八話
山に近い緑に覆われた雑木林の中――僕は開いた植物図鑑を片手に辺りを見回す。
「書いてある通りだと、この周辺なんだけど……」
隣を歩くトーラもキョロキョロと視線を動かす。
「そうね……もう少し先まで見てみるわ。ここで待ってて」
そう言って長い金髪とスカートをひるがえし、トーラは風のように木々を縫って駆けて行った。あの走る速さはエルフ独特のものだ。彼らは人間よりもかなり身軽で、坂を上ったり木に登るのも全然苦にしない。花を盗んでた時もそうだけど、エルフと足で競争しても勝てやしないだろう。植物探しは今日で五回目で、トーラの走りにはもう見慣れたつもりだけど、やっぱり目の前で見ると、まだ驚いてる自分がいる。人間じゃあり得ない速さ過ぎて、その金色の疾風と化した姿に、また違う意味で見惚れてしまう。
それから一分も経たないうちに、疾風は僕の前まで駆け戻って来た。
「あったわ! サレックの花! この先にたくさん咲いてたわ」
両手で抱えた大量の白い花を僕に見せてくれる。その笑顔に息切れした様子は微塵もない。本当にエルフってすごいなと心の声で呟きつつ、植物が見つかった結果に答える。
「図鑑の説明通りだったね。こんなに咲いてたんだ」
「これだけの量があれば、サレックはこれで十分だわ。次の植物を探しましょう」
肩に担いだ布袋にサレックの花を入れると、トーラは僕の持つ図鑑に目を落とす。
「次は何ていう植物?」
「次は、ムンルバっていう木なんだけど、垂れ下がるように黄色い花が咲いて――」
言われた植物を僕が図鑑で調べて、それがありそうな場所まで行って、その付近を身軽なトーラが探す――五日目ともなると、その役割分担もはっきりして円滑になってきた。当初は僕も植物を探し回ってたけど、地形が険しい場所だと足手まといになって手間も時間もかかるから、お互いが気遣って自分のできることに集中するようになった。だから僕は無理に歩き回らない。それは足を使うのが得意なトーラに任せることにしてる。こうしたことで目当ての植物を見つける時間も短くなって、僕の仕事は順調に進む。でもそれは別の見方をすると、彼女といる時間も終わるってことで、植物が見つかるのは嬉しいことだけど、気持ちは複雑だ。
「――よし。じゃあ次の植物は?」
「アルドネラっていう葉の大きな植物なんだけど」
僕は図鑑を一ページずつ見て行く……が、その名前が見つからない。
「ここには載ってなさそうだな……」
「そう、残念。じゃあまた次の機会ね」
トーラは小さな溜息を吐く。図鑑に載ってない植物は後日、僕が他の本で調べて、見つかったらまた探すことになってた。前もって探す植物を彼女から聞いておけば二度手間にならないんだけど、魔法薬作りは現在進行形で試行錯誤してるらしく、必要な材料もその都度わかるから、どうしてもこういうことになってしまう。でもすでに三度目のことだし、これも家で調べれば多分見つかるだろう。
「他に欲しい植物は?」
するとトーラはしばらく考える素振りを見せると、おもむろに言った。
「今日は二種類も採れたことだし、また次にまとめて探しましょう」
「もう帰らないといけない時間なの?」
「そうじゃないけど、広く探し回って疲れてるでしょう?」
「僕の心配をしてるの? それなら平気だよ。動きは鈍いかもしれないけど、こう見えて体力はあるから」
胸をパンと叩いて疲れはないことを示すけど、それでもトーラは気遣う眼差しを向けてくる。
「だけど、雑木林の中を何十分も歩くのは大変じゃない?」
「コツもわかってきて、もう慣れたよ。だから気にしないで続けよう。さあ次を言って。図鑑で調べるから」
迷いを見せるも、僕が笑いかけて促すと、トーラは諦めたように笑みを浮かべた。
「わかったわ。そう言ってくれるなら……次の植物は――」
ポツ、と頬に冷たさを感じて、僕は頭上を見上げた。まばらに生えた高い木々の間から、枝葉に向けて降り注ぐ太陽の光と共に、場違いにしか思えない雨粒が額に連続して当たった。
「晴れてるのに、雨……?」
トーラは手のひらを上に向けて不思議そうに空を見つめる。
「天気雨なんて珍しいな。でもこういう雨はすぐに降りやむはずだから――」
そう言ってる途中で、僕の顔に当たる雨粒の数は増え、さらには勢いまで増してきた。あれ? やむどころか強くなってる……?
「これじゃびしょ濡れになりそう。一旦雨宿りしたほうがよさそうね。どこかにいい場所ない?」
聞かれて周囲を見つつ考えるが、ここには木しかなく、枝葉も雨をしのげるほど張り出してない。もっと山のほうなら崖際とか岩の陰に逃げ込めたかもしれないけど、そっちへ行くよりも家へ戻ったほうが断然近いだろう。
「僕の家に戻ろう。そこが一番近い」
雨から守るため、図鑑を服の下に入れてベルトに挟んでから僕はできる限りの速さで走った。ふと横を見れば、風の速さで走れるはずのトーラが僕に合わせて走ってた。
「先に行ってていいよ。僕を待ってたら濡れるから」
「駄目よ。雨で滑って転んだらどうするの? 一緒に行くわ」
僕にぴったり付いて走るトーラは、ちらちらとこっちを見て気にしてくれてた。
「さっき慣れたって言っただろう? 転んだりなんかしな――」
松葉杖が雑草を踏み付けた瞬間、僕の身体は前へ滑るように傾いた。声を出す間もなく地面にぶつかる――かと思ったが、その寸前で細い腕が両肩を支え、倒れるのを止めてくれた。
「ほら、やっぱり転んだ。大丈夫? どこか痛めてない?」
前からのぞくように心配そうな目が見てくる。
「あ、ありがとう。ごめん、大丈夫だから……」
自分のうかつさに苦笑いして顔を上げると、こっちを真っすぐ見てくる緑色の瞳とぶつかった。まるで宝石のエメラルドを思わせる色と美しさ。長いまつ毛が雨粒を弾いて、光が散ったように輝く――視線が、まるでとらわれたように外せなかった。吐息の音も、速くなった鼓動の音も聞こえてしまいそうな距離――
「……は、早く、戻りましょう」
先に視線を外したのはトーラだった。ハッとして僕も慌てて体勢を戻す。
「ああ、うん。そう、だね」
松葉杖を持ち直して、またトーラと並んで走り出す。もう一度転んだら格好が付かないから、急ぎつつ足下に細心の注意を払う。その間、お互いに無言だった。雨が葉と地面を打つ音と、自分達が駆ける足音だけを聞き続ける、何だかぎこちない空気に押されてた。彼女に変な警戒感を抱かれてしまっただろうか。至近距離で見つめるのはまずかったか。でもあれはどうしようもなかった。一目惚れした僕に見惚れるなっていうのは無理な話なんだから。あの美しさを無視するのはきっと誰でも難しいはずだ。
雑木林を抜けて道に出て、そこに沿って走り進んでようやく家に戻り着いた。部屋に入った僕は急いでタオルを取りに行って、その一枚をトーラに渡した。
「これ、使って」
「ありがとう。借りるわね」
笑顔で受け取ったトーラは髪や服にタオルを這わせて拭き始める。その様子にさっきまでのぎこちなさは見えない。いつも通りの彼女に戻ったみたいだ――そう一安心して僕も椅子に座って濡れた髪を拭いた。
「……そう言えば、絵のほうは進んでる?」
手を止めて聞いてきたトーラに僕は画布を指差して言った。
「少しね。ほら、そこにあるよ」
片隅に置かれた画布に歩み寄り、トーラは僕の絵をじっと見る。現時点では背景の大半とトーラの服の一部を塗ってる。
「色が増えたわね……この先が楽しみだわ」
「君の思い通りの色に塗れてるかな」
「何を言ってるの? これはあなたの絵なんだから、あなたが思うように塗るべきよ。私の意見なんか聞かないで」
「でも、モデルは君なんだし、あんまり現実と離れた色付けをし過ぎてもよくないだろう?」
「それもあなたが決めることよ。あなたがどんな色に見えて、どんな色付けをしたいか、全部作者のあなたに任せるわ」
言ってトーラは微笑む。僕の色使いを信用してくれての言葉なら嬉しいけど。
「……君も、こっちに来て座りなよ。今温かいお茶を作るから」
タオルを置いて僕は台所へ向かう。
「それなら私も手伝うわ」
同じようにタオルを置いて、トーラは駆け足で僕の隣に並んだ。
「大丈夫だよ。座って待ってて」
「二人でやったほうが早いでしょう? 火をつけるわ」
かまどの前にしゃがんだトーラは、その中に薪や枯れ枝を入れると、右手をかざして集中した眼差しを見せた。その直後、ボワッと赤い火が生まれ、かまどの中に火をつけた。それに僕は思わず目を見張った。
「今のは、魔法? すごいな。こんな間近で見たのは初めてだよ」
「エルフなら皆使える魔法よ」
「これなら一瞬で火をつけられるね。目の当たりにすると本当、羨ましいよ。人間はこうはいかないから」
「じゃあ、魔法を使う練習でもしてみる?」
「え? 練習すれば使えるものなの?」
「さあ? 私はそうして使えるようになったけど、人間はどうなんだろう」
「人間にも魔法使いはいるから、使えるようになる……のかな」
「少しやってみる? 私が最初にやったのは、手のひらに意識を集めて、そこに魔法の塊を想像することだったの。ファルク、手を出してみて」
僕は右手を前に出して、手のひらを上へ向ける。
「できるかな……」
自分の手のひらの中心を見つめて、そこに意識を注ぐ。そして魔法の塊を想像するんだよな……でも魔法の塊ってどんなものなんだ? さっきトーラが見せた火でいいのかな。それとももっと、青とか黄色とかのキラキラした塊かな……魔法のことなんてまったく知らない僕じゃ、想像することさえ難しい――わずかに試して、僕は早々に諦めた。
「……無理そうだ。こんなことしてる時間があるなら、地道に火をつけたほうがよっぽど早いよ」
「人間には難しいみたいね」
「魔法は君達エルフに任せるよ。人間の僕は、せかせか動いて頑張るしかないみたいだ」
「私がそれを手伝えば、あなたはそんなに頑張らなくてもよくなるわ。……水はどこ? ポットに入れて火にかけないと」
「ああ、水はそっちの水瓶にあるよ。ポットはこれを」
トーラが湯を沸かす準備をしてる間に、僕はハーブとコップを用意する。甘い物でも出せればよかったんだけど、今は何にもないな。来客なんてないから、もてなすものはお茶ぐらいしか用意できない。はあ、くつろいでもらいたいのに……。
「……ん? どうかした?」
かまどの火を見てたトーラが、僕の視線に気付いて振り向いた。
「い、いや、手伝ってくれて、ありがたいなと思って……」
「こっちこそ、仕事を引き受けてくれて、家でお茶まで飲ませてくれるなんて嬉しいわ」
「お茶、気に入ったなら、いつでも飲みに来ていいから……って、そんな時間はないか」
「いつでも、来ていいの?」
トーラがこっちを見つめて聞く。その上目遣いに心臓がドキリと鳴った。
「え、う、うん。もちろん。君なら歓迎だよ」
これにトーラは苦笑いを浮かべた。
「でもあなたは優しい人だから、花を盗んでた女に気を遣ってくれて――」
「何をしてたかとか、そんなことは関係ないから。僕は君だから歓迎するんだ。そこは、はっきり言っておく。だから自分を卑下しなくていいよ」
少し驚いたようにパッと顔を上げたトーラは、僕を見ると安堵した笑みを見せた。
「……ありがとう。だけど、歓迎するなんて言われたら、本気にしちゃいそう」
「これは社交辞令じゃないよ。僕の、正直な気持ちだから、嘘なんてない。君さえよければ、何度でもここに――」
来てほしい、と言いたかったけど、ふと思い出して言葉を止めた。彼女には許嫁がいるんだ。独り身の男の家に頻繁に通わせることなんてできない。しかも僕は人間だし、変な誤解をされたらトーラも困るだろう。彼女のためにも気持ちは抑えないと……。
「……ファルク?」
急に黙った僕をトーラが怪訝そうに呼んだ。
「あ、えーと……何度でもっていうのは難しいかもしれないけど、君の気が向いた時にでも来てくれたら、僕は嬉しいかな……」
「そう言ってくれるなら、この仕事が終わった後も、お茶をごちそうになりに来るわ」
「ああ、待ってるよ。いつ来てもいいように用意しておく」
湧いた湯にハーブを入れ、それをコップに注いで僕達は机に戻った。雨に濡れて少し冷えた身体に流し込んだお茶は、身体の内側をほんのり温かくして植物探しの疲れを癒してくれる。
「……雨、やんだみたい」
窓のほうを見てトーラが言った。そっちへ目をやれば、いつの間にか雨も雨音も消えて、外は普通の晴天に戻ってた。
「天気雨だから、やっぱりすぐにやんだね。これを飲んだら、また探しに行く?」
「雨でぬかるんでるかもしれないから、緑の深い場所はやめましょう。特にあなたは危険だと思うから」
さっきのことを思い返して僕は苦笑する。
「そうかも。また転んで君に迷惑はかけられないしね」
「迷惑じゃないけど、怪我でもしたら、心配になるから……」
うつむき加減にそう言って、トーラはコップに口に付ける。ただそれだけの姿に心がグッと来て、僕は慌てて視線をそらした――だから彼女には許嫁がいるんだって。それをしっかり呑み込め。
「……そ、そう言えば、香水はちゃんと作れた?」
これにトーラは視線だけを上げて答えた。
「香水は、まだ作ってる途中で……」
「アイリムの花がまだ足りないの? それなら僕が――」
「ち、違うの。作業が進んでないだけで、材料は、あるから」
「そうなの? ならいいけど……日程には間に合いそう? 確か結婚する前にあげる物なんだよね?」
「ええ。そうよ……」
「ところで、その結婚予定日はいつ? よければ教えてほしいな。さすがに駆け付けることは無理だと思うけど、何かお祝いのプレゼントでもできたらと思ってるんだ」
トーラはゆっくりコップを置くと、困ったような微笑を浮かべた。
「ありがとう。その気持ちだけで十分だから」
「でも、僕は贈りたいんだ。結婚式当日じゃなくても、その後とかに……それで、いつなの?」
どこか暗い表情で何度か瞬きをしてから、トーラは呟くように言った。
「実は、まだ、決まってなくて……」
「え? そうなの? 婚約もして香水作りもしてるから、てっきりすぐに式を挙げるものだと……」
「私達エルフは人間より長命な種族でしょう? だから、悠長で、急がないというか、そういうところがあって……」
確かにエルフ族は人間よりかなり長生きすると聞いたことがある。若く見えても百歳を超えてることもあるとか。トーラに年齢を聞いたことはないけど、僕より年上の可能性は高いだろう。それはさておき、人生の時間に余裕があるとは言っても、結婚は二人にとって喜ばしい出来事だ。幸せになろうっていう儀式を、ただのんびりした気質だから先延ばしにするとか、あるんだろうか。二人は婚約もして、夫婦になる時を心待ちにしてるはずだ。それなのに式の予定日も決めないなんて、僕にはちょっと考えられない。それとも、何か事情でもあるんだろうか。この話になってからトーラの表情が暗くなってる。結婚というめでたい話なのに、全然嬉しそうじゃないし、待ち侘びてる感じもしない。困惑、苦渋……そんな言葉のほうがしっくりくる表情に見える。
「な、何も心配することはないから。お互い忙しいだけで、これからちゃんと時間を作って決めるつもり」
僕の疑う視線に気付いたのか、トーラはぎこちない笑みを作りながらそう言った。
「その、余計なお世話かもしれないけど、もし悩みとか、問題があるなら、僕でよければ話を聞くけど……」
「だから、心配はいらないわ。ありがとうファルク」
「本当に? 何だか君の顔はそんなふうには見えないんだけど」
そう言うと、トーラはまた困り顔でうつむいた――やっぱり何かあるとしか思えない。
「ねえトーラ、何か抱えてるなら僕に――」
その時、会話をさえぎって部屋にバタンと大きな音が響いて、僕とトーラは揃って頭を振り向けた。音のしたほう――玄関を見ると、その扉は開け放たれてて、そこにはローブにフードを被った長身の人物が立ってた。僕はいきなり現れた相手に警戒しつつ、椅子から腰を上げた。
「だ、誰ですか、あなたは。扉を叩きもせず――」
不作法を非難しようとした僕の声など意に介さず、フードの人物はずかずかと部屋に入り込んで来た。その視線の先には僕じゃなく、驚いて固まってるトーラがいた。




