六話
一週間後――ついに約束の日がやって来た。
「画布に三脚、木炭……ちゃんとあるな」
布に包んだそれらの画材を確認して、僕は落ち着かない気持ちで椅子に座る。約束の時間は午前十時だけど、目が覚めて準備を整えたのは朝六時……我ながら早過ぎると自覚はしてるが、目が覚めたんだから仕方ない。軽い朝食を食べて、それからは一階のここで、玄関扉が叩かれるのを今か今かと待ち続けてる状況だ。でもその時はなかなか来ない。当然だ。約束の時間までまだ一時間以上もある。ああ、待ち切れない。外で待ってようかとも思うけど、何か意気込み過ぎてると思われるのも嫌だ。ドキドキする気持ちは抑えて、できるだけ冷静に……って思っても無理だ。緊張と楽しみが身体の中で跳ね回ってる。落ち着くんだ。落ち着け――僕は再び画材が揃ってるかを確認する。朝からもう何度目のことだろうか。そんなことを繰り返して緊張と時間をやり過ごしてると、ついにその音が部屋に響き渡った。
コンコン、と扉が鳴った瞬間、僕はすぐさま立ち上がって松葉杖をつき、玄関へ直行する。そして素早く鍵を開けて扉を引いた。
「おはよう! トーラ」
嬉しさのあまりちょっと声が大きくなった。これに目の前に立つトーラは面食らったような表情を見せた。
「……お、おはよう、ファルク。元気そうで、よかった」
彼女は引いた笑みを浮かべる。……自分の気持ちぐらい、ちゃんと制御しろ。
「いや、楽しみにしてたから、少し声に勢いが付き過ぎた……きょ、今日は天気がよくてよかったよ。絶好の写生日和だね」
「絵は外で描くの?」
「部屋の中でもいいけど、青空で風も弱いし、せっかくだから自然の風景と一緒に君を描こうと思って……それでもいい?」
「ええ、あなたがそうしたいなら付いて行くわ」
「ありがとう。そんなに遠くへは行かないから。ちょっと待ってて。画材を持って来るよ」
僕は部屋へ引き返して、机に置いてた画材一式を手に持つ。……これだと松葉杖がつきにくいな。包んだ布を結び直して背中に背負ったほうがいいだろうか。
「それ、持ちにくいの? なら私が持つわ」
そう言いながらトーラは僕に歩み寄って来た。
「へ、平気だよ。どうにか持てるから」
「でも歩きづらそうに見えたわ。私が持つから任せて」
僕の手から画材一式を取った彼女は、ニコリと笑った。
「さあ、どこへ行くの? 私を連れて行って」
……無意識なんだろうが、何て衝撃力のある笑顔。まだ始まったばかりで心をとらわれるわけにはいかない――胸の鼓動をなだめつつ、僕は彼女を連れて家を出発した。
まずは町とは反対の道に沿って進む。この先は民家もなければ人の手も入ってないから、手付かずの自然が広がってる。だから昼間は太陽に照らされた美しい景色が見られる。僕も前に何度か絵を描きに来たけど、正直もう見慣れてしまったから描きたい気持ちは湧いてこないけど、トーラがいるならまた別だ。彼女がこの自然の中に入れば、新たな美しさが生まれるだろう。それを画布の上で表現できれば……僕にとってはそれだけで満足だ。
「……じゃあ、この辺で描こうか」
家から十分ほど歩いたところにある、木のない開けた草原。僕はそこに立って言った。左右は森に挟まれてるけど、入った正面には視界をさえぎるものがなく、遠くに見える川と緑の丘の景色は、いつ見ても清々しくて、気分転換の散歩では必ず立ち寄ってしまう場所だ。
「風が通り抜けて行く……気持ちのいいところね」
トーラは両手を広げて、深呼吸をしながら景色を眺める。背後から吹く緩やかな風が、草原に咲く花々と彼女の金の髪を優しく揺らしてる。何かもう、これだけで絵になってるな。
「この道具はどこに置く? 言ってくれれば私が置くわ」
振り向いたトーラが僕に聞いてくる。
「えっと、そうだな……」
まずは彼女にいてもらう場所を決めないと。正面の景色は絶対に入れたいから、向きはこっち向きで――画布の大きさを考えながら、僕は背景と彼女が重なるいい角度を探す。と、地面に腰の高さほどの四角い岩が埋まってるのを見つけて、ふと閃いた。ここに彼女を座らせてみてもいいかも。
「道具を置く前に、この岩に座ってみてくれないかな」
頼むとトーラは素直に岩に腰かけた。うん……長い足に沿って流れるスカートが実に優雅だ。
「顔をやや右に向けて、両手は膝の上に」
「……こんな、感じ?」
僕の指示通りにポーズを作ったトーラは、硬い表情で動きを止める。僕は左右に動いて彼女と合う背景の角度を探す――空に丘、川もギリギリ見えるここがよさそうだ。よし、決めた。
「僕の前のここに、三脚を持って来てくれる?」
画材を包んだ布を広げたトーラは、そこからてきぱきと運んで準備をしてくれる。三脚を立て、そこに画布を載せ、紐で束ねた木炭を僕に渡してくれる。
「全部用意してもらっちゃって、ありがとう」
「私がやったほうが早いと思って……余計なお世話だった?」
「いやいや、すごく助かるよ。その分、絵を描く時間も増えるからね。それじゃあ岩に座って、さっきのポーズをしてくれるかな」
岩に戻ったトーラは頼んだ通りの姿勢を作る。でもやっぱり表情は硬いな。
「……あの、顔はもっと自然体で……無理に笑う必要はないけど、もうちょっと力を抜ける?」
「力を、抜く……こう、かな」
視線を遠くへ向けた顔は、頬や口元を少し緩ませて、薄い笑みを浮かべた。何とも言えない綺麗な微笑だ。
「うん、いい感じ。じゃあそのままで」
僕は木炭を握って画布に線を引いて行く。手元と彼女を交互に見ながら、丁寧に、忠実に……ああ、久しぶりに楽しい気分だ。こんなにワクワクしながら描く絵もいつぶりだろうか。それにしても、太陽の光を浴びた彼女は本当に綺麗で輝いてるみたいだ。月の光の時とはまた違う美しさがある。肉眼で見る以上の魅力を、この画布の上で表現できるだろうか……。
「こんなにいい自然があって、羨ましいわ」
姿勢を保ちながらトーラがポツリと言った。
「自然なら君の住む地域にもたくさんあるじゃないか」
「今は火事で、多くが失われちゃったから……」
「ああ、そうか……その森は今、どうなってるの?」
「どうもなってないわ。一面焼け焦げた地面が広がってるだけ。見るたびに溜息が出る光景よ」
「元通りになるには、相当な時間がかかりそうだね」
「ええ。でも、私達は自然任せだけにはしてないわ」
「再生のために何かやってるの?」
「有志で集まって、早く回復させるために、その方法をいろいろ模索してるところ。たとえば、魔法を使った薬で木々の成長を促したり、土壌を戻せないかって話し合ってるの」
「へえ、すごいね。魔法ってそんなふうにも使えるんだ。君もそれを手伝ってるの?」
「ええ。でも加わったのは最近で、許嫁の彼に誘われたの。彼はもともと森林の調査研究をする仕事をしてて、私もそこで手伝いみたいなことをしてたから、自然と加わることになって……」
そうだった。彼女には許嫁がいるんだったな――思い出すと胸に苦い感情が流れた。
「恋人と一緒に働けるなんて、幸せだね」
「働いてるだけのことよ。幸せって言うほどじゃないわ……」
その声はなぜか尻すぼみになっていく。気になってトーラに目を向ければ、微笑を保ってた表情が少し暗くなってた。……どうしたんだ? 仕事、大変なのかな。
「……ファルク、あなたは今、どんな仕事をしてるの?」
空気を変えるように、トーラは明るい声に変えて聞いてきた。
「僕? 僕は、何にもしてない」
「無職ってこと?」
「うん。別に怠けてるからじゃないよ? 働く意欲はあるんだ。でもこんな足だからさ、働ける場所がなかなかなくて」
トーラは頭を動かさず、目だけでこっちを見る。
「それじゃあ、どうやって毎日食べてるの?」
「母さんが遺してくれたものと、軍からの傷病手当をやり繰りしてどうにかね」
「軍から?」
「うん。僕は数年前まで王国軍の兵士だったんだ。でもこうなって……早々に退役になった。それからずっと仕事を探してるんだけど、やっぱりこんな小さな町じゃ見つからないね」
「その足はどうして失うことに……あ、こんなこと、聞くべきじゃないわね。ごめんなさい」
「別に構わないよ。……あの日、所属する隊の任務で、谷に現れる魔獣の討伐に向かったんだ」
「人間の住む地域にも魔獣はよく出るの?」
「よくってほどじゃないけど、夜になるとたまに姿は見せるよ。家畜や出歩いてる人を狙って。君の地域は?」
「頻繁に出るわ。魔獣は魔力に反応する生き物だから、私達エルフの住む周りには集まりやすいみたいで」
「そうか。エルフは魔法が使えるからね。他の町じゃ滅多に見ないけど、王都の周辺で見かけるのは、人間の魔法使いが集まってるせいなのかもしれない。……国民の命を守るために、それで僕達は目撃現場へ向かったんだ」
「討伐は、上手くできたの? 魔獣って他の野生動物より凶暴でしょう?」
「だから前もって罠を仕掛けたんだ。睡眠薬を仕込んだヤギ肉を何箇所かに置いて」
「睡眠薬って魔獣に効くの?」
「成功例は過去にある。でも失敗例も同じぐらいあって……上手く行くかは魔獣の大きさに左右される。比較的小さければ眠ってくれるんだけど、予想以上に大きいと完全に眠ってくれない」
「薬の量を増やしたらいいんじゃないの?」
「そうできればいいんだけど、量を増やすと薬の臭いが強くなり過ぎて、魔獣が餌を食べてくれなくなるんだ。だから目撃情報を元に、食い付いてくれるギリギリの量を探らなきゃいけなくて」
「じゃあ、大き過ぎる魔獣は討伐が難しいわね」
「そうなんだ。そういうやつは追い払うしかできない。……エルフはやっぱり、魔法で?」
「ええ。対魔獣の衛兵がいるから、彼らが皆を守ってくれてるわ」
「羨ましいね。僕達も普通に魔法が使えればいいんだけど、現状は罠を仕掛けることしかできない」
「それで魔獣は?」
「うん。かかってた。餌を食べ散らかして、少し離れた場所で眠ってた」
「成功したのね」
期待の目がこっちを見たが、僕は肩をすくめた。
「僕を含めた皆がそう思ったんだけどね……」
「違ったの?」
「仕留めようと数人が槍を構えて近付いたんだ。でもその直後、足音か気配を感じたのか、目を覚まして……大暴れされた。薬の量が少し足りなかったみたいで」
当時の恐怖を思い出して、僕はユラユラと揺れる右足のズボンを見下ろした。
「仲間を次々に弾き飛ばして、魔獣は僕に突進して来たんだ。だから反射的に横へ飛び退いたんだけど、前足が伸びて、その鋭い爪が僕の右足を引っかいたんだ。その時はもう、自分は餌になって死ぬんだって思ったよ」
トーラは目だけを向けたまま、心配そうな表情を浮かべてる。それに僕は笑顔を作る。
「でも見ての通り、魔獣は僕を食べずに、そのまま茂みの奥へ逃げて行ったんだ。命を失ってもおかしくない状況だったけど、幸い怪我人だけで隊は帰還できた」
「それは本当によかったけど……でも右足は引っかかれただけなんでしょう? それなのに何で失うことに……?」
「兵舎で治療を受けて二、三日経った頃に、右足がひどく痛み出したんだ。診てもらったら、傷口の周辺が赤黒く変色してて、バイ菌が入ったんだろうと消毒して様子を見てたんだけど、全然良くならなくて。もう一度診てもらったら、皮膚が壊死し始めてるって言われて」
「壊死? それって、魔獣の爪で……?」
「ああ。きっと引っかかれた時に、たちの悪いものが足に入ったんだろうね。何種類か薬を使ったけど治らなくて……軍医は、このままだと壊死する範囲が広がって命に関わるから、今のうちに膝から下、怪我のある部分だけ切断するべきだって言って……そんなこと言われたら、医療の素人は従うしかないから、泣く泣く切ったんだ。それでこの松葉杖の生活ってわけさ」
僕が脇に挟んだ松葉杖をポンポンと叩くと、トーラは複雑な眼差しを向けてくる。
「二度も命を脅かされながらも助かったのは、不幸中の幸いと言えるけど……でも、そんな大変な経験をしてるなんて思いもしなかった。そんなあなたから花を盗み続けてた自分が情けないわ……」
暗くなりそうな彼女に僕はすかさず言う。
「その話はもう済んだことだから。情けないなんて思わなくていいよ。謝罪もしてくれてるんだし」
これにトーラは苦笑いを浮かべる。
「ありがとう。やっぱりあなたは優しい人間ね。……足を失って、しばらくは慣れずに苦労したでしょう?」
「まあね。生まれて初めての片足生活だから、最初の頃はよく転んだし、思うように行かなくて苛立ちもひどかった。軍も退役になって、部屋で鬱々としてる僕を見かねて、母さんがこの町に移り住まわせてくれたんだ。空き家だったあの家を格安で手に入れてね」
「そうだったの。ファルクはてっきりここの生まれかと思ってたわ」
「生まれは王都で、両親も昔から王都暮らしなんだ。でも母さんは植物学者ってこともあって、昔から自然の多い田舎に住みたがってた。だから僕と一緒に住み始めた時はすごく喜んでたな。ここで最後の時間を過ごせたのも、本望だったと思う」
「お母様は、病でも患ってたの?」
「うん。王都で診断を受けて、治療はもう無理な状態だったらしい。あとは静養するしかなくて……それで僕と暮らすことになったんだ。やっと好きなことができるって、毎日野山を歩き回って、植物を集めて、育てて、観察して。王都にいた時より楽しそうだった。そんなことを身体が弱るまでやってたよ。僕はそんな母さんを見て、自分はいつまで落ち込んでるつもりだって顔を上げられたんだ。もしかしたら僕に態度で示してくれてたのかもしれない。そう思うと感謝しかないよ」
「先を告げられて、落ち込んでもいいのに……強いお母様だったのね」
「そうかもしれない。少なくとも僕の何倍も強かったよ」
「お父様は? 今も王都に?」
僕は木炭を動かす手を緩めて答える。
「うん……ずっと王都で、軍にいるよ」
「お父様も軍に所属してるの?」
「士官として隊の指揮をしてる」
「指揮をする立場なんて、すごいのね。ファルクはそのお父様の影響で軍に?」
「まあ、影響というか、半ば強制された感じかな……父さんの家は軍人家系みたいで、祖父も兄弟も、男子は皆軍人になるのが決まりになってるみたいでさ。それで僕も父さんに言われて入隊することになったんだ」
「そうなの……じゃあ、あなたが大怪我をして、お父様もさぞ心配したんじゃない?」
そう聞かれて、僕は思わず鼻で笑いそうになった。
「心配どころか、情けないって失望されたよ。たかが魔獣の討伐でもう軍を去ることになって、家の恥だって言われた」
「そんな……怪我は不運なことだったのに……」
「父さんに言わせれば、僕が鈍臭いかららしい。まあ、多少はそういう自覚もあるからね。言い返すことなんてできなかった。もともと身体を動かして走り回るより、一つのことに没頭してるほうが性に合ってたから。多分僕は母さんの性質を多く受け継いでるんだと思う」
「でもお父様は、お見舞いぐらい来てくれたんでしょう?」
「顔を見に来たのは、怪我をした直後だけだよ。退役になった時も、王都を離れる時も会ってない。僕も合わせる顔がなかったし、それからずっと疎遠になってる」
ちらとトーラを見ると、何だか気まずそうに目を泳がせてた。そんな空気を変えようと僕は明るく言う。
「右足は失ったけど、結果、今はこうして好きに絵が描けてるんだ。悪いことばかりじゃないって僕は思ってる。兵士のまま王都にいたら、君にも会えてなかったわけだし……」
「私に会えたことは、いいことだと思ってくれてるの?」
「もちろんだよ。久々に見つけた絵の題材でモデルなんだ」
これにトーラは残念そうにうつむいた。
「そう……そうよね。私は花を盗んでた泥棒だし、それぐらいしか価値は見い出せないわよね……」
「え? いや違うよ。それだけじゃなくて、初めて会うエルフ族だったり、直に話してお互いのことを知れたり……思いがけず触れ合えてることこそ、僕はいい出会いだと思ってるから……そんな自虐的になることないよ」
彼女の気分を悪くさせたかとヒヤヒヤしたけど、トーラの顔には最初の微笑が戻ってた。
「……ごめんなさい。ちょっとからかってみただけなの。あなたの純粋な優しさはわかってるから。私も、ファルクに出会えたことはよかったって思ってる。人間は聞いてたほど怖くないって知ることができたしね」
僕はホッと安堵の息を吐く。
「からかわれたのか……よかった。君を傷付けたかと思ったよ……でも皆、僕みたいな対応をするとは限らないから、初対面の人間にはやっぱり警戒しておいたほうがいいと思うよ」
トーラはフフッと笑う。
「わかった。そうするわ」
和んだ空気に戻り、他愛ないおしゃべりを続けながら僕は木炭で下書きとなる線画を仕上げていく。太陽の位置が頭上に来た頃、ようやく描き終えて僕は木炭を置いた。
「……これでいいかな」
「描けたの?」
「うん。こっちに来て見てみる?」
トーラは岩から立ち上がると、小走りで僕の隣にやって来た。
「……下書きの段階ではあるけど、どうかな」
背景は雰囲気がわかればいいから雑な線が多いけど、絵の主役となるトーラはそうはいかない。何本も線を重ねて、輪郭、表情、服のしわまで細かく描き込んだ。本人の姿をそのまま写したつもりだけど……。
「……すごいわ。ちゃんと私がいる。あなたってこんなに絵が上手かったのね」
「そう言ってもらえると嬉しいな。でも、完成してから言ってくれるともっと嬉しいけど」
「色が付いたら華やかな絵になりそうね。それもここでやるの?」
「いや、家でやるつもりだよ。ここの景色は何度も見て記憶してるから」
「私の色付けも?」
「そうなるけど、できることなら君を見ながら描きたい。でも何度もここへ通うなんて無理、だよね」
「ええ。そうしてあげたいけど……」
申し訳なさそうに見てくるトーラに、僕は首を振る。
「いいんだ。それはわかってたから。それにモデルになるのは一度だけって約束だったし。君の姿は頭に焼き付けたから大丈夫」
「この絵はいつ完成しそう? その時はぜひ見に来たいわ」
僕は指先で頭をかく。
「うーん、いつとははっきり言えないな。絵は気分が乗った時じゃないと描けないし、家事とか、仕事探しの合間に描くから、完成は……数ヶ月後とかになるかも」
「そう……仕事探しのほうも、早く見つかるといいわね」
「そっちは絵よりも時間がかかるかもね。せめて日雇いの仕事でもいいからあればいいんだけど。トーラ、いい仕事があったら紹介してくれないかな。そうしたら僕は喜んで引き受けるからさ」
僕の冗談にトーラは笑いを漏らす。
「一応気に留めておくわ。……じゃあ、家へ帰る?」
「そうしようか。新鮮な空気も十分堪能したし。画材を片付けるの、手伝ってくれる?」
トーラの手を借りて画材を布で包んで、僕達は家路につく。ほどなくして家に帰り着き、部屋に荷物を置いて一息吐くと、玄関に立つトーラが言った。
「……それじゃあ、私は行くわね」
「え、あ、ああ……」
扉の取っ手に手をかけて僕に笑顔を向ける。
「絵のモデルに、あなたの話も聞けて、とても楽しかった。じゃあ――」
帰ろうとするトーラを僕は咄嗟に呼び止めた。
「まっ、待って!」
「え……?」
こっちを見つめてくる視線に、僕は一瞬たじろぎつつ言った。
「……そ、そこまで、見送るよ」
「気を遣わないで。ここで大丈夫だから」
「いや、僕が見送りたいんだ。そうさせてほしい」
戸惑いを見せたものの、わかったと言ってくれたトーラと一緒に僕も外へ出た。庭から道へ、そこをしばらく並んで歩く。
「……ファルク、顔が暗いけど、疲れてるんじゃない?」
隣を見ると、トーラが心配げにこっちをのぞいてた。
「疲れなんて、感じてないけど……」
「ずっと絵を描いてて疲れてないわけないわ。見送りはここまででいいから、早く部屋で休んで」
「ま、まだ平気――」
「駄目よ無理は。私のことはいいから、さあ」
僕の背中を押して、トーラは戻るように促してくる。
「またいつか、会えたらいいけど……それじゃあ、さようなら」
柔らかい笑顔を残して、トーラは背を向けて立ち去る。これが彼女との最後の時間なんだろうか――そう思ったら呼ばずにはいられなかった。
「トーラ!」
叫びのような呼び声に、トーラはすぐに振り向いてくれた。
「……何?」
日を浴びた輝くような姿を見つめて、僕は心の声を出したかったけど、そこまでの意気地はまだなかった。
「……気を付けて、帰って」
ええ、と微笑んで頷いたトーラは再び歩き出し、見送る僕の視界から消えて行った。その直後、僕の口からは大きな溜息が漏れた。
「はああ……何で一言、また会いたいって言えないかな」
彼女も、またいつか会えたらって言ったんだ。別に嫌われることはなかっただろう。それとこっちには絵というきっかけもあるんだ。それを使えば会う約束も取り付けられたかもしれない。それなのに僕は、家に帰った時にお茶に誘うことすらできなかった。我ながら本当に情けないな……。
「こんな最後、なのか」
すでにトーラのいない道の先の景色を眺めながら、僕は彼女との時間を思い返す。花泥棒から始まり、その姿に一目惚れし、和解の後、絵のモデルとして画布の中に納まってくれた。連絡を取り合う方法がない今、彼女に会えるのは自分が描いた絵のみ……。
「後悔、先に立たずだ……」
悔やんでも悔やみ切れない思いを抱えて、僕はしばらく過ごすことを覚悟した。




