五秒待つから」
「無理だって」
「なれ」
「そんな、命令形に言い換えられても」
「なりやがれっ」
「だーかーらー」
「ああ、もう!」
女は忍耐が切れたように叫ぶと、僕の頭をわしづかみにして、ぶんぶか振り回しながら、
「とっととなりなさいって! じゃないと私、天国にいけないんだから!」
「あ、キリスト教なんですか」
ごしゃっと、力任せに地面にたたきつけられる。
カーペットを敷いていたとは言え、痛いことに変わりはない。
その痛みでわんわんとする頭に、女の声が天国から降り注ぐ神様のそれのように響いた。残念な事に、罵声だったが。
「あんたバカ? 無宗教に決まってるじゃない! セックスの際にゴムをつけるのは神の意思に反するなんてアホなことを言って回ってるやつらの一員になるくらいなら死んだほうがまし!」
「でも、もう死んでることだし……ああ、ごめんなさいごめんなさい」
恐ろしい形相ですごまれて、僕は再び、地面に頭をこすり付けて謝った。
これはシュルレアリズムだ。自分の部屋で、見ず知らずの無宗教の女(おそらく幽霊)に、彼女が天国に行くために幸せになれと言われて、さらに機嫌を損ねてしまって謝っている。
「いったい、どうしろと」
「しあわせになれ」
「もそっと具体的に」
「知らない」
「うわ。じゃあ、結婚とかかな。僕にはまだ少し早いと思うんだけど」
「結婚がしあわせなの? 二昔前の女みたいな奴」
「言ってみただけだよ」
僕が肩をすくめると、女はずいっと近寄ってきた。目鼻立ちがすっきりしていて、色白で、美人だ。だ。
「あなた、今しあわせ? ねぇ、しあわせ?」
いきなり人生の中間報告を求められても。
「しあわせじゃないなら、とっととしあわせになって」
「だから、どうやって」
「なんでもいい。好きな男に告白して両思いになるとか憧れのクロスドレッサーになってみるとか、とりあえず手術してみるとか本当になんでもいいから」
「そんな趣味はないよ」
「押入れにあるレオタードは何」
「妹の」
「あんた一人暮らしでしょ」
「実家では肩身が狭いらしくて」
推定幽霊の女が、深々と嘆息をついて頭を振った。
「まぁ、どうでもいいけど。さっさとしあわせになって私を天国に送って。拒否権はないからね」
「あるに決まってるだろ!」
「ないって」
幽霊女はにべもない。
「別に選べるようなものじゃないの。人は誰だって、しあわせになるためにがんばって生きているんだから」
幽霊が言う台詞か。
「なに。不満そうな顔しちゃって。言っとくけど、しあわせになるまで、ずっと取り付いているんだからね。好きでやってるんじゃないから文句言ったりしないでよ。食事もトイレもエロ本読んでる時もいつも一緒なんだから」
「……いやなこった」
僕はついと横を向くと、彼女を無視することに決めた。ほったらかしになっていた本を拾い上げ、読み始める。ラップ音の一つでもしたらあきらめて問題と向き合おうと思っていたのだが、ページを三十枚めくったころになっても、彼女は何もしてこなかった。
本から目を離す。ひょっとしたらいなくなったのかもしれないという淡い期待と、今のが全部自分の妄想の中での出来事だったかもしれないという一抹の不安を胸に部屋を見渡す。すると、部屋の隅っこの方にちょこんと腰を下ろしている女の姿があった。
――本当に居座る気だ。イタコ教授め、とんでもないものを。
僕は、暗澹たる気持ちになった。なんとか考え直してもらおうと口を開いて、そして、彼女の、上目遣いに出くわして、ぐっと息を呑んだ。
彼女は、目の奥に悲しげな光をたたえていた。さっきまでの高圧的な態度に変わって、ただ何かを我慢するようにして僕を見ている。
「なに。しあわせになる方法でも思いついたの?」
「別に」
「じゃあ、なに」
「なんでも」
「あ、そ」
気のない返事。
しかし、裏腹に、僕から目をそらそうとはしない。
僕は、彼女の視線に耐え切れずに後ろを向いた。
――教授。これは、あんまりだ。