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皇子は二度死ぬ

作者: とりにく
掲載日:2026/08/23

亡き皇子の替え玉をめぐる、中華風宮廷陰謀譚。主を失った従者と、偽りの主となった娘の物語。

『皇子には二度、死んでもらわなければなりません』


 この国では、蝉は二度死ぬという。


 蝉有二死。初死留形、再死絶声。


 ――蝉に二死あり。初めの死には形を留め、再び死して声を絶つ。


 一度目には、古い骸を木の幹に残して死ぬ。そして殻を抜けた魂は羽を得て、ひと夏ばかりをもう一度生きる。秋が来て、その声さえ絶えたとき、蝉は二度目の、本当の死を迎える。


 子供でも知っている、ありふれた俗信だった。


 だからその言葉を聞いたとき、凌玄朔(りん・げんさく)の耳には、庭を埋め尽くす暮れの蝉の声ばかりがひどく大きく聞こえた。


 玄朔が呼び出されたのは、宮城(きゅうじょう)の西の外れだった。後宮(こうきゅう)を出たものの、宮城の外に自分の屋敷を構えるにはまだ早い皇子たちが、この一帯で暮らしている。


 玄朔が仕える景和(けいわ)皇子の住まいも、その一つだった。中でもひときわ奥まった場所にある、小さな建物である。


 もともと人の多い場所ではない。それでも普段なら、侍医(医者)や傅役(守り役)、数人の側仕えが出入りしている。今はその姿さえなく、人払いされた建物の前に、老宦官(かんがん)が一人控えているだけだった。


 平伏する玄朔の前に、一人の女が優雅に座していた。その佇まいはあまりにも自然で、皇子の住まいであるはずのこの部屋さえ、初めから彼女を迎えるために整えられた場所のように見えた。


 皇帝の淑妃(しゅくひ)・沈玉華(しん・ぎょくか)。景和皇子の母であり、玄朔にとっては主人の母にあたる。


 本来なら後宮の自らの宮にいるはずの玉華が、今日はわざわざ息子の住まいまで足を運び、そのうえ人払いまで命じていた。


 用件は、七日前のことに違いない。


 玄朔は、なぜ今も自分の首がつながっているのかさえ、問うことを許されないまま、ここへ連れてこられた。


 そして、告げられたのが、冒頭のこの言葉であった。


「皇子には、二度死んでもらわなければなりません」


 聞き間違いではなかったらしい。あまりに不可解な言葉に、玄朔は作法も忘れ、弾かれたように顔を上げた。


 同時に薄絹の仕切りの向こうの玉華をまともに見据えてしまったことに気づき、慌てて深く頭を垂れる。


 途端、視界がぐらりと傾いた。膝をついているというのに、身体ごと床へ吸い込まれそうになる。玄朔は腿に置いた拳へ力を込め、どうにか上体を支えた。


「頭を上げなさい、玄朔」


 静かな声だった。怒鳴られた方が、まだましだった。


「……はい」


 再び上げろと命じられた以上、伏せているわけにはいかない。たとえ貴人の目に『不快なもの』を晒すことになろうとも。


 玄朔はゆっくりと顔を上げた。伏せていた睫毛の下から、青い瞳があらわになる。


 その青は、異国の妾だった実母から受け継いだ色であり、幼い頃から珍奇と嫌悪の視線を集めてきた、玄朔自身が何よりよく知る異物の印だった。


 だが、わざわざ顔を上げさせた玉華は、何の反応も示さなかった。ただ無感動に一瞥しただけで、すぐに視線を手元の団扇(うちわ)へ落とす。


 そのとき、玄朔はふと別の違和感に気づいた。薄絹の仕切りの向こうに座る沈玉華は、『この七日の出来事』などなかったかのように整っていた。


 玉華は皇帝の淑妃である。皇后、貴妃(きひ)に次ぐ高位の妃として、長く後宮に身を置いてきた女だった。


 淡い青灰(青みがかった灰色)の上衣(上着)に、銀糸をわずかに織り込んだ薄衣(薄い衣)を重ねている。髪には小ぶりな玉の簪(かんざし)。華美ではないが、玉華が普段から好んで身につけている、清楚で品のよい装いだった。


 本来ならば、かの貴人はもっと『別の装い』をしていてもおかしくないはずである。


 疑問が浮かぶ。けれど、それを問いただせる立場ではない。玄朔は違和感だけを胸の内へ押し込み、黙って玉華の次の言葉を待った。


「先日のことは、傷んだ食材による不幸な事故でした」


 玄朔の指が、膝の上で強く握られた。


「事故では――」


「事故でした」


 ぴしゃり、と声が落ちる。


「そういうことにするのです」


「……景和殿下は、何者かに毒を盛られました」


 ――玄朔。最後に呼ばれた声が、まだ耳の奥に残っている。


 白い指が卓の端を掴み、次の瞬間には力を失った。細い身体が床へ崩れ落ちる。玄朔が駆け寄ろうとして、己の膝も折れた。


 血の味。誰かの悲鳴。皇子の青白い唇。そこから先を、玄朔は知らない。


 目を覚ましたときには、主人は死んでいた。そして毒見役だった自分だけが、生きていた。まだ残る毒のせいだろうか、喉が焼けるように痛んだ。


「お調べください。膳(ぜん)に触れた者を。厨房の者も、給仕も――俺ももう一度お調べください。必ずどこかに――」


「玄朔」


「俺は同じものを食べました。ならば、殿下だけが亡くなるはずが――」


「あなたが生き残ったことを責めているのではありません」


 その言葉で、玄朔は黙った。それは、主人を失った従僕を慰める言葉だったのかもしれない。だが玄朔には、刃を差し込まれたようにしか聞こえなかった。


「……殿下の御遺体は」


「安置しています」


「葬儀はいつに」


 玉華は答えなかった。代わりに、傍らの香炉へ視線を向けた。細い煙が、まっすぐに昇っている。


「この国のしきたりは、あなたも知っていますね」


 玄朔は眉を寄せた。


「皇族といえど、その生涯の功によって、葬られる場所が定められます」


 それは幼子でも知っている。皇帝の血を引けば、誰もが同じところへ葬られるわけではない。国に大功を残した皇族は、皇陵(こうりょう)の中でも帝の眠る場所に近い一角へ。


 若くして病没した者、功績を残さず世を去った者は、皇陵の外れへ。


 皇子は皇子だった。だが十四だった。病弱で、軍を率いたこともなければ、政に功を立てる暇もなかった。


「規則に従えば、あの子は皇陵の外れに葬られることになります」


 玉華の声が、そこで初めてわずかに揺れた。


「私は、それが口惜しい」


 玄朔は何も言わなかった。


「あの子は、生まれてからずっと病に苦しみました。外へ出ることも、馬を駆ることも、兄弟たちのように剣を取ることさえ満足にはできなかった」


 皇子の細い手を思い出す。剣より筆の似合う手だった。その手で何度薬碗を押し返され、何度玄朔が無理やり飲ませたことか。


「せめて死後くらい、皇子として恥じぬ場所で眠らせてやりたいと思うのが、それほど罪でしょうか」


「……いいえ」


 答えながら、玄朔には貴人の考えることが分からなかった。死者の眠る場所の格が、そんなに大切なのか。だが、それを言えるはずもない。


「そこで」


 玉華が言った。


「景和皇子には、戦って死んでもらいます」


「……は?」


 玉華は眉一つ動かさない。


「ひと月後、皇子は静養を兼ね、郊外へ遠乗りに出る。その途上、北の国境から入り込んだ異民族の一団と遭遇します」


「お待ちください」


「供は少数。皇子は逃げることを潔しとせず、自ら剣を取り――」


「妃殿下」


「勇敢に戦い、命を落とす」


 玄朔はしばらく言葉を失った。目の前の女が何を言っているのか、本気で理解できなかった。


「……殿下は」


 ようやく声が出る。


「もう、亡くなっております」


「承知しています」


「では、どうやって」


 死んだ人間を馬に乗せる。死んだ人間に剣を取らせる。死んだ人間を、もう一度殺す。そんなことができるはずがない。


 玉華は、初めてほんの少し笑った。


「城西へ行きなさい」


「城西?」


「沈家の別邸です。そこで、あなたを待たせています」


「誰を」


「見れば分かります」


 それ以上、玉華は何も答えなかった。


 退出を命じられ、玄朔は立ち上がる。その拍子に視界が暗み、足元から力が抜けた。とっさに床へ手をつき、どうにか身体を支える。


 玉華はその無作法を咎めることもなく、もう玄朔への興味を失ったかのように、静かに視線を逸らした。


 玄朔はひとつ息を整え、何事もなかったように姿勢を正す。改めて作法どおりに深く礼をすると、そのまま部屋を辞した。


 外へ出ると、夕暮れだった。庭の木々から、暮れの蝉の声が降っていた。


 一度目には殻を残し、二度目には声さえ絶える。


 馬鹿げた俗信だと、玄朔は子供の頃から思っていた。


 死んだものは死んだままだ。もう一度死ぬことなど、できるものか。



* * *



 別邸は長く使われていない様子だった。玄朔が案内された部屋の前には、見慣れぬ護衛が二人立っている。


「中へ」


 短く言われる。玄朔は戸を開けた。


 最初に目に入ったのは、裸足だった。行儀悪く椅子の上へ片足を乗せている。次に、指。卓に積まれた菓子をひとつ摘まみ、口へ放り込む。そして、その人物がこちらを振り返った。


 玄朔の呼吸が止まった。


「……殿下」


 声が勝手に出た。相手は口いっぱいに菓子を頬張ったまま、首を傾げた。


 頬。鼻梁。眉。癖のない黒髪。そして、漆を点じたように黒く澄んだ瞳。


「んあ?」


 皇子だった。皇子の顔だった。玄朔は一歩、踏み出した。心臓が痛いほど鳴った。あり得ない。そんなはずはない。けれど。


「殿下……?」


 もう一度呼ぶ。皇子の顔をした人間は、菓子を呑み込んだ。それから玄朔を上から下まで眺めて、


「何だよ」


 と笑った。


「死人でも見たみたいな顔して」


 玄朔の足が止まった。皇子は、そんな笑い方をしない。そんな言葉を使わない。その人物はさらに玄朔の顔を覗き込み、目を丸くした。


「ああ、お前があの噂の」


 ぽん、と片手の拳をもう一方の掌に打ちつける。


「ほんとに青いんだな、お前の目」


 玄朔の手が、剣の柄にかかった。


「――誰だ」


 相手は怯えもしなかった。皇子の顔で、にやりと笑う。


「あたしは阿蘭(あらん)」


 そして、もう一つ菓子を取った。


「たぶん今日から、お前の主人」


 玄朔はしばらく、何も言えなかった。皇統に連なる皇子が、「あたし」などと名乗るはずがない。皇子は紛れもなく男児だった。ならば、目の前にいるこれは――。


 皇子の顔をした『女』は、玄朔の険しい視線など気にも留めず、指先についた砂糖をぺろりと舐めた。


 その所作だけで、玄朔には分かった。育ちが悪い。少なくとも宮中で育った女ではない。


 市井(しせい)の娘にしても、もう少し人目を憚るだろう。衣だけは上等なものを着せられているが、袖の扱い方ひとつ知らない。腰帯も窮屈なのか、さっきから何度も指を差し込んでは引っ張っている。


 顔だけだった。本当に、顔だけ。


「……今、何と言った」


「あ?」


「今、何と言った」


 阿蘭は菓子を咀嚼しながら考えた。


「阿蘭?」


「その後だ!」


 玄朔の一喝に、仕切りの薄絹がかすかに震え、吊るされた房飾りが揺れた。


「お前の主人?」


「取り消せ」


「いや、だってそう聞いたし」


「誰にだ!」


「誰だったかな。怖い顔したおば――」


 戸が音もなく開いた。阿蘭の口が止まった。入ってきたのは、黒灰色の衣をまとった男だった。いつからそこにいたのか、玄朔には気配すら分からなかった。


 年齢も判然としない。三十にも見え、四十にも見える。髪をひとつに束ね、腰には剣ではなく細身の短刀を提げている。沈玉華の傍に時折控えている男だった。


 名を聞いたことはない。皇子の身辺警護を任されていた玄朔でさえ詳しく知らないということは、表立って宮中に仕える者ではない。男はまず阿蘭を見た。


「妃殿下をそのように呼ぶな」


「あ、おばさんまでは聞こえてた?」


「すべて」


「耳いいな」


 悪びれる様子もない。男も咎める様子はなかった。ただ一度、冷えた目で見ただけである。阿蘭は肩をすくめ、今度は菓子ではなく茶へ手を伸ばした。


「凌玄朔」


 嫌な予感がした。そして、そういう予感にかぎって、よく当たる。


「妃殿下より命を預かっている」


 男の告げた『命』は、つまるところこうだった。


 阿蘭は本日をもって別邸に幽居(ゆうきょ)する。表向き、ここに阿蘭という女は存在しない。今後ひと月のうちに、彼女は景和皇子として最低限人前に出られるだけの振る舞いを身につけなければならない。


 立ち居振る舞い。言葉遣い。筆跡。食の好み。人の呼び方。持病。癖。過去の記憶。親族や近臣との関係。


 人前で問われる可能性のある、景和皇子にまつわるすべて。そして、その教育を一任されるのが玄朔だった。


「……お待ちください」


 説明の途中で、玄朔はようやく口を挟んだ。男は止まる。


「何か」


「なぜ俺が」


「景和皇子のそばに最も長く仕えていたのはお前だ」


「侍医もおります。皇子の住まいを取り仕切っていた女官も」


「顔を合わせる者は最小限にせよとの御命令だ」


「しかし」


「皇子が夜中に水を欲しがる時、何とお前を呼んだ」


 玄朔は黙る。


「雨の日に痛むのは右膝か、左膝か」


 答えられる。


「苦い薬を飲んだ後、何を欲しがった」


 それも。


「眠れぬ夜には何を読んだ」


 全部。全部、玄朔は知っている。男は淡々と告げた。


「それを知る者が必要だ」


 玄朔は拳を握った。理屈は分かる。分かるからこそ、腹が立った。


 七日前まで生きていた主人の癖を、ひとつひとつ拾い集めて、この女の上に貼りつけろというのか。


 声を。仕草を。好物を。笑い方を。皇子という人間を剥ぎ取り、この粗野な女へ着せていく。


 それが自分の役目だという。


「期限は二十七日」


「二十七日?」


「その後のことは、すでに妃殿下より聞いているはずだ」


 遠乗り。異民族。襲撃。戦死。玄朔の喉が詰まった。視線が、勝手に阿蘭へ向かう。


 当の本人は、暇そうに茶碗の中を覗き込んでいる。


 ――待て。では。それではつまり。二十七日後に「景和皇子」が死ぬというのなら。その時、この女は。


「……この者は」


 声が出かける。阿蘭がこちらを見る。皇子の顔で。黒い目を、まっすぐにこちらへ向ける。玄朔は口を閉じた。言えなかった。本人の目の前で、


 ――この女を殺すのですか。などと。


 男は玄朔の沈黙をどう受け取ったのか、懐から一枚の書付(かきつけ)を取り出した。


「必要な物があればここへ記せ。食事、衣服、書物、薬、すべてこちらで用意する」


「俺はここに住むのですか」


「そうだ」


「……いつまで」


 男は玄朔を見た。


「役目が終わるまで」


 何の役目が。誰の役目が。その問いも、玄朔は飲み込んだ。


「では、頼んだ」


「お待ちください」


「何か」


 いくらでもあった。ありすぎて、どれから訊けばいいのか分からない。なぜあの女は主人と同じ顔をしている。どうして沈玉華は、こんな人間をあらかじめ用意していた。


 そもそも、なぜこの女はここまで平然としている。二十七日後に何が起きるのか、知っているのか。知らないのか。


 そして。皇子が死んで、まだ七日なのだ。なぜ何もかも、こんなに早く用意されている。


 玄朔がようやく一つ選び出すより先に、男は言った。


「質問は書面で」


「は?」


「妃殿下は多忙だ」


 それだけ言うと、男は礼儀正しく一礼した。


 玄朔にではない。阿蘭にでもない。この部屋のどこかにいる、目に見えない誰かへ礼をしたようにも見えた。そして本当に出ていった。


 戸が閉まる。静寂。蝉の声だけが残った。玄朔は立ち尽くしていた。


「そういや」


 こちらの心中など知る由もない、ひどく間の抜けた声が飛んでくる。

 玄朔はようやく顔を向けた。阿蘭が指をさす。


「お前、何だっけ」


 玄朔の眉間に皺が寄った。


「何だっけ。玄……」


「玄朔です」


「そう、玄朔」


 阿蘭は満足そうに頷いた。


「お互い災難だったな」


 その言葉に、玄朔は一瞬だけ詰まった。


 お互い。何がだ。こちらは主人を亡くした。この女は突然上等な衣を着せられ、別邸に住まわされただけではないか。そう思った。


 けれど、二十七日という数字が頭をよぎる。玄朔は何も返せなかった。


 阿蘭は気づかない。卓の上から最後の菓子を取る。


「つーわけで」


 口へ放り込む。


「これからよろしく!」


 早速、雷が落ちた。


「殿下はそのような口の利き方をなさらない!」


 阿蘭の手が止まった。


「……は?」


「『つーわけで』とは何です! その前に人を指さすな! ものを口に入れたまま喋るな! 椅子の上に足を乗せるな! 菓子を手掴みにするな! 袖で口を拭うな!」


 阿蘭は目を丸くしている。玄朔は止まらなかった。


「衣の裾を踏むな! 帯に指を入れるな! そもそもその立ち方は何だ! 殿下はそのように肩を丸めて歩かれない!」


「いや待て待て待て」


「それから!」


「まだあんの!?」


「俺を玄朔と呼ぶな!」


 阿蘭がとうとう顔をしかめた。


「さっき自分で玄朔ですって言っただろ」


「だからといって、そのように気安く――」


 言いかけて、玄朔は口を閉ざした。皇子は、呼んでいた。


 人前では「凌」と呼ぶこともあったが、二人きりになれば、いつもそうだった。


 玄朔。


 薬を持っていけば、玄朔。


 本を取ってくれと言うときも、玄朔。


 夜更けに咳が止まらなくなったとき、苦しげに袖を掴んで呼ぶのも。


 ――玄朔。


 最後も、そうだった。卓から箸が落ちた。皇子の指が喉元を押さえ、白い頬から血の気が引いていく。玄朔が駆け寄ろうとした、そのとき。


 ――玄朔。


 掠れた声で、皇子は確かにそう呼んだ。それが最後だった。


「……」


 玄朔は阿蘭を見る。同じ顔だった。眉も、鼻梁も、伏せたときの睫毛の影さえ似ている。だから嫌だった。


 その顔で、自分の名を呼ばれるのが。皇子の声ではない声で。皇子ではない人間に。


 けれど――皇子本人が玄朔と呼んでいた以上、「皇子はそんな呼び方をしない」とは言えない。阿蘭が首を傾げた。


「結局玄朔でいいってこと?」


「好きにしてください」


「何で急に怒ってんの?」


「怒っていません!」


「怒ってんじゃん」


 阿蘭は知ったことかという顔で、残っていた菓子を口へ放り込んだ。


 玄朔はますます腹が立った。その顔で自分の名を呼ぶな、と言えなかったことが、一番腹立たしかった。


「まず、その一人称を改めろ」


「一人称?」


「『あたし』をやめなさい。殿下はそのような言い方をなさらない」


「じゃあ何て言えばいいんだよ」


「『私』です」


「わたし」


「もっと自然に」


「私」


「そうです」


 阿蘭は露骨に嫌そうな顔をした。


「面倒くせえなあ」


「その言葉遣いもです!」


「細けえなあ」


「細かくありません!」


 阿蘭は鼻をほじる寸前で、玄朔の顔を見て手を止めた。さすがにこれは怒られると察したらしい。その程度の知恵はあるようだった。


 玄朔はこめかみを押さえた。くらりと視界が揺れる。だが今度ばかりは、身体に残った毒のせいだけではないと断言できた。


 ひとつ、ゆっくり息を吸う。胸の奥まで空気を入れ、長く吐き出す。


 皇子は死んだ。七日前に。そして二十七日後、皇子はもう一度死ぬ。


 そのために玄朔はこれから、このどうしようもなく皇子に似ていない女を、誰よりも皇子らしい皇子にしなければならない。


 阿蘭は寝台へ倒れ込み、皇子の顔を枕へ埋めた。


「玄朔ー。腹減った」


「たった今、菓子を食べたでしょう!」


「飯は別腹ー」


 蝉が鳴いていた。夏の終わりだというのに、まだうるさいほどに。



* * *



 こうして、玄朔と阿蘭の奇妙な主従生活が始まった。もっとも、主従と呼ぶには、主人の方があまりにも主人らしくなかった。


「違います」


 玄朔は深々と息を吐いた。


「殿下は咳をなさるとき、右手ではなく左手で口元を覆われます」


「どっちでもいいだろ、そんなの」


「よくありません」


「右手で隠したら国が滅ぶのか?」


「あなたが偽物だと気づかれる可能性が一つ増えます」


「大げさだなあ」


 阿蘭は文句を言いながら、もう一度咳の真似をした。今度は左手。指の曲げ方まで、皇子によく似ていた。


 玄朔は一瞬言葉を失い、それから、


「……顎をもう少し引いてください」


 とだけ言った。


 薬を飲む稽古もした。皇子は苦い薬を嫌った。飲むこと自体は素直だったが、飲み終えると決まって蜜漬け(みつづけ)の梅を一つだけ食べた。


「二つじゃ駄目?」


「一つです」


「なんで?」


「殿下が一つしか召し上がらなかったからです」


「死人の癖をよくそんなに覚えてんな」


 玄朔の手が止まった。阿蘭も、口にしてからさすがにまずいと気づいたらしい。


「……次です」


 玄朔も、それ以上は何も言わなかった。怒号に備えてわずかに身を固めていた阿蘭は、何も飛んでこないと分かると、気まずそうに眼を逸らす。


「殿下は書物を読まれるとき、灯を必ず左に置かれました。右に置くと、手元へ影が落ちるのを嫌われたからです」


「昼間なら、どこに置いても関係なくない?」


 阿蘭は窓の方を見た。


「っていうか、この部屋、昼でも暗すぎるだろ。こんなところで本ばっかり読んでたら、そりゃ身体にも悪いって。外に出て、護身の稽古でもしようぜ。運動だよ、運動!」


 阿蘭は卓の端を両手で掴み、訴えるようにがたがたと揺らし始めた。


 この調子では、期限までに皇子らしい振る舞いを身につけさせるどころか、役立たずと見なされ、この粗野な女もろとも始末される方が早いかもしれない。


 だが、その予想は翌日にはもう外れた。


 翌日。玄朔が何も言わず書物を渡すと、阿蘭は自然に灯を左へ動かした。咳をすれば左手。薬の後には梅を一つ。


 一度教えたことを、ほとんど忘れなかった。それどころか、玄朔自身が教えたことを忘れているような些細なことまで拾っていた。


「殿下はそこでは足を組まれません」


「昨日は組んでたぞ」


「昨日?」


「本読んでるとき。お前が、疲れてるときだけ右足を左に乗せるって言った」


 言っただろ、と阿蘭は平然としている。玄朔には、その話をした記憶がなかった。だが確かに皇子にはそんな癖があった。


 玄朔は次第に気づいた。阿蘭は物覚えがいい、というだけではない。


 人を見るのが、異様にうまい。


 相手が何に気を取られているのか、どこを見ているのか、ほんの短い仕草から察する。


 ならば、この女はなぜ普段あれほど粗雑なのか。


 食べ物は手で取る。座れば足を崩す。口も悪い。礼を知らない。少なくとも玄朔には、そう見えていた。


 だが、ある時から疑問を持つようになった。本当に知らないのか。それとも。


 ――知っていて、そうしているのか。


 阿蘭は馬鹿に見られることを、少しも恐れていなかった。むしろ、そう見られることに慣れていた。


 相手が自分を侮った瞬間だけ、阿蘭目の奥は妙に醒める。


 玄朔がそれに気づいた頃には、阿蘭の方もまた、玄朔についてずいぶん多くのことを知っていた。


 人と話すとき、相手の目を長く見ず、すぐに視線を伏せること。


 食事の時間になると、玄朔の指先がわずかに震えること。


 どれほど腹を空かせていても、毒見が済むまでは決して阿蘭に箸を持たせないこと。


 夜中、少なくとも二度は起きていること。


 そして、皇子の話をするときだけ、本人も気づかぬほど声が柔らかくなること。



* * *



 その夜、玄朔は卓に向かって翌日の稽古を書き出していた。背後では阿蘭が寝台に寝転がり、今日覚えたばかりの詩を鼻歌まじりに復唱している。


「そこ、三句目が違います」


「聞いてたのかよ」


「聞こえます」


「地獄耳」


「明日、もう一度最初からです」


 阿蘭がごろりと寝返りを打った。しばらく静かになったので、ようやく眠ったかと思った。


 そのとき。


「なあ、玄朔」


「何です」


「そんなに好きだったの」


 筆が止まった。何のことか訊く必要はなかった。


「あいつのこと」


 玄朔は勢いよく振り返った。


「殿下を――」


 あいつなどと呼ぶな、そう続けようとして、口を大きく開いたまま、声が消えた。


 好きだった。その言葉だけが、妙に胸へ引っかかった。もちろん敬っていた。慕っていた。命を預けられることを誇りに思い、殿下のためなら死んでもいいと思っていた。


 ならば、好きだったと言えばいい。それだけのことなのに、玄朔は答えられなかった。


 毒見役だった。同じ膳を食べた。同じ毒を口にした。それでも自分だけが生き残った。主人を守るために置かれていたはずの自分が。


 守れなかった。


 そんな自分が今さら、


 ――好きだった。


 などと。口にしていいのだろうか。まるで自分にも、皇子の死を悲しむ資格があるように。


 玄朔はゆっくり顔を伏せた。


「……もう遅いです。お休みください」


「ふうん」


 阿蘭はそれ以上訊かなかった。肩をすくめる。玄朔には見えなかった。


 その一瞬だけ。皇子と同じ顔に浮かんだものが、からかいでも嘲りでもなかったことを。


 ほんの少しだけ、羨ましそうだったことを。



* * *



 玄朔が皇子に初めて会ったのは、十四の春だった。宮城の奥は、どこも白かった。磨き上げられた石床も、塗り直された壁も、春先の薄い光を弾いて眩しいほどだった。そこを歩く人間たちだけが、妙に色濃く見えた。


 玄朔はその中で、できるだけ顔を伏せて歩いた。目を合わせない。人の顔を見ない。そうしていれば、向こうも自分の顔を見ずに済む。幼い頃から身につけた癖だった。


 実母は、西方から流れ着いて父の妾となった異国の女だった。青い目も、同年代より早く伸びた背丈も、その母から受け継いだ。


 だが玄朔は、母のもとでは育っていない。長く子のなかった父の正妻が、まだ乳飲み子だった玄朔を引き取り、自分の息子として育てたからだ。衣食に困ったことはない。読み書きも、剣も馬も習わせてもらった。


 庶子(しょし)として捨て置かれるより、ずっと恵まれていたのだろう。


 だから感謝しなければならない。何度もそう言われた。


 けれど、青い目を見れば誰の腹から生まれたかは分かる。あれは妾腹(しょうふく)だ。異国女の子だ。本妻が産めないから拾い上げられただけだ。


 言葉の意味は分からなくとも、自分の目を見ると大人たちの声が低くなることだけは、幼い玄朔にも分かった。


 異人の目だ。獣の目だ。縁起が悪い――そう言われるたび、正妻は玄朔を庇った。


「この子は私の息子です」


 きっぱりと言った。だが家へ戻れば、


「なるべく人前では目立たぬようになさい」


 とも言った。だから俯くようになった。青い目を見せなければ誰も困らない。自分も傷つかない。それが一番、楽だった。


 宮中へ上がっても変わらなかった。父の家では嫡子(ちゃくし)、血筋を問われれば異国の妾腹。どちらにもなりきれない玄朔を、病弱な皇子の従者として差し出すことは、家にとって都合がよかったのだろう。


 嫡子として育てた以上、粗末にはできない。かといって、跡取りとして表へ出すには体面が悪い。皇子付きならば聞こえはいい。しかも相手は、皇位から遠い病弱な少年だった。


 それくらいのことは、十四歳の玄朔にも分かっていた。


「凌玄朔」


 名を呼ばれた。玄朔は足を止める。


「はい」


「ここから先は一人で入れ」


 案内役の宦官が、目の前の扉を指した。玄朔は思わず宦官を見た。


「一人で、ですか」


「皇子がお待ちだ」


 皇子。


 その一言で喉が乾いた。玄朔がこれから仕えることになる皇子について、知っていることは多くなかった。


 名は景和。皇帝の子の一人。生まれつき身体が弱く、滅多に人前へ出ない。武芸は不得手。皇位継承争いからも遠い。それくらいだった。


 玄朔は一礼し、扉を開けた。薬草の匂いがした。


 その奥に、一人の少年がいた。窓辺の長椅子に腰掛け、本を読んでいる。


 玄朔より二つほど年下。頬は白く、細い。春だというのに膝には厚い掛布が載せられていた。玄朔が入っても、しばらく書物から目を上げなかった。


 やがて頁を一枚めくり、


「君が玄朔?」


 と言った。


「はい」


「近くへ」


 玄朔は数歩進んだ。


 それでも顔は上げない。


「もっと」


 さらに進む。


「そこに」


 止まる。沈黙。何か無作法があったのかと、玄朔の背筋に冷たいものが走る。


 そして少年が言った。


「顔を上げて」


 玄朔の肩がわずかに強張った。


「……はい」


 ゆっくりと顔を上げる。目だけは合わせないようにした。貴い身分の人に自分の目は不快だろうから。


「こっちを見て」


 逃げ道を塞がれた。


 玄朔は仕方なく、少年を見る。皇子と目が合った。黒い目だった。真っ直ぐに、玄朔の顔を見ている。


 次に、その視線が青い目へ移った。


 来る。


 玄朔はそう思った。異人。妾腹。気味が悪い。何でもいい。


 いつもの言葉を待った。先に受け止めてしまえば、傷つかずに済む。


 けれど。


 皇子は少しだけ目を見開いた。


「綺麗な色だな」


 玄朔は意味が分からなかった。


「……は」


「青い」


 皇子は書を閉じた。その声音には、からかいも、嫌悪もなかった。ただ本当に、珍しい花か石でも見つけたような響きだけがあった。


 玄朔はどう答えていいか分からなかった。皇子は気にした様子もなく続ける。


「もっと近くで見てもいい?」


「え」


「目」


 玄朔は反射的に一歩退いた。皇子が首を傾げる。


「嫌か?」


「……いいえ」


 嫌ではなかった。怖かった。これまで目を覗き込んだ人間は、たいていその後に玄朔が何者なのかを訊いた。


 母はどこの国の女だ。正妻の子ではないのだろう。なぜ嫡子の顔をしている。いつも、目の色の次には出自が続いた。


 玄朔は一歩前へ出た。皇子が身を乗り出す。


 近くで青を確かめ、もう一度言った。


「やっぱり綺麗だ」


 それだけだった。


 母のことも。妾腹であることも。正妻に引き取られたことも。何も訊かなかった。


 皇子はそこでようやく、玄朔の様子がおかしいことに気づいたらしい。


 わずかに首を傾げる。


「……見られるのが嫌なのか?」


 玄朔は答えなかった。答えれば、余計なことまで口にしてしまいそうだった。


 沈黙だけで、皇子には十分だったらしい。


「ああ」


 小さく声を漏らし、少し困った顔をする。


「すまない。無神経だった」


「お詫びにならないでください」


「蔑まれるのは慣れています。珍しがられるのも、笑われるのも。ですが――」


 言ってから、皇子に対する口の利き方ではなかったと気づく。けれど言葉は止まらなかった。一度、唇を噛む。


「憐れまれるのは、嫌です」


 部屋が静かになった。無礼だった。今度こそ叱責(しっせき)されると思った。


 ところが皇子は、ほんの少し目を丸くしたあと、ふっと笑った。


「分かるぞ」


「……は?」


「私も嫌いだ」


 皇子は膝に掛けられた厚い布を指先でつまんだ。


「身体の弱い皇子なんて、放っておいても皆が勝手に可哀想がってくれるからな」


 玄朔が何か言おうと口を開きかける。


 それを遮るように、皇子は左手で口元を覆った。こほん、と小さく咳払いをする。


 まるで湿っぽくなりかけた空気を、そこで一度仕切り直すように。


 そして何事もなかったような顔で続けた。


「……だから、今のは憐れんだわけじゃない」


 玄朔を見る。今度は、さっきより少しだけ柔らかく笑った。


「本当に、綺麗だと思っただけだ」


 そのあとのことを、玄朔はあまりよく覚えていない。


 何を話したのか。どうやって部屋を出たのか。ほとんど記憶にない。


 ただ、その夜は眠れなかった。暗い部屋の中で何度も目を開け、自分の目が青いことを思い出した。


 皇子にとっては、何でもない言葉だったのだろう。けれど玄朔には、生まれて初めて自分の身体の一部を、恥じなくてもいいのだと思わせた言葉であった。



* * *



 ――本当に、綺麗だと思っただけだ。


 遠い記憶の声が、ふいに途切れた。


「玄朔」


 呼ばれて、玄朔は顔を上げた。目の前にいるのは皇子ではない。阿蘭だった。


 その日の稽古は、いつもより長引いていた。


 人前へ出ることを想定し、座り方から受け答え、生い立ちの応答まで、ひと通り繰り返した。阿蘭はもう、ほとんど間違えない。


 先ほども咳の真似をするとき、何の迷いもなく左手で口元を覆った。それがあまりにも自然だったせいで、玄朔は一瞬、昔のことを思い出してしまったのだ。


「何です」


 玄朔は手元の書付へ視線を落とした。明日直すべき箇所を書き出そうとして、筆を取る。だが阿蘭は答えない。


 妙な気配を感じて視線を上げると、こちらをじっと見ていた。


「……何です」


「いや特には」


「なら、見ないでください」


「何で?」


「気が散ります」


「ふうん」


 それでも視線は外れなかった。玄朔は居心地が悪くなり、また目を伏せる。すると阿蘭が言った。


「癖なんだな、それ」


「何がです」


「目ぇ伏せるの」


 筆先が止まった。


「さっきもやってた。人と目が合うと、すぐ下向く」


「……昔からの癖です」


「もったいない」


 何気ない声音だった。玄朔は眉を寄せる。


「何が」


 阿蘭は頬杖をついたまま、あっさりと言った。


「その目。綺麗だなって」


 玄朔の手が止まった。墨を含んだ筆先から、一滴が紙へ落ちた。


「……何を」


「だから、目」


 阿蘭は自分の目元を指で示した。


「青いやつ」


 返す言葉が見つからない。阿蘭はそんな様子に気づかず続ける。


「わざわざ伏せて隠さなくていいじゃん」


 そこで一度、首を傾げた。


「本当に、綺麗だと思っただけ」


 息が止まった。皇子の声がした。違う。目の前にいるのは阿蘭だ。声も違う。口調も違う。


 座り方も、表情も。何もかも違うのに。


 ――本当に、綺麗だと思っただけ。


 同じだった。


 十四の春。初めて、己の目を、憐れみも嫌悪もなく、ただ綺麗だと言った人。その声が、阿蘭の言葉に重なった。


「玄朔?」


 呼ばれる。今度こそ息が詰まった。玄朔は勢いよく立ち上がった。椅子が床を擦り、ひどく大きな音を立てる。


 阿蘭が目を丸くした。


「何だよ」


「……今日は、ここまでです」


「は?」


「もう遅い。お休みください」


「いや、急にどうした」


「失礼します」


 追うように名を呼ばれたが振り返れなかった。玄朔はそのまま部屋を出た。


 廊下へ出て戸を閉める。そこでようやく、大きく息を吸った。


 胸が痛かった。毒の後遺症ではない。そんなことくらい分かっている。戸一枚隔てた向こうから、阿蘭の声がした。


「……なんなんだ、あいつ」


 玄朔は額を押さえた。自分にも分からなかった。


 ただ一つだけ分かる。あの顔で。あの言葉だけは。言ってほしくなかった、と。


 それ以降、玄朔は少しずつ阿蘭を見るようになった。皇子ならどうするか、ではなく。


 阿蘭がどうするのかを。最初に気づいたのは、食事のときだった。


 阿蘭は、決して食べ物を残さない。それ自体は珍しいことではない。問題は、食べきれないときだった。


 ある日の夕餉で、阿蘭は最後の饅頭を前にして、しばらく難しい顔をしていた。


「無理に召し上がる必要はありません」


「食えない」


「なら残せばよいでしょう」


「それは嫌だ」


 言いながら、阿蘭は辺りを見回した。そして玄朔が止める間もなく、饅頭を紙に包んで懐へ突っ込んだ。


「何をしているんです」


「後で食う」


「夜食なら厨房に言えば用意させます」


「いらない」


「なら、それを戻してください」


「嫌だ」


 妙に頑なだった。玄朔が眉をひそめると、阿蘭は仕方なさそうに言った。


「昔からの癖だよ。次にいつ飯が出るか分かんなかったから」


 なんでもないことのように言う。


「腹いっぱいでも、食えるもんがあったら取っとく。そんだけ」


 玄朔は問い返す言葉を失った。それから気をつけて見るようになると、いくつも見つかった。


 阿蘭は眠るとき、必ず短刀を手の届くところへ置いた。枕の下ではない。握ったまま眠る。


 一度、玄朔が危ないからと取り上げようとしたところ、眠っていたはずの阿蘭に手首を掴まれた。目が開くより先に身体が動いていた。


「……玄朔?」


「俺です」


 ようやく手が緩む。


「何してんの」


「それはこちらの台詞です」


「寝てた」


「短刀を握って?」


「寝るときが一番危ないだろ」


 その答えも、阿蘭にとってはごく当たり前のことらしかった。背後に人を置くことも嫌った。


 馬車では必ず壁を背にする。部屋に入れば最初に窓と戸を見る。食堂では、玄朔に席を指定されなければ出入口を見渡せる場所を選んだ。


 玄朔が教えた皇子の所作より、その一つ一つの方が、いつしか気になるようになった。


 ある日、皇子の生い立ちを覚えさせている最中だった。


「殿下の誕辰(誕生日)は六月二十日です」


「六月二十日」


「十四年前の――」


 そこで玄朔はふと思った。


「あなたは?」


「何が?」


「生まれた日です」


 阿蘭はきょとんとした。


「知らない」


「……知らない?」


「覚えてないって意味じゃないぞ。聞いたことがない」


 玄朔は眉をひそめた。


「では、年齢は」


「たぶん十七」


「……は?」


 玄朔はしばらく黙った。聞き間違えたのだと思った。


「十七歳?」


「他に何の十七があるんだよ」


 玄朔はまじまじと阿蘭を見た。小さい。十七前後の女としても、小柄な方と言えるだろう。


 皇子より多少丸みを帯びているが、背丈はほとんど変わらない。肩幅も狭く、男物の衣を着せて髪を結えば、十四歳の少年だと言われて疑う者はまずいないだろう。


 玄朔はてっきり、皇子と同じくらい――せいぜい十五だと思っていた。


「嘘でしょう」


「何であたしがそんな嘘つくんだよ」


「しかし、その……」


 視線を上から下へやり、言葉に詰まる。阿蘭が目を細めた。


「発育が悪いっていうんだろう」


「……はい」


「素直だな、お前」


 阿蘭は腹を立てるでもなく、自分の細い手首をひらひらと振った。


「ガキの頃、ろくに飯食ってなかったから。育たなかったんじゃない?」


「それだけで、ここまで……」


「そっちの方が都合がよかったんだろ」


「都合など――」


 そこまで言って、玄朔は口を閉ざした。阿蘭が皇子に似ている。だから今、ここにいる。


 ならば小さいままでいることも、女らしい身体つきにならないことも、彼女を使う側にとっては不都合ではなかったのではないか。


 むしろ、都合がよかった。食わせなかったのか。育たなかったのを放置したのか。


 それとも最初から、育てる必要すらないと思われていたのか。玄朔には分からない。


 ただ、阿蘭が自分の身体について、まるで他人事のように話していることだけが妙に胸に残った。


「……では、本名は」


「ないよ」


「……ない?」


「昔からみんなそう呼んでたから。それでいいだろ」


 玄朔の眉間に皺が寄った。阿蘭、というのは仮の呼び名だと思っていた。幼い者を呼ぶような、小名に過ぎないものだと。


「姓は」


「知らない」


 阿蘭は面倒そうに頬杖をついた。


「阿蘭で困ったことないし」


 皇子には、生まれた日も時刻も、産声を上げたときの天候さえ記録されている。誰が名を選び、誰が祝い、どの医官(いかん)が最初に脈を取ったかまで残っている。


 その皇子の顔をした女には、自分が何歳なのかさえ確かな記録がない。


 正式な名すらない。玄朔は言葉を探したが、見つからなかった。阿蘭がこちらを見る。


「……その顔やめろ」


「何がです」


「可哀想だと思っただろ」


 虚を突かれた。


「別に」


「思った」


 阿蘭は露骨に嫌そうな顔をした。


「やめろよ。あたし、そういうの嫌いだから」


 その言葉に、玄朔の胸の奥で何かが引っかかった。遠い春の日。膝に厚い布を掛けた少年が、少しだけ苦い顔で笑っていた。


 ――私も嫌いだ。


 身体の弱い皇子なんて、皆が勝手に可哀想がってくれるからな。


「……そうでした」


「何が?」


「いえ」


 玄朔は目を伏せた。似ていない。皇子とは、何もかも違う。口も悪い。行儀も悪い――というよりも、そのようにわざと振舞う。笑い方も、立ち方も、ものの考え方も違う。


 それなのに、ときどき。こんなふうに、思いもよらないところで重なる。


 阿蘭は不審そうに玄朔を見ていたが、やがて肩をすくめた。


「変なやつ」


 そう言って、手元の書物へ視線を戻した。玄朔はその横顔を見た。皇子の顔をした偽物ではなく。


 姓も、正式な名も、生まれた日も知らず、それでも今日まで生きてきた、阿蘭という一人の人間を。



* * *



 戦死の日を翌日に控えているというのに――勿論、当人は知る由もないはずなのだが――阿蘭は妙に機嫌がよかった。


 夕餉には肉を追加で頼み、普段なら玄朔に止められるより先に手を伸ばしては叱られるくせに、その日に限ってはおとなしく毒見が終わるのを待っていた。


 そうして安全を確かめるや否や、山盛りの皿を満足げに自分の前へ引き寄せた。


 そのうえ酒まで欲しいと言い出した。


「明日は早いですよ」


「だから今日くらいいいだろ」


「だから、の意味が分かりません」


「明日早いから、今日は景気つけとく」


「なおさら分かりません」


 結局、阿蘭は小さな壺を一本せしめた。玄朔は止める気力もなく、卓の向かいで黙って茶を飲んでいた。


 眠れる気はしなかった。この一月、何度も頭の中で繰り返してきた。


 明日。郊外への遠乗り。少数の供。異民族の襲撃。応戦。景和皇子の、立派な戦死――それで終わる。


 玄朔が丹念に作り上げた「景和皇子」が、明日死ぬ。


 その中にいる阿蘭ごと。


「その肉いらない?」


「結構です」


「じゃあ食う」


 阿蘭は遠慮なく肉を取った。よく食べる。以前なら、その姿を見るたびに皇子との違いを数えていた。


 皇子はこんなに食べなかった。肉の脂身を好まなかった。食事中に酒など要求しなかった。


 今はもう、そんなことを考えない。阿蘭が肉を好むことを知っている。


 甘い酒より辛い酒を好むことも。魚の骨を取るのが下手なことも。明日には、その全部がなくなる。


 玄朔は目を伏せた。


「で」


 阿蘭が言った。


「はい」


「明日、あたしはどういう手筈で死んだらいい?」


 玄朔の指が止まった。茶碗の縁が、かすかに鳴った。


 阿蘭を見る。彼女は肉を噛みながら、こちらを見ていた。冗談を言っている顔ではなかった。


 玄朔は何も答えられなかった。数息。沈黙が落ちる。


 その沈黙だけで、十分だったらしい。阿蘭は目を閉じ、天井を仰いだ。


「うぇー」


 心底嫌そうな声だった。


「分かってたけど、やっぱりそうかぁ」


「……何を」


「貴人ってやつはどいつもこいつも趣味が悪い」


 玄朔の胸の奥に、遅れて怒りが湧いた。


「まさか――」


 鎌をかけたのか、怒鳴りかけて、止まった。もはや己にこの女を謗る(そしる)資格があるとは思えなかったからだ。


「知っていたのですか」


「だから今、確信したんだって」


 阿蘭は杯を傾けた。


「怪しいとは思ってたけど」


「……」


「ひと月かけてあたしを皇子にして、そのあとわざわざ人目のないところへ連れ出すんだろ。何かあるとは思うじゃん」


 玄朔は唇を噛んだ。怒りたかった。そんなふうに人を試すなと。


 勝手に疑うなと。だが、何を言えるというのか。


 明日。自分は本当にこの女を死なせるつもりだった。阿蘭の方が少し先に気づいただけだ。


「まあ、いいけどさ」


「良くありません」


「いや、あたしが死ぬのは全然そりゃ良くないけど」


 妙な言い回しに、玄朔は思わず阿蘭を見た。阿蘭は杯の中身を揺らしていた。


 その表情から、さっきまでの軽さが少し消える。


「おそらく良心の呵責(かしゃく)で揺れてくれてるところ悪いけどさ」


 玄朔の眉が動く。


「玄朔も死ぬよ」


 今度こそ、玄朔の視線が阿蘭を捉えた。


「……何を」


「本物がいつ死んだか知ってる人間なんて、少ない方がいいじゃん」


 あまりにも当然のことのように言われた。玄朔は黙る。


「まさか、あのおばさんの言葉を真に受けたの?」


 阿蘭は鼻で笑った。


「言葉を慎--」


「この後に及んで?」


 阿蘭は呆れた顔をした。それから卓に肘をつき、指を一本立てる。


「あたしが死ぬ」


 二本目。


「玄朔も死ぬ」


 三本目。


「一緒についてくる護衛も、たぶん死ぬ」


 その指を順番に折る。


「で、全員まとめて『異民族に襲われました』」


 最後に拳を握った。


「これで口を利く奴はいなくなる」


 玄朔は何も言わなかった。否定できなかった。考えなかったのではない。考えないようにしていたのだ。


 阿蘭は玄朔の内心を知ってか知らずか、妙な上機嫌をあからさまに繕い、酒を注ぎ足す。


「せっかくだし、あたしの身の上話でもさせてもらいましょうか」


 玄朔の目がわずかに細くなる。


「薄々察していたとは思うけど」


 阿蘭は自分の顔を指した。


「これ、偶然じゃないから」


 皇子と同じ顔。玄朔は黙って続きを待った。


「あたしの親父はとんでもなく偉い人でね」


 玄朔の目がわずかに見開かれる。


「母親は、皇族付きの隠密(おんみつ)だったらしい」


 いくつかの違和感が、一気につながる。皇子と似すぎた顔。異様な観察眼。足音を消して歩く癖。


 寝るときにも手放さない短刀。誰かの動きを一度見れば、ほとんどそのまま再現する能力。


「本来なら」


 阿蘭は杯の縁を指でなぞった。


「あたしみたいなの、生まれた時に消されててもおかしくなかったんだって」


「……」


「隠密の女と作った、記録にも残せない娘。残しといても面倒だろ」


 さらりと言う。玄朔には、同じ調子では聞けなかった。


「でも、しばらく育ててみたらさ」


 阿蘭は頬を指で引っ張った。


「この面が、誰かさんにそっくりだった」


 阿蘭はくつくつと笑いながら手酌で酒を注ぐ。


「皇子、身体弱かっただろ。いつ急に人前に出られなくなるか分からない。いざって時、似た顔が一人いりゃ便利だ」


 玄朔は拳を握った。阿蘭が小さいままだった理由。年齢も生まれた日も知らない理由。正式な名すら与えられなかった理由。


 全部、今までよりはっきりした形を持って迫ってくる。


「この面のおかげで、今まで生きてこられた」


 阿蘭は自分の頬をぺち、と叩いた。


「便利な顔だろ」


 阿蘭は笑っていた。玄朔は笑えなかった。


「だから分かるんだよ」


「何がです」


「あいつらのやり方」


 笑みが消える。


「あたしも、あいつらと一丘の貉(同じ穴のムジナ)だからさ」


 阿蘭は玄朔をまっすぐ見た。


「忠義なんて貫いても無駄だよ、玄朔」


 その一言で。何かが切れた。


「分かっている!」


 怒声が部屋を震わせた。阿蘭の目が、わずかに見開かれる。玄朔自身も、自分がこれほど大きな声を出したことに驚いていた。だが一度堰を切ったものは、もう止まらなかった。


「そんなことは、とっくに分かっている!」


「……玄朔?」


「俺が明日、生きて帰れるはずがないことくらい」


 阿蘭が黙った。手にしていた杯を、ゆっくりと卓へ戻す。


「分かってたの?」


「ええ」


「じゃあ、なんで」


「構わなかったからです」


 言ってしまえば、ひどく簡単だった。玄朔は自嘲するように息を吐いた。


「むしろ、その方がよかった」


 阿蘭の顔から、さっきまでの軽薄な笑みが消える。


「……何それ」


 玄朔は答えなかった。答えようとすれば、喉の奥にずっと押し込めてきたものまで溢れてきそうだった。けれど、もう遅かった。


「俺は」


 声が震えた。


「俺は、殿下を殺した」


 阿蘭の眉がわずかに動く。


「毒を盛ったの?」


「違う!」


 反射的に怒鳴った。玄朔は両手を卓についた。


「違う。俺は……俺は毒見役だった」


 指先が震えている。あの日から、食膳を前にすると必ずそうなる。


「殿下が口にする前に、俺が食べた。汁も、肉も、粥も。何もかもだ」


 あの日の膳が、目の前に蘇る。湯気。箸。白い指。卓へ落ちた器の音。


「同じものを食べたんだ」


 玄朔は唇を噛んだ。


「同じ器から取った。同じものを飲み込んだ」


 なのに。


「殿下は死んだ」


 その言葉だけは、いつ口にしても身体の奥に刃を差し込まれるようだった。


「俺だけは生き残った」


 阿蘭は黙った。玄朔は顔を伏せた。


 皇子は十四だった。幼い頃から病を繰り返し、季節が変わるたびに熱を出した。


 玄朔は十六。異国の血を引き、幼い頃から同年代の少年より頭一つ大きく、病らしい病にもほとんど罹ったことがなかった。


「殿下は小柄で病弱だった」


 一度言葉を切る。


「俺は体が大きく丈夫だった」


 それだけ。


「ただ、それだけだった!」


 拳が卓を打った。杯の中の酒が跳ねる。


「同じ毒だったのに、俺には足りなかった。殿下には多すぎた。それだけだ!」


 玄朔は自分の腕を見る。骨太な手。皇子を抱き上げることなど造作(ぞうさ)もなかった身体。


 何度も、それを誇らしく思った。自分はこの身体で皇子を守れるのだと。


 今では、その丈夫さそのものが憎かった。


「俺が死んでいればよかった」


 言葉にしてしまった途端、奇妙なほど心が静かになった。


「俺が死ぬべきだった」


 阿蘭が息を呑む気配がした。


「毒見役は、主人の代わりに毒を受けるためにいる」


「玄朔」


「俺はそのために、あの方の傍にいたんだ!」


 ようやく阿蘭を見る。


「なのに俺は、殿下が死ぬところを見ていた」


 助けられなかった。何もできなかった。自分まで倒れ、目を覚ました時にはすべて終わっていた。


「だから明日のことも、もうどうでもよかった」


 玄朔は笑おうとした。うまくできなかった。


「あなたを皇子として死なせて、その場で俺も死ぬ」


「……」


「それで、ようやく」


 その先は言えなかった。許される。皇子のところへ行ける。帳尻(ちょうじり)が合う。


 どれを口にしても、あまりに身勝手だった。


 阿蘭は長いあいだ黙っていた。やがて、ぽつりと言う。


「そっか。--だからだったんだ」


 玄朔が目を上げる。阿蘭はもう笑っていなかった。


「何がです」


 玄朔の眉が寄る。阿蘭はじっとこちらを見る。


「お前、自分も一緒に死ぬつもりだったんだ」


 玄朔は答えなかった。阿蘭の目が細くなる。いつものように人の内側を覗き込む目だった。


「ずっと死にたかったんだ」


 その言葉に、玄朔は何も返せなかった。否定できなかった。阿蘭は小さく息を吐いた。


「……めんどくさい奴」


 いつもの悪態だった。けれど、その声音にはもう、からかう響きがなかった。


「……悪いけど」


 開け放した窓から夜風が吹き込み、灯の火が細く揺れた。卓の上に落ちた二人の影も、わずかに形を崩す。


 阿蘭は杯を指先で転がしながら言った。


「明日あたしが死ぬと、もっと面倒なことになる」


「どういう意味です」


「そのまんま」


 阿蘭は杯を置く。


「この国、北の連中と戦をしたがってる奴がいるだろ」


「……」


 心当たりはあった。国境ではここ数年、小競り合いが絶えない。商隊が襲われ、村が焼かれ、そのたびに朝廷では報復を求める声が上がった。


 だが、実際に大軍を動かすとなれば話は別だった。皇帝も、朝廷も、一枚岩ではない。


 戦を望む者もいれば、交易を絶つことを嫌う者もいる。兵糧(ひょうろう)と銭を理由に反対する者もいる。


 何より、国を挙げて兵を動かすには理由が要る。


「今までは、その理由がなかった」


 阿蘭は言った。


「小競り合いくらいじゃ足りない。商人が何人死んでも、辺境の村がいくつ焼けても、戦を始めるには弱い」


 玄朔の胸に、嫌な予感が膨らむ。


「でもさ」


 阿蘭が自分の顔を指した。


「皇子が殺されたら?」


 玄朔の息が止まった。


「……まさか」


「病気で死んだ皇子じゃ、何の役にも立たない」


 阿蘭の声はひどく淡々としていた。


「だったら死んだことを隠す。代わりを立てる。そいつを国境の連中に殺されたことにする」


「そんな――」


「皇子暗殺」


 阿蘭が言った。


「それ以上に分かりやすい開戦理由、ある?」


 玄朔は何も言えなかった。遠乗り。少数の供。異民族の襲撃。勇敢に剣を取って戦い、皇子は死ぬ。玉華から聞かされた筋書きが、まったく別の形を取って脳裏に蘇る。


「妃殿下は、殿下を皇陵の中でも格の高い場所へ――」


「それを言えばお前が従うと思ったんじゃない?」


 玄朔の喉が詰まった。皇子のため。せめて死後だけでも、皇子にふさわしい場所へ。そう思ったから引き受けた。


 すべて。皇子をもう一度、立派に死なせるために。


 けれど、その死が意味するものは。戦だった。諍いは皇子が嫌っていたものの一つだった。


 皇子は自分の一言で、会ったこともない人間が死ぬことを怖がっていた。皇子であることを、そういうものだと言っていた。


 なのに自分は。その皇子の名を使って、何千、何万という人間を殺す理由を作ろうとしていた。


 膝から力が抜けた。玄朔は床に手をついた。


「なら……」


 声が掠れた。


「なら俺は、どうすればいい」


 自分でも、情けない問いだと思った。十六にもなって。剣を持ち、人を守る役目を与えられて。それでも玄朔は、ずっと命じられた通りに生きてきた。


 皇子に仕えろと言われ、仕えた。皇子を守れと言われ、守ろうとした。皇子をもう一度死なせろと言われ、それすら受け入れた。


 自分で決めたことなど、いったい幾つあったのだろう。阿蘭はそんな玄朔をしばらく見ていた。


 やがて、少しだけ笑った。


「命令がいる?」


 玄朔は答えられない。阿蘭が立ち上がった。


 いつものように肩を丸めることもなく、皇子のために用意された椅子へ腰を下ろす。背筋を伸ばす。


 顎をわずかに引く。指先を膝へ揃える。たったそれだけで、阿蘭が消えた。そこにいるのは、景和皇子だった。


「凌玄朔」


 声音まで違う。玄朔の身体が、考えるより先に反応した。


「はい」


「顔を上げなさい」


 玄朔は顔を上げる。皇子と同じ顔が、自分を見ていた。


「――私を助けなさい」


 胸を貫かれたようだった。だが次の瞬間、阿蘭は椅子の背にもたれた。


「……ってのは、ちょっと、ううん。かなり卑怯か」


 いつもの声だった。玄朔は呆然と彼女を見る。


「単純な話さ」


 阿蘭は片膝を立てそうになって、玄朔の顔を見てやめた。


「あたしは死にたくない」


「……」


「あと、でっかい戦が始まるのも困る」


「景和皇子ならきっと民のために戦を悲しむとか、そういう立派なことは言ってあげられない」


 少し肩をすくめた。


「あたし、あいつのことそんなに知らないしね。遠くから見てただけだから」


 玄朔がわずかに眉を動かす。阿蘭は気にせず続けた。


「だからこれは、あいつの遺志でも何でもない」


 自分の胸を指す。


「あたしの我欲(がよく)」


 そして、いつになく真っ直ぐに言った。


「生きたいんだよ」


 玄朔は黙っていた。


「立派な理由じゃなくて悪いけど」


 阿蘭は笑う。


「死にたくないから逃げる。戦なんか始まったら面倒だから逃げる。それで十分だろ」


 十分なのだろうか。玄朔にはまだ分からなかった。皇子を守れなかった自分が。皇子の名を汚す手助けまでした自分が。


 このまま逃げて、生きてもいいのか。そんな迷いが顔に出ていたのだろう。


 阿蘭はしばらく玄朔を眺めてから、小さく息を吐いた。


「それでも理由が足りないなら、一つ作ってあげる」


 玄朔が視線を戻す。


「あの子の死を、心の底から悼める奴が」


 阿蘭は言った。


「いつか、ちゃんと、どこででもいいから、あの子を葬ってほしい」


 玄朔の目が見開かれる。


「今は無理でもさ。生きてりゃ、いつかできるだろ」


 阿蘭はそこで少しだけ視線を逸らした。珍しく、言いにくそうだった。


「……姉らしいことなんか、何一つしてやれなかったあたしが言うのも変だけどさ」


 ほんの一瞬。皇子と同じ顔に、見たことのない表情が浮かんだ。


 玄朔は、長いこと何も言えなかった。


 やがて、ゆっくりと膝をついた。誰に命じられたわけでもない。額が床につくほど、深く頭を垂れる。


 それは皇子に仕えていた頃、幾度となく繰り返した臣下の礼だった。


 けれど今、その先にいるのは皇子ではない。皇子の顔をした、阿蘭という女だった。


「……御意」


 声は、自分でも驚くほど静かだった。阿蘭が困ったように眉を寄せる。


「いや、だからあたしは――」


「分かっています」


 玄朔は阿蘭をまっすぐ見た。


「あなたは皇子ではない」


「……うん」


「それでも」


 そこで一度、息を吸った。


「その命、承りました」


 阿蘭はぽかんとした顔をした。やがて、ふっと笑う。


「変なやつ」


 玄朔も、もう否定しなかった。



* * *



 翌日、景和皇子は予定通り遠乗りへ出た。そして、襲撃を受けた。そこから先に何が起きたのか、正確に知る者はいない。


 ただ一つ確かなのは、沈玉華が望んだ結末にはならなかったということだけだった。


 景和皇子の遺骸(いがい)は見つからなかった。


 護衛の一部も姿を消した。北方の異民族に襲われたという証言は出たものの、皇子が殺害されたと断じるだけの証拠はない。


 生きて捕らえられたのではないか。どこかで傷を癒しているのではないか。そもそも襲撃者は本当に異民族だったのか。


 様々な憶測が飛び交った。


 少なくとも、「皇子暗殺」を旗印にただちに軍を動かすという目論見だけは、頓挫(とんざ)した。



* * *



「姉弟ということにする」


 玄朔がそう言うと、阿蘭は露骨に嫌そうな顔をした。二人が潜り込んだのは、都から遠く離れた小さな宿場町だった。


 皇子の衣はとうに捨てた。阿蘭は粗末な男物の衣を着て、髪も適当に束ねている。皇子に似せるため毎朝整えていた頃とは、別人のようだった。


 玄朔も側仕えの衣を脱ぎ、市井(しせい)の若者に見えるよう身なりを変えている。それでも青い目だけはどうにもならないので、深く笠を被っていた。


「何で姉弟?」


「旅をする若い男女が二人きりでは目立つでしょう」


 今の自分が若い女に見えるのか――という突っ込みを、阿蘭はひとまず飲み込んだ。


「夫婦でもいいじゃん」


「却下です」


 阿蘭は玄朔を上から下まで眺めた。


「じゃ、あんたが兄ね」


「待ってください」


「あなたは俺より一つ年上でしょう」


「無理無理」


 阿蘭がひらひらと手を振る。


「あたしが姉だって言って誰が信じるんだよ」


 玄朔は黙った。阿蘭はどう見ても十四、五の少年にしか見えない。対して玄朔は同年代より大柄で、身長も高い。


 理屈は分かる。だが何となく納得がいかなかった。


「それに」


 阿蘭がにやりとする。


「あんた老け顔だし」


「……」


「何その顔」


「俺は老け顔だったのですか」


「そこ気にすんの?」


「初めて言われました」


「みんな気ぃ遣ってたんじゃない?」


 思いがけず傷ついた。玄朔が黙り込むと、阿蘭は腹を抱えて笑った。


「そんな真剣に落ち込むなよ!」


「笑わないでください」


「悪かったって、兄ちゃん」


「誰が兄ちゃんですか!」


 宿場の往来で声を張り上げ、玄朔は慌てて口を閉じた。阿蘭はまだ笑っている。


 皇子と同じ顔だった。なのに、もう皇子には見えなかった。


 似ている。もちろん似ている。けれど阿蘭が笑えば、それは阿蘭の顔だった。


「ま、いいじゃん老けてても」


 阿蘭は先を歩きながら言う。


「慰めになっていません」


「目は綺麗な青なんだし」


 玄朔の足が止まりかけた。阿蘭は気づかず続けた。


「その目だけは、ほんと昔から――」


 そこで、ほんのわずかに言葉が途切れた。


「……昔から?」


「あー」


 阿蘭が振り返る。


「最初に見た時から」


「初めて会った時ですか」


「そうそう」


 やけに雑な返事だった。玄朔はわずかに首を傾げたが、それ以上は考えなかった。初めて会った日。皇子の顔で菓子を頬張り、鼻をほじりかけ、自分を主人だと言い張った女。


 あれからまだ、ひと月ほどしか経っていない。ひどい出会いだった。


 玄朔がそう言うと、


「あたしだって、会って早々怒鳴り散らすひどい奴だと思ったよ」


 と返された。


「あなたの態度が悪かったからでしょう」


「あんたが細かすぎたんだって」


「皇子になる人間が裸足で歩いていたんですよ!」


「まだ言ってんの?」


 言い争いながら、二人は人混みへ紛れていった。



* * *



 その夜。玄朔はよく眠っていた。逃げ出してからというもの、彼の眠りは浅かった。物音ひとつで目を覚まし、夜中に何度も外を確かめていた。


 だがその日は、よほど疲れていたのだろう。粗末な寝台の上で横を向き、規則正しい寝息を立てている。


 阿蘭は床に座り、その横顔を眺めていた。笠を外しているので、顔がよく見える。


 瞼は閉じられている。その下に、あの目がある。



* * *



 阿蘭は、ずっと前からその色を知っていた。玄朔は知らない。


 自分たちが出会ったのは、あの西の別邸ではない。少なくとも、阿蘭にとっては。


 替え玉候補として生かされていた阿蘭は、ずっと皇子を見せられていた。遠くから。


 気づかれない場所から。歩き方を覚えろ。声を覚えろ。癖を覚えろ。誰と親しく、誰を嫌い、誰の前でどんな顔をするのか。


 そう命じられていた。その日も阿蘭は、皇子の居室の天井裏に潜んでいた。


 狭く埃っぽい梁の上に腹這いになり、下から聞こえてくる声に耳を澄ませる。皇子のもとへ新しい側仕えが来たらしい。聞き慣れない少年の声がしていた。


 しばらくは興味もなく聞き流していた。だが、皇子が珍しく何かに感心したような声を上げたので、阿蘭は梁の隙間からそっと下を覗いた。


 背の高い少年が立っていた。年のわりに体つきはしっかりしているのに、妙に肩を縮め、ひどく居心地が悪そうにしている。


 そして、顔を上げた。青かった。この国ではまず見ない色だった。


 暗い梁の隙間からでも分かるほど、鮮やかな青い瞳。少年はひどく驚いた顔で皇子を見ていた。


 何を言われたのかは、阿蘭にも聞こえていた。


 けれど、その言葉そのものよりも、少年の顔が変わったことの方をよく覚えている。


 張りつめていたものが、一瞬だけほどけた。そのとき阿蘭は初めて、凌玄朔という少年を意識した。


 それからだった。皇子を観察するたび、その傍に青い目の少年がいることに気づくようになった。


 呼ばれれば誰より早く振り向いた。咳をすれば駆け寄った。熱を出せば一晩中傍にいた。


 皇子が笑えば、ほんの少し安心したような顔をした。そしていつしか、あの青い目はいつも皇子を見ていた。



* * *



 皇子の身体が長くもたないことは、阿蘭も知っていた。本人の知らないところで、替え玉となる者には病状まで伝えられていた。


 あと一年も待てば、替え玉としての自分の価値はなくなる。玄朔も、いつまで皇子の傍にいるか分からない。


 毒を盛れば、時期だけは自分で選べる。今ならまだ、自分が選ばれる。


 玄朔なら。十六にして成人の兵と変わらぬ体躯(たいく)を持ち、滅多に病にも罹らないあの身体なら。


 もしかしたら、生き残る。もしかしたら――。


 それだけだった。確証などなかった。それでも阿蘭は毒を入れた。皇子は死んだ。玄朔も倒れた。


 三日経っても目を覚まさないと聞いた。五日目にもまだ熱が下がらないと聞いた。そのときには、さすがに賭けに負けたと思った。


 皇子だけでなく玄朔まで殺したのだと。けれど七日目。


 玄朔は立った。


 そして。予想した通り、皇子の死は伏せられた。予想した通り、替え玉が必要になった。予想した通り、阿蘭が選ばれた。そして皇子を最もよく知る者として。


 凌玄朔が、自分のところへ送られてきた。西の別邸で初めて顔を合わせたとき。玄朔は何も知らずに、自分を見ていた。


 だから阿蘭も、初めて会ったふりをした。


 ――ほんとに青いんだな、お前の目。


 あれだけは、少し失敗だったかもしれない。嬉しくて、つい口から出た。


 それからしばらくして、阿蘭は言った。


 ――本当に、綺麗だと思っただけ


 偶然ではない。皇子の言葉を盗んだ。どう言えば玄朔が顔を上げるのか、知っていたから。


 実際、玄朔は顔を上げた。あの日と同じように。阿蘭は寝台へ少し身を寄せた。眠る玄朔の瞼へ、指を伸ばす。触れる寸前で止めた。


 玄朔に言ったことが、すべて嘘だったわけではない。戦は嫌だった。異母弟のこともきちんと葬ってほしいとも思っている。


 姉らしいことなど、何一つしてやれなかった。自分とはまた違う檻に囚われて生きていたあの子の死を、望んでいたわけではない。


 ――なんて。阿蘭は自嘲するように口元を歪めた。自分で殺しておいて、よく言う。


「結局、血は争えないってことかね」


 窓の外では、もう蝉の声はしなかった。代わりに、涼しさを帯びはじめた夜気の底から、名も知らぬ秋虫の声が細く重なって聞こえてくる。あれほど長く居座っていた夏も、いつの間にか終わりかけていた。


 阿蘭はその声に誘われるように立ち上がり、軒先へ出た。夜明け前の薄闇のなか、足元に一匹の蝉が落ちている。


 羽を広げたまま、もう動かない。二度と鳴くこともない。


 阿蘭は屈み、その小さな躯(むくろ)を拾い上げた。


 掌の上に載せてみれば、拍子抜けするほど軽い。ひと夏をあれほど喧しく鳴き尽くしたものとは思えなかった。


 しばらく眺めてから、ふと視線を上げる。すぐ上の柱には、夏の初めに残された古い抜け殻が、今なおしがみついていた。


 一度目の骸。二度目の骸。


 この国では、蝉は二度死ぬという。


 けれど阿蘭は、そのどちらにもならなかった。阿蘭は生き延びたかった。


 そして――


 ただ、あの青い目が、己を映すところを見たかったのだ。


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