七話
トーラと最後に会ってから一ヶ月――悔やんだ気持ちは何も変わらないまま僕の中でひそまってた。時折それがうごめいて、自分の情けなさを再度痛感してしまうけど、今さらどうしようもないと言い聞かせて絵の色付けを進めてた。
「……はあ、今日はこのぐらいにしておこうかな」
一階の片隅で筆を握ってた僕は、それを傍らの小机に置く。松葉杖をついて椅子から立ち上がり、数歩下がって自分の絵を眺める。色を塗ったのはまだ背景の一部だけだ。完成には程遠い。
あれから僕は彼女のことが頭から離れず、何をしててもやる気が起きない。正直、絵を描く気力もあまりない。だから余計描くペースが鈍ってる。でもトーラが、絵の完成を心待ちにしてくれてると思うと、下書きのままほったらかしにするわけにもいかず、彼女のためにという思いを気力に変えて、どうにかここまで筆を動かしてきた。
「もっと楽しく描けるはずだったんだけど……これが恋の病ってやつなのかな……」
もう会えないという事実が、胸をギュウギュウ苦しめてくる。だけど頭ではちゃんとわかってるんだ。彼女には許嫁がいて、僕とどうこうなることはないって。どんなに恋焦がれても、僕の元には来てくれない。そう理解してるのに、それでも想いは尽きることがない。彼女にもう一度、会いたい……。
そんなことを考えてて、僕は自分を笑った。未練がましい男だ。こんなに諦めが悪かったなんて初めて知った。新たな自分の発見だな――鼻で笑い飛ばして、筆と絵の具を片付けようとした時だった。
コンコン、と玄関の扉が叩かれた。この家に訪問者なんて珍しい。町の住人とは付き合いがないから、手紙の配達人だろうか。でも父さんからの手紙なんて長いこと貰ってないけど――あれこれ考えながら鍵を開け、扉を開けた。
「はい、何です――」
最後まで言葉が出ずに、僕は固まって瞠目した。
「……あんまり時間は経ってないけど、変わりない?」
僕が待ち望んでた女神――トーラが、目の前で美しい微笑みを浮かべて立ってた。この現実がすぐに呑み込めなくて、僕は口を開けるばっかりで何も発せなかった。
「……ファルク? どうしたの? 私のこと、もう忘れちゃった?」
そう言われて、僕は反射的に返した。
「忘れるわけないじゃないか! 僕はずっと――」
トーラの緑色の瞳に見つめられて、その先の言葉を自制した。
「……いや、そ、それより、驚いた。急に現れるなんて。もう会えないものだと思ってたから……」
「ごめんなさい、驚かせて。私もこんなに早く来ることは考えてなかったんだけど、あなたに話をしたいことができたから」
「話? 一体何?」
トーラはニコリと笑う。
「……ところで、絵のほうはどう? 描けてる?」
「え? ああ、うん、少しだけど……見てみる?」
「いいの? 嬉しい!」
僕はトーラを部屋に招き、画布の前へ案内した。
「まだ背景しか塗ってないけど……」
色の付いた空や丘の部分を、トーラは顔を近付けてまじまじと見る。
「……綺麗ね。あの景色を切り取って、ここに貼り付けたみたい」
「それは褒め過ぎだよ。光の具合がいまいちだから、少し手直ししようと思ってるんだ」
「直さなくても十分綺麗なのに。でもこれ以上綺麗になるなら楽しみだわ」
笑顔のトーラに僕は恐る恐る聞いた。
「……今日来たのは、もしかして、この絵のためにモデルをまたしてくれる、とか?」
「そうしてあげたいけど、今日は違うの。……座って話してもいい?」
トーラが目で机のほうを示す。
「あ、ああ、そうだね。座ろうか」
僕とトーラは向かい合う位置で椅子に座る。そう都合よく僕の望み通りになるわけないか。……だけどまさか、彼女がまたこの家に来るなんて、未だに驚いてる。夢でも見てるような心地だ。何せ二度とないことだと思ってたから……あっ、そうだ――
「お茶! お茶でも飲む?」
「気を遣わないで。用意させるのも悪いし……」
「さっき作ったばっかりだから時間はかからないよ。ちょっと待ってて」
椅子を離れて台所へ行き、僕はコップを出して、そこにまだ温かいポットからお茶を注いだ。それを右手に持って、両脇に松葉杖を挟んで行こうとしたけど、やっぱり握ってないと歩きづらい。片方置いて行くか――
「自分で運ぶわ」
気付くといつの間にか横にいたトーラは僕からコップを取って、それを一旦調理台に置き、別のコップを用意して、そこにポットのお茶を入れた。
「あなたの分も持って行くわ」
「あ、ありがとう……」
どういたしましてと笑い、二個のコップを持ってトーラは机へ戻って行く。……やっぱり彼女は女神のようだな。
「いい香りね。ハーブティー?」
「うん。庭で育てた薬草を何種類か混ぜたものだよ」
「私、ハーブティーは大好きなの」
ほのかに湯気が立つお茶をトーラは一口飲んだ。
「……君の口に合うかな」
「すごく爽やかな後味……美味しいわ。これなら何杯でも飲めそう」
言葉通りの表情を見せてくれたことに一安心して、僕もゴクリと一口飲む。……胸に残った後悔を、これで一つ消せたかな。
美味しそうにお茶を飲んでくれるトーラに、一息吐いた僕は気になる本題を切り出す。
「……それで、話っていうのは何なの?」
コップを置いて、トーラはこっちを見据えてくる。
「ファルク、仕事探しのほうは順調なの?」
「そう見える? 前と何にも変わらないよ。相変わらず僕ができそうな仕事は見つからなくて困ってる」
「まだなのね。それはよかったわ」
これに思わず首をかしげた。
「……よかった? って、どういうこと?」
僕の表情を見て、トーラは慌てて言う。
「ち、違うの! 悪い意味じゃなくて、こっちとしては、ちょうどよかったってことで……」
「何がちょうどいいの?」
「実は、あなたに頼みたいことがあって」
「どんなこと? 僕にできることならいいけど」
そう言うとトーラはニコリと笑う。
「あなたなら問題なくできると思うの。私と一緒に、いくつか植物を探してほしくて」
「ふうん、植物……何かに使うの?」
「ええ。前に、森を再生させるために有志で集まってる話はしたわよね?」
「火事で焼けた森の話だよね。確か君も加わってるんだっけ」
「そこでの話し合いで、樹木の成長促進のために、魔法薬を作ることになったの」
「魔法薬って聞いたことはあるけど、具体的にはどんなものなの?」
「液体に魔法をかけて溶け込ませたものなんだけど、さらに効果を上げるために、私達はそこに植物も混ぜ込むの。草花とか、木の欠片とか」
「そんなことで効果が上がるの?」
「植物の中には魔法と相性のいいものがあってね。それが加わることで魔法の効果を上げることができるのよ。でもその一部は火事のせいで採れなくなっちゃって。それで代替の植物を採りたいんだけど、それは人間の住む地域にしかないみたいで……」
話が見えて僕は納得した。
「なるほどね。それで僕ってわけか」
「そうなの。人間の住む地域の方は全然詳しくないから、どれがどこにあるのかわからなくて。地道に探すより、あなたに聞いたほうが早そうに思えたんだけど……どう?」
僕は顎に手を当てて考えた。
「僕が知ってる植物なら、ある程度は教えられると思うけど、でも、そもそも植物に詳しいわけじゃないから、限界はあるかもしれない。……君は、もうこっちへ探しに来たの?」
「まだ来てないわ。探そうともしたけど、エルフが一人でうろついてるのを人間に見られたら、不審がられて兵士を呼ばれるんじゃないかって、ちょっと怖くて……」
彼女は人間に対して怖いイメージが強いんだろうか。それともエルフ族は保守的だから、皆そうやって教えられてるんだろうか。僕達はそこまで排外的な意識は持ってないんだけどな。
「怪しい動きをしてれば呼ばれるかもしれないけど、植物を採ってるだけで、それがエルフだからって理由じゃ誰も呼ばないよ」
「本当に?」
怪訝な眼差しがこっちを見る。
「そう言われると、絶対っていう自信はないけど……でも一人じゃなく人間の僕も一緒なら、怪しむ人はいないだろうから大丈夫だよ」
これにトーラは数度瞬きをしてから言った。
「それじゃあ、一緒に植物を探しに行ってくれるの?」
「そのつもりだけど、役に立てるかどうか……」
少し考えて、僕はふと閃いた。
「あっ、そうだ。母さんが残した本の中に、この地域の植物図鑑があったはずだ。それを見れば探しやすくなるかもしれない」
「そう言えば、お母様は植物学者って言ってたわね」
「ああ。君の目当ての植物が載ってればいいけど……二階から持って来るよ」
僕は椅子から立ち上がって松葉杖を握る。
「それなら私が取って来るわ。場所を教えてくれれば――」
「平気だから待ってて。階段は毎日使って慣れてるから」
気遣うトーラを制して、僕は階段を上がって二階へ行く。
「確か、見かけた気がするんだよな……」
かすかな記憶を頼りに壁際の本棚の前に立った僕は、隅々まで埋める本の背表紙を流し見ていく。植物学入門、素晴らしい花の世界、人間と樹木、植物研究の偉大なる成果、ルネッテ地方の植物図鑑――あった。これだ。僕は手に取ってペラペラと中を見てみた。一ページに一種類、植物の絵が淡い色で描かれてて、その下に生育環境や特徴などが数行書かれてる。これで役に立てるだろうか――それを片手に僕は一階へ戻った。
「……あったの?」
「ああ。この辺の植物が載ってる図鑑だ。見てみて」
机に置いて差し出すと、トーラは興味ありげにページをめくる。
「絵があるのね。すごくわかりやすい……」
指を動かして目を通してると、その動きが止まる。
「……これ、探してる植物よ」
示したページを僕はのぞき込んだ。
「レットサニー……岩場に生える植物、夏に青紫色の花を咲かせる……僕は知らない植物だな」
「これは花より葉のほうが使えるの。……あ、これも探してるものよ」
図鑑を調べた結果、全部じゃないけど目当ての植物が載ってて、これは探すのに役立つことがわかった。まさかこんなところで存在も忘れかけてた母さんの本が活躍するとはね。
「……とりあえず、これで探す場所の目処はついたね。あとは僕がそこまで案内すればいいの?」
「ええ。そうしてもらえると助かるわ。それじゃあ、改めて……私達と一緒に、働いてくれる?」
「時間ならいくらでもあるから、最後までやり切るよ」
トーラは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。これで材料集めもはかどりそう。植物の数が集まったら、後日私が給与を渡すから――」
「え? 待って、給与って……?」
「働いてくれた報酬よ。払うのは当然でしょう?」
「いや、でも、僕はそんなつもりで協力しようとは思ってないけど」
「あなたは私達のために働いてくれるんだし、私達は行政機関から給与を貰ってるのに、あなたが貰えないのはおかしいじゃない。これは立派な仕事なのよ?」
「それはそうだけど、でもそうなると、僕は君達のチームの一員みたいにならない?」
これにトーラは小首をかしげる。
「一員にはなりたくない?」
「そうじゃないけど、人間の僕が入ってもいいのかなって思って……仲間には言ってあるの? それともこれから言うの?」
「これから言うつもりだけど、別にファルクは私達の元まで来る必要も、会う必要もないし、材料集めに協力してくれるだけなんだから、誰も反対なんてしないわ」
「そう……それなら大丈夫、なのかな。何せエルフ族と仕事するなんて初めてだから……」
「何も心配しないで。森の再生を手伝ってくれる人に冷たくなんてしないから。……あ、給与は人間の通貨でちゃんと渡すから安心して」
笑顔でそう言ったトーラに、僕は思い出したことを聞いた。
「……もしかして、前回会った時の話を憶えてて、この仕事を持って来てくれたの?」
「これなら、私と一緒にあなたにもできる仕事かなって思って……」
控え目に笑ったトーラを見て、何だかそれがいじらしく思えて僕も笑った。
「仕事を紹介してっていうのは、単なる冗談だったのに。まさか本当に紹介してくれるなんて思わなかった」
「でも今のあなたには必要だったでしょう? だから引き受けてくれた」
「まあね。これで無職の生活も少しは助かるよ」
「いっそ私達の都へ職探しに来る? 人間は珍しいから、興味を持って雇ってくれるかも」
「そうするのも面白そうだけど、僕にはまだそんな勇気はないな。でも本当に困ったら考えてみるよ」
「その時は私がお世話をしてあげるわ。あと、都のいろいろな場所を案内してあげる」
「そんな日が本当に来たら楽しそうだけどね」
「わからないわよ? 本当にそんな日が来るかも」
無邪気な表情で言う彼女を見て、僕は思わずそんな日の光景を想像しそうになって止めた。まだ期待してる自分がいる。彼女の幸せを願うなら、この気持ちは奥にしまっておかないと。
僕達はしばらくおしゃべりをした後、植物探しの日程を決めて、それからトーラは帰って行った。その姿を見送って部屋に戻った僕は、片隅の画布の前に立つ。まだ線だけの真っ白な彼女。もう自分が描き出した彼女にしか会えないと思ってた。それがまさか再び会えて、しかも頼まれた仕事を一緒にすることになるなんて。エルフの都へ行かなくても、彼女と話せる時間が持てる……それだけでも今から心が弾んでくる。
「……もう少し、描こうかな」
小机に置いた筆を手に取って、僕はその弾む気持ちで絵の具を付けた。




