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夢奥七色  作者: 夕霧沙織
2/6

一章 夢見る人々



 数えて三度目の目覚め。身体を起こしてまず部屋を軽く見渡した。記憶通りの風景。

「クゥン」ベッドの横でお座りしたラフ・コリーが朝の挨拶。

「おはよう」

 藍色の両目を覗き込んでふさふさ頭を撫でる。

「何だ、まだ覚めてない。別に良い夢だからいいけど」ふぁ。夢でも欠伸って出るんだな。

「クゥン」尻尾をパタンと動かし、肉球で出入口のドアを指し示す。

「ああ、確かに一理ある。うーん」伸び。「寝てるのもいい加減飽きたしね」

 ベッドから出て髪を梳かし、クローゼットから普段着を取り出す。壁の時計は七時を指したまま止まっていた。

 ドアの方を向いたコリーの尻尾を悪戯に靴で突き突きしつつ着替える。ちっ、全然振り返らない。

「クゥン?」

「終わった。取り合えず朝御飯に行こう。夢なら御馳走ばっかりかな?」

「クゥン」涼しい顔。思い切り踏ん付けて嫌でも反応させれば良かった。

 ドアを開けた時、廊下で誰かが走っていくのがチラッと見えた。見覚えのある登山服と大きなリュックサック。

「今度はシスカ?シスカ!!」

 振り返った彼女は雪山で一晩明かした姿のまま。

「クラン??ねえ、どうして私家にいるの?おかしいな、出てきたはずなのに」

「ここは私の夢の中。シスカはその登場人物」

 簡潔な説明に彼女は首を捻る。

「そうなの?全然覚えていないわ」

「当たり前だよ。さっき私の記憶から生み出されたばかりだもの」

「信じられない。ここにこうしているのに?」

「なら子供の名前は?」

「リリアとグレイオスト」

 ぷっ。思わず吹き出してしまった。

「雪山で会ったの三十年は前だよ?独身で二人は影も形も無かったに決まってる」

「え!?で、でも」

「子供の時の顔は思い出せる?分娩時間は?生まれたばかりの顔はどんな風?」慌てふためく彼女に追い打ちを掛ける。しばらく頭を押さえて唸っていたが、「……お、思い出せない」音を上げた。

「でしょ。私の記憶に無い物がシスカにあるはずない、だってシスカは」

「クランの夢、だから」

 ようやく納得したのか、シスカはしげしげと私が出てきたドアを見た。

「ここ使っているって事は、私は死んで今はクランが女王しているのね」

「シスカが言い出したんでしょ?」

「まあ……そうね。会った時から考えてはいた」

「どうして?私は赤の他人なのに」

 自分で馬鹿らしい質問だとすぐ気付く。彼女も破顔一笑。

「あなたに解らない物が私に解ったらおかしいでしょ!さっきと逆ね」

 夢だと暑くないのだろうか?こんな分厚いウインドブレーカー、冬とは言え城の中で着てたらあっと言う間に汗だく。

「迷惑だった?突然こんな田舎の国の女王になれなんて」

「別に」

 偽りの無い本心だ。ディーを探すと言う目的はあるけど、他人と同じ屋根の下での暮らしは悪くない。家族みたいな生活はエレミアの屋敷以来だ。

「クゥンクゥウン」

 コリーが彼女の脚に擦り寄っていって頭を撫でられている。

「この子も夢?」

「現実だと思う。さっきも二回とも本物だったし」

 セミアが気紛れで教えてくれた夢を消す“幻拭”の一連の動作、お兄ちゃんやイスラはいなくなったけど彼は変わらなかった。

「どうしたの?難しい顔をして」

 私は肩を竦め、言った。

「……起きられない、どうしようかな」



 エレミアの屋敷にいた時、睡眠についてセミアが言っていた。

『脳は一時間半のサイクルを繰り返して眠っているの。一時間半の前部分は夢を見るレム睡眠、後部分は夢を視ないノンレム睡眠。普通サイクルを重ねる毎にレム睡眠の割合が多くなって、人間は大体五回目か六回目のレム睡眠で目覚めるようになってる』

 屋敷に来た当初、環境の変化で軽い不眠症に罹っていた私は博学な妹に相談を持ち掛けた。すると彼女はそう言って眠りの仕組みから説明してくれたのだ。

『眠りに就くにも一定の条件があるの。お姉ちゃんの場合はね……多分光が原因じゃないかな』

『光?』

『本によるとエレミアはお姉ちゃんのいた孤児院より約三時間日の出と日没が早い』

『つまり、私が眠れないのはただの時差ぼけ?』

『そうだよ』あっさり言い切る。『こっちの時計通りにしてればその内治ると思う』

 原因が分かったせいかその日からぐっすりと眠れるようになった。心理的な物も多分にあったのだろう。意外に繊細な神経の持ち主だったようだ。

「それがどうして起きられないって話になるの?」

「夢って普通一つか二つしか思い出せないでしょう?セミアによれば、間に脳が休むノンレム睡眠を挟むと先の夢は全部忘れるらしいの。たとえ夢の中でも」

 さっきまで見ていた夢を指折り数える。

「十よ。ノンレム睡眠を挟まないまま、私は少なくとも十回レム睡眠を行っている。しかも間に区切りを入れて」

 お兄ちゃんやイスラを消した後、ベッドに入り直して目を閉じた。本来ならあそこで現実の世界に戻れているはず。

「大雑把に計算しても七、八時間は異常睡眠の中にいる事になる。肉体的には少なくとも十時間以上眠りっ放し」

 私の平均睡眠時間は四サイクル、六時間だ。普段は五回目のレム睡眠で起きるはず。

「アルコールや薬で夢の異常が起こるとは考えにくいし、摂取した覚えも無い」

「じゃあ何?」

「さあ?でも喋っていて一つ気になる事が出てきた……この珍しい事態にどうして専門家が来ないのか、って」

 身内の夢だからとあの妹が遠慮するはずがない。普通なら今頃ずかずか入り込んで調べまくっているはずだ。

「可能性が三つ。私達より重症の人間がいるか、優先順位の高い人間がいるか。或いはその両方か」

 厭な予感しかしない。

「とにかくあの子が当てにできない以上自力で調べてみるよ。シスカ、付いて来る?」

「そうね。一緒にいないとすぐ消えちゃいそうだし。ね、ボビー」

 撫で撫で。

「クゥン」

「でも凄いわ。飼い主の夢の中まで付いてくるなんて、賢い犬」

 先に進む前にちょっと確認してもいいかもしれない。

「SIT!」

 機敏な動きで床に座る。私は右手を回しながら次の命令を出す。

「ROLL OVER!」

 ゴロゴロゴロ。

「ふぅん」予想通りか。「GOOD BOY」背中を多目に擦る。

「クゥン?」

 褒められ慣れていないコリーは、犬らしからぬ態度で首を傾げた。



 寝る前まではいつもより冷え込みが厳しい夜だった、と思う。

『お、遅かったな』

 風邪を引かないよう、アスと置いてあった毛布を手分けして皆に配った。先に部屋に戻って暖炉に火を入れ、相方が戻った頃には空気はすっかり温まっていた。

『あったかい。これなら凍えずに眠れそうです。ありがとうございますレイさん』

 彼は自分用の毛布を羽毛布団の下に敷いた。

『どうした?また姉さんに捕まってたのか?』

 父親代わりのキイスのおっさんがいなくなって以来、姉さんは益々彼を二人目の子供みたいに扱うようになった。今日も真面目に掃除をする傍らに立ってあれこれと話し掛けられ、俺なら鬱陶しくて逃げ出すだろうが、人の良い彼は微笑みを湛えて応えていた。

『いえ、セミアさんの部屋の薪が無くなっていたので運び込んでいました。これだけ寒いと帰って来ても部屋を暖めないと眠れません』

『どうだって?あれから何か分かったのか?』

 クランの“毒”を調べるのに妹君は毎夜シャバムの図書館へ出掛けていく。以前は殆ど朝帰りだったが、城に来てからは昼間も起きているので、最近は早々に十二時ぐらいで帰ってきているらしい。

『いいえ。まだ……』

『そうか』

 彼女がずっと起きてこの国にいられるならどんなに幸せだろう。そう思う度に本気なんだなぁと確認できてしまう。

『僕も何かお手伝いできればいいのですが』俺だって痛切にそう思う。

 彼の枕元には油を注ぎ足したランプと毛皮のカーディガン。夜明け前一番に起きて大広間や食堂に火を入れに行くための準備だ。この時期はクオルでも雪が積もる日があるから有難い。去年までその辛い仕事は俺がやっていたが、今年はぬくぬくと布団に包まっていられるのが何より嬉しい。

『あ……』

 思った矢先に窓の外を白い物がふわふわ落ちていく。止むどころか時間を追うごとに舞う量は増える一方だ。桟に見る見る五ミリ程積もる。

『道理で冷える訳だ。明日は雪掻きだな』

『セミアさん、大丈夫でしょうか……』時計を見やり、不安げな顔をする。

『コートは着て行っただろ。それに精神世界を通っていってるなら寒さも感じない、何も心配無いさ』

 真新しいドアの内鍵を下ろす。充分部屋を温めた暖炉の火は自然に消えかけていた。

『でも、セミアさんは子供です』

『あんな大人顔負けの饒舌で博識なガキがいるかよ。俺等よりよっぽどしっかりしてるぞあいつは』特に損得勘定に関しては。

 だがアスは浮かない顔をしたままだ。

『全く……どうしたいんだ?』思い切って訊いた。

『……今日だけでも起きていて、セミアさんの帰りを待ちたい、です。でも』

 一人ではなるべく行動しない、治療中の例の約束が効いているのが迷いの原因か。

『いい、付き合う。チェスやりながらなら寝ないだろ』

『え、でも』

 さっさと棚からチェス盤と駒の箱を取り出して、『早く行こうぜ』促した。

 セミアの部屋に着いたのが大体その五分後。予想通り中は身が凍る程寒く、室内でも吐く息は白い。アスが慣れた手付きで薪を組み火を起こす。

『ううー』『寒いです』二人で火の傍に手をやり温める。

 しばらくしてようやく部屋を歩き回れる気温になり、暖炉の横に机と椅子を持って来てチェスを始めた。基本的にゲームの最中は喋らない。二人共集中して口まで意識が回らないのだ。

 俺が黒の戦況は一進一退、ほぼ互角。いつも通りの展開だ。だが数分後、

『チェックメイト』

『あ』

 気付かない内に白のルークとクイーンが黒のキングを追い詰めていた。何手か防衛したが、結局詰んだ。

『参った、降参だ』

 今まで十回以上やって勝率は三割。姉妹は一度ずつやったが実力が違い過ぎてどれだけ屈辱的なハンデにされても一度も勝てない。知識のセミアに奇手のクラン、あの二人が勝負したらどっちが勝つか?ふとそんな話題を振った。

『普通の時ならセミアさんが勝つと思います』

『何だよそれ?』

『大事な勝負以外わざと勝たせる気がします、女王様は』

『練習で敢えて実力を出さないタイプか。そうかもしれないな』

『と言うより、女王様の場合本気でやるのが面倒臭いと仰る気がします』

『確かに』

 くすくす。新しい薪をくべ、時計を見やる。

『もう十二時か』

『レイさんは先に休んでいて下さい。部屋に戻る頃には起こしますから』

『別に疲れてないさ。お前こそそろそろ眠いんじゃないのか?』

『僕は平気です』

『あ、そう』

 連日氷点下の中の早起きもこいつを疲弊させる程ではないらしい。去年の俺とは大違いだ。うっかり眠り込んで何度大臣や姉さんに怒られたことか。

 セミアの部屋は必要最低限の家具が置いてあるだけで実に殺風景だ。どうやらここでは本を読まないらしく聖書の一冊も無い。

『大分積もりそうですね』窓の外を見ながら呟く。

『雪掻きは重労働だぞ』玄関回りなど城で雪をどける場所は幾つかあり、毎回翌日は筋肉痛がする。『ひたすらしんどい』

『雪遊びはしないのですか?』

『おいおい、この年で雪ダルマ作れってか?』思わず苦笑いが出る。『勘弁してくれよ』

『そうですか、残念です。女王様は雪が積もるのを楽しみにしているようですが』

『なっ!』意外と子供っぽい所あるじゃないか。

『一度ボビーさんと犬橇をしてみたい、と仰っていました。僕とセミアさんと、キュクロス御婆様も乗せてもらう約束をしています』

『婆さんも?』我が国の宮廷魔術師は、年相応に足腰は弱いが好奇心は人一倍旺盛だ。しかし雪ではしゃぐ年でもないだろうに。

『ではレイさんは雪掻きをお願いします。僕も橇に乗せてもらってからお手伝いします』

『ああ、いや……俺も偶には童心に帰って雪合戦でもしてみようかな』

 アスは途端にはにかみ、『はい。女王様もきっと喜んでくれると思いますよ』と、その頭がぐらっ、大きく傾いた。

『あ、あれ……急に眠く……』

 異変に反応する間も無く、俺も目の前の視界が急速にぼやけた。相方を介抱する隙すら与えられなかった。

『う……』

 絨毯に顔から倒れ込む。頭が痛くなる程の猛烈な睡魔―――駄目だ、思考が……。



 ドアの向こうは海底だった。

「またハズレ」

 夢だと知覚していたので呼吸はできる。長い年月で積もった砂を靴底で掻き混ぜるようにしながら歩き出す。

「どうなってるの」

 魚の大群と一緒に泳いでいる少年と、岩壁に寄り掛かって声を掛け続けている少し若いリリア。この海で夭逝した子供はすいすい水を掻き分け魚群と同じ円運動を繰り返す。

「これじゃまるで入れ子」

 海中という背景と、親子という登場人物。二つは全く別の人間の夢の要素。通常ではまず混じる事はない。強力でしかも未知の力、この王国ばかりか近隣の住民を全て夢に落とす程の物が働かない限りは。

『館長』天から響く少女の声。

「図書館の入口はどこ?」

『何故私にお尋ねに?館長ならば当然迷わずに来られるはず』

「巫山戯ないで!夢の世界をこんなぐちゃぐちゃにして」

『そうでしょうか?全ての人間の夢、精神が一つに溶け合っている素晴らしい状態。館長はこれを望んでいたのではありませんか?』

 意味不明、なのに胸がズクリと疼いた。

『永遠に読み尽せない物語、そんな物があれば御自分の物語を図書館の奥底に仕舞ったままにする最高の言い訳にできる』

「私の物語……?」

『気付かない振りをされても無駄、私は知っています。館長の狡さ、弱さ、臆病さその全てを。……いいではないですか。館長はただこのどこまでも続く物語を魂の擦り切れるまで泳いでいけばよろしいのです。楽しいですよ?退屈などとは無縁です』

「違う!」

 彼女の言葉が本当なら私の物語はここにはない。でも精神の奥で熱さを伴った衝動が沸々と上がってくるのを感じる。

「私が望んでいたのはこんな気味の悪い世界じゃない!もっと――」

『逃げている内に忘れてしまっただけです。自分を偽るための迷宮、決して来訪者を到達させないゴール、館長はそれを望み、材料を集めた。私は最後の仕上げをしただけです』

「戯言はいい!アスの物語を返して!!」

 不意に目の前の光景に四角い切れ目が走った。きぃ、こちらに向かって開く。

「あ……」

 現実と寸分違わぬ彼は槍を構えながら用心深く扉を潜り、私に気付いた。

「セミアさん?」数秒見つめた後、「よかった、今度こそ本物ですね」笑みを浮かべた。

「どうして……?」

 物語を奪われているのに夢の中を歩けるはずがない。でも、彼からは確かに魂の波長を感じ取れる。

「あ」

 足りない。今の彼が持っている物語は凡そ一週間前で引き千切れている。父親代わりのキイス氏が逮捕されるより後で。司書に盗られた際、何らかの事故によって魂と共に図書館の外へ出てきてしまったのだろう。

「無事、だったの……?水は」トラウマの根本が無いとはいえ、付随する恐怖心は持っているはずだ。

「あ、ああ……」指摘が完全に仇になった。彼の顔が真っ青になる。

「向こうは何の空間?」

「古い物の置かれた狭い部屋です……」

「戻るよ、来て」

 無理矢理手を引いて半開きのドアに身体を突っ込む。

 物置だろうか、足の踏み場も無い程置かれた骨董品。どれも埃は被ってはおらず綺麗に掃除されていた。天井には電気の点いた大きな豆電球一つ。この夢の主は……那美?巻き込まれるなんて運の悪い人。

「何個か夢を歩いてきたみたいだね。その道の途中で私の影に?」

「……よく覚えていません。意識のはっきりしないまま幾つかドアを潜って、セミアさん……のような者に声を掛けられました」

「だろうね」

「セミアさんの声で話す向日葵や兎、姿形はそっくりなのに声が男性だとか……先に進んではいけないと言われたかと思うと、二言目はもっと奥に行かなければならないと……助言を信じればいいのかも分からず、とにかく本物のセミアさんの所へ行きたい行きたいとそれだけを考えて歩いてきました」

「そう。影は惑わす者、相手にしちゃ駄目」

 誰の夢にも生息する無数の妨害者だ。はっきり姿を取る時もあれば、歩いても歩いても抜けられない森や洞窟の形をしている事もある。夢を見ている者の迷いや躊躇いの投影で、彼のように一心不乱に目的に向かえば取るに足らない相手。

 まだ気分が悪そうなので空いた空間に座らせ、持っていた現代小説の中から温かいコーヒーの缶を二本召喚した。中の液体が見えないので与えても多分大丈夫だろう。

「開けられる?」手渡してからふと尋ねる。彼の過去現在の生活圏内では缶飲料を販売していなかったように思う。案の定、首は小さく横に振られた。


 プシュッ。


「はい」

「ありがとうございます」

 丁度飲み頃の温度のコーヒーを啜る。微糖と書いてあるだけあって苦い。

「美味しいです」

「うん」

 隣り合ったまま無言でコーヒーを飲む音だけが響く。首の辺りがむずむずするけれど、何となく居心地が良い。

「ここは……夢の中なのですか?」

「そう。普通は人間がこんなにあちこち自由に歩いていけたりはしないけど」

 私が普段見る精神世界の風景は、夢同士が色とりどりの風船みたいに独立して浮かんでいる。その間の空間は虹色で、いつもほんのり花の香りがする。

「夢でコーヒーが飲めるなんて不思議ですね。胃の中が温かくなってきました、ちゃんと味もします」

「意識の覚醒段階が高いせいだよ。起きて活動している時と一緒ぐらいだから」

「女王様やレイさんは」

「皆眠ったまま。現実世界は」懐中時計を取り出し、「今昼の二時」

「え……??」いよいよ困惑の表情を深める。

「王国とその近くの街にいる者は全員昨日の深夜から昏睡状態なの。強制的な力が働いていて一通り試したけど起きなかった。原因は」自嘲気味に笑う。「多分私の管理している夢の大図書館。アスの物語の残りも今頃そこに収蔵されているはず」

「どうしてセミアさんの意志に反してそんな事が??」

「無意識に望んだのかもしれないよ。確かに効率がいいもの。集めるだけ集めて、放っておけば後は勝手に死んでくれるし」

「いいえ!」

 大きな声に吃驚した。

「セミアさんはこんな酷い事、まして約束を破って僕の物語を強引に持って行くはずがありません。自信を持って下さい」

「……ふっ、あはは」

 自信だなんて初めて言われた。収集者になって、心にそんな確固とした物は無くなってしまった気がする。ううん……心自体見つからない。物語は空っぽだ。

 なら、こうして噴き出す私は何が反応した?

「私なんかが自信を持ってていいの?」

「当たり前ですよ。セミアさんは悪くない。僕も、皆さんもきちんと判っています。だから、安心して自分を信じて下さい」

 空白ではないのか。物語を失った抜け殻にも、何かが宿っていると。



――……きぃ……きぃ……――

『ねえ、君はその本棚のどの本が好きだい?僕はこれが好きだよ』

『……っ』

『昨日君が寝てから読んだんだ。今日こそ話がしたくてね。どういうのが好きなのか分からなかったから取り合えず全部読破した』

『………れ』

『本当に?僕もこの本は好きだ。そうだ、明日この続巻を持って来るよ。読んでないよね?他に読みたい物ある?』

『………で?』

『言っただろ?君と話がしたいからさ』



 玄関の外は雲の広がる青空だった。

「凄い所に出ちゃったわ」

 薄蒼い水晶で出来た宮殿が五十メートルぐらい先に見えた。その間に光を反射して幅三メートルの透明な水晶の通路が続いている。

「水晶宮……?」

 また私の記憶の場所だ。

「クゥン」

「驚いた?ここが噂の神様の住処。景色は良いけど買い出しのアクセスは最悪」

「神様がいるの、ここに?」

「現実の世界ならね」

 おっかな吃驚足を踏み出したシスカは空を見上げた。

「大父神様ならこの変てこな夢から引き上げてくれるんじゃない?私は消えちゃうけど」

 彼女は突然おーい!と大声で叫ぶ。

「クウゥン?」

「何しているの?」

「外で起きている人にこの状況を伝えられないかと思って」

「聞こえてない気がする。そもそも、寝ているのが二人だけの方が不自然。多分周りの人間も同じ状態に陥っている」

「一人ぐらい起きてるかもしれないでしょ。だってこのまま目を覚まさなかったら餓死よ」

「凍死が先だと思う」布団に入っていても昨夜からの寒さは厳しい。暖炉の使えないまま次の夜を越せるだろうか?私はともかく高齢のお婆さんが心配だ。

 その時、下から強い一陣の風が吹き上がってきた。


――クランベリー!聞こえていますか!?


 巻き上げられた髪を押さえながら聞こえた声。

「イスラ?聞こえてるよイスラ!!」風の源泉に向かって声を張り上げる。


――よかった、上手く精神感応できているようです。


「ほら、いたでしょ?」

「そうね」

 向こうが相槌を打つ度に起こる突風に閉口しながらこちらの状態を伝える。


――そちらの事情は大体分かりました。


「そっちの時間は?」


――ええと、昼の二時半です。


 かれこれ十六時間は眠っている計算だ。

「そっちからは目を覚まさせられないの?」


――色々試しましたが効果はありませんでした。応急処置として私の魔力で肉体を寒気から保護はしていますが、人数が人数だけに丸一日が限界です。


「クゥウン……」コリーが侘しげな視線で見上げてくる。

「お兄ちゃんは?お兄ちゃんは何て言ってるの?」


――……大父神様には知らせていません。


「?どうかしたの?」


――大父神様は宇宙の端に発生した亀裂の対処で現在水晶宮を離れています。現在はまだ無害ですが、放置すれば宇宙の崩壊を招く恐れがあります。


「ふぅん、それなら仕方ないね」

 宇宙の危機を放り出してまで来て欲しいとは頼めない。兄には兄にしかできない義務が山ほどある。

「そっちで解決できる見通しはあるの?」


――残念ながら。ですがあなただけは何としても。


「――今すぐ私の保護を外して。一日ぐらいならどうもしない」

「ウゥゥゥ……!?」

「クラン……あなたやっぱり」


――クランベリー?


「私の分の魔力を他の皆に回してもう少し保たせて。お願い」


――……分かりました。では、せめて毛布をもう一枚掛けておきましょう。


「ありがとう。それとセミアから何か聞いてない?どこへ行くとか」


――いいえ、彼女とは会っていません。王国の中にもいませんでした。


「そう」何とか接触して情報を得たい。その内会いそうな気はするけど。

「ねえクラン!あそこ、今誰かいた!!」

「えっ!?」シスカの人差し指の先、水晶宮の方を見るが何の人影も無い。「どこに?」

「中よ、水晶の中!透けて人が見えてた!」

「水晶宮の中?」

「ほら早く行きましょ!逃がしちゃうわ!」

「え、ちょっと、イスラにもう少し訊きたい事が」

「クゥン?」

 犯人を捕まえる岡っ引きの如く、シスカは私の腕をぐいぐい引っ張ったままずんずん玄関へ進んでいく。


――クランベリー?何かあったら私はここにいますから、いつでも戻って来て下さい。


 遠くなるイスラの声。入口まで来ると風が髪を揺らすだけで完全に聞こえなくなった。


 キィィィィ……。


 開ける度に思うけど、この硝子を引っ掻くような音は改善すべきではないだろうか。ほぼ百パーセント素材のせいだが酷く耳にダメージがある。こんな音で迎えられる異教徒達が可哀相だ。

「出て来なさい!いるのは分かってるのよ!」

 シスカがそう大声で凄んだ。が、その人物は初めから私の視界には入っていた。エントランス中央に設置された噴水の向こう側に座っているのが水越しに見える。

 その人が声に反応して立ち上がり、私達を発見した。

「クランベリー女王?ど、どういう事?どうしてここに?」

 宝 那美は何故か服の上から襷掛けをして右手にはたきを持っていた。

「あなたこそ、どうしてそんな珍妙な格好を?」

「さっきまで家の倉庫の掃除をしていたんです」

「家はどこ?」

「“白の星”の環紗、有名な龍商会ビルの隣と言えば分かりやすいですね。あの星は他の地方とは様式が違いますが、そんなに変ですか?大きなリュックサックにウインドブレーカーにブーツに毛糸の帽子……そちらの女性はたった今まで雪山を登っていたみたいです」

「当たり。一夜ビバークしていたら、何の因果かこの子の夢に出てきたって訳」

「夢?ここはクランベリー女王の夢なのですか?」ぱちぱち。

「クランでいいよ、呼びにくいでしょ。いちいちフルネームで役職まで付ける必要無いわ」

 那美ははぁ、と溜息を吐く。私達は傍に寄り、両隣りに座って彼女にも楽にするよう言った。足元にいたコリーが那美の横に行き、「クゥン」私に向かって一度鳴いた。取り合えず安全なようだ。

「コホン、ではクラン。ここはあなたの夢なのですか?」

「このエリアはそうみたい。説明しておくとここは水晶宮、霊験あらたかな大父神様の家」

「はぁ……確かにこのような硝子張りの建物、大父神様の所業でもない限り創れないでしょう。しかし、何故あなたの夢にこの場所が?」

「……騙されたわね」私は意図的に笑みを作る。「神様がこんな所に住んでいる訳ないでしょ?」

「え?」

「ここは私が小さい頃想像で紙に描いた神様のお家。細かい所までよく出来てる、あんな雑な絵からこんな立派な建物ができるなんて」

「こ、これが全てあなたの想像?」

「当たり前でしょ?私が神様だったら一時間もいられない。全面水晶張りでプライバシーほぼゼロだし、テレビやラジオは使えないし、ずっと明るいから眠れないし、ベッドも水晶製だから一時間で肩が凝る。郵便も宅配も使えない。買い物は船で片道一時間掛かるし、キッチンが無いから何も無くても食べられる物しか持ち込めないし……」出るわ出るわ、本当マトモな人の住む場所ではない。「今の私だったら絶対こんな馬鹿な設計にしない」

「ならば普通の人間のような家を描くのですか?それはそれで大父神様のイメージにはそぐわない気がしますが」

「どうかな?今いる城が結構理想に近いかも。程々に人から離れてて、建物のデザインが良くて必要な一通りの物は揃ってるし。機転の利く賢い使用人もいる」

「クゥン?」コリーが首を傾げた。

「レイ君ですね。確かに彼ルックスも垢抜けていて格好良いです、私も細々した手伝いに一人欲しいぐらい」

「いいよ、何時でも貸し出す」

「え?でも賢い使用人」

「ああ、私が言ってたのはアス。掃除は綺麗で完璧、皆の手伝いもきちんとやってくれて妹の面倒見もいい衛兵の鑑」

「クゥン?」

「褒めて遣わす」

 撫で撫で。

「ならレイは?あの子なりに頑張ってると思うけど」

「……五十点ぐらいじゃない。掃除は雑だしすぐ椅子で脚組むし。食事の時音立てまくってとても外交の席には連れて行けない。その点アスはちゃんとテーブルマナーを心得てるから安心、紳士の礼儀も弁えている」

「育て方が悪かったのかしら……あの子昔から活発で手に負えなくて、つい躾が疎かになっていたのかも。リリアとクランがいるし、王位はまず関係無いかと思って」口にしているのは彼女自身の感想ではなく、あくまで私の考えだ。彼女は私のイメージでしか……いや、そう判断するのは早計かも。

「クラン、この人はまさか……クオル王国の前女王?」

「そう、若き日のシスカエリア女王陛下、私の夢の登場人物」

「夢。さっきからよくその単語が出ていますがクラン、あなたこそ私の夢の登場人物でしょう?レイ君の亡くなったお母さんが出てきたのには驚きましたが、ここは私の夢です。きっと私の経験をつぎはぎして作られた架空の人物」

「夢の主人があなたなのは否定しない。でも、この夢で同時に複数の主人が存在できるのは事実」

「クランも夢見る主人?分かった、よく小説である同時に同じ夢を複数の人間が見ている状態ですね」

「さあ?そんな予知夢的な物は働いていないと思うけど。むしろかなり不親切な意図で見させられてる夢」

 那美は目を丸くして、「もしかしてあの事と関係があるのですか?」疑念を呟いた。

「いつまで経っても夢が終わらない、とか?」

「そう、そうなんです!」我が意を得たりと手を打ち首肯する。「ドアを潜っても潜っても一向に目が覚めなくて、幾ら夢の中でも時間が経ち過ぎてるんじゃないかと。気のせいではなかったんですね」

「現実の世界はさっき午後の二時半だったから、もう三時近いはず。正常ならとっくにお腹が空いて飛び起きている。でも実際は奇妙な夢を見続けている。仮に肉体の生命が終わった後もこの中を彷徨っているかも」

 那美は衝撃を受けた様子だった。赤い唇を微かに戦慄かせながら、「まさか先生も……」と尋ねた。

「ベルイグ氏と一緒だったの?」

「ええ。私は裁判の日程が決まったのでお知らせに。先生はよく分かりません。偶然同じ船で会って、行き先も同じだったので一緒に」

「ふぅん。でも昨日来なかったよね」

「最終便で着いた頃には日が暮れていたんです。登山口には既に雪が積っていて、暗い中滑る山道を行くのは危険なので、先生と麓で宿を取りました……先生もこの夢のどこかにいるのでしょうか?」

「そうね、イスラの話だと王国と近隣の街は夢に巻き込まれているらしいし」

「イスラ?誰ですか?クランの知り合い?」

「兄から派遣されてくる小言言いだよ。現状外界との唯一の連絡手段」

「外と通信できるんですか!?」

「うん。何かあるなら頼む?」

「はい」

「なら付いて来て」

 扉を抜け、通路の真ん中で真下に向けて「イスラ!まだいる!?」と呼び掛ける。


――どうしましたクランベリー?


「用があるのは私じゃないの。ほら」

「初めましてイスラさん。宝 那美と申します。“白の星”の自宅で祖父の教室を手伝う傍ら、嘱託で連合政府のバイトをしています」


――ああ、あの事件を調べておられた女性ですか。クランベリーから伺っています。


「バイトだったの?」

「労働自体は月に一週間ぐらい、体力の要る張り込みや訊き込みが主な内容です」

「まるで刑事の仕事ね。その割に武器は持ってなかったようだけど」

「学生時代からずっとキックボクシングをしているので基本的に武器はいつも携帯していません。研修の時に一応射撃訓練はしましたが、担当からは乱射だと」

「それは怖い」

 言われれば確かに普通の女性よりがっしりした感じで、かつボクサーらしい細さの身体。

「あ、危うく忘れる所でした。イスラさん、私の代わりに祖父に電話してもらえませんか?バイトが長引いて今日は戻れそうにないと。昨日、昼までには戻ると言ったので今頃心配しているはずです」


――構いませんよ。現状こちら側の私にできる事は無いようです。他にもお困りの事があれば可能な限り対処しましょう。


「あ、ありがとうございます。電話番号は――」


――分かりました。他に連絡しておく所はありますか?


「政府は……報告を入れると却って後でややこしそうです。……あ、栗花落ついりさんにも連絡しておかないと。眠っているなら先生電話入れていないはずですし」

「栗花落さん?」

「先生の同居人で身の回りの事をやっている女性です。先生あの通り気紛れでしょっちゅう出掛けてしまいますから、残された栗花落さんはいつも心配しているんです。全く、考古学者らしく文献に齧り付いていればいいものを」

「そう言えば、ベルイグ氏って結局何なの?職業的には」

「私と似たようなものです。フリーの考古学者をしつつ連合政府公認の捜査員、探偵業に勤しんでいます。特にバイトをしなくても二人なら充分暮らしていけると思いますが。何故か解りませんが先生結構お金持っているんですよ、高そうな絵画を飾ってありますし」

「へぇ」

 那美はベルイグ氏の家の電話番号をイスラに伝えた。


――了解しました。


「お願いします」



 扉の先は暗くてじめじめした空間だった。湿気に混じるこの世で最も嫌う臭い。

「今度は、いや今度も悪夢か。何時でも出て行けるとはいえ、早くも逃げ出したくなってきたぞ」

 光源は時折現れる壁の薄暗いランプのみ。それに照らされて均等に並んだ錆びかけの鉄棒が鈍く光る。

「よく再現されている。そうそう、こんな光沢だった」黒くごつごつとぬめった壁を観察して感心する。

「おじさん」

「おじさん」

「おや、今度の相手は君等か」

 牢の中に二つのそっくりな頭を乗せた天使が一人。髪も目もくすんだ灰色だ。重そうな鎖で両手首を繋ぎ、右手と左手はさながら磁石のようにぴったりくっついている。

「またどうせ本物ではないのだろう?」

「白いお父さん見なかった?」

「黒いお父さんもいないの、知らない?」

 少年特有の全く同じ高い声が問い掛ける。

「残念ながら吾輩は見ていないな」

「「役立たずだねおじさん」」ハモった容赦無い非難。

「仕方ないだろう。この世界は広大だ、中々一人では見て回れないぞ。そう言うならお前達自身で探しに行けばいい」

「鍵が掛かって出られないんだ」

「どこかに置いてなかった?」

 吾輩はやれやれと両手を天に向けた。

「お前達はたかが吾輩の夢だろう?何故そんな要求を聞く必要がある?」

「「夢?」」

「そう、所詮吾輩の記憶の産物に過ぎぬのだ。ここを開けた所でお前達は二人には会えない」

「嫌だ!開けてよ!」

「僕達探して来る!」

 現実そっくりな金切り声で叫ぶ双頭天使を手で制す。

「別に邪魔立てをするつもりはない。……ほう、来たようだ」

 通路に響く同じ二つの靴音。その主達とすれ違い、吾輩は更に奥の通路へ進む事にした。

「思った事が夢に出てくる……フン、ならば今度は高級レストランとTボーンステーキ食べ放題でも想像してみるとしよう」

 そう呟くと、背後で「夢の中でも食べ過ぎは御身体に障りますよ旦那様」聞き慣れた心和む声がした。

「分かっている。少し羽目を外したいだけだ」

「では私はお邪魔でしょうか?」

「吾輩の栗花落は一人で充分だ。消えろ」

「まぁ、冷たいのですね旦那様。私は旦那様の夢の住人ですのに。もう私の事など愛していらっしゃらないのですか?」

 フン、鼻で嗤ってやった。

「勝手に人の夢で巣食っておいて何をぬかすか、偽物の分際で。大体な、本物の栗花落はいつも小憎たらしいぐらい強かで飄然としておるのだ。そんな女々しい台詞を吐いて気を向けようなどとはせぬ」

「成程。だから夢の私はこうして旦那様の無意識の願望を叶えようと」

「ぐっ!」

 図星を指された吾輩をふふふ、と偽物が本物そっくりに笑った。



 扉を開けるとまた同じ部屋だった。小さいベッドに、椅子、小さな本棚が一つだけ。

「もう……どうなってるの」

 来た部屋と全く同じ光景を確認して溜息が洩れる。

「あいつ、私をここから出さないつもり?」

 急に疲れが出て来て、ベッドに座り込んだ。

「不思議ですね、今まではずっと違う所に出ていたのに」

「図書館まで後扉一つ分なのよ。ここからは行けないのかな……?」

 扉を開ける度に館のロビーをクリアに頭に描いて、常に最短距離で進んできたはずだ。今更迂回ルートを探せだなんて。大体ループして戻る事もできない。

「どうでしょう……ですがこの部屋、他とは何か違う気がします」

「私は何も感じないよ」

 白いカーテンからミルク色の陽の光。殺風景な部屋を照らしている。

「今までセミアさんと僕が通ってきた所は人か、人がいた形跡がありました。でもここには誰も立ち入った様子はありません。この夢を見ているはずの人でさえ」

「もう忘れちゃったのよ、こんな所。だって見てこのベッド、子供用じゃない。きっとこの夢の主は大人よ」

 アスはしばらく部屋を見渡していたが、私に向き直った。

「セミアさん、ここに見覚えはありませんか?」

「え?」

「この部屋に入った時、セミアさんの匂いがしました。古紙やインク、それに花みたいな甘さが入り混じった」

 彼は何度も頷く。

「間違いありません。ここはセミアさんの夢の中です」

 その瞬間だった。


――……きぃ……きぃ……――


 私の真後ろから乾いた音が聞こえた。

「あ……」

 この音、知っている。

 振り返っても見慣れかけた家具があるだけ。

「セミアさん?」

「……車椅子の音がしたの」

 何で?どうして私はあれが車椅子だと知っている?

「思い出したんですか?」

「分からない、こんな部屋全然知らないのに」

 昔住んでいた屋敷ではない。勿論今住んでいる部屋とは似ても似つかない。ここは、何処?

「探してみましょう、セミアさんの記憶。この部屋を思い出す事が、きっと先へ進む鍵なんです」

 彼はまずカーテンを開けようと手を掛けたが、何故か一ミリも動かない。

「あれ……外の景色が見えれば手掛かりになると思ったのですが」


――……きぃ……――


「っ……!!?」

 私をすり抜けて誰も乗っていない古い車椅子が部屋を走っていく。中央で一度曲がり、真っ直ぐ窓へ。

「あ」

 車椅子が窓の手前で止まった瞬間、強烈な既視感が襲った。


『予報によると今日はとても綺麗な夕日が見られるらしいよ』


「あ、ああ……」

 そうだ、私あの真っ赤な夕日を。

 車椅子の前に立ち、カーテンに手を掛けた。


 シャーッ。


「あの時の夕日だ」

 炎みたいな輝く丸は私が見ているのに気付いて急速に下へ落ちて見えなくなった。後には何も見えない暗闇が広がっているだけだ。

 カーテンを閉めると何事も無かったように乳白色の光が部屋に充満した。

「セミアさん、何か見えたのですか?」

「この窓から夕日を見たの、この車椅子に乗った誰かと一緒に」

 目の前を指差すが、彼は「済みません」と謝った。

「でしょうね。夢の世界では本人しか知覚できない物なんてごまんとあるの。特に当人にとって大事な物は」

「車椅子には誰も座っていないのですか?」

「うん、空っぽ。でも、さっきより気配を感じる」

「なら早く思い出しましょう。こうして出て来ているなら、きっとセミアさんに伝えたい事があるんです」

 再び部屋を見回すと、今度は不思議な懐かしさを感じた。

「そうね。怪しそうな所を一つずつ見て行こう」



 公衆電話から二つの電話を掛け終わり、視線を上げると屋根の上に一羽の鴉。

「っ……」

 血の色をした眼は私を観察し、バサッと下へ飛び降りる。その先に、彼女がいた。

「久しいわね、イスラフィール……だったかしら」

 ウェーブの掛かったエメラルド色の肩甲骨まで伸びた長い髪、同色の瞳。見た目は十七、八。二の腕に留まった鴉に一瞬顔を顰める。

「相変わらず失礼なペットですね」

「同感だわ。私は謝らないけど」

「いつからいました、ルウ・マクウェル?」

「ついさっきよ。あなたが硬貨を変な所に入れようとしていた辺りからかしら。神様は電話の使い方も啓示してくれないのね。不親切だわ」

 魔女はクスクスと笑う。

「何が目的です?」

「あなたはどんな夢を見るの?それとも神様はそんな余分な機能付けてくれなかったかしら?」

「質問に答えなさい。何故ここにあなたがいるのです?“蒼の幻望”の暴走はあなたの仕業なのでしょう!?」

 思わず荒げた声にしかし魔女はフン、と軽く鼻を鳴らすだけだ。

「悪い事を全部人のせいにしないで欲しいわ御使い様。どうして私がわざわざ妹を苦しめるような事をしなきゃならないのよ」

 手をヒラヒラと振り、「むしろ悪いのはあなた達のボスでしょう?あんな小さな子にまでおかしな石を埋め込んで」

「宇宙の安定のためには必要な事です」

「はっ!あなた自分で言っていて虚しくないの?あの石のせいで姉さんやセミアがどれだけ望まない殺戮を繰り返したか分かっている!?何が安定よ、冗談も大概にして!」

 ジクッ、と胸が痛んだ。魔女の言葉は、正しい。

「ではルウ・マクウェル、ジプリールは何故消滅したのですか……?」

 自分の口から零れ出てきた言葉に自身で驚嘆した。

 彼女は我々四天使の中でも献身的に神に仕え、神の秘術を惜しみなく人間に授け続けた。神の教えを守っていると信じて。

 パタ、パタッ。視界が赤くなる。

「彼女は神の使命、温情、祝福の顕現だった。なのにどうして」

 信仰を貫き、任務の無い時にはいつも水晶宮の片隅で朗々と聖書を読んでいた。その時の幸せそうな笑顔、私にはただ眩しかった。自分がいかに穢れを纏っているか、さながら鏡のように映し出されてしまうから。

「あなたね、そんな事も分からないの?」心底馬鹿にした口調。「使命?祝福?あの天使が?目がおかしいんじゃないの?そのいちいち心臓に悪い涙腺と一緒に眼科で診てもらいなさいよ」

「あなたには分かるのですか?彼女の死んだ理由が」

 カァ、と初めて鴉が鳴いた。酷く気持ちを乱す声音だ。


「そんなの、自業自得に決まってるじゃない。あの天使様がした事を考えてみなさいよ、ただの大量殺人だわ」


 ……そう、なのだ。魔女に指摘されるまでもなく、気付いていた。見ない振りをしていただけで……。

「しかしそれは」不幸な結果だった、授けられた人間が悉く正しく使用しなかった、だから。

「また宇宙の安定のためとか言い出す気?聞き飽きたわ。あのね、じゃあ具体的にどう安定したって言うのよ?大量の死人とそう簡単に死ねない人間を作って何の益があった訳?無いでしょ、そんなの。歴史の教科書に“暗黒時代”と言う二ページを作っただけ」

 魔女は決然と言い放った。事実から目を背けるのも限界だと言いたげに。

「私の答えが気に入らないならクランに訊けばいいのよ。あの子はあなた達の神様なんかよりよっぽどクレバーだわ、どう言うかしら。生きて夢から覚めればの話だけど」

「やはりあなたが」

「だから違うって言っているでしょう?ああ、時間を無駄にした」

「どこへ行くつもりです?」

「決まっているでしょ、夢の国へよ」

 心臓が飛び出すかと思った。

「な、何ですって!!?ど、どうやって」

「あなたに質問する権利なんて無い。黙って肉体を保護していなさい、あなたにできる事なんてそれぐらいなんだから」

 魔女は髪を掻き上げて鴉を一瞥する。

「途中でクランに会ったら出口を教えてくるわ。賢いあの子なら自力で見つけてもおかしくはないけどね」

 出口?この女、そんな事まで知っているのか。

「待て!私も行きます!」

「無理よ。あなたじゃ保たない、正気を失うわよ。大人しくこっちで待ってなさい」

 はっ、と息を吐き出し、「大体あなたまで行ったら誰が肉体の面倒を見るのよ。考えてから物を言いなさいっての」

 屈辱的な言葉、だが間違ってはいない。思えば彼女は徹頭徹尾嘘を発していない、私と違って。

「……分かりました。魔女の言葉に従うのは本心ではありませんが」



 酷く悪い夢を見ていた気がする。

「イスラフィール……出掛けているのか……」

 寝巻きは汗でぐっしょりと濡れて冷たい。

 頭が痛い。ベッド脇のテーブルに書き置きといつもの薬、水の入ったコップが置いてあった。

「クランが……?」

 メモには水鏡の反応に異常が出たので妹の様子を見に行くとあった。

「っ………ぁ」

 まだ帰っていないと言う事は何かあったに違いない。

 ベッドから起き上がると激しい眩暈が襲う。気が付くと絨毯の上に倒れ込んでいた。首が変に曲がって痛む。

「く……」

 机の上の指輪さえあれば……あれが無ければ僕は、ただの無力な人間だ。

 呼吸をするのも苦しさを伴う。肺が、身体の内側が壊れているのだろうか。イスラフィールが帰ってきたらまた診てもらおう。そうだ、壊れてなるものか。僕が倒れたらあの悪魔が、封印を破ってしまう。

「あ、あ………」

 クラン、あの子だけは僕が守らなければ。

「お兄ちゃん」

 ドキッ、心臓が飛び起きた。

 仰向けになると妹が立っていた。

「良かった、クラン……無事だったんだな」

無表情な彼女は酷薄に唇を動かす。

「最低、無能、裏切り者――死ねばいいのに」

 覚めたと思った悪夢はまだ僕を雁字搦めにしていた、瞬き一つ許さぬ程。




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