催眠アプリを信じた女の子
「サイトー君」
と、サイトー君はいきなり声をかけられた。家庭科室だった。彼は室内には自分一人だと思っていたものだから、少しだけ驚いてしまった。振り返ると、そこには佐伯さんという彼と同じクラスの女子生徒がいて、彼の目の前にはスマートフォンが突きつけられてあった。
催眠アプリ。
そのように画面には書かれてある。
黒と緑の怪しい装飾。
彼はそれを知っていた。最近、クラスで少し話題になっている偽アプリだ。漫画に出て来る、誰かに催眠をかけられる架空のアプリを模したもので、もちろん、何の力もない。どこかの誰かが悪戯で作ったものだ。
佐伯さんは、サイトー君が画面を見ているのを確かめるとこう言った。
「その豚汁を、私にちょうだい」
彼は今日の授業で豚汁を作っていた。まだ少し残っている。多分、彼女はそれを欲しいと言っているのだろう。実は彼は料理を片付けに家庭科室にやって来たところだったものだから都合が良かった。「うん。いいよ」と笑顔で返し、豚汁を温めると碗によそって彼女のいるテーブルの上に「どうぞ」と言って差し出した。
柔らかい湯気を浮かべた豚汁、そこにサイトー君は麦茶も加えた。今日の豚汁が少し塩辛からくなってしまったことを気にしたのだ。彼女の喉が渇いたらいけない。佐伯さんは薄っすらと嬉しそうな笑顔を浮かべると、その豚汁を食べ始めた。その間でサイトー君は、片づけをする。
サイトー君が片付け終えるのと、佐伯さんが食べ終えるのは大体同じだった。
「さて、」と言って彼女は席を立つ。再び、偽催眠アプリを彼に見せて来た。言う。
「今度は私を抱きしめなさい、サイトー君」
彼は首を傾げる。
「あの……」
口を開いた。
「そのアプリ、偽物だよ?」
それを聞くなり、彼女は固まった。
白い…… 感じ。
そして「なるほどね」などと言い、「少し話しましょう」と続けるとテーブルに着席した。「うん」と、それにサイトー君。彼女は指を組むと、口を開いた。
「まず、これだけは言っておくわ」
「うん」
「私は馬鹿ではないわ。このアプリが本物かどうかを検証する為に、豚汁を要求したのだし。どうして、豚汁をくれたの?」
「佐伯さん、お腹が空いているのかなぁ?って思って」
「そう。それはありがとう。優しいのね」
少しの間。機械的な口調で彼女は続ける。
「……でもね、時に優しさが人を傷つける事もあるのよ?」
使いどころが間違っていそうなセリフ。
「うん」と、それにサイトー君。多分、何も分かっていない。
十呼吸くらいの間。彼女は口を開いた。
「ま、何にせよ。合格よ、サイトー君」
当たり前だけど、サイトー君には何の事だか分からない。
「合格って?」
「実は今の一連のアクションは、あなたを試す為のテストだったのよ」
「何の?」
「もちろん、あなたがちゃんとした人間かどうかっていうテストよ」
「ふーん」と、それにサイトー君。
「それに合格すると、何か良いことがあるの?」
「もちろんよ」と、それに佐伯さん。
「私があなたがちゃんとした人間だと認めてあげられるわ」
そう言うと、佐伯さんは席を立った。
「つまり、私は決して痴女という訳ではなく、あなたのテストの為にこの催眠アプリを使っただけなのよ。分かった?」
「うん」
その返答を聞くより前に、既に彼女は家庭科室のドアに向かっていた。逃げるように…… と言うか、実際に逃げたのだけど。
その時、彼女と入れ替わりに野戸大介という男子生徒が入って来る。彼も料理の片付けに来たようだった。
彼はサイトー君を見るなり尋ねる。
「何かあったのか? 佐伯さん、耳まで真っ赤だったけど」
「うん。なんか、僕、テストに合格したみたいなんだよね」
「は? 何言ってるんだ??」と、野戸はそれに返した。ただ、そう訊かれても、サイトー君にはどう説明すれば良いのかまるで分からなかったのだけど。




