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夢奥七色  作者: 夕霧沙織
3/6

二章 夢の外の魔女



 お兄ちゃんに呼び止められたような気がして後ろを振り返った。

「クゥン?」

 後方にはさっき通り抜けてきた学校だけで人影は無い。建物は歴史があるらしく古い感じ、神学校なのか神様や天使の絵のステンドグラスがあちこちにあった。廊下を歩いている間、生徒の物らしきボーイソプラノの聖歌が響いていた。誰の夢?

「何でもない」コリーの頭を撫でる。「心配しないで」

 落葉樹の森の小道の先には既に扉が見えていた。今度はビターチョコレートのような色。

「どこまで行けば目的地に辿り着けるのでしょうか?」

「さあ?案外私達にはそこに行く資格が無いのかも」

「ええっ!このまま永遠にこんな所にいるなんて嫌です」

「そう?私は賑やかで嬉しいけど」

「あなたはここにしかいられないからそう言えるんです!」

 言い合いを背後にしながら、私とコリーは扉の前に立った。

(さっきのは何だったんだろう……)ノブを回しながらふと考える。(通信できるならもっと話し掛けてくるはずだけど……あ)しまった。夢の場面転換、つまり扉などには想像力による指向性が働く(妹からの受け売り)。だから開ける時はずっとセミアを想像していたのに。

 扉は既に半分開いている。今のでどんな夢と繋がってしまったのだろう。

「クゥン?」

「大丈夫、と思う」一度なら次の扉で充分修正が利くはずだ。「行くよ」

「ええ」

 入った先は真っ暗だった。魔力の明かりを付けようと意識を集中させた時、


 ぼうっ。


 床が薄く黄緑色に光る。見た事の無い文字が地面に刻まれていて、光はそこから放射されている。

「……時計?」

 部屋は広い円形で、どうやら私達は巨大な文字盤の上に立っているようだ。六つの金の針がそれぞれのペースで回っている。一番忙しなく動く白い針が足をすり抜けて一周、間髪入れずにまた一周。

「な、何なのこれ?巨大だし、針が三つも多いわ」

「これは一秒針よ」指差す間にもぐるぐる回る。「普通の秒針、短針、長針」

「あとの二つは何でしょう?雰囲気的にはあれでしょうか?」

 私達が来た方の反対側に一つだけ大きな金の文字。多分あそこが十二時、私達は六時にいることになる。殆ど重なるようにして二つの針、金と銀が頂点に差し掛かりつつあった。

 私が一歩暗闇に踏み出した時、真正面十二時の空間に白い扉が現れた。だけど、

「わぁっ!」

 何かに躓いて思い切り前へ倒れる。倒れた先にも何かあったらしく、ついた手に硬い感触。

「クラン、大丈………きゃあっ!」私の躓いた物を見て那美が悲鳴を上げる。

「いた……どうしたの?」

 顔を上げると、知った顔があった。

「……レオ?」

 機能停止ではなく、何故か死んでいると直感した。

「クラン!あ、あなた足元に」

「え……」

 振り返って足の下の物を見た。よく、観察した。

「………私?」

 両手に舞剣を持ったまま私の死体はうつ伏せに倒れていた。左隣りには最後まで一緒だったのかボビーが付き添っている。死に顔は目を瞑っている以外毎朝鏡で見るのと余り変わらなかった。

「ワンッワンッ!」

「落ち着いて。ただのオブジェクト」死体に足が掛かったままコリーの首を抱き締める。「大丈夫だから、お願い」

「キュゥン……」

「驚いたわ」

 聞き慣れた声。白い扉から出てきたエメラルド色の髪と瞳。

「ルウお姉ちゃん……?」

「ええ。元気だった、クラン?」

 久し振りに会ったお姉ちゃんは髪を掻き上げ、肩に乗せた赤い目の鴉を一瞥する。

「本物?」

「当たり前よ。偽物に見える?」

「どうだろ。シスカは凄く本物っぽい偽物だよ」

「そうね。よく出来た夢だわ」

「でしょ?――で、お姉ちゃんも夢から出られなくなったの?私達今セミアを探している。あの子なら目覚める方法を知っているはずだから。一緒に行く?」

「残念だけど断るわ。今入ってきたばかりだし、用事があるの」

「入ってきた?」お姉ちゃんにも夢を操る能力が?

「ええ。悪魔に魂を売った魔女ならこれぐらい朝飯前なのよ。チャンスとは言え他人の夢なんて本当は入りたくないんだけど。ましてあいつの夢なんて怖気が走るわ」

 腕組みし嫌悪感を顕わに言う。

「ここ、ルウお姉ちゃんの知り合いの、その悪魔の夢なの?」

「どうかしら。同調で半分は私の夢とか言っていたけど」

「悪趣味な。勝手に人の死体を置いとかないでよ、転んで足とか痛い」

「あら、立てる?手を貸すわ」

「平気」死体から足を外して(一度誤って蹴飛ばしてしまった。うわ!)立ち上がる。パンパン。

「グルルル……!」

 私の死体に興奮したコリーが警戒、お姉ちゃんに牙を剥き出して威嚇の体勢。

「ボビー、寝過ぎで空腹なんじゃないの?私を完全にササミと間違えてるわ。今にも喰いついてきそうな目付きなんだけど」

むか。「……こんな物置いておくルウお姉ちゃんとお姉ちゃんの知り合いが悪いんでしょ」

「あら、今日は珍しく御機嫌斜めね。あの日?」

 私は訳が分からないと言った表情の二人に、「ルウお姉ちゃん、私の義理の姉」と説明した。

「こんにちは。妹がいつも世話になっているわ」

「いえ、こちらこそ。私は宝 那美、連合政府のバイトの途中で巻き込まれてここに」

「シスカエリア・クオルよ。この子の夢の住人、前の女王」

「クゥン」姉に向かって平伏して謝るコリー。「いいよ別に、悪いのはお姉ちゃんだもん」わざと聞こえるよう大声で言ってやった。ふんだ!

「本当にどうしたのクラン?あなたが怒る所なんて初めて見たわ」

 鴉がカァ、と耳障りな声で鳴いた。

「五月蝿いわね、分かってる。――クラン、この扉から現実の世界に出られるわ。信じて使うかどうかはあなた次第」

「“天使人”」

 途端ルウお姉ちゃんの表情が変わる。不敵な笑みを浮かべ、「どこでそれを?」

「セミアに訊いたんでしょ、“天使人”と“悪魔”。お姉ちゃんに話を聞くなら出しておいた方がいいかと思って」

「ああ、あの子ったら秘密だってあれほど注意したのに」

「ディーは」強く問う。「どこ?」

「知らないわ」

「嘘」

 お姉ちゃん、動揺が隠し切れていなかった。

「逆にどうして知らないの?お姉ちゃんはディーが」

「――あなた程聡明なら言わずとも分かるでしょ?あいつに会ってどうするつもり?」

「確かめたいの」

「何を?」

「あの日の事」



『あー、楽しかった!』

 河岸を二人と一匹で歩く。私は一足先に屋敷への帰り道、ディーはエカリーナに呼ばれて同行中。

『そうだね』

『キュウン』

 誕生会はありきたりな物しか用意できなかったけど、祝われたクレオも祝った私達も幸せにしてくれた。

『次は誰の誕生会だっけ?』

『うんと……』

 記憶している限り、私達の中で最後の日までに誕生日が来る人間はもういなかったはずだ。そう伝えると彼は『あ、そうなんだ』手を打った。

『じゃ次からは新しい宇宙か。クラン、頼むぜ』

『え、何を?』

『皆の召集。クランなら連絡簡単だろ?』

『何で?』そう確信的に言えるのかが訊きたかったが、『だけど誰が一番早いんだ?』気の早い彼が別な質問をしてきたので止めた。

『……私だと思う、二月生まれだし』

『そっか。なら今からプレゼント考えとかないとな』

『沢庵は却下』クレオの困った顔を思い出す。『それと、本人が呼ぶ誕生会っておかしくない?』

『そうか?集まって騒げるなら何でもいいと思うけどなあ』

 ディーはわいわいがやがや楽しい事が好きだ。沈思黙考する私とは正反対で、でも話していると心がほっとする。彼の話には常に希望や夢みたいなキラキラした物が沢山散りばめられているせいだろう。

『じゃあ俺が皆に声掛けてサプライズでやろう。うん』

 本人を前にしてここまで堂々と言われると却って天晴だ。

『クゥン』

『ボビーも何か欲しいか?』わしわし。余りにも平和で、和やかな光景。『じゃあ特製の沢庵をやろう』

『だから駄目だってば』

『あ、クランが笑ってる!』

『えっ?』

 水面に映る自分は、確かに口角を上げていた。ちょっと、変。

『キュウンキュウン!』ボビーが大喜びで跳ね回る。

『可愛いなあ。そうだ皆に見てもらおうぜ。まだ後片付けでいるはずだ』

『え、あ』

 腕を引かれて来た道を引き返す。数分後、予想もしていなかった言葉の嵐を受ける事になった。



 強引でいつも考え無し。だけどディーは私に大切な物をくれた。パートナーのボビー以外にも沢山、欠けていた心を。

「あの誕生会の時、確かにディーは言ったの。私のサプライズパーティーをするって」

「ああ、それなら私も聞いたわ。クランが喜ぶ物を考えておいてくれですって……あの馬鹿、本人に宣言したらただのパーティーでしょうが」

「お姉ちゃん」一歩前へ。「どうしてディーも皆も来ないの?」

 血の繋がらない姉は不機嫌になり、髪を苛立たしげに指で玩ぶ。

「何とか言ったら?」

「……ムカつくわね。こんな小細工をしてくるなんて」

「え?」

「思い出さない?クランあなた前にもその質問をしたのよ。前って言っても数十年は昔だけど」

 青天の霹靂。しかし忘れるはずはないのに記憶は無かった。

「そんなはずない。エレミアを出て今初めてルウお姉ちゃんに会っている」

「なら私も宣言する。あなたに会うのは二回目」

 嘘を吐いている様子は微塵も無い。

「私が眠った間に忘れたと言いたいの?それならシスカがここにいるはずない」

 ルウお姉ちゃんはふぅ、と大きく息を吐き、「眠り、ね。前もそう言っていたわ、毒がどうこう……それが原因か」

「お姉ちゃん?」

「クラン、よく考える事よ。あなた程透徹に優れる者はいない。才知を一時の情で曇らせてはいけないわ」

「もしかして前も最後はそう言った?」

「よく分かったわね。ところでセミアは元気にやってる?まだあの悪い癖は治っていないのかしら」

「治りかけだよ、多分。最近は全然取ってないみたいだし」

「ふぅん、それは何よりだわ。――あの子、本当に心の底から笑えるようになるといいわね。あの時のあなたみたいに」

「その話は頼むからしないで」恥ずかしい。

 姉は左手、九時の方を向いた。漆黒の闇に浮かぶ、銀色のノブが一つ。

「私はこっちに行くわ。まだ夢を彷徨うつもりならそっちのドアにどうぞ」

 三時の方を指差す。鴉がガァ、と鳴いた瞬間、鮮やかな朱の扉が現れた。

「セミアによろしく。それじゃ、さよなら」



 女の後ろからこっそりとドアを潜る。その先は闇。遠くに豆電球のような光が見えるだけだ。

(何で俺だけ人間じゃねえんだよ)

 夢の中の俺は何故か鼠だった。しかも気が付いた時には母さんのリュックの中で荷物に押されてぎゅうぎゅう状態。慌てて這い出た直後、丁度クランの姉さんが立ち去ろうとドアを開けていた。本能的に後を追い今に至る。

 何の躊躇いも無く光に向けて歩き出した女に気付かれないよう慎重に付いていく。音さえ立てなければこの暗さは俺の味方だ。

「お前にも哀憫の情があるのか」

 どこか色気のある掠れた男の声が平坦に響く。

「人を冷血人間みたいに言わないでよ、失礼ね。まぁ、あなたが言葉を脚色し始めたら背筋が凍える程恐ろしいでしょうけど」

「お前はそんな事では恐怖を感じない」

「そうね、そもそもあなたみたいな真性の引きこもりにそんな器用な真似ができる訳無いわ」

 クスッ。

「ところで、人間が入っても大丈夫なんでしょうね?」

「空気はある、気温も人間が耐えられる程度だ」

「もう一度確認するけど、騙してないわよね?」

「目障りな死体を常に視界に置くほど俺は酔狂ではない」

「私が美人だって認識は無いわけ?」

「お前を美しいと言えば俺は虫に対しても美しいと言わなきゃならなくなる」

「精々言ってなさい。着いたら思い切りその脛蹴飛ばしてやるわ」

 光が段々と大きくなっていく。

「暴力女め」

 ふっ、と身体が軽くなった。光が全身を包む。

 気が付くと通路は終わっていた。分厚い氷の壁、その中に青年が一人眠っていた。赤い服と短めの黒髪。と、背丈が元通りになっているのに気付く。手足も見慣れた人間の物。

 女は氷を見上げ何事か呟いた。右手で氷の上を男の頬を撫でるかのように動かす。

「ようこそ牢獄へ」背後からあの男の声。慌てて振り返る。

 真の闇を体現したようなローブに全身を包んだ男が壁際に立っていた。いや、立たされていたと言うべきだろう。男の周りには金色の頑丈そうな鎖が一、二……七本張り巡らされ、壁に縫い止められていたのだ。これでは指一本動かせない。

「どうしたの急に?」

「お前に付いてきた人間の魂に“挨拶”と言う奴をしてみただけだ」

「付いてきた?何で教えてくれなかったのよ!?ちょっと、まさかクランじゃないでしょうね!!?あの子がこれを見たら」

 彼女の名前が出てギョッ、とした。この氷男、そんなに重要なのか。

「どこにいるの!?捕まえて叩き出してやるわ」

 どうやらルウ姉さんには俺が見えないらしい。あらぬ方向をキョロキョロしている。

「無理だな。人間のお前に霊魂を捕える術は無い」

「じゃああんたが今すぐ追い出し……あ、いえクラン、この中には何もいないのよ」

「魂は男だが」

「あんたねえ、言うタイミングがいちいち遅いのよ!!絶対わざとやってるでしょう!」

 宣言通り鎖の間からローブの下の脛をヒールで勢い良く蹴飛ばした。

「……痛いな」本当か?男の声色は全然変わっていない。

「なら誰なのよこのストーカー野郎は!?言わないならこっちにも考えがあるわ」

「だそうだ。余りこの女の機嫌を損ねるなよ。この牢獄は魂であっても通さない。肉体の所へ帰るにはこの“ひすてりー”の先導で俺の夢を通っていくしかないんだからな」

「誰がヒステリーですって!!」ドスッ!「痛」

 ようやくこの場所が現実のどこかであるらしいと悟った。成程、セミアは普段こうやって移動していたのか。だが、氷男に鎖男にクランの姉さん、荒唐無稽な光景だ。それより問題はどうやら二人に俺の生殺与奪を握られていると言う事実。正確にはルウ姉さんに。

「グレイオスト・クオル。クランが女王をしている国の住民だ」嘘を言った所で仕方がない。正直に話して姉さんの信頼を得るのが上策か。

「へのへのもへじだそうだ」

「っな!ちゃんと通訳してくれ!!」

 姉さんははっきり眉間に皺を寄せながら、「本当にそう言ったの?」険のある声で尋ねた。

「少なくとも俺の耳にはそう聞こえた」腐ってるだろ、確実に。

「――別にいいわ。帰りの夢の中で訊けばいいだけの話。そろそろ始める」

 そう言って懐から取り出したのは数枚の紙切れ。婆さんの部屋でよく見るような奇妙で複雑な紋様が書かれている。

「あれで魔術を使うのか?」思わず磔の男に質問する。

「符と言う。あの女が好んで使う武器だ」

「普通は印を結んだり呪文を唱えたりするんだろ。ルウ姉さんは使えないのか」

「ああ、そういうのも時々は使う。ただ威力は符の方が強い」

 男は微かに鼻で笑い、「人間はかくも面倒事が好きな生き物だ。俺なら一音奏でるだけであの万倍の力を行使できる」

 数枚の符が鋭く氷のど真ん中へ投げつけられる。接触した瞬間ダイナマイト級の爆発が起こり、火の粉と爆風に乗った黒い煙がこっちにまで向かってくる。

「わっ!」

 反射的に顔を両腕で覆う。が、魂のためか熱さは一向に感じない。腕を下げると悔しげな顔のルウ姉さんと、傷一つない氷の塊。

「距離を考えろ。俺にまで火の粉が飛んで来たぞ」

「そんな所でボケッと突っ立っている方が悪いんじゃない」酷い言い草だ。「それよりこの封印、どんだけ硬いのよ。罅一つ入ってないわ」

「お前の術が弱いせいだろう」

「馬鹿言わないで!持って来たのは最強クラスの符ばかりよ。一枚あれば氷山ぐらい消し飛ばせるわ。それを五枚も喰らって何ともないなんて」

 今のが氷山五つ分の爆発!生身だったら余波だけで確実に死んでいた。

「待て。そんなに破壊力があるなら氷どころか中の“あれ”が吹き飛ぶとは考えなかったのか?」男が至極尤もな質問を投げかける。

「多少どうにかなってもあんたが治してくれるでしょ?」対して姉さんはあっけらかんと答えた。

「……俺は治せないぞ。見ての通り手も足も出ないしな」

「本当に!?先に言いなさいよ、そんな大事な事!危うくあいつをバラバラ死体にする所だったじゃない!」

 姉さんは髪を乱暴に掻き上げて、「まあいいわ。魔術は効かないようね。なら次の手」

「今度は大丈夫なんだろうな?」男の心配は完全に中の青年に向けられている。

 腰に下げたバッグから窮屈そうに出した、先にドリルの付いた機械を構え慎重に先程と同じ箇所を見定める。どうやらあそこが氷の破砕点らしい。そこに亀裂を生じさせれば全体に広がり数十分の一の力で崩せるはずだ。

「人間、あれは何だ?」

 不安なのか男が顔を僅かに上げていた。ローブの隙間から銀色の長い前髪と、雪のように白い肌が覗く。

「電動ドリルだ。普通は木や金属に穴を開けるために使う」DIYの雑誌で見た知識から引っ張り出してくる。城の修繕という面倒な仕事も俺の担当だ。

「“あれ”は大丈夫なのか?」

「姉さんが相当不器用で手を滑らせなければ。ところで質問してもいいか?」

「――お前に理解できる答えでなくてもいいなら構わん」

「あの男は誰だ?」

 ドリルが氷と接触し高い不快音を発し始める。

「俺の弟だ」

「兄弟でこんなトコに入れられているって事か?どうして」

「さあな……人間の考えは分からん。捕らえてみた所で結局終を先延ばすだけだ。最終楽章手前の極限の一音は変わらん」

「本当に理解できないな。ならあんたは」

「その一音があれの妹を殺す」

 頭が割れるような音がした。実際は男の言葉のインパクトを拡大して感じただけだっただろうが。

「お前も共に逝くか?俺は愛を持つ者には寛容だ、望みを叶えてやろう」

「クランを、何で」

 言葉が次げない。憎悪、悲哀を遥かに超えて現れる感情が口の動きを止める。

「俺の唯一の目的のためさ」

 これは畏怖だ。男の言葉は囚われの身にあっても真実、人を超越した宣告。正に悪魔の囁きだ。

「あの娘の命を持ってこの永遠の暗夜に明けが訪れる……それが俺とあの女が見い出した“希望”だ、可能性は高くはないがな」

 悪魔は薄い唇を横に広げた。

「止めてみせろ人間。でなければあの娘は死ぬぞ、逃れられない糸に手繰られて確実に」

「駄目だわ!!全然歯が立たない!」

 音が止み、ルウ姉さんがこちらを向く、と言うか睨む。かなりキレ気味。

「やっぱりそっちの封印を何とかしないと無駄なんだわ」つかつかと歩いて来る。「壊すわよ。手元が狂うから動かないで」

 刃先を氷に埋没している鎖に当てる。


 ガガガガガガガガッッッ――――!!!


「ひ」至近距離の金属が削れ合う不快な大音量に耐え切れず耳を塞ぐ。

 姉さんの額に玉の汗が滲んだ頃、ようやく音は止まった。

「電池切れだわ」鎖を確認し、「傷も付いてない。失敗ね」舌打ちした。よく見るとドリルの刃の長さが最初の半分になっていた。「何でも切れるダイヤモンド刃なんて絶対嘘だわ」

「次の手は?できればもっと静かな手段がいい」

「残念ながら打ち止めよ。もう何も準備していないもの」

 バッグに余裕でドリルを入れて、「まさかここまで強固だとは思わなかったわ。流石はって褒める所かしら」

「残念だったな」さして残念そうでもなく男が言う。

「別に。この程度で壊せるならとっくにあんたがやってるでしょうし……あいつの顔をこうして近くで見れただけで良しとしとくわ」

 氷の中の男を見た彼女の眼から透明な一筋が流れる。

「そこは冷たい……?きっとあんたの事だから何も考えていないんでしょうね、私の事も」

 袖で顔を一度拭う。

「いいの、私があんたを元に戻してみせる。どんな犠牲を払っても、必ず」

 理解できない。氷の中の男、悪魔と悪魔と契約した魔女、そしてクランの死。さっきの死体を思い出し思わず身震いしてしまう。

(戻るんだ、戻ってここでの事を話さないと――!)

 クラン、俺達自慢の聡明な女王ならきっと解って自らの運命を変えられる。魔手になど首を掴ませたりはしない。

「先に戻してやろうか?」

 男が極小声で話し掛けてきた。

「魂だけでは戻れなかったんじゃないのか?」

「お前を視認できるようになればこの女は容赦しないぞ。夢の中ならあの符も現実同様作用する、痛みを感じる前に弾け飛んで消滅するだろうな。人間とは脆い物だ」

「あんたには効かないのか」

 ハッ、鼻で嗤われた。

「あの威力だ、俺にも多少は効くかもしれん。だがあんな玩具で悪魔は殺せやしない」

 この態度、自分を死に追い込む者など存在しないと言わんばかりだ。

「そんな事はない、人間。強き想いは時に種と言う圧倒的な力の差を超える。お前があの少女を真実救いたいと願うなら俺を傷付けられるだろう、殺せる可能性も無くはない――まあ、俺にも望みがある。大人しく殺されるつもりはないがな」

 悪魔はふ、中性的な口元を綻ばせた。

「一つ訊いてもいいか」

「な、何だよ」

 薄い胸から吐き出した息に乗せて問いは俺の耳に入った。


「――お前は彼女が死んだら泣くのか?」


「あ、当たり前だ」


「それは結構な事だ」




 神との交信を試してみるが、反応が無い。

(眠っていらっしゃるのだろうか?それともまた闇に……)

 置いてきた睡眠薬は精神安定剤も兼ねている。悪魔の見えぬ攻撃には気休め程度しか効かないし根本的な解決とは程遠いが、飲んでもらえただろうか?

(どちらかが水晶宮にいれば様子を知る事ができるのに)

 ウーリーエールは一昨日から大学とやらに行き、ミーカールは異教徒の討伐だと言い残してしばらく前から戻っていない。出掛ける前に武運をと声を掛けると、

『イスラも行くか?お前の水鏡がありゃ大儲けだ』

『は?』

『おいおいミーカール。真面目なイスラにギャンブルなんて教えないでよ。大父神様怒るよ、本気でさ』

『任務に行かないのですか?』

『そんな都合良く異教徒がウロウロしてるかよ。息抜き息抜き』快活に笑って手をヒラヒラさせる。『ガキとカミサマの世話ばっか焼いてないで偶には羽を伸ばしてきたらどうだ……なんて、お前には到底無理な注文だな、あっはは』

 人形の手を引き『行くぞ。お前も精々稼いでくれよな』

 後から考えれば馬鹿にされていたのだと思う。私の役目は二人より遥かに単調だ。神やクランベリー、水晶宮の人形達を診察し対処する毎日。平和維持と聞こえはいいが実際は何もしていないに等しい。現にこの国の人間一人起こす事もできないのだ。

「役立たず……ですね」初めて口に上ったその言葉は妙に私を安心させた。

 異変を感じたのはクランベリーの体調を確認しに部屋に入った時だった。

「おかしい」

 完全に閉めたはずのドアが半開きになっていた。お陰で充満させた暖気が廊下に出てしまっている。

「誰かが起きている……?」

 今朝、水鏡で人数を照合した。間違い無くこの国の人間全員とボビーは眠っている。だとすると……。

「誰です!?」

 視線を感じて閉めたはずのドアへ視点を転じた。薄く開いた先に一人の人間。

「この国の住民ではありませんね?一体何者」

「て、天使様!!」

 避ける暇も無かった。ガバッ!男性の両腕が私の胴を抱く。

「本当にいらっしゃったなんて!お目に掛かれて光栄の極みです!」

「な……何なんですかあなた?」呆気に取られてそれしか訊けない。私達を見て拝礼や祈願をする人間はいるとは聞いたが、有無を言わさず接触する者は初めてだ。

 男性は二十代前半、見た目は主と同年代。小ざっぱりと刈り上げた銀髪、少々キツい切れた茶色の眼。防寒対策に足元まである群青色のコートを着込んでいる。

「し、失礼しました!本官はこう言う者です!」

 力一杯出された名刺には『連合政府公認裁判官 ラント・アメリア』とある。

「ああっ!違いますこっちでした!」

 素早く別の名刺を渡す。『四天使研究会 ラント・アメリア』行を変えて、『天使について学んで、あなたも清廉な心になりませんか?勉強会は毎週日曜朝八時~十時 場所は裏面参照』返してみると確かに小さく地図らしき物が印刷されている。何故か名刺の右上には見た事の無い子供の天使が踊っている。

「はぁ……名前は理解しました。それで、どうして王国に?」

「勿論天使様にお会いするため――じゃなかった。副業の事が気になりまして」

 青年は頭を手で押さえる。

「自分裁判官をしているのですが、どうも今度こちらで起きた事件の担当になったようで……実はその事件の被害者が加害者だった件も自分が担当したんです。被告の抗弁も無く恐ろしぐらい呆気無い審議だったので、ずっと……気になっていて」

「もしかして、あなたが会いに来たのは衛兵のアスですか?」

「御存知なんですか!?」

「ええ。しかし今の彼と話すのは……」

「分かっています。来た時、妙に静か過ぎるので少し街を調べさせてもらいました。日が真上にあるのに誰も彼もベッドの中、一体何が起こったんですか?」

「――原因不明の奇病です。私の水鏡を以てしてもこの眠り病の解決法は分かりません」真実とずれた事実。「こちらからのアプローチは効果がありませんでした。向こうの世界にいる者の力で夢を解かない限り彼等は目覚めないでしょう」

 説明を聞いた彼は慄き震え上がる。

「大変だ……!夢療法士を呼びましょう、このままでは全員死んでしまいます!」

「いいえ」

 踵を返しかけた彼に告げる。

「既にこの王国の夢療法士が調査に入っています。彼女の報告を待ちましょう」

 自分で自分の発言に驚愕した。明白なハッタリだ、大体セミアが中に入っている保証はどこにもない。

「そうですか……分かりました。応援が必要になったら言って下さい。曾祖父に直談判して超特急で送ってもらいます」

 だが、究極この問題は彼女にしか解決できないのだ。“蒼の幻望”が暴走したのも彼女に何らかの変化が生じた事が原因だろう。その不明確な物に託すしか今の私にはできない。

「しかし天使様、今日は雪も積もってとても寒いです。身体の弱い人々に何か対策を講じないと」

「心配はいりません。彼等の周囲の温度は保護によって一定に保たれています。――私にできるのはこのぐらいですから」

 そう言うと人間は目玉が飛び出す程見開いて「そんな事ありませんよ!流石天使様、住民全てをカバーできるだけの魔力をお持ちなんですね!そうとなれば、ここに座って下さい」

「え……は、はい」

 言われた通り椅子に腰掛ける。

「ずっと魔力を使ってお疲れでしょう?朝から何か口にしましたか?」

「いえ」天使は基本的に何も食べなくても活動に支障は無い。私の場合、神の調子が良い時に相伴する程度だ。

「いけません!持久戦は結局最後体力が物を言うんです。本官がキッチンをお借りして滋養のある物を作ってきます。何かリクエストはありますか?休日はよく料理しているので大抵の物は作れますよ」

 人間の目は本気で私の身を案じていた。どうしてだろう、最近の私は使命以外の物に心奪われる事が多い。以前は、ジプリールがいなくなる前はそんな事など考えもしなかったのに。

「天使様、大丈夫ですか?」

「え……あ、ええ」

「大分魔力を消耗しておられるのではないですか?横になった方が楽では」

「平気です」緊張を保っていなければ保護が解けてしまう。

「そうですか。無理はしないで下さい。で、何が食べたいです?」

 欲しくないと言った所で彼は到底納得しないだろう。正直に話す事にした。

「残念ながら私は人間の料理を殆ど知りません。あなたの判断に任せます」

 彼は目を丸くし、「やっぱり天使様は大父神様の光で生きているんですね……分かりました。本官、疲れが消し飛ぶとっておきの御馳走を作ってきます」

 バタン、ドアが閉まる。

「ふぅ……」

 人間と話すのは疲れる。……そうだ、クランベリーの様子を診ておかないと。

 二重の羽毛布団を上半身だけ外し心拍数と呼吸、体温などを確認する。出掛ける前と殆ど変化は無く少し安心した。

 この明晰な少女はどんな夢を見ているのだろうか。出来る事なら良い夢を、現実を忘れられる程楽しい夢を、そう願った。

「うん……?」

 今首筋に何か当たったような……見渡してみるが虫は飛んでいない。襟元が触れただけか。



 目的のドアは本の後書きの最後にあった。

「セミアさん、きっとここですよ!」

 人差し指の先で押すとキィ、開いた。ドアの向こうに大図書館のロビーが見える。

「でもどうやって入るの?指しか入れないよこの大きさじゃ」

「あ、そうですね」実際に指を通してみる。「駄目です、僕は小指も入れません」

 本はエレミアの言葉で書かれた小説だ。表紙を見てもストーリーは思い出せない、でも読んだ事がある気がした。

 一ページ目を開き、文字を追い始める。

――会話文と擬音のみの物語。主人公は親を亡くし現実から心を閉ざした少女。彼女と先生と呼ばれる存在との会話のキャッチボール。

「あ………」

 これは、私だ。

『このドアを潜れるかい?』

 物語の中程の先生の問い掛けに目が釘付けになった。文章の下に全角二つのドア、こちらはただのイラストだ。

『身体が縮めば通れるよ。兎さんに特製の赤い薬を貰う、とか。逆にドアを大きくしたらどうかな?ページを大きくして印刷するの』

『兎もコピー機もここには無いよ』

『じゃあ無理』

『はは、簡単に諦めるなあ』

『大体このドア絵だもん。ノブは握れないし蝶番も外せない、開けられないのに通れる訳ないよ先生』

『ん、ドアを開けないと入れないのかい?』

『当然だよ。お化けだったら閉まってても入れるけど』

『確かに幽霊ならどこへでも自由自在に出入りできるね。でもこのドアを通り抜けても次のページに行くだけだ』

『分かった!ページを捲る、これが答え!』

『ブブー。ヒント、手は触れない。息を吹き掛けるのも道具を使うのも無し』

『ええー!出来っこないよそんなの!』文章はそこで唐突に終わっていた。

 普通では到底通れないドアを潜る方法……私は答えを教わったのだろうか?

「セミアさん、何が書いてあったのですか?」

 簡単に彼に説明し、再び後書きへページを捲って小さなドアを開く。

「手も道具も必要無い……どうしろって言うの?」

 しばらく二人で首を捻った後、アスが呟いた。

「一つ気になる事があるのですが」

「何?」

「絵のドアの向こうには何があるんでしょう?」

「次のページでしょ」

「でもその先生と仰る方はもっと別の事をセミアさんに求めているのではないでしょうか?」

 そう。多分私は先生の質問の意図をきちんと汲み取っていない。先生の言わんとする事は頓知ではないはずだ。

 私が段々思い出してきたからか、幻の車椅子には薄い影のような物が座っている……先生はずっと何か言いたげに私を見つめている。

「開けられないと言うのは、もしかして開ける必要が無い……?」

 その言葉を聞いた瞬間、頭の中を光る物が走った。

「それだ!!」

「えっ?」

 ドアを閉め、脳裏になるべくリアルな大図書館をイメージする。カウンターの位置、ライトの当たり具合、書棚に詰まった本――精巧に記憶を積み重ねて、そっと目を開けた。

「やった……」

 想像力は開けられないドアさえ超える。私はあの小さなドアの向こう側に立っていた。

「セミアさん!?いつの間にそちらへ?」

 玄関から巨大なアスの顔が覗き込む。可笑しくてつい噴き出してしまった。

「こっちを頭の中で想像すれば通れるよ、早くおいで」

「わ、分かりました。ううん……」

 目を閉じてしばらくすると彼の姿が消え、私のすぐ隣に現れた。

「成功、もう目を開けていいよ」

「はい」

 恐る恐る瞼が開かれる。

「本当です。わわ、どうして通れたのでしょう……と疑問に思っている暇はありませんね」

 ヒュン、槍を構える。

「出てきたらどう?遠路遥々利用者が来てやったよ」

「あら、遅かったですね館長」

 眼鏡の司書がカウンターから浮かび上がる。憎らしい程いつもと変わらない涼しい顔。

「そちらの方は二度目の御来館ですね。今度は貸出カードを作っていかれますか?」

「いえ、結構です」

「私達の物語を返して」

 司書の眉が初めてピクッ、と動く。

「……館長、御自分の物語を引き取りに来られたのですか……そうですか、至極残念です」

 途端書棚の本が一斉に舞い上がった。ページが勝手に開き、封じられていた者達が黒く実体化する。人間は勿論、道具、動植物、怪物達がうねうねしながら自らの形を整えていく。

「お懐かしくはないですか?皆館長に再び開かれる時を待っていたのですよ?」

「全然」

 どの物語も確かにわくわくしたし知識になった。だけど……これらには本来アスと同じように続きが、未来があったはずなのだ。そのページは失われてしまった、永久に。私の手によって。

 未完の物語達は耳を塞ぎたくなるような唸り声を上げた。呪詛、私への憎悪――それもあった。だが、その中で私は初めて物語達の“声”を聞いた。「タスケテ」肌が泡立つ。

「……分かったよ……大丈夫、もうすぐ楽にするから」

 手の中に本を召喚する。開いたページは一面の吹雪。

「さあ冬の王様が来たよ!全てを凍てつかせる絶対零度、生ける物を氷像にしていけ!」

 文章を唱えたと同時にページから凄まじい量の雪飛礫が溢れ出す。哀れな本達は触れた途端ガチガチに凍り付いて次々床に落ちる。

「何て事を!館長」

「命令を解いて!私だって物語達を傷付けたくない!」

 本を右手に、左手でアスの手を握る。

「特別資料室まで走るよ」

「はい、援護します」

 私達は通路を真っ直ぐに駆け始めた。追っ手の大半は吹雪で無力化され、その範囲から逃れた少数は槍で叩き落とされ動かなくなった。

「ここ!!」

 一際巨大な両開きのドアを、私達は走りながら力一杯押した。



――きぃ……きぃ………――

『セミア、エレミアって街は知ってるかい?』

『勿論。大父神様のいる所でしょ?ここ』

 私は本棚から地図を取り出し、得意気に広げて示してみせた。

『そう、流石よく知ってるね』

『呼ばれたの?』

 車椅子の背に隠れているけれど、先生には四天使の証の翼がある。いつものんびりしているけれど実は大父神様に仕える凄い人。だから何でも知っているし、どんな難しい本でも読める。

『うん……ちょっと、ね』先生にしては歯切れの悪い答え。初めて見る不安を全面に出した表情。

『ねえセミア、エレミアに行ってみたいかい?』

『え?どうかな……ご本、一杯ある?』でないと行っても退屈なだけ。

『うん、大父神様の屋敷に沢山置いてあるよ。ここより面白い本もきっとあるだろうね』

『行きたい!いつ連れて行ってくれるの先生?明日?明後日?』

 先生は今にも泣きそうな顔をして『明日だよ、急な話で悪いけど……』

『わーい!なら今日は早く寝なくちゃ!』気付かない私は無邪気に飛び上がった。『先生ありがとう!』

『……セミア』

 上半身を上げ、私の両肩を縋るように掴んだ。

『エレミアには君一人で行くんだ。僕や保母さん達は付いて行けない』

『?何で?』

 ゴホッゴホッ。最近孤児院で流行っている咳が先生の口から漏れた。……咳?

『え……まさか、まさか虚無の病なの先生!?』

 思い当たる事はある。初めて孤児院に来た時、案内してくれた保母さんの姿がここ数日見えないのだ。

 虚無の病は不治。内臓を虚無の闇に喰われて、最後お腹の中が空っぽになって苦しみながら死ぬ。医学書には大父神様の力でも束の間進行を遅らせられるだけだと書いてあった。

 両親が死ぬ間際、二人は私に手を伸ばしていた。助けて、苦しいと訴えながら。お医者さんも近所の人達も皆死んでしまって、私はたった一人で二人を看取るしかなかった。薬箱の痛み止めも尽き、日に日に死の影を濃くしていく両親の顔が――不意に先生の顔に変わった。

『そんな!先生は四天使なのにどうして』

『宇宙の崩壊が進んで闇が強くなったのだろうね。僕以外の三人も皆死んでしまったし……今この孤児院で病に罹っていないのは君だけだ』

『あの子達も……?』そう言えばこの二、三日レクリエーション室にいるのはまばらだ。

『全員陽性だった。君はずっと個室で、接触したのは僕と二人の保母さんだけだったから多分感染しなかったんだろう』

 シャツの辺りを触ってみる。服の下の身体はギョッとする程やつれていた。

『それに、罹らなかったのは君に大父神の資格があるからなのかもしれない。だからセミア、エレミアに行くんだ。いいね?』

『ヤダ!!』金切り声を上げる。『先生と一緒じゃなきゃ絶対嫌!!』

『駄目だよ、街に感染を広げる気かい?この病は凄く苦しいし痛い、知っているだろう?僕は四天使として街の人達を守る義務がある』

『なら私がここに』

『セミア!』

 先生が焦るのは分かる。もし私が大父神候補ならここに残しておく訳にはいかない。闇が孤児院内で拡大した以上、何時土地自体が崩落してもおかしくない。その前に健康な私をまだ侵食されていない所へ、エレミアへ移動させる。それが今できる最善の策だと分かっている、でも。

 シャツを握り締め先生に縋り付く。

(私も一緒に罹ったら良かったのに!)

 どうしていつも私だけ平気なの?そのせいでまた一人ぼっちになってしまう。

『今日は渡す物があるんだ』

 泣きそうな私の前で、先生は車椅子の後ろに手を回した。



「行ってしまいましたね。どうしますクラン?」

 那美が白い扉を指差し、「お姉さんはここから現実の世界へ戻れると言ってましたね。嘘には聞こえませんでしたが」

「本当だよ。ルウお姉ちゃんの嘘はすぐ分かるもの」

 文字盤を歩き出す。

「那美は帰っていいよ。お爺さんが心配してるんでしょ?」

「それはそうですが……ところでクラン、何をやってるのですか?」

 四枚のドアを順繰りに回りペタペタと触って材質を確かめる私に訝しげに問う。

「ちょっと思い付いた事があるの。バーモン氏は元気?」

「あなたの言葉を信じているからでしょうね、至って元気ですよ。相変わらずアス君の事は行く度心配していますが」

「そう」

 いかにも彼らしい。

「本当に無罪にできるのですか?相手は先生ですよ?」

「それってベルイグ氏が検察側って事?」

「はい。先生免許持ってますから、自分の事件も時々裁判に参加するんです」

「へえ」

「現行犯でしたからきっとどっさり証拠出してきますよ」

「有罪を決めるのは証拠の多寡じゃないよ。真実がどこにあるか、それだけ。ところでベルイグ氏はどんな事件を担当しているの?」

「強盗や殺人傷害などの凶悪犯罪が多いですね。何気に今までの裁判全戦全勝です、現行犯逮捕のキイス氏に勝ち目は殆どありません」

「全戦全勝?全部の裁判で検察の求刑がそのまま通ったって事?」

「はい。何せ犯行を完全否認する被告人に証拠を山程叩き付けますからね。裁判官の心証は検察側に大きく傾きます。それに弁護側は無罪判決が最終目標、白を切り通す姿勢がまた裁判官には悪く映ります。結果判決の際には先生の刑に落ち着く、と」

 那美は顎に手を添え、「そう言えば不思議ですね。先生の担当した事件、どれもそんなパターンです。無罪を言い張る被告人に完璧な証拠、精神鑑定も薬物鑑定も正常」

「証拠が捏造された物だったら?」

「平均しても二十個はありますよ?それに大抵は複数の目撃証言が付いてきます。買収するだけでも毎回で莫大な費用になりますし、そもそもそこまでして犯人に仕立てる意味がありません。先生は被告人や被害者と何の接点も無いんですから」

「ベルイグ氏は無いにしても……栗花落さんとやらは?」

「もっとありませんよ!彼女が出掛けるのは先生に付き添われてか、一人でも私の家か買い物ぐらい、それ以外一歩も外に出ません」

「付き添って……どこか悪いの?」

「目が見えないんですよ、栗花落さん」頭を振る音が聞こえた。「そんな女性が長い間家に一人でいたら心配し過ぎで病気になってしまいます。先生もせめてもう少し一緒にいてあげればいいのに。本当女心が分かっていないと言うか」

「妻なの?」

「うう、説明しづらいですね。入籍はしていないはずです。住み込みの家政婦……も違和感ありますねえ。年季の入った恋人同士、と言う所でしょうか」

「どうして一緒に生活を?」

「ん?気になりますか?」

「まあ。ベルイグ氏自体謎の人だし、取り敢えず情報は仕入れておこうと思って」

「先生のプライベートを調べても裁判には勝てませんよ。うーん、その辺の事はよく知らないんです。環紗に先生の家がありますから今度行ってみては?」

「分かった、ありがと」

 よし、試す価値はありそうだ。

「那美。帰ってくれる?これから結構危ない事するから。巻き添え食わない内に」

「何をするつもりですか?」

「秘密。シスカ」

 朱色のドアをずっと睨んでいた彼女ははっ、とこちらに向き直る。

「どうしたのクラン?」

「リュックの中身出して」

 彼女は何も訊かず荷物を降ろして出した物を横に並べ始める。私はその中から厚手のブランケットと食用油、丈夫そうな皮紐を手に取った。

「となると……」再び私の死体へ赴き二振りの舞剣を借用する。

「何するつもり?」

「行く資格が無いなら作ろうと思って」

 那美は迷いの表情。

「本当に私だけ帰ってもいいんですか?」

「いいよ。私達も少ししたら帰る。気が引けるなら何か食べる物作っておいて。多分起きたらお腹と背中がくっついてる」

「……分かりました、イスラさんと一緒に用意しておきます」

 赤い扉のノブを回す。開いた先には七色の光。

「クラン、飛び込んでも大丈夫でしょうか?」中を指差して尋ねる。

「多分」

「うう……ええい、どうにでもなれ!!」

 勢い良く入ったと同時に彼女の姿は極彩色の光に掻き消された。一分、戻って来る気配は無い。


 バタンッ!


「はぁっはぁっ……」

 銀色の扉を乱暴に開けて出てきたレイは人間の姿なのに全力疾走した後のコリーみたいな息を吐いていた。

「クラン!」

 私と目が合うと彼は大股で歩み寄って来た。両手を広げ、「た、大変なんだ!悪魔が姉さんと手を組んでお前を」

「あら、まだいたの?」

「ひぃっ!」

 ルウお姉ちゃんは白いヒールで優雅に扉を潜ってそう声を掛けてきた。何故かレイはがたがた震えて私の後ろに隠れる。

「一人減って一人増えてるわね。あのショートヘアの彼女は帰ったのかしら?」

「うん。ついさっきそのドアを通ってね」

「あら、魔女の言葉を信じるなんてクランは度胸あるわね。いつか足元を掬われないよう祈っておくわ……ところでそいつ、名前は何て言うの?私今顔も名前も知らないけど男だって分かってる奴にこの符をお見舞いする用があるの」

「凄い用ね」

「ええ、顔も名前も知らないのが唯一の難点だけど」ふふ、お姉ちゃんは楽しげに笑う。「どう思う?」

「致命的じゃない?」

「私も同意見だわ」

 どちらともなく私達は肩を震わせた。

「まあ、言い触らした所で何が変わるのでもないわ。私達を止められる者はいないの、たとえジュードでも」

「お兄ちゃんでも?」

「ええ」艶然と微笑み、「ごめんなさいね。先に謝っておくわ」

 ふっ、と力の抜けた表情。誕生会の時の本来の顔。

「私ね、あの屋敷が好きだったのよ。家族を知らなかった私にあなたもセミアも本当の妹のように懐いてくれた。ジュードは真面目だけど意外と抜けてて……あんな事さえなかったら今でも弟みたいに思えたでしょうにね」

 二人の間に何があった?ディーや皆がいないのも関係している?

「友達が出来たのもエレミアに行ってからだったわ。皆親戚連中みたいに気味悪がったりしなかったもの。知らなかったせいだけど、嬉しかった」

 鴉がお姉ちゃんの肩に爪を食い込ませる。

「それにあいつがいてくれて……あの時が一番幸せだったのかしら?」

「止めたらいいじゃない」

 気丈を装ってどうしようもない辛さを誤魔化す姿は痛々しくて見ていられない。

「ディーも今のお姉ちゃんを見たら止めろって言う」

「あいつが、どう思うかなんて関係無いのよ……私が望むの、欲しいのよ、たった一度でいい――!!」

 唇を戦慄かせながら、「クラン、ジュードが死んだらあなたは泣くでしょう?悲しむでしょう?」そう問い掛ける。

「多分」

「多分?」

「お兄ちゃんは大父神、代わりを見つけるまでそんな暇無いよ。見つかったら見つかったでケロッと忘れてるかもしれないし。自分でも情が薄いとは思ってる」

 生まれた時ぐらいは泣いたはずだ。両親が死んだ時は小さ過ぎて覚えていない。孤児院の友達の時は辛さより早期から虚無の病の感染に危機感を覚えていて、何故先生達は患者を隔離して健康な者達を避難させないのか疑問だった。勿論一度は相談した。あの孤児院を出たのが私達兄妹だけだった事実から結果は自ずと知れるだろう。

「そんな事は無い。クランは俺達の国の女王だ、先見があって何より優しい。国民の事をよく考えてくれている心の温かい人間だ」

「レイ」

「いい子なのはあんたも知っているだろ?頼む、こいつには手を出さないでくれ!」

 突然頭を深々と下げるレイ。お姉ちゃんは袖から符を取り出し、そのまま仕舞った。

「……私が悪魔だったら今ので死んでたわよ。口には注意なさい」

 カァ。

「忠実な従者を持ったわねクランベリー女王。あと、そうね」

 鴉のいない方の腕を伸ばして私の頭に触れる。

「あなたはそんなに非人間的ではないわ、そいつの言う通り。だってあの誕生会の後、とても良い笑顔をしていたもの」

 撫で撫で。

「セミアを手助けに行くんでしょ?用事も済んだし協力するわ」

「えっ?」意外だ。

「あの子は私の大事な家族よ、苦しんだままにはしておけない……それに姉さんの後を……」最後は小声過ぎてよく聞き取れなかった。

 私はシスカに視線を送る。頷いたのを見てOKの意思を出した。

「それでガラクタを集めて何をするつもりだったの?」

「お姉ちゃんがいるなら必要無かったかもね。まぁいいや、レイ手伝って」

「あ、ああ」

 ブランケットを舞剣で真ん中から切らせる。思った通り繊維がかなりしっかりしていて中々切れない。

「クラン、これ固いぞ」

「頑張って」

 無理だと判断したのか左手に持ち替えて再挑戦。妖魔の腕力を最大限使って布を断ちに掛かる。夢の中なのに切り終わった時には額にうっすら汗。

「ありがと、次は」

 彼に指示して半分のブランケットを舞剣の先に巻き付け、私が押さえている間に上下を革紐でキツく固定させる事二回。すっかり不格好になった舞剣は持ってみるとかなり重い。

「松明ね。そんな物が役に立つのかしら?」

「まぁ見ててよ」

 油を二つに万遍無く染み込ませ、一つに魔術で着火した。油の助けであっと言う間に燃え広がる。

「なっ……!!?」「ちょ、ちょっとクラン!?」

 私は火を朱い扉に躊躇いも無く押し付けた。ゴウッ!木にしては早過ぎる速度で扉は焼け落ち、その先に地続きで別の夢が現れた。

「扉には開ける者の指向性が反映される。でも扉には開けられる者も存在しているはず。その指向性が防衛に走れば全く関係の無い部屋に飛ばされる事になる」

「夢見る本人?」

 私は頭を横に振る。「普通の人間は夢に誰かが入っている、なんて身構えているはずがない。そうでしょ、夢の管理人とでも呼べばいいの?」

 私達の頭上に忽然と彼女は現れた。濃茶色を基調とした制服、分厚い黒縁の眼鏡を掛けた少女。片手に重厚なファイルを持っている。

「あなたがこの事態を引き起こした張本人ね。初めまして、私は」

「クランベリー・マクウェルさんですね、館長の義姉の。存じ上げています」

「降りて来たらどう?話しづらいんだけど」

「その凶器を使用不能にして頂けたら考えます」

「ならいい」

 少女は薄く微笑んで、「私は館長から夢の大図書館の司書を任されている者。以後お見知りおきを」一礼。

「当館は全室火気厳禁です」

「人間の物語って燃えるの?」

「当たり前です、材質は紙ですから。点火した松明は勿論、ライター、マッチ、発火符、蛇口に繋いだままのホース、水の入ったバケツ、飲食物も書物が痛むので持ち込み禁止です」

「蛇口付きのホースなんてどこから持って来るのよ?」

 お姉ちゃんの当然の突っ込みに司書はしれっと「さあ、規則に書いてありますので。因みに当館に蛇口はありません」

「可愛くないわね。魔だから当然かしら?」

「どうとでも解釈して下さい。当館の閲覧希望は現在無期限で受け付けておりません」

「うん、だから不法侵入する事にしたの」

 司書の顔付きが変わる。

「物語が紙なら燃やして最短距離を移動できる理屈よね。変に操作された扉を潜るより安全確実にあなたの大図書館まで行ける」

「んな無茶な」レイが信じられないと声を上げる一方、ルウお姉ちゃんは成程と頷いた。

「流石、盲点を突くアイデアだわ。どうなのかしら司書さん?妹の言う通り?」


 くすっ………くすくすくすくすくすくす―――。


 司書の笑い声が四方八方から聞こえてくる。矢張り今浮かんでいるのは本体ではない。

「素晴らしい着眼点です。あなたの物語は一級の探偵小説にも勝る物、是非我が図書館へ寄贈して頂きたい」

「褒め言葉として受け取っておく」

 舞剣を顕現して司書に放つ。予想通り剣先は彼女をすり抜けて戻って来た。

「幻影なんかで私達の相手?セミアの相手で手一杯なの?」

「先程までは夢の住人でないあなた方など取るに足らないと考えていましたが、甘かったようです」

 景色が、変わる。



 特別資料室。

「ここが……?」

 壁、床、天井……あらゆる平面はぬめぬめと粘着質な光沢をし、目の錯覚などではなく脈動していた。何より解剖図鑑で見たままの赤黒い肉色、踏み締めた床からの生々しい弾力が全てを物語っていた。

「まるで動物の体内のようです……ここにセミアさんの物語が」

「ううん……これだよ」

「えっ?」

 否定された物語は鍵の掛かった部屋の中、表紙は外れページは破れ文章は飛散した。悲傷は年月を重ねる毎に増大し、奇怪じみた世界を作り上げた。

「私が放っておいたからこんなになっちゃったみたい」

 この気持ち悪い光景は恐らく拒絶した『肉体』を表しているのだろう。夢の世界に逃げた持ち主の代わりに物語はリアルでグロテスクな仮想を夢見る。

 両親や先生は中身が無くなって苦しみ抜いて死んだ。なら――身体など無ければいい。私が他人の視線を恐れていたのは、自分に肉体と言う物質があると気付かされるから。そんな物があったら私も、一人で死ななきゃならない……。

「ごめんね、私」物語に呼び掛ける。「一人ぼっちは怖かったでしょ?あの時もそうだったよね?」

 呼応するように肉壁が盛り上がり、二つの顔が浮かび上がる。

「お父さんとお母さんが豹変して怖かったよね。全部病気のせいなのに、私、自分が責められている気がしたの。何にも出来なくて」

 袖で二人の頬を拭う。


 ぅうううう………。


 顔は呻き声を上げながら涙を流し、壁に吸い込まれていった。

「セミアさん」

「……切り離したって消える訳じゃないのに、私何やってたんだろ」

 物語は人と共にあってこそ価値のある物。

「僕は……分かる気がします。持っているだけで辛い思い出は、いっそどこかへ置いてしまったら楽になれるのでは……でもセミアさんは今まで御両親を、大事な楽しい時間さえ忘れてしまっていた。……僕の物語にたとえ一ページであっても良い思い出があるなら取り戻したい、そう思います」

「あるよ」慰めの無い真実。「アスの物語には沢山優しい時間が書いてあるの。思い出さなきゃ勿体無いぐらい、いっぱい」

「良かった。セミアさんに保証してもらえるなら安心です」

 彼の微笑を見て内心少し混乱していた。あの物語は確かに失くすには惜しい時間も書かれているけれど、逃れるには狂うしかないぐらい苦痛の時間が確実に存在しているのだ。しかも性質の悪い事に、その全ては終わっている。幾ら本人が苦しもうと過去は変えられない。

 仮にこのままの状態で現実世界に帰れば、少なくとも抑圧された物語からの精神不安定は起きなくなる。水恐怖も元になる物語が無いのだ、克服しようと思えば容易だろう。――それはつまり、アスが何にも怯える必要の無い人間になると言う事だ。

「行こう」

 持ち主に不幸を齎す物語、それを返すのは本当に正しいのだろうか。

 歩いた感触はまるで内臓の上。ぶよぶよぐにゃぐにゃして何度も転びそうになる。

「自分の物語だけどすっごく気持ち悪い!!」こう言った所にありがちの臭い粘液が出ていないのだけが唯一の救い。「早く製本に戻さなきゃね」よく観察してみると肉の中を流れるのは血でなく赤いエレミア語、つまり私の物語だった。でもやっぱりぐにぐにしてて嫌!!

 部屋は五百メートル程歩いて終わり、天井が目視できないほど高い螺旋階段が現れた。その手摺りに、姉が座っていた。

「お姉ちゃん?」「女王様?」

 いつも少し眠そうな目をした義理の姉。でも油断してはいけない。生まれながらにして天才的な智慧を持ち、物事の核心を見抜く眼力を備えている。それは幾ら知識が豊富な人間でも決して真似の出来ない才覚。ある種の第六感、超感覚と呼んでいいかもしれない。

 だから大父神にならなかったと知って意外だった。屋敷の中で一番真っ当なのはジュードお兄ちゃんだったが、神様になる資質はお姉ちゃんがズバ抜けて高かった。何よりお姉ちゃんなら両親や先生を死に追いやった虚無の病、何代もの宇宙に渡る病の根絶を成し遂げられると思ったからだ。歴代の大父神が考えもつかなかった方法、彼女以外に誰が閃くと言うのだ。

 違和感を覚えて観察する。忠実な茶色い従者がいない。

「お姉ちゃん、聞いてるの?」

 彼女も私の物語の登場人物?

「私は違うよ」

「え?」

 猫のように軽々と飛び降りた姉は相変わらず惚けた目。

「私は敵。“蒼の幻望”に設定された障害」

「だと思った。こんな所にいる訳ないもんね」

「近くまでは来ているみたい、かなり強引な方法で。物語を燃やして進もうとするなんて反則もいい所でしょ?」

 吹いた。お姉ちゃん、そう来たか!

「盲点、私達もそうすれば良かったねアス」

「流石女王様、ですが燃やして影響は無いのでしょうか?」

 敵の姉は唇を尖らせ、「あるに決まってるでしょ。あんな物振り回されたらページが飛んで物語が滅茶苦茶!何て事考え付くのあの子、頭おかしい」

 ゲラゲラお腹を抱えて笑う。お姉ちゃんの姿でそう言われても全然説得力無い!

「頼むからあなたまで真似しないでよねセミア・マクウェル。あんな暴君一人で充分なんだから!」

「あははっ……大勢の夢を繋げてこんな世界を作れるのに火遊びが怖いなんて変なの!」

「五月蠅い!」

 床がぐねぐね揺れ、肉から数十本の短剣が飛び出してきた。

「きゃっ!」

 慌てて剣の無い階段に逃げる。すると不意に階段の段差が無くなった。ツルツルして立ってられない!

「セミアさん!」

 アスが私と槍を小脇に抱え、空いた手で手摺りにしがみ付く。

「私が手を下すまでもない」

 ごごご……階段を伝わる重い振動。

「押し潰されてしまいなさい」やっぱり!

 どうする?下も上も逃げ場無し、アスは二人分の体重を支えるだけで精一杯。

「言っておくけれどここはあなたの物語の中。外のように他の物語の力は使えない」

「嘘!?」呼び出そうとするが全く反応しない。

「ほら。今のあなたはただの子供と一緒。さあナイト共々死になさい!」

 どうすればいいの――!?このままじゃ。

「セミアさん」

 ポケットの中を探ってみるが火を点ける道具はおろか紙切れ一枚入っていない。どうもできないの!!?これじゃ信じて付いて来てくれたアスに申し訳が立たない!

 無意識に唇を強く噛んでいたらしい。舌に鉄錆の苦い味が広がる…………血?

「そうか……!!」

 腕を伸ばしに伸ばして槍の先端、思いっ切り人差し指の腹を突き立てた。

「セミアさん!?」

 鋭い痛みと共にアキャリ族の蒼白い血が噴き出す。返す刀で上体を下にし、肉の床に速記体でこう書いた。


『見よ!我等を押し潰さんとする岩は木っ端に砕け散り、道は在るべき姿を取り戻し、幻惑者は炎に包まれた!』


「きゃああっ!!」

 姉の姿をした敵はあっと言う間に燃え消し炭と化した。段差が復活し、上の方で硬い物が割れる音がした。

「降ろして」

 物語には物語を。こうまで上手くいくとは思わなかった。

 不意に右手を掴まれて痛みが走る。

「酷い……爪まで貫通している」

「これぐらいどうもしない」

「駄目です!」

 有無を言わさず持っていたハンカチで指どころか手全体をぐるぐるに巻いてしまった。

「女王様に診てもらうまで絶対動かさないで下さい」

「また現れるよ、さっきみたいなの」

「書くなら僕の血を使って下さい。とにかく、セミアさんはこれ以上怪我してはいけません」

 今にも泣きそうな顔、まるでこっちが悪者だ。「はいはい、分かったよ」子供に諭すように言った。



「ようこそ、セミアの家族達」

 先程とは打って変わって眩しい白い壁。白い書棚に埋もれるように車椅子の男はいた。

「僕は“蒼の幻望”の魔と呼ばれる存在だ」

「さっきの女の子は?」

「ああ、彼女ならここだ」

 彼は膝元の本を広げた。そこにはあの司書と寸分変わらぬ挿絵。

「安心してくれ、もう彼女は封印済みだ。僕はただ君と少し話がしたかった、クランベリー」

「どうして?」

「もうすぐ僕は消えてしまうからさ」

 春風のような穏やかな笑み。

「セミアはもうここに来る資格がある。僕は彼女を殺してまで主導権を握る気は無い」

「驚いた。あなた魔なんでしょう?覇気が無さ過ぎるわ」

「やる気が無い方が君には好都合なんじゃないかい、魔女ルウ?魔祓いに失敗したら君はセミアを始末しなきゃならない。情の深い君にとっては気の重い作業になるだろうね」

 お姉ちゃんが只で協力してくれる訳ないと思ったけれど。“魔”を落とす事によってお姉ちゃんは何らかのメリットを得る。それは悪魔との契約によって発生する物?

「ちょっと!魔のくせに私を人でなしみたいに言わないでよ!」

「保険のために来たのではない、と?」

「保険は保険でもセミアが苦戦していたら手を貸す方の保険よ!人の心に付け込む寄生虫如き、この符で全部吹き飛ばしてやるわ!」

 魔は首を竦めご尤も、と呟いた。

「君達の物語はさっき拝見させてもらった。悪魔の記録だけは膨大過ぎて僕の手には負えなかったがね」

「でしょうね。無駄に長く生きてだけはいるようだから」

 抗議するように鴉が鳴く。

「中々興味深い内容だった。特にクランベリー、君のは特に続きが気になる。これから何を感じどう道を歩むのか、ね。物語は星の数程あれど、未来に期待させられる物はそう多くない」

「ふぅん」

「随分気の無い答えを返すんだ。普通もう少し関心を持つよ、そっちの彼みたいに」

 あの馬鹿。振り向かないけどきっと目を輝かせているのだろう。

「……ねえおじさん」

「まだお兄さんで充分通る年代だよ?何ならセミアみたいに先生と呼んでくれていい」

「なら先生。あなた物知り?」

「知識欲だけは旺盛でね、大抵の事は知っているつもりだよ」

「そう。じゃあ一つ質問」

 口角を上げる。

「私でも裁判で弁護人になれる?」

 瞠目したまま二、三度瞬きをする。「……君の思考回路はどうなっているんだい?」頭を横に振って、「YES。法律上は司法試験を通っていない人間でも特別弁護人として参加できるが……」

「そう、ありがとう先生」

「クラン!?幾らアスやおっさんと約束したからって何もお前が」

「レイ。言っておくけどあの裁判、普通の方法じゃ勝ち目なんて無いの。大体、今から弁護を頼みに行っても誰もやってくれるはずない」

「だからって」

「まだ材料が足りない……でもそれが揃った時、必ず無罪判決に持ち込めるの」

「その自信はどこから出て来るんだ?――手伝いがいる時は言うんだぞ」

 ぱちぱちぱち。

「いや、僕も是非君の初舞台を見てみたかったよ。まぁ、その役はあの子に任せよう……そろそろやって来る頃だ」

 シスカは首を竦める。「私もお別れの時間ね、寂しくなるわ」

「そうでもないでしょ?」リズムを付けて腕を軽く振る。彼女の頭がそれに合わせて小刻みに動いた。「割とすぐ会えそうだよ」

「どういう事だ?」

「レイには関係無い。……何か言いたいなら今の内かもよ?」

 彼女の目が探るように私を見つめて、肩を大袈裟に動かした。

「ボビーにはもっと好きな物食べさせた方がいいんじゃないの?鶏のササミとかケチャップの沢山掛かった鶏のササミとか」

「駄目だよ。キイス氏に貰った贅肉が最近やっと減ってきた所だもん。好きに食べさせたら春が来る頃には豚コリーになっちゃう」

「ちゃんと毎日動いてるから大丈夫よ。毎日野菜ばっかりだと却って病気になりそう」

「栄養計算はしてる。たんぱく質は大豆とうずら豆で必要分摂れているはず」

「豆は結構。問題はあれよ、あの青臭い粉!」

この前買った粉末青汁の事か。「ああ、緑黄色野菜が足りなかったから掛けてるんだけど」

「苦いし口の中がザラザラ。ボビーが食欲を無くしてしまうわ」

「その割には一回も残した事無いじゃない」

「ドケチな飼い主がお八つをくれないからでしょ。あんなマズい餌でも食べないとひもじくて死んじゃうもの」

 嘘吐け。昨日お婆ちゃんにバタークッキーたかりに行ってただろう。口の周りに残骸が残っていた。知っているんだから、私が仕事している隙に毎日ローテーションで皆に食べ物を強請りに行ってるの。

「へえ。ところでお八つは何が好き?」

「それは勿論この前レイがくれたシュークリー……わわわ!!」

 悪事を暴露された彼に一瞥を加え、「へえ」殊更にそっけなく言ってやる。「なら当分餌は朝一回でいいね。準備する手間が省けて楽だわ」

「動物虐待!!」

「何とでも。元はキイス氏にせがんだのがいけないんでしょ?痩せるまで我慢我慢――と言う訳でレイ、あなたもボビーに付き合ってね」

「はあっ!?付き合えと言われても俺は全然太ってないぞ」

「でも運動不足でしょ、不健康。起きたら取り合えず協力して雪掻き、終わったらバスとキッチンの掃除。あ、薪もちゃんと割っておいてよ」

「おい!」

「ねえクラン、何ならこいつも一日一食にしたら?ボビーだけじゃ可哀相よ」

「グッドアイデアだわお姉ちゃん。採用」

 あはははは。本当お姉ちゃんとは笑いのツボが合う。

「お前こそ魔女だ………」

「いや悪魔に違いない」

 先生はふふ、と含み笑う。

「クゥン」

「心配しないでいいよ」コリーの頭を撫でる。




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