蝉しぐれ
「田舎だな」
右手一本でハンドルに微妙な力を加え、左手をミッションノブに置いて彼は言う。私はオープンカーのフロントスクリーンから流れてくる生暖かい八月の風を、ただ何も思わずに感じていたけど、彼の声で視界を左に移した。盛り上がったり下がったりする小さい山々と、二階建てですんすんと建つ家と、後は畑と空き地とが平行に流れていった。動いているのは私たちだけで、建物も、木々も、景色も、それらを囲んでいる空気も目をつぶってどこまでも沈黙していた。私は顔を正面に戻した。
「このあたりで、いいだろう」
「え」
私はつい声に出した。私の意志など、蚊を叩き殺すくらいの力でねじ伏せられることは分かっている。それでも私は声に出してしまった。
助手席を向いた彼の瞳には、髪の毛の先まで狼狽している私が映っていただろう。大理石を模したテーブルの上で、背広から漂ってくる油の匂いを気にも留めずにライターの石をはじくことができるようになった私も、十年ぶりに来ざるを得なかった故郷を前に、普段は決して流すことのない汗を一滴流していた。
「どうした? 蘭」
「ううん。何でも、ない」
私は顔を左に振って、彼の眼差しから少しでも逃避しようとした。やっぱり目に入ってきてしまった以前と少しも変わらない山々は、おせっかいな懐かしさでもってエクステンションに乗りかかり、まつ毛を余計に重くする。
「俺は田舎が嫌いだ。虫が多く、泥臭いからな」
道路に大きく葉を広げた大木の下に車を停めて、彼は車を降りながらそう言った。シートベルトを外している私に彼は続ける。
「だけどな、俺はギャップが好きなんだ。薄汚い田舎と、君のような美しい女。そんな不釣り合い加減を見ているとぞくぞくするよ」
二回続けた瞬きのついでに彼を見ると、彼は一重の切れ長な瞳にたっぷりとつまっている欲望を、真夏日に蒸発するコロンの匂いと一緒に運んでくる。シートベルトを外し終わって、彼が開けてくれた助手席のドアから足を出すその瞬間、タイトで短めのワンピースから覗く太ももに、彼の眼球の先が明確な自発性をもって張りついてくるのを感じる。それを十分理解して私は、彼の視線を太ももの局面の上で遊ばせ、意地悪にどこにも着地させないでおく。私がこの田舎にいた十年前は、こんなことはとてもできなかったな。無意識に回想してしまったけど、脳味噌の片隅を埋めた無意味なそれをすぐにかき消した。
彼――イシオカに出会ったのは、三年前、私が二十五の時だった。指名数を馬鹿みたいに競っていた頃で、日本の中心が、働いている銀座のクラブだと本気で思っていた。私はもう少しでナンバーワンになれるという、頂上をすぐそこに臨む場所に立っていた。イシオカは相当上質の生地を使っていると一目で分かる背広をまとい、几帳面に整えられた頭髪は、実際の年齢よりも随分若く見せた。
イシオカの女になったのは、彼に出会って五度目、五月というのにまだ肌寒い春の終わりだった。彼は気持ちが悪いほど金払いが良かった。お店で一番高いお酒を一晩で三本も空け、しかも自分では一口も飲まずにお店の女の子全員に振るまったりした。ドレスから主張させている私の胸の谷間に、厚過ぎる紙幣の束を何気なく挟んできたりもした。私は最初、彼の破天荒な振る舞いに戸惑ったけど、やがて煙草を揉み消す時に、親指と人差し指に持ち替える仕草にさえ、性的な欲情を感じるようになった。彼の運転するアストンマーティンは、彼のコロンと同じ匂いが染みわたっていた。
ホテルのスウィートルームから銀座を見降ろしながら初めてイシオカと一つになった時、私は彼に、歳相応の肉体的な衰えを覚えた。女の頭をおかしくするほどの若さも情熱も無鉄砲さも、もはや彼は失っていた。だけど私は、少しばかりの罪悪感を抱きながら大げさに顔を歪め、一オクターブ高い声を意識して出した。彼は私の反応を喜んだ。私を、ありったけの女でいさせられていることへの自己満足に、酔った。そうして、見ただけではいったい何枚あるのか分からない札束を私の目の前に積んだ。
「好きに使っていい。足りなかったらいつでも言いなさい」
私は尽きることなく次から次に出てくる一万円札が、私の価値そのものだと思った。だから彼が買ってくれたマンションに住んで、いつでもアストンマーティンの助手席に乗って、肉体と心を彼の掌の自由に任せた。
木陰で少しだけ冷えたボンネットの上に、私は座らされた。足を組んで太ももを晒す。イシオカは愛車と、その上に乗る愛人である私に向けてシャッターを切る。足を組み直したり、片足を立たせてみたりいくつかポーズをとってから、おもむろにイシオカが言った。
「そろそろ、脱ぐか」
私は無言でうなずいてショーツに指をひっかける。服はそのままでショーツだけ脱がして撮る、それが、イシオカのやり方だった。ブラジャーは最初から付けてきていない。透けたバストトップを見られたからって、恥ずかしがるほどウブではない。
ワンピースの中でショーツをお尻の下までおろして、私は手を止めた。正面から歩いてくる人影が見えたからだ。イシオカも人影に気付いて、気まずそうに視線を落とし、煙草に火を付けた。煙が立ち上ると、蜃気楼と重なって空気に消えていくように見えた。
人影が近くなってから、草刈り用の鎌を肩にひっかけている野良着姿のその男が、自分の知っている人間だと分かって私は愕然とした。厳密に言えば“知っていた”だ。もう十年も会っていないから。
農夫――マスブチは、中学と高校が一緒だった。幼馴染といえばそうなのだが、私は知り合った頃からマスブチが大嫌いだった。下品で、乱暴で、不潔だったからだ。そして十年前の夏、私は殺してやりたいくらいの屈辱を、マスブチによって受けた。
真っ黒に陽に焼けてランニングから出ている腕は筋肉が盛り上がっている。逞しい大人の男になってはいるが、低くつぶれた鼻と薄く貧弱な唇はマスブチの物に違いなかった。彼は田舎には不釣り合いな、おそらく今まで一度も見たことがないであろう高級外車と、彼が一生口もきけない別世界に住む私に、蒸し暑い眼差しをねっとりと放ってきた。その視線に私の全身が包み込まれるのが不快で、私はピンヒールをアスファルトにめり込ませるように打ち付けた。だらしなく空きっぱなしになっている口元が目に入ってしまうと吐き気がした。
「なに、じろじろ見てるのよ。薄汚い田舎もんはとっとと消えな。目障りだよ」
マスブチは私の吐いた言葉に頭部を震わせて驚き、小さく「すんません」と頭を下げて足早に走り去った。
「おいおい。別にちょっかい出してきたわけじゃないんだ。そこまで言わなくてもいいだろう? こんなに良い車と女がいれば、誰だってじろじろ見るよ」
薄ら笑いを浮かべて言うイシオカに、私は特に反応を示さなかった。マスブチは、彼の目の前にいる女が“私”であることに気付かなかった。彼は私の顔はちらっと一瞥しただけで、後は大きく開けた胸元や、ワンピースの短い裾から覗く太ももばかり見ていた。気付かなくて当たり前だ。もう十年前の私じゃない。十年前の野暮ったい田舎娘だった私じゃ――
* * *
高校三年生の夏休み、私はちょうど十八歳になったけど、誕生日を祝福してくれたのは母の「おめでとう」の一言だけだった。半年前に父は女を作って出ていき、母との二人暮らしが続いていて、ケーキやプレゼントを買う余裕なんてとてもなかった。
母は近所のスナックで働いていた。私は家計を助けるためにコンビニエンスストアでアルバイトをした。成人誌の上に一般向けの雑誌を置いてレジに持ってくる男性客や、男性店長がレジを離れて、レジに私だけがいる時を見計らって男性用避妊具を購入していく女性客を見ながら、私は何となく大人の世界を知った気がした。
母はまだ四十で、娘の私から見てもきれいな人だった。スナックの常連客にお小遣いをもらってふしだらなことをしているという、ほとんど嫉妬に近い根も葉もない噂をたてられていた。母はそんな噂を気にも留めなかった。生活のために、私を育てるために、母は一生懸命になっていた。
そんな母の娘であり、元々口下手で友達の少なかった私も、陰で色々言われていたと思う。次から次に男を替えているとか、ヤクザと付き合っているとか、堕胎したことがあるとか。堕胎どころか、私は十八になるまでセックスをしたことがなかった。したいとも思わなかったし、したくなるような男も周りにいなかった。
「蘭ちゃん」
その日、八月上旬のおかしくなるくらい暑い日だった。私はアルバイトが午前中で終わって、日陰を選びながら自転車で遠回りをしながら帰宅していた。声をかけられて振り返ると、同じく自転車に乗った高橋健治――通称“デク”の、欠けた前歯が目立つ笑顔があった。
「デク。仕事終わり?」
「うん。今日は補講が、あっから、夕方から、学校に行くっぺ」
デクは生まれつき知能が少し遅れていて、工場で働きながら夜間の高校に通っていた。母親に刈ってもらっているという坊主頭には十円玉くらいの大きさの禿げがあって、誰が名付けたのか、“木偶の坊”を由来として“デク”と呼ばれていた。彼はしゃべるのが上手くなくて、無駄に身体だけは大きく、異常なほどに汗っかきだった。私がどんなにひどい陰口を叩かれていても、彼はそれを一切気にしないで接してくれた。私は彼に対してだけは心を開いていた。
「蘭ちゃんも、仕事、終わりけ?」
「うん」
「そっか。いつもの場所、行かね?」
「いいよ」
いつもの場所とは、私たちの住む街の外れにある雑木林の一角、大きな楠の下だった。私とデクが両手を広げても抱えきれない巨大な木で、私たちは良くその木の下で寝っ転がって時間をつぶした。どうでもいいことを話して、デクも私も口下手だからあまり会話も盛り上がらず、でも楠の下で過ごす時間が私は好きだった。デクも好きだったと思う。だって、彼は楠の下で大きな身体を横たえている時、ずっと欠けた前歯を見せながら笑っていたから。
「あ、蝶」
仰向けに身体を伸ばすデクの胸に、蝶がゆっくりと止まった。
「スミナガシだ。珍しい蝶だっぺ」
「珍しいんだ。じゃあ標本つくるの?」
「僕は、死んだ虫しか、つくらね。殺すのは、かわいそうだっぺ」
デクとは小中学校が一緒だった。彼は一応普通学級で学んでいたけど、テストは二〇点とか三〇点とかそんな点数ばかりで、いつも教師に叱られていた。彼は叱られている時、冬であっても額から大粒の汗を流して、大きな身体を窮屈に曲げてひたすら謝っていた。級友たちはそんな彼を陰で蔑んでいた。
昆虫や小動物の名前を、デクは驚くほど知っていた。親に買ってもらった図鑑の、端から端まで漏らさず全部覚えていた。小学校の頃、私はちょくちょくデクの家に遊びに行ったけど、昆虫とか動物とかの図鑑はページがぼろぼろになってテープで何とか補修してあった。彼の部屋の壁には沢山の標本箱に、クワガタムシや蝶やカマキリや蝉やバッタがぎっしりと並んでいた。
デクの胸からスミナガシはゆっくりと飛び立ち、楠の広げた葉の間に消えていった。日差しが葉を照らして葉脈が薄く浮かび上がり、妙にまぶしくて私は目を細めた。蝉の声がほとんど騒音に近いくらいの大きさで、何重にも重なって絶え間なく聞こえてきていた。私は一応知っている蝉の名前を言ってみた。
「あのジーっていう大きな声がアブラゼミで、オーシーツクツクってうるさいのがツクツクホウシでしょ? あと、今は聞こえないけど朝とか夕方にカナカナカナって鳴くのがヒグラシ」
私が蝉の名前を言う度に、デクは顔中皺だらけにして、手を頭の後ろで組んだまま大げさに頭を振った。
「そう。良く、知ってんね。でも、僕は、ニイニイゼミが、一番好きだっぺよ」
「ニイニイゼミ?」
私の問いかけに、デクは太くて大きな人差し指を上に向けた。指は汚れていて指紋が黒くはっきりと見えた。指の指す方向を見ると、楠の幹、寝転がった私たちよりも少し高い位置に、羽根が濁った小さく地味な蝉が張り付いていた。
「この蝉、鳴くの? 声聞こえないよ?」
「耳を、じっと、澄ましてみ」
デクの言うとおりに、私は目を閉じて神経を耳の周りにかき集めた。アブラゼミやツクツクホウシばかりだと思っていた鳴き声の中に、確かに小さく細く鳴く声を聞いた。私はじいっとニイニイゼミの鳴き声を聞いていた。小さなその蝉は何匹も固まって木のそれほど高くない場所に陣取り、耳がその声に慣れてくると、ニイニイゼミの声しか聞こえなくなってきて不思議だった。
「かわいい声だね。ニイニイゼミ」
「うん。ちっちゃくて、不細工だけど、かわいいんだ」
二人でニイニイゼミの声に耳を澄ましていると、雑木林はすっぽりと私たちだけの空間になったように思えた。楠の葉が、三〇度を超す暑さや気まぐれに陰りを作る雲、町の喧騒の諸々を、力強く跳ね返してくれるような気がした。余りの居心地の良さに、私たちはどちらからともなくうとうとし始めていた。だから、忍び寄ってきていたあいつらの気配には全く気付かなかった。
いきなり腕をつかまれて、私は強引に夢から覚めさせられ、変な声を出して目を開き上体を起こした。目の前にはマスブチと、彼の悪友二人が、同じように口元をいやらしく歪めてしゃがみ込んでいた。
「おい、蘭。もうお楽しみは終わったっぺ?」
マスブチは私の腕をつかんだまま、気持ち悪い笑みを浮かべて言った。手を振りほどこうとしたけど、骨に食い込むほど強く握られていて、抵抗のほんの欠けらさえさせてもらえなかった。
「お前も、物好きだっぺよ。こんな木偶の坊のどこがいいんだ?」
「図体がでけえから、アレがでけえんだっぺよ」
「ははは。なるほどな」
マスブチの後ろにいる二人の男が、耳障りな笑い声で話した。一人の男の前歯に付いている青のりが、日差しを受けて気味悪く光っていた。
話し声に気付いてやっと起きたデクが、私と三人の男とを交互に見つめた。
「たまには、相手を替えてみろよ。気分転換にはいいっぺ」
マスブチは、私の肩を力づくで押した。私は背中から、土の地面に倒されて、たまたま張り出していた木の根に背中を打った。
「やめ、てよ!」
そう叫ぶのとほぼ同時に、マスブチの右の掌が、私の左の頬を引っぱたいた。鈍痛が頭蓋骨に響き渡って、私はしばらく次の声が出せなかった。
「やめろ!」
デクが大声を出して、肩から突進しマスブチを突き飛ばした。小柄なマスブチは昆虫のように転がり、楠の根元に頭からぶつかった。ほとんど同時に、残る男の内の一人が、デクの口元を目がけて拳を放った。私はその瞬間、固くまぶたを閉じてしまった。頬ではなくて口を殴るところなんて、直視する勇気はなかった。目を閉じていても、拳が当たった音と、うめきながらデクが倒れる大きな衝撃音は私の意志とは無関係に聞こえてきた。
「てめえ! ふざけんなよ!」
デクに突き飛ばされたマスブチは狂ったように凶暴になって、口から流れ出る血を押さえているデクを、無茶苦茶に殴り、蹴り飛ばした。倒れたデクの顔目がけて、マスブチは足を、サッカーボールを蹴るように打ち込んだ。デクは獣に似た声を出して、大きな身体を小さく丸めて地面をのた打ち回った。残りの二人の男は、へらへらと頭の悪い笑い方をしてただ見ていた。私はもう耐えられなくなり、マスブチの肩に両手をかけた。
「やめてよ。お願い。それ以上やったら死んじゃうよ!」
マスブチは息を荒げて上半身を大きく動かしながら、私の方を振り返って言った。
「言うことを聞け。そしたら、もう殴らねえ」
私はデクを見た。口からはずっと血を流し続けていて、折れた歯が数本転がっていた。頬も目も腫れ上がり、顔中血だらけだった。こっちまで泣いてしまうくらい大粒の涙が、とめどなく両目から溢れていた。私はゆっくりと頭を縦に振った。
「よし。最初から大人しくしてりゃ痛い目見ないで済むっぺよ」
マスブチは私の腕を強引に引っ張って、楠の裏側、デクの位置からは見えない場所に連れ込んだ。デクがうめくように何かを言うのが聞こえたけど、見張りの二人が押さえつけているのか、近くにも遠くにもならずに声だけがずっと耳に入ってきた。私は抵抗しなかった。顔を背けたまま、仰向けに寝て大人しくしていた。マスブチはワンピースを胸の辺りまで捲し上げ、ショーツをはぐように脱がせ、足を大きく開かせた。
「ただとは言わねっぺよ。お前の母ちゃんも、同じことをやってっぺ?」
マスブチはくちゃくちゃの千円札を胸元に無理矢理ねじ込んだ。私は心の中でデクの名前を呼んでいた。いつの間にか涙が溢れてきていた。
「い……た……!」
マスブチの汚い一物が入ってくる時、私は思わず叫んだ。彼は構わず腰を無理矢理押しつけて侵入してきた。目に溜まっていた涙が一気に流れ落ちた。デクがうめく声が大きくなった。残った二人の内のどちらかが、デクを殴る音が聞こえた。
「おめ、生理け? 汚ねえな」
私の下半身から流れる鮮血を見て、マスブチは言った。勿論、それは生理の血ではなくて、私が生まれて初めて男を受け入れた証だった。
マスブチと二人の男は馬鹿みたいに腰を規則的に動かして、代わる代わる私を強姦した。デクは手が空いている二人に押さえつけられながらも抵抗の意思表示を決してやめず、うめき声はずっと聞こえてきていた。私は彼らが動く度に全身を貫く激痛に段々意識を失っていった。ただ、瀕死の子犬のようなデクのうめきと、ニイニイゼミの静かな鳴き声だけが、鼓膜の側に寄り添って離れようとしなかった。
ヒグラシが高く短く鳴いていた。首の周りに蟻が何匹か這っていて、こそばゆかった。襟元から突っ込まれている皺くちゃの千円札三枚が汗でべっとり湿っていた。私は跳ね起きるように上半身を起こしたけど、足の付け根、股の奥がひどく傷んで思わずそこを押さえた。水色のワンピースの一部が血で染まって黒く変色していた。
「蘭ちゃん。ごめん」
デクは体育座りで、すぐ隣に私の方を向いて座っていた。ランニングシャツには血が広がっていた。大きな指には、折れた歯が三本握られていた。
私はデクに返す言葉がどうしても出てこなかった。無言で立ち上がって、股間の痛みでよろけ、デクが支えてくれたけど、彼の腕を振り払った。身体の中心から刺されているように痛むのでとても自転車には乗れなかった。私が自転車を押して歩くと、デクも同じように並んで押して歩いた。「蘭ちゃん。ごめん」デクはずっとそればかりを言った。夕日が細長く射す田舎道を、血と土で汚れた私たちは無様に歩いていた。
高校を卒業すると、私は母の反対を押し切って東京で就職することを決めた。あの夏の日以来、楠の下には二度と行かなかった。東京に行くことも、デクには言わなかった。
宇都宮線の鈍行で上野に向かった日は、三月の終わりなのに大雪が降った。雪の白さが何もかも覆い、なかったことにしてくれそうで、私は知らない指紋がいっぱい付いた窓から外を見ていた。指紋の形で油が張り付く窓を見ていると、楠の下でニイニイゼミを指さしたデクの、大きな指の先を思い出してしまった。そして雀宮駅を出た辺りで、真っ白になった楠と、その根元に、頭と肩に雪を積もらせたデクが立っているのを見付けてしまった。
私は他人の指紋の跡に触れることも構わず窓を一杯に開けた。雪が冷酷な勢いで吹き込んできて、私の身体の前面は一瞬で真白になった。周りの乗客が一斉に私を睨んだのが分かった。
「デク。デクー!」
しばらくして、声が返ってきた。
「蘭ちゃーん!」
彼は私の名前しか呼ばなかった。名前をただ叫び続けるだけだった。だけど私は涙が流れ出てきて止まらなくてどうしようもなかった。「蘭ちゃん。ごめん」あの夏の日が思い出されてしまって、私は涙と鼻水で顔中ぐちゃぐちゃにしてデクの名前を何度も何度も呼んだ。
* * *
ああ。この木。
車を停めた場所に大きな日陰を作っている木。デクと一緒に寝転がった、楠だ。かつては広大な雑木林だったこの場所に、舗装された道路が通されたんだ。切り倒されることを逃れた楠の幹はあの頃と少しも変わらず、まっすぐに太くそびえていた。聞こえてくるのはアブラゼミ、ツクツクホウシ、たまにミンミンゼミの声だけだった。
「ねえ。私、これと似たような場所で初めてセックスしたのよ」
「おお。そうか」
ワンピースの裾を少しずつ捲し上げる足元を、イシオカは連続で撮った。シャッター音が蝉の声に負けじと断続的に響く。
「ヒグラシの声が聞こえるな。蘭は知らないだろう? 二十年くらい前までは東京にもいたんだ。美しい声で鳴く蝉だよ」
私はヒグラシの声のする方に取りあえず顔を向けた。物悲しい声は好きではなかったから、鳴き声を積極的に耳に入れはしなかった。
「ねえ。蝉なんてどうでもいいから撮ってよ」
とっくに脱いでいたショーツを左足首に引っかけたまま、私はしゃがんで足をMの字に曲げた。十年前、この場所で私を犯した奴らをあざ笑うような高揚感があって、まとわりついてくる蚊も気にならなかった。
「いいね。最高だ」
イシオカは口の端からよだれが垂れるのも構わずにシャッターを押し続ける。私は十年前のくだらない思い出に唾を吐きかける気持ちで、卑猥なポーズを取り続けた。この木の根元には私の血が、涙が、あの男たちの体液が染み込んでいるかもしれない。私は土がほじくり返るまで、そこをピンヒールで突き刺し続けた。過去の醜い自分を踏みつぶしているようで、喉の奥に残っていた無様な感情を破り捨てる気持ち良さがあった。
「おお」
野性的な振る舞いに興奮するのか、イシオカはオーダーメイドのスラックスが汚れるのも厭わず、膝を付いてカメラを構えた。ちょうど彼に背中を向ける形に体勢を変え、立ち上がり、横顔で睨むように振り向いて尻を突き出し、ワンピースの裾を尻の膨らみぎりぎりまで上げた。見上げて撮っている彼のスラックスの股間が、盛り上がるのが分かった。
カメラのレンズを刺すように視線を投げていて、私はレンズの向こうに、再び人影が歩いてくるのを認めた。まだ距離が遠く、蜃気楼に揺らめいてはっきりとは見えなかったけど、大人と子供の二人に思えた。その人影をぼんやりと見ながら、私は足を開いたり、尻を突き上げて前かがみになったり、ポーズをとり続けた。見られたって構わない。田舎の田吾作の一人や二人、意識する存在価値はない。私は楠を背にし、尻を地面に付いて唇を少し開き、レンズを睨みつけた。
蜃気楼が薄れて人影が間近に迫り、顔が判別できるくらいになって、私はそれがデクであることを知ってしまった。マスブチと同じく農作業の帰りなのだろう、汚れた身体に黒光りする汗を輝かせて、おそらく息子である子供の手を引いていた。坊主頭は少しも変わらなかった。十円玉くらいの禿げも昔のままだった。
私は立ち上がって、ワンピースの裾に付いた土を払った。イシオカは後ろを振り返り、こちらに向かってくる人影に舌打ちをした。ポケットから煙草を取り出した彼に、私は言った。
「一本、ちょうだい」
くわえた先に火を点けてもらい、一口煙を吸い込んだ。立ち昇る煙が小刻みに揺れているのは、煙草を持つ指が震えているせいだと分かった。大きく煙を吐き、二つの人影は煙に遮られて一瞬霞んだけど、すぐにまたデクの顔となって迫ってきた。私は続けざまに何口も煙を吸った。落とすのを忘れていた灰が、塊となって落下し、サンダルの足先にかかった。火の点いたままの煙草を、アスファルトに投げつけた。
「すごーい!」
子供がアストンマーティンの良くワックスがかけられた車体を指さして声を出した。英国製オープンカーを純粋な喜びでもって見つめる子供を、イシオカは瞬きをする程度の力で口元に笑みを浮かべて眺めていた。これが都会の小奇麗な格好をした子供なら、きっと車について色々と解説してあげただろう。だけど百姓の倅とは話す口を持っていないかのように、イシオカはじっと黙っていた。
私は視線をアスファルトと土の境目に向けて、泥臭い二人が通り過ぎるのをひたすら待っていた。汗が止まらなかったけどどうしようもなかった。じろじろと見られたら、マスブチと同じように怒鳴ってやろうかとも思ったけど、そんな力も出ないくらい震えが止まらなかった。早く。早く行ってよ。そう祈ることしかできなかった。
「お父さん、ニイニイゼミ!」
え。震えも汗も止まった。「方言か? 聞いたことないぞ、そんな蝉」イシオカが小さくつぶやくのが聞こえた。私は子どもの指さす、楠の幹を見た。そこには何も見つからなかったし、何も聞こえてこなかった。
「僕、ニイニイゼミが一番好き!」
もう一度子供が目を向ける辺りを見た。やっぱり何も見えず、何も聞こえてはこなかった。
親子はちょうど私の真横を通り過ぎるところだった。子供は振り返ってもう一度アストンマーティンを見て、名残惜しそうにしばらく視線をくっつけていた。風がふんわりと優しく吹き、隣を歩いている男の匂いを運んできた。デクの匂いだ。汗と体臭が混ざり合って太陽で焦がされた、懐かしい匂い。
アブラゼミが何匹も何匹も重なって鳴いていた。ツクツクホウシも負けじと勢い良く叫んでいた。たまに混じるヒグラシの声は、落日がもうすぐそこまで来ていることを教えていた。
私はデクの顔に目を向けた。デクも私を見た。彼の目が私の目を捉えた瞬間、デクは顔を皺で一杯にして笑った。四本欠けた前歯が不細工な暗がりを作っていた。十年前と違うことと言ったら、口の周りに生えた短い無精髭だけだった。
デク――。
私の言葉は声にならなかった。デクは何も言わずに息子の坊主頭をなでて、彼の匂いだけを残し私の横を通り過ぎた。少し強い風が吹いて、肩から下に伸びた私の髪を風に乗せた。楠の葉がざわざわっと、一斉に音を立てた。蟻が一匹、サンダルの指の間に入りこみ、せわしなく動き回っていた。