二話
鉢に紙を立てて数日が過ぎてた。その間泥棒は姿を見せてない。僕も普段通りに過ごして、今日も変わらない朝を迎えた。でも部屋の中がいつもより薄暗い。あくびをしながら松葉杖を握って窓に近付き、カーテンを開けてみる。
「……雨か」
どんよりした灰色の空からシトシトと小雨が降ってた。遠くの山へ目をやれば、濃い霧がかかって緑の景色を覆い隠そうとしてる。これはそのうち、大降りになりそうだな――そう思いながら着替えたり、髪をとかしてるうちに、外からはザーザーとうるさい雨音が響いてきた。本格的に降り出したかと横目で雨の様子を見ながら朝食を作り、食べ終える。雨の勢いは変わらない。食器を洗って片付け、窓際に行って庭を眺める。今日は水やりをしなくて済んだなと、雨に打たれる植物達を見てた時、ハッと気付いた。
「……あの紙!」
僕は窓に顔を近付けてアイリムの鉢を凝視した。ここからだと少し遠いけど、土の上にへたり込んだ白っぽい紙が確認できた。完全に濡れてしまってる……あれじゃ書いた文字も滲んで読めなくなってるだろう。また書き直して差し直さないといけないな。
「……雨がやんだらやるか」
そう決めて、僕はいつも通りに部屋でくつろぐ。お茶を飲んだり、気になったところを掃除したり、そうして時間は過ぎて行く。
そして夕食を終えた夜、火を灯したランプを持って二階へ上がる。雨の今日はさすがに月や星の光は届かない。ランプがないと読書はできないだろう。ソファーの横の壁にかけてから、カーテンを半分開けて窓の外の様子を見る。
「……あれ? やんでる?」
雨音が弱くなったのには気付いてたけど、それでも小雨が降ってるものと思ってたが、暗い景色に目を凝らしても降って来る雨粒は見えない。少し前に降りやんだのかもしれない。そのうち星空も見えてくるだろうか――なんて思いながらソファーに腰を下ろした時、ふと思い出した。泥棒に読ませる紙、書かないとな……。
「……明日の朝でいいか」
こんな雨で地面がぬかるんでる日に、泥棒も足跡付けてまで盗みに来ないはずだ。まあ、今日は大丈夫だろう――僕は高をくくってそのまま読書を始めた。でも、そうやって心に隙を作ったタイミングで、予想外のことは起こったりする。
読み始めて一時間が過ぎ、僕は疲れ始めた目を窓の外へ向けた。見ればさっきよりも暗闇が薄れ、雲の合間に星空が見えてた。もう雨雲は消えたみたいだ。月はどうだろうかと窓に顔を近付けた時、眼下に動く影を見つけて僕は動きを止めた。それはちょうど木の柵の戸を開けて庭に入り込むところだった。言葉を失った僕はすぐに自分の甘さに気付き、後悔した。珍しくもない花に執着する泥棒なんだ。雨ごときで盗みを諦めるわけがなかった。靴が泥まみれになっても花が欲しい……そういうやつなんだとなぜ思わなかったのか。
身を低くした影は玄関には近寄らず、迷うことなくアイリムの鉢へ向かう。その足取りは前よりも慣れた感じだ。これで三度目だし、慣れもするか。だがそんな様子を見てると、ジワジワと怒りを覚えた。花を盗まれてもこっちは大した被害もないが、泥棒が自分の庭のように出入りしてる事実には腹が立つ。このまま、また花を盗ませるのも何だか癪だ――僕は本を置き、ソファーから立ち上がると、窓をそっと押し開く。下に見える庭では、背中を向けたローブ姿の泥棒がアイリムの前にしゃがみ込んでる。ちょうど盗もうとしてる――僕は意を決して口を開いた。
「おい! 花をどうする気だ!」
叫んだ瞬間、フードを被った頭が弾かれたようにこっちを見た。顔が見えるかと思ったが、フードが影になってそれは叶わなかった。だが向こうには僕の顔が見えたんだろう。驚いた拍子に軽く尻もちをついた泥棒は、そこから素早く立ち上がると脱兎のごとく逃げ去って行った。かなり速い逃げ足だな。僕じゃ追っても追い付きそうにない。でも声で驚いた様子は愉快だった。まさか住人に見られてるとは思いもしてなかったんだろう。これに懲りて、盗みなんて馬鹿な真似は二度としなければいいんだけど。
一階へ下りた僕は、念のため庭へ出て花の状態を見てみた。前に盗られた箇所からほど近いところに、新たな隙間ができてた。かき分けて奥を探れば、途中で茎が折られた跡がある。しっかり盗られたか。もう少し早く声をかけるべきだった。でもまあ、これが最後になるかもしれないし、大目に見てやろう――この夜は、満足した気分で眠りにつけた。
それからの数日間は、心に何の心配も不安もなく僕は過ごした。自分の声で泥棒を追い払ったこと、ただそれだけで僕は問題が解決したものだと錯覚してた。やっぱり考えが甘いんだろう。それは泥棒のことなんてすっかり頭から抜けた頃に起きた。
この日も僕は変わらない時間を過ごしてた。朝、昼、夕と時間は流れて、食べ慣れた夕食をとる。そして眠くなるまで二階で読書をする――そのつもりで読みかけの本を手に取り、ソファーへ向かう。とその前に閉まったカーテンを開けるために窓に近付き、カーテンを半分開けた――直後、庭に見えた動く影に僕は息を呑んだ。
柵の戸を開け、影は今まさに庭に入って来るところだった。信じられない光景に唖然とした。が同時に、腹の底から怒りが湧き上がった。一度見つかって逃げ出したっていうのに、懲りるどころか反省もなく四度来るとは。前回大目に見た自分が馬鹿だった。この泥棒は面と向かって言わなきゃ自分のしてることがわからないんだろう。それなら僕が懇々と教えてやる。お前は罪を重ねてるんだってことを……!
本を放り出し、僕は怒りの勢いで一階へ下りた。松葉杖をつく音が響いたけど、そんなことより今は泥棒を捕まえて説教することだけしか頭になかった。今回はもう逃がさないぞ。四回も入り込まれて許せるものか。
玄関へ向かい、鍵を外し、僕は力を込めて扉を開いた。
「図々しい泥棒が!」
開けたと同時にそう叫ぶと、鉢の前でしゃがみ込んでた泥棒はギクッと肩を跳ねさせると、わずかにこっちを見ただけですぐに逃げ出そうと駆ける。
「逃がすか!」
僕も慌てて走り出す。両脇を支える松葉杖を懸命に動かして、閃くローブの後ろ姿を追う。でも泥棒はすでに庭を出ようとしてた。本当に逃げ足が速いやつだな。これじゃ距離は縮められそうにない――なんて頭で考えてたせいか、足下への注意が散漫になってたようだ。
「うあっ……!」
松葉杖が地面に転がってた石を踏み付け、それでバランスを崩した僕は前のめりに素っ転んでしまった。バタンッと音がするほど派手に倒れ、頬や顎を芝の地面に打ち付けた。……くそ、こんな時に転ぶなんて。捕まえたかったけど、これじゃあ――僕は痛みと怒りをこらえながら顔を上げて泥棒の姿を捜した。あの足の速さじゃとっくに姿を消してるものと思ってたが……意外にも泥棒はまだ視界の中にいた。木の柵の外側で、倒れたままの僕を気にして立ち止まってた。泥棒のくせに、何でさっさと逃げないのか、なんていう当然の疑問も浮かんだけど、それよりも僕はこっちを見るフードの下の顔に釘付けになった。
月明かりに照らし出された顔は、女性だった。しつこく盗みを働くのはみすぼらしい男だろうと勝手に思い込んでたから、その予想外の正体に僕は面食らった。でも驚いたのはそれだけじゃない。月の光に輝く白い肌、スッと通った鼻筋、花の蕾のような小さな口元、そしてこっちを見つめる宝石をちりばめたような大きな瞳――こんな綺麗な人を見たのは初めてだった。まるで神話の女神を思わせる麗しさ。僕は相手が泥棒だということも忘れて、その美しさにしばし見惚れてしまった。まさに、時が止まるほどの衝撃――
長い間、視線が交わってた感覚だったけど、実際はほんの数秒だったのかもしれない。僕に完全に顔を見られたことを恐れたのか、彼女はすぐに顔をそむけると、ローブをひるがえして風のように逃げ去って行った。その姿を僕は倒れ込んだまま見送った。
静寂の中に取り残されても、僕はまだ動けずにいた。脳裏に刻まれた美しい顔が、全身を魔法にかけたみたいに痺れさせる。心臓はバクバク鳴って、思考はグラグラしてまともにできない。まるで病気にでもかかったような感覚……でもわかってる。これは病気なんかじゃない。これは、これは……おそらく、一目惚れっていうやつに違いない。




