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灰冠の世界  作者: felnoa
1/1

灰冠の世界2024/11/01 00:50

初めまして。


本作『灰冠の世界』は、現代文明と超常現象が交錯する世界を舞台にした、ダークファンタジー群像劇です。


それぞれの登場人物が抱える信念や正義、そして選択の先にあるものを描いていきます。


誰の視点から物語を見るかによって、世界の見え方も変わっていくかもしれません。


どうぞ、お楽しみください。

# 第一部 雨の降らない街


## 第1話「午前零時の通報」


灰暦214年10月17日 23時41分。


アルセリア連邦・第七行政区/クローデン市。


雨は、三日間降り続いていた。


高層ビルの壁面を巨大な広告映像が流れ、地上を走る車両のヘッドライトが濡れたアスファルトを白く照らしている。


終電を待つ人々。深夜営業の飲食店。信号待ちをする配送車。


人口八百万人を超えるこの都市は、夜になっても眠ることを知らなかった。


その一角にある、小さなコンビニエンスストア。


「……いや、だからさ」


銀髪の青年が、レジ袋を片手にぼやいた。


「なんで卵サンドだけ売り切れてんの?」


頭の上では、猫のような耳が不満そうに伏せられている。


フェルノア。二十二歳。クローデン市に暮らす、ごく普通の青年だった。


少なくとも、本人はそう思っている。


「夜中に卵サンド買いに来るやつ、そんなにいる?」


返事はない。店員は眠そうな顔でレジを操作している。


「まあ、いいけど」


フェルノアは買ったばかりの缶コーヒーを開けた。一口飲む。


「……にっが」


そのときだった。店内の照明が、一瞬だけ消えた。


「ん?」


すぐに復旧した。店員も気にした様子はない。


だが、フェルノアの耳がぴくりと動いた。


何かが聞こえた。人の声。いや、違う。


まるで大勢の人間が、同時に息を吸い込んだような音だった。


「……?」


窓の外を見る。横断歩道を歩く人々。タクシー。雨。いつもと変わらない夜。


ただ一つ。向かいの歩道に立つ少女だけが、傘を差していなかった。


黒いワンピース。裸足。長い髪が顔を覆っている。


少女は動かない。雨に打たれたまま、じっとコンビニの方を見ていた。


フェルノアは眉をひそめた。


「……あの子、大丈夫か?」


缶コーヒーを置き、店を出る。自動ドアが開く。冷たい空気が頬に触れた。


「おーい!」


少女は反応しない。


「風邪ひくぞー?」


それでも動かない。フェルノアは横断歩道へ向かおうとした。


その瞬間。少女が顔を上げた。そして、口を開いた。


「――まだ、間に合う?」


信号が青に変わった。大型トラックが交差点に進入する。


フェルノアは反射的に振り向いた。


「危な――」


轟音。金属のひしゃげる音。ガラスの砕ける音。悲鳴。


トラックが横転した。


だが、少女が轢かれたわけではなかった。


トラックの運転席が、内側から破裂していた。


「……は?」


道路に黒い液体が広がっていく。それは血液に似ていた。しかし、雨水に混ざらなかった。


黒い液体はアスファルトの上を這い、ゆっくりと人間の指の形を作り始めた。


フェルノアの尻尾が逆立つ。


周囲の人々が悲鳴を上げ、逃げ始めた。


少女は、まだそこに立っていた。


「ねえ」


フェルノアに向かって、もう一度尋ねる。


「あなたは、どっち?」


「……何が?」


少女は答えなかった。代わりに、笑った。


その直後。街中の電光掲示板が、一斉に黒く染まった。


* * *


23時48分。クローデン市警察局・特異事案対策課。


「第七区で異常事案発生。分類は未確定」


無線から流れる声に、レイは顔をしかめた。


「未確定って何よ」


黒髪のポニーテールを揺らし、椅子から立ち上がる。赤いメッシュが蛍光灯の下で鮮やかに光った。


彼女は二十四歳。特異事案対策課に所属して三年目になる。


机の上には飲みかけのエナジードリンクが二本。そして、未処理の報告書が十二枚。


「場所は?」


『第七区、南環状線沿い。大型車両の事故を起点に、周辺で通信障害が発生しています』


「死傷者は?」


『確認中です』


「またそれ?」


レイはジャケットを羽織った。腰のホルスターに拳銃を収める。その横に、細長い銀色の器具を差し込んだ。


「現場映像、送って」


『既に転送しています』


携帯端末が震えた。映像を開く。


横転したトラック。逃げ惑う人々。道路を這う黒い液体。


レイの表情が変わった。


「……これ、現場に一般人いる?」


『多数確認されています』


「避難誘導を最優先。現場の警官には絶対に近づくなって伝えて」


『了解』


「あと、医療班を待機させて。普通の救急じゃなくて、対策課の指定医療班」


レイは早足で廊下を進んだ。エレベーターに乗る。地下駐車場のボタンを押す。


扉が閉まる直前、無線から声が聞こえた。


『レイ主任』


「何?」


『本部から連絡です。今回の事案について、対策課は現場介入を控えるように、と』


「……は?」


『中央管理局の管轄に移行するそうです』


レイは黙った。数秒後。


「現場に何人いる?」


『推定二百名以上です』


「中央管理局の部隊は?」


『到着まで最短十八分』


「十八分……」


レイは小さく舌打ちした。


「その間に何人死ぬと思ってんの?」


『ですが、命令は――』


「聞こえなかったことにして」


『主任!』


「報告書には私の独断って書いといて」


エレベーターが地下に到着する。レイは車のキーを取り出した。


「生きて帰れたら、始末書くらい書くわよ」


* * *


23時52分。クローデン市・西部居住区。


「……んぅ」


薄暗い部屋。大きなパーカーを着た小柄な女性が、ソファの上で寝返りを打った。


のあ。二十三歳。


ミルクティー色の長い髪が、クッションの上に広がっている。


テレビはつけっぱなしだった。画面では深夜のニュース番組が流れている。


『――第七行政区で発生した大規模交通事故について、警察は周辺道路を封鎖し――』


「……うるさい」


のあはリモコンを探した。見つからない。


「……もう」


仕方なく起き上がる。


テーブルの上には食べかけのお菓子と、冷めた紅茶。


スマートフォンには未読メッセージが三件。


のあは眠そうな目をこすりながら、その一件を開いた。


知らない番号。本文は短かった。


『今夜は外に出ないでください。』


「……誰?」


返信しようとした瞬間、二通目が届いた。


『窓も開けないでください。』


のあは眉をひそめた。


「いたずら……?」


三通目。


『もし誰かがあなたの名前を呼んでも、返事をしないでください。』


部屋の時計が、23時53分を示した。


のあはしばらく画面を見つめていた。


そして。


コン、コン。


玄関の扉が叩かれた。


「……?」


コン、コン。


「のあちゃーん」


女性の声だった。優しそうな、少し年上の女性の声。


「起きてるー?」


のあは玄関を見た。聞き覚えがあるような気もする。だが、誰の声なのか思い出せない。


スマートフォンが震えた。四通目。


『お願いです。』


一拍置いて。


『生きていてください。』


玄関の向こうから、再び声がした。


「のあちゃん?」


今度は、少しだけ低い声だった。


「いるんでしょ?」


のあは、ゆっくりと立ち上がった。


* * *


23時59分。クローデン市・第七行政区。


「……なんなんだよ、これ」


フェルノアは息を切らしていた。


少女の姿は消えていた。


道路に広がった黒い液体は、今や人間の背丈ほどの塊になっている。


その表面から、何本もの腕が伸びていた。


人々が逃げる。車が衝突する。遠くでサイレンが鳴っている。


フェルノアは倒れた男性の肩を支えた。


「立てる!?」


「足が……足が……!」


男性の右足は、不自然な方向に曲がっていた。


「くそっ……!」


フェルノアは男性の腕を肩に回した。


「ちょっと痛いけど我慢して!」


一歩。二歩。


背後から、濡れた布を引きずるような音が聞こえた。


振り向く。


黒い塊が、こちらを向いていた。


顔はない。目もない。だが、確かに見られている。そう感じた。


「……まずい」


塊の表面が膨らんだ。一本の腕が伸びる。速い。


フェルノアは男性を突き飛ばした。


「伏せろ!!」


直後。乾いた銃声が響いた。


黒い腕が弾け飛ぶ。


「そこの猫耳!!」


女性の声。


「突っ立ってないで逃げなさい!!」


黒い車の横に、拳銃を構えた女性が立っていた。


黒髪。赤いメッシュ。氷のように青い瞳。


レイだった。


フェルノアは叫び返した。


「逃げたいけど、怪我人がいるんだよ!!」


「見れば分かる!!」


レイは二発、三発と撃った。塊が後退する。


「そいつを車まで運んで!」


「分かった!」


フェルノアは男性を抱え直した。走る。


レイは銃口を下げない。


「……何よ、これ」


彼女の額に汗が滲んだ。


これまで何度も異常事案を経験してきた。


人の姿をした化け物。建物に寄生する生物。記憶を奪う感染症。


それでも。目の前の存在は、どれとも違っていた。


無線が鳴る。


『レイ主任! 現場から離脱してください!』


「今それどころじゃ――」


『中央管理局より緊急通達!』


無線の向こうで、誰かが叫んだ。


『第七行政区全域に対し、封鎖命令が発令されました!』


レイの指が止まった。


「……封鎖?」


『はい!』


「避難は?」


沈黙。


「ねえ、避難は!?」


『……実施されません』


レイは目を見開いた。


「……何?」


『中央管理局は、第七行政区の完全隔離を決定しました』


レイはゆっくりと空を見上げた。


高層ビルの間。赤い警告灯が、次々と点灯していく。


そして、都市全域に巨大な警報が響いた。


『市民の皆様にお知らせします』


機械的な女性の声。


『現在、第七行政区において重大な保安上の問題が発生しております』


フェルノアが足を止めた。レイも動かなかった。


『区域外への移動は禁止されています』


道路の先。巨大な隔壁が、地面からせり上がり始めた。


『皆様の安全のため、ご理解とご協力をお願いいたします』


フェルノアは呆然と呟いた。


「……冗談だろ」


レイは拳銃を握り直した。そして、小さく答えた。


「……最悪ね」


午前零時。


クローデン市、第七行政区。


人口八十六万四千二百十一人。


その全員が、街の内側に閉じ込められた。


---


## 第2話「閉ざされた八十六万人」


灰暦214年10月18日 00時01分。


アルセリア連邦・クローデン市/第七行政区。


### Ⅰ 見捨てられた街


「……おい」


フェルノアは、目の前の光景を理解できなかった。


道路の向こうで、巨大な隔壁がゆっくりとせり上がっている。


高さは少なくとも二十メートル。灰色の壁面には、黄色い警告灯が等間隔に並んでいた。


地響き。金属が擦れ合う低い音。そして、壁の向こうから聞こえてくる無数のクラクション。


「おい、待てって……!」


フェルノアは思わず一歩踏み出した。


「まだ人がいるだろ!」


隔壁のすぐ近くでは、数十人の市民が逃げ惑っていた。


壁の向こうへ走ろうとする者。子供を抱えた母親。電話をかけ続ける男性。


だが、壁は止まらない。


「ふざけんな!!」


フェルノアが走り出そうとした瞬間、腕を掴まれた。


「行かないで!」


レイだった。


「でも、あそこに――」


「分かってる!」


彼女の声は鋭かった。


「分かってるから、今はこっちを手伝って!」


振り返る。先ほど助けた男性が、車の後部座席で苦しそうに呻いていた。右足から出血している。


「……っ」


フェルノアは歯を食いしばった。


「……分かった」


「ありがとう。後ろに乗って、その人の様子を見てて」


レイは運転席に飛び乗った。エンジンが唸る。車が急発進した。


後方では、隔壁の最後の一枚が地面から姿を現していた。


そして。午前零時二分。第七行政区は、完全に外界から切り離された。


* * *


「なあ」


後部座席から、フェルノアが声をかけた。


「何?」


「俺たち、どうなるんだ?」


レイは答えなかった。ワイパーが雨粒を払い続ける。


「……あの壁、開くんだよな?」


「分からない」


「分からないって……警察なんだろ?」


「警察だからって、何でも知ってるわけじゃないの」


その声に、普段の軽さはなかった。


フェルノアは黙り込んだ。


しばらくして、レイが口を開く。


「名前は?」


「……フェルノア」


「私はレイ。特異事案対策課」


「特異……何?」


「面倒くさい事件を押し付けられる部署」


「それ、説明になってなくない?」


「今はそれで十分」


フェルノアは苦笑した。こんな状況なのに、少しだけ緊張が緩んだ。


そのとき。車のスピーカーから、ノイズが流れた。


『……こちら……第七……』


レイが無線機を手に取る。


「レイです。聞こえますか?」


『……主任……応答……』


「聞こえてる! 現場の状況は!?」


『南部……三班……連絡途絶……』


「三班?」


レイの表情が固まった。


『……二班も……現在……』


通信が途切れた。


「……くそっ」


彼女は無線機を助手席に叩きつけかけ、寸前で止めた。


フェルノアが尋ねる。


「仲間?」


「……そう」


「大丈夫なのか?」


「分からない」


また、その言葉だった。だが今度は、レイ自身が一番それを嫌っているように見えた。


### Ⅱ 玄関の向こう側


00時07分/西部居住区。


コン、コン。


「のあちゃーん」


玄関の向こうから声がする。


のあは動かなかった。スマートフォンを握りしめたまま、ソファの横にしゃがみ込んでいる。


「……だれ?」


小さく呟いた。返事をしそうになり、慌てて口を押さえる。


画面には、先ほど届いたメッセージが残っていた。


『もし誰かがあなたの名前を呼んでも、返事をしないでください。』


コン、コン。


「ねえ、開けて?」


優しい声。まるで、昔からの知り合いのような話し方。


「……やだ」


のあは震える指でスマートフォンを操作した。警察に電話する。


しかし。


『現在、回線が混み合っております』


繋がらない。もう一度。同じ音声。


「……なんでぇ」


涙が滲んだ。


怖い。誰かにそばにいてほしい。


いつもなら、こんなときは誰かに電話をかけて、くだらない話をしてもらう。


けれど今は、誰に連絡すればいいのかも分からなかった。


コン。


玄関が一度だけ鳴った。それきり、静かになった。


のあは数分間、動けなかった。


やがて、ゆっくりと立ち上がる。玄関へ近づく。一歩。二歩。


覗き穴に目を当てた。廊下には誰もいなかった。


「……いない?」


安堵しかけた、そのとき。スマートフォンが鳴った。


着信。画面には、隣の部屋に住む女性の名前が表示されていた。


「……もしもし?」


『のあちゃん!?』


切羽詰まった声。


「ど、どうしたの?」


『今、廊下に出ちゃ駄目よ!』


「……え?」


『さっきから変なの。電気が消えたりついたりして……』


のあは覗き穴から廊下を見た。照明はついている。白く、明るく。


「……電気、ついてるよ?」


『え?』


「廊下、明るいよ?」


電話の向こうで、女性が息を呑んだ。


『……のあちゃん』


「うん?」


『うちの部屋、廊下の電気が全部消えてるの』


のあは固まった。


隣の部屋。同じ階。同じ廊下。


「……え?」


『ねえ、今どこにいるの?』


「……玄関」


『覗き穴から外を見てる?』


「……うん」


短い沈黙。


『……そこから離れて』


のあは、ゆっくりと覗き穴から顔を離した。


その瞬間。玄関の向こうで、何かが床を擦る音がした。


ずるり。ずるり。


そして。


「……のあちゃん?」


今度は、電話の向こうの女性とまったく同じ声だった。


のあは悲鳴を上げそうになり、両手で口を押さえた。


### Ⅲ 正しい命令


00時11分/中央管理局・第七区統制室。


「封鎖完了を確認」


無機質な報告が響いた。


巨大な統制室。壁一面に設置されたモニターには、第七行政区の地図が表示されている。


赤く染まった区域。無数の警告表示。そして、通信途絶を示す黒い点。


「区域外への流出は?」


「現時点で確認されていません」


「負傷者数は?」


「推定不能です。現地の医療機関から救援要請が続いています」


「区域内の病院に備蓄を開放しろ。救急搬送用の道路も確保させる」


低い声で命じたのは、灰色の制服を着た男性だった。


久瀬アデル。中央管理局、第七区統制官。四十代半ば。


整えられた黒髪に、疲労の滲む目元。


彼は椅子に座らず、ずっとモニターを見つめていた。


「統制官」


若い職員が声を上げる。


「市議会から封鎖解除の要請です」


「却下」


「ですが、市民が八十六万人以上も――」


「知っている」


「それに、区域内にはまだ子供も――」


「知っていると言った」


室内が静まり返った。


アデルはゆっくりと振り返る。


「君は、この隔壁を開けるべきだと思うか?」


若い職員は唇を噛んだ。


「……はい」


「理由は?」


「人命を優先すべきだからです」


アデルは頷いた。


「正しい」


職員が顔を上げる。


「では――」


「では、隔壁の向こうにいる一千二百万人の命は?」


沈黙。


「この現象が外へ広がった場合、誰が責任を取る?」


「……それは」


「君か?」


職員は答えられなかった。


アデルは再びモニターへ視線を戻した。


「私だ」


誰も何も言わない。


「だから、開けない」


冷酷な声だった。だが、その指先は微かに震えていた。


別の職員が報告する。


「統制官。封鎖前後の監視記録について、一部閲覧できない領域があります」


「障害か?」


「不明です。権限が拒否されています」


アデルは眉をひそめた。


「私の権限でもか?」


「……はい」


彼は数秒間、画面を見つめた。


「記録保全を優先しろ。上書きはさせるな」


「了解」


そのとき、通信担当が振り返った。


「統制官、現場の特異事案対策課から連絡です。命令に反して活動中の職員がいます」


「名前は?」


「レイ主任です」


アデルは目を閉じた。


「……また彼女か」


「拘束命令を出しますか?」


長い沈黙。


「……いや」


「よろしいのですか?」


「今、現場で動ける人間を減らすな」


アデルは淡々と続けた。


「ただし、彼女には伝えろ」


「何をでしょう?」


「隔壁を開ける権限は、私にもない」


### Ⅳ 聞こえてはいけない音


00時18分/第七行政区・南部幹線道路。


「もう少しだから!」


レイはハンドルを握りながら叫んだ。


後部座席の男性は、意識が朦朧としている。


フェルノアは傷口を押さえ続けていた。


「おい、寝るなよ! もうちょっとだって!」


「……すま、ない……」


「謝るなって!」


「……娘が……」


男性の声が掠れた。


「娘が、家で……待って……」


フェルノアは唇を噛んだ。


「だったら帰らなきゃだろ!」


返事はなかった。


「おい!」


レイがバックミラーを見る。


「フェルノア、呼吸は!?」


「してる! まだしてる!」


「なら話しかけ続けて!」


「分かった!」


前方に、臨時救護所の明かりが見えた。


しかし。


「……待って」


レイがアクセルを緩めた。


道路の中央に、何かが立っていた。


人間。いや、人間の形をした黒い塊。


先ほどの交差点にいたものより小さい。


それが、ゆっくりとこちらを向いた。


「……またあいつかよ」


フェルノアが呟く。


レイは拳銃に手を伸ばした。


そのとき。車載スピーカーから、緊急放送が流れ始めた。


『市民の皆様にお知らせします』


黒い塊が、ぴたりと動きを止めた。


『現在、第七行政区において――』


塊の表面が震えた。


『皆様の安全のため――』


次の瞬間。黒い塊が、車に向かって走り出した。


「伏せて!!」


レイがハンドルを切る。激しい衝撃。車体が横滑りした。


フェルノアは男性を庇うように覆いかぶさった。


ガラスが砕ける。車がガードレールに衝突する。エアバッグが膨らんだ。


一瞬、何も聞こえなくなった。


* * *


「……っ、ぐ……」


フェルノアは顔を上げた。


耳鳴り。焦げたような臭い。車内には白い粉が舞っていた。


「……レイ?」


返事がない。


「レイ!」


「……生きてるわよ」


運転席から声がした。額に血が滲んでいる。


「……あんたは?」


「なんとか」


「後ろの人は?」


フェルノアは男性を見た。胸が、ゆっくりと上下している。


「……生きてる」


「よかった……」


レイは安堵した。だが、それも一瞬だった。


車の外。黒い塊が、こちらへ近づいてくる。


ずるり。ずるり。


レイは拳銃を取り出した。残弾を確認する。四発。


「……フェルノア」


「何?」


「その人を連れて、先に救護所まで走って」


「は?」


「すぐそこだから」


「いや、あんたは?」


レイは答えなかった。代わりに、ドアを開ける。冷たい雨が車内に吹き込んだ。


「行って」


フェルノアは彼女を見つめた。


「……嫌だね」


「は?」


「置いていけるわけないだろ」


「状況分かってんの!?」


「分かってるよ!」


フェルノアは声を荒らげた。


「だから嫌なんだろ!」


レイは一瞬、言葉を失った。


フェルノアは男性を抱え直した。


「俺があの人運ぶ。あんたは撃つ。それで一緒に逃げる」


「……簡単に言うわね」


「難しく考えてる暇ある?」


レイは彼を見た。そして。小さく笑った。


「……馬鹿ね、あんた」


「よく言われる」


「じゃあ、絶対に転ばないでよ」


「努力する!」


レイが車外へ飛び出した。


銃声。黒い塊が仰け反る。


フェルノアは男性を背負い、雨の中を走り始めた。


救護所まで、およそ百五十メートル。


レイは二発目を撃った。そして、三発目。


黒い塊の腕が弾け飛ぶ。だが、止まらない。


「……しつこい!」


最後の一発。銃声が響いた。


塊の頭部らしき部分が崩れ落ちた。


レイは息を吐いた。


「……やった?」


その直後。崩れた黒い塊の奥から、人間の声が聞こえた。


「……いたい」


レイの動きが止まった。


「……え?」


「……いたいよ」


幼い声。男の子のような声だった。


黒い塊が、ゆっくりと腕を伸ばした。


その先に。小さな、人間の手が見えた。


レイは銃口を下げた。


「……嘘でしょ」


そして。黒い塊が、再び動き始めた。


### Ⅴ 同じ夜の別の場所


00時24分/クローデン市・旧市街。


古い雑居ビルの屋上。


雨に濡れた街を、一人の女性が見下ろしていた。


黒髪のボブ。その内側に覗く、鮮やかなオレンジ色。


落ち着いた色の羽織が、風に揺れている。


ちさ。


彼女は手元の携帯端末を見つめていた。


画面には、中央管理局による封鎖命令が表示されている。


「……随分と早い判断ですね」


静かな声だった。


背後の扉が開く。


「ここにいたんですか」


若い男性職員が息を切らして駆け寄ってきた。


「ちささん、車の準備ができました。避難経路の確認も――」


「必要ありません」


「え?」


「ここに残ります」


「ですが、封鎖はもう完了しています! このままでは――」


「知っています」


ちさは振り返った。その表情は穏やかだった。


「あなたは先に戻ってください」


「……ちささんは?」


「少し、確かめたいことがあります」


男性は困惑したまま、頭を下げて去っていった。


屋上に再び静寂が訪れる。


ちさは雨の向こうを見た。


巨大な隔壁。赤く点滅する警告灯。遠くから聞こえるサイレン。


彼女は携帯端末を取り出し、ある番号に電話をかけた。


一度。二度。三度目の呼び出しで、相手が出た。


『……はい』


「私です」


『……』


「確認したいことがあります」


ちさは目を細めた。


「今夜の封鎖について、あなたはどこまで知っていたんですか?」


電話の向こうで、相手が何かを言った。


ちさは黙って聞いていた。そして、短く答えた。


「……そうですか」


通話を切る。冷たい雨が頬を伝った。


彼女は空を見上げた。


「困りましたね」


その声には、怒りも恐怖もなかった。ただ、深い疲労だけが滲んでいた。


「これでは、誰も救われない」


街のどこかで、再び銃声が響いた。


ちさは静かに目を閉じた。


* * *


午前零時二十五分。


第七行政区の隔壁は、一度も開かなかった。


街の内側では、まだ多くの人々が救助を待っていた。


そして、外側では、封鎖解除を求める声が少しずつ大きくなり始めていた。


同じ夜。同じ都市。同じ出来事。


けれど、そこにいた人々が見ていたものは、決して同じではなかった。

第1話、2話をお読みいただき、ありがとうございます。


ここから、さまざまな人物の視点を通して物語が進んでいきます。


登場人物の言動や選択について、皆さんがどう感じたのか、ぜひ感想を聞かせていただけると嬉しいです。


これから『灰冠の世界』をよろしくお願いします。

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