四話
仰向けで毛布にくるまった僕は、その端から少しだけのぞかせた目で満天の星空を眺める。最近は晴天続きで、夜空には雲一つ流れて来ない。こんなふうにじっと星を観察するのは何年ぶりだろう。風や緑の香りを感じながら寝てると、兵士時代の野営を思い出すな――なんて感慨にふけったのは最初の二日目までで、六日目ともなると、もう柔らかいベッドが恋しくなる。今夜こそ現れてくれないだろうか。背中や腰を痛めて咄嗟に動けなくなるのだけは避けたい。
彼女を捕まえると決めた翌日から、僕は庭の隅で待ち伏せを始めた。松葉杖じゃどうしたって追い付けないから、僕が確実に捕まえるには待ち伏せる方法しかない。でもその姿が見つかったらすべて台無しだから、木の柵の際、開けた戸の裏側になる位置で身を伏せて待ち構えてる。ここなら戸を開いた時に死角になるから、彼女が庭に入った瞬間に気付かれることはないはずだ。さらに毛布の上に黒いボロ布をかけてあるから、僕のほうを見たとしても暗闇に紛れて気付きにくくもしてある。
そうして毎夜、庭で寝ること六日目になったけど、彼女はまだ現れてくれない。だがこれまでの盗みの頻度から行くと、そろそろ来てもいい頃だ。いや、来てくれないと困る。身体の痛みもそうだけど、明け方まで寝ずに見てるのはかなり体力を奪われる。そのせいで昼間は長い昼寝をするはめになってる。昼夜逆転の生活はもう終わらせたいんだ。
「頼むから、来てほしい……」
願いの言葉を呟いて、僕は毛布の中でその時を待ち続ける。
風が木々を渡る音に虫の声が重なる。そして束の間の静寂……今日も来ないのか。明日も待ち伏せ確定か――心の中で溜息を吐いてた時だった。
「……!」
トタ、と小さな音が聞こえた。明らかに風でも虫でもない、待ち伏せをしてから初めて聞く音。僕は全身を石のように固まらせ、意識を耳だけに集中させた。
それは道のほうから徐々に近付いて来る。トタ、トタ、と緩やかなリズムを刻む。やがて音は僕のすぐ側まで来て、ピタッと止まった。息を殺して気配を探る……多分、柵のすぐ向こう側にいる。自分の心臓の音を聞きながら音の主が動くのを待つ。
ほどなくしてカタッと小さな音が鳴り、キィと戸がきしむ音を上げた。鍵を開けて入って来たみたいだ。まあここの鍵は金具で引っかけるだけのものだから、鍵の役目はほとんど果たしてないけど。
ザッと芝を踏む音が頭の側で聞こえた。庭に入り込んで、今僕の頭の向こうを通ろうとしてる。泥棒は至近距離にいる。こっちは見ずに行ってくれ――指先一つ動かさずに、僕はいないものを装って泥棒が通り過ぎるのを待った。足音は警戒してるのか、ゆっくり、ゆっくり進んで行く。それがある程度離れたところで、僕は毛布の中からそろりと視線を向けた。その先には、フードにローブ姿の人影が、キョロキョロしながら鉢に近付こうとしてた――こっちにはまったく気付いてなさそうだ。まさか庭に寝転んで待ち伏せされてるとは思ってないんだろう。頭は家のほうばかりに向いてる。僕に背中を向けてる姿は、まさに隙と油断だらけ……今しかない。
でも相手は異様に逃げ足が速い。いきなり飛び出して行っても寸前で逃げられてしまうかもしれない。そうなったら僕の足じゃ絶対に追い付けない。だから確実に捕らえる距離までは気付かれないように近付く――毛布からそーっと抜け出した僕は、四つん這いになって芝の上を進む。まるで獲物を狙う獣のように、姿勢を低くして足音を抑えて、未だ見せてる隙だらけの背中に忍び寄る。手を伸ばせばもう届きそうな距離だ……僕は狙いを定めて飛びかかった。
「捕まえたぞ!」
腰にしがみ付く形で、僕は泥棒を捕らえた。その瞬間、キャアッと甲高い声が上がった。
「観念するんだ!」
「やっ、やめて……!」
女性はもがいて僕を引き剥がそうとしてくる。でも僕は全力で女性の腰にしがみ付き続けた。その時、ローブの裾が引っ掛かったのか、女性はあっと慌てた声を出すと、うつ伏せに倒れ込んだ。押さえ付けるにはちょうどいい姿勢になって、僕はすかさず女性の背中と腕を押さえた。
「もう逃げられないぞ」
「ご、ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
「謝るなら、どうして何度も盗みなんかするんだ」
そう言うと、女性は押さえる僕のほうへ顔を振り向かせた。
「お願いだから、殺さないで!」
女神のような美しい顔が見上げてくる。と同時に、頭を覆ってたフードがはらりと落ちて、淡い金色の長い髪があらわになった。肩からしなやかに流れ落ちる髪は金糸のように月明かりに輝いてる。整った顔立ちと相まって思わず見惚れそうになったが、それよりも気になるものに気付いて僕は目を見張った。
「……君は、人間じゃ、ないのか?」
長い髪の間からのぞいてるものを凝視する。それは白い石のピアスをつけた耳。目線を上へずらせば、耳の上部が尖った形をしてた。これは人間にはないものだ。こんな形の耳を持ってる者と言ったら、心当たりはただ一つ――
「……エルフ、なのか?」
聞くと、彼女はコクリと頷いた。
「殺さないで……罪は償います……」
その怯えた様子に、僕は怖がらせないよう努めて言った。
「花を盗んだぐらいで殺したりなんてしないから」
「でも、人間は罪を犯した者をすぐに処刑してしまうって……」
「それは放火とか殺人とか、重い犯罪の場合だよ。花の窃盗じゃ処刑にはならない。せいぜい罰金ぐらいだ」
「だ、だけど、役人に引き渡すつもりでしょう? そんなことされたら、人間じゃない私はどんな処罰を受けるか……」
言われて確かにと思った。軽めの窃盗罪ではあるけど、犯人が異種族のエルフだった場合、対応がどうなるかは正直わからない。エルフ族とあつれきを生まないために軽い処分になる可能性もあるけど、逆に異種族だからと強い態度を示して重くする可能性もなくはないだろう。人間の町でエルフが捕まったなんて話、これまで見たことも聞いたこともないからな。本当にどうなるか予想できない。
「……ところで、エルフの君がどうして人間の町にいるんだ? エルフは基本、自分達の住む地域から出ないって聞いてるけど」
僕はエルフ族について詳しく知ってるほうじゃないけど、普通に暮らしながら得た情報だと、エルフ族は独自の文化の中で生活してて、人間とかの異種族とはあまり関わりを持とうとせず、保守的な営みを送ってるという。だから人間の前に姿を見せることも少なくて、町を訪れるなんて滅多にないことだ。実を言えば、こんな間近でエルフを見て言葉を交わすことも初めてだ。大半の人は見たことすらないんじゃないだろうか。でもだからってまったく交流がないわけでもなく、一部では古くから小規模な交易はやってると聞く。エルフも人間も、お互いの地域への行き来は禁止されてないから、保守的であっても必要なら関わる気持ちは持ってるんだろう。でも、盗みでの関わりは望まないけど……。
「その、いろいろと、訳があって……」
「その訳を聞かせてほしいんだけど」
「話したら、私を役人の元へ連れて行くの……?」
不安と怯えで引きつった顔が僕を見上げてくる。彼女は役人に引き渡されることがとにかく怖いらしい。どんな処分になるかわからないんだ。当然だろう。理由を聞くにはまず、この恐怖を取り除いてやるべきか。
「連れて行かないよ。僕は話を聞きたいだけだから」
「だけど私は、あなたの花を盗み続けて……」
「うん。それは犯罪行為で、許されることじゃない。だけど盗まれたのは花だけだ。僕にとっては大きな被害じゃない。だから君の話次第じゃ、ここで和解してもいいと思ってるんだ」
これに彼女は緑の瞳を大きくして瞬きした。
「私を、許してくれるの……?」
「正直に話してくれれば、そうしたい」
「私に対して、怒ってないの?」
「そりゃ怒った時もあったけど、今はそういう感情はないよ」
むしろ惚れてるなんて言ったら、変な冗談を言う人間だと信じてもらえないかもな。
「わかったわ……それなら、あなたに話すわ。ちゃんと……だから、その手を離してもらってもいい? このままじゃ話はできないから」
彼女は僕が押さえ付けてる背中と腕を揺らして示す。
「ああ、そうだね。……じゃあその前に、逃げないって約束してくれるか? もしそんなことされたら、僕は君のことを警備兵に伝えなきゃならなくなる」
「大丈夫。そんな考えはないわ。逃げたって私が得することなんてないもの」
「その言葉を信じるよ」
僕は彼女から腕を離し、後ろへ下がった。静かに立ち上がった彼女は服やローブに付いた汚れを払い、長い髪を背中へ流す。月明かりの下、そのスラリとした立ち姿に、僕はまた見惚れそうになった。こんなに美しい人がいるなんて未だに信じられない気分だ。
すると僕の視線に気付いた彼女は、ためらいもなくこっちへ歩み寄って来た。
「その足じゃ立ち上がれないでしょう。手を貸すわ」
右足の膝から下を失った僕が膝立ちのまま動けないでいるのに気付いて、彼女はすぐに手を差し伸べてくれる。
「あ、ありがとう。でも松葉杖があれば一人で立ち上がれるから……あそこの毛布の下にあるんだ。取って来てくれるかな」
そう頼むと、彼女はわかったと言って小走りで取りに向かう。その姿が柵の戸に近付いて、僕は一瞬そのまま逃げられることを想像したけど、彼女は松葉杖をつかむと律儀にこっちへ戻って来た。
「はい、どうぞ」
受け取りながら僕は言った。
「逃げる絶好の機会だったのに」
キョトンとした顔を向けるも、すぐに彼女は微笑む。
「あなたを二度も裏切ることなんて、できないわ」
その何気ない笑みに僕は吸い込まれそうになった。彼女は、信じてもいい相手だ――素直にそう思えた。
「それじゃあ、話は家の中で聞くから、付いて来て」
松葉杖をつき、僕は彼女を連れて玄関へ向かった。




