婚約の撤回は承りますが
「マルケータ、君との婚約は白紙撤回とさせて頂きたい」
知らないお嬢さんを腕にくっつけたまま、見知った青年がビシッと背筋を伸ばして、妹に何か重要そうなことをのたまっている。
妹の隣で巻き込まれたエドムントは、ドン引きしつつそれを眺めた。
◇
エドムントは実家のスラニナ商会でまじめに働くニ十歳の青年だ。家族は両親と父方祖父母、それと二歳年下の妹である。両親が経営している商会はそれなりに大きく、ありがたくも金銭的な不安はない状態で育った。
自分のことを小心者だと思っているエドムントだが、困ったことにスラニナ商会の跡取り候補とされていて、現在は王城の城下にある支店の責任者を任されている。
というか、大きな支店の責任者をやるのも後継者になるのも、重責すぎてストレスが半端ない。正直向いていないのだが、両親の子供は二人しかいないし、妹のマルケータはやりたくないって言うし、古今東西お兄ちゃんは妹に甘いものと決まっているので仕方がない。両親はちゃんとした商売人だから、いざとなれば商会の幹部連中の若めのあたりから優秀な人を選んで継がせる、ぐらいのことはするという信頼はあって、それだけが救いだ。
そんな感じでエドムントは日々ストレスと戦っているのに、今日は妹と連れ立って王宮に来ており、普段以上に緊張を強いられている。
なんと、王家主催の夏の終わりのガーデンパーティーに招待されたのだ。
エドムントが王家から招待を頂いた理由は正確にはわからないが、九割がた妹の功績が原因だと思う。結婚どころか婚約者もいないエドムントにはパートナーの宛もない。念のためマルケータの予定を聞いてみたところ、この日は空いているというので同伴者として連れてきた。
王家の人が会いたかったのは、特に取り柄のないエドムントではなくマルケータのほうだろう。妹も商会の仕事を手伝っていて、半年後に嫁いだ後もある程度かかわりを持つという話になっている。だから、ここで妹がいろいろな業界の要人と顔つなぎをしておくのは、今後のためにもとても意義のあることだ。
手元に招待状が届いてすぐにマルケータの同伴をお願いしたエドムントだが、最終的に単独参加になるかもしれないとは思っていた。なぜなら、昔から王宮のパーティーには可能な限り夫婦か、婚約者同士で参加するという不文律があって、婚約者がいるなら婚約者を伴うのが常識的な振るまいとされるからだ。
妹は、婚約者であるミラン・フランタが参加するのなら、そちらの同伴者として参加するほうが望ましい。しかし何の打診もないままだったので、そのまま兄妹での参加となった。
このパーティーは、王家主催のわりにはカジュアルな雰囲気のものだ。王族と個人的に親しい人や、王族が注目している比較的若い人が、身分をあまり問わずに招待されている。それでも、貴族ではない上に、王城の出入り商人ですらないエドムントが招待を頂くなど、普通なら想像もつかないぐらいには光栄で特別なことである。
一方で、妹の婚約者の家であるフランタ家は、領地を持つ貴族とはいえ、王家と近しいタイプではないようだ。古くから続く家だというのはエドムントでも知っているが、それ以外には目立つ何かがあるわけではない、と思う。
そんな感じなので、ミラン・フランタには招待がなかったのだろうと考えていた。
違った。
いるじゃん。
「さすがの私も、ミラン様が家族でも婚約者でもない女性を伴って参加なさっているとは思いませんでした」
予想外です、みたいな言い方をしているが、ぜんぜん予想外じゃなかったんだろうなとわかる顔でマルケータがほほ笑む。視線の先には彼女の婚約者と、その腕にくっついている若い令嬢がいる。
妹は心底相手をバカにしている時にこういう笑い方をする。怖い。
「招待状は私宛で頂いたものだったからな。必ず婚約者を誘わねばならないという法もないだろう?」
「確かにそんな法律はありませんね。お陰で兄を一人で参加させずに済みましたから、それはそれで構わないのですけども」
「ねえちょっと待って、兄を一人でおつかいもできないような幼児扱いするのやめてくれる?」
パートナーのいない一人参加だって別に問題はないのだ。実際に貴族以外の招待客には単身で参加している人も結構いる。ただ、エドムントは結婚適齢期の独身男性なので、一人で参加だと「相手がいないんだな」という感じが際立ってしまって、ちょっと悲しい気持ちになるだけだ。
「それよりも、フランタ様。これはどういうことなのか、事情をお伺いしても構いませんか? この場で貴方様が本来伴うべきは私の妹であると私は認識しているのですが、そちらのご令嬢はどういった関係の方でしょう。ご家族の方でいらっしゃいますか?」
「そうだ。家族を伴うのは問題ないだろう? ルジェナは、これから私と家族となる予定の女性だ」
めちゃめちゃドヤ顔してるけど、今現在家族でないなら普通に問題あるだろ、とエドムントが脳内ツッコミを入れている間に、話はさらにダメなほうに行ってしまう。
「まあ。いずれご家族になるということは、フランタ子爵様のご養子に?」
「私の妻となる予定だ」
「あら、そうなのです? 我が国は夫も妻も一人だけしか持てない制度になっていたと思いますが」
「もちろんそうだ。私が妻と望むのはこのルジェナだけだ」
うふふ、と笑う妹はなんだか楽しげだ。絶対わかってて泳がせていたんだと思う。本当に怖い。
ミラン君には、妹の手のひらの上だって早く気付いてほしいんだけど、そういう雰囲気がぜんぜんない。彼もそうだし、その腕にくっついたままのルジェナっていうご令嬢も、二人そろってとっても得意気だ。違う意味で怖い。
エドムントは自分を小心者だと思っているし、小心ゆえに常識人だ。だからこの展開には心底ドン引きしている。なんで特別にお招きいただいた王宮のパーティーでこんなこと始めるんだよ家でやれよ。
そんな兄の心を置き去りにしたまま、妹の婚約は撤回を宣言されたのだった。
◇
「そうですか。私としてもミラン様との婚約の継続は難しいという認識でおりますので、最終的に破談とすることに異存はありません」
「そうか、わかってくれるか」
「そちらのお嬢様と将来を誓って、もう引き返せない関係になられたことは存じておりましたから、近日中にこちらからご連絡させて頂く予定でした」
手間が省けたとも言えますね、とにっこり笑うマルケータに、ミラン君の表情が凍り付いてしまった。
一旦安心させてからそういう暴露をするの、お兄ちゃんはちょっとどうかと思っているが、余計な口は出さないでおく。マルケータはこういう時の話の持って行き方を計算してるタイプだから、邪魔しないほうがいいだろうし何より妹おっかないし。
「……いつから知っていたんだ」
「フランタ子爵様が、そちらのお嬢様のお家の傘下の商会からの融資を受けるというお話は、あまり間を置かずに出回っておりましたから。いつからというなら、そこからですね」
融資の話はエドムントも知っていた。
妹の婚約は、スラニナ家からは資金を、フランタ家からは貴族の姻戚であるという立場を相互に提供するという目的で成されたものだ。子爵家の嫡男で、整った顔にすらっとした立ち姿のミラン君は、貴族の間でも結構モテる存在のようだ。相手を選べる立場だと思うが、それでも市井の商会の娘との婚姻を整えるほどに、家の資金繰りに難があるのだろう。マルケータのほうも、結婚相手を自力で探すのは面倒だし、既婚者という立場が向こうから来るならむしろ助かる、と本人が言っていたぐらいには互いにドライな関係だ。
そんな感じで、フランタ家の財政に余裕がないということは割と知られた話である。貴族が家の事業で複数の商会から融資を受けるのは普通にあることではあるが、今日のこの感じだと、どうも先方はスラニナ商会との話をご破算にするほうに舵を切ったらしい。
ミラン君もその腕にくっついたままのお嬢さんも、自分たちの関係を最初から知っていたと言うマルケータを、ヤバいものを見る目で見ている。もしかしてがっちり全部隠していたつもりなんだろうか。
「……あの。一応申し上げておきますけど、融資の話は商人の間で普通に話題に上がっていましたよ。私はフランタ様の個人的な人間関係までは確認していませんけど、妹も家の商会経由で本格的に調べたりはしていないはずです。こういうことを本当にお隠しになりたいのなら、お出でになる先すべての使用人や出入りの者にも気を配ることをお勧めします」
貴族の人達、特に古き良き伝統を保ってるタイプの人達ほど、貴族以外の周囲の人の目を失念しがちで、そこから話が漏れやすい。自分の家の使用人や出入り業者には気を配る人でも、外出先の家や店では抜けていたりする。
身分差が制度としてあって、そういう文化ができている以上仕方がないんだろうけど、背景にいるモブにだって目も耳も口もあるんだから、本気で秘密にしたいならもうちょっと気を使うべきだった、とエドムントは思ってしまう。
あとたぶん、フランタ家はこの辺の話を隠す気はなかったと思われる。ミラン君とお嬢さんの二人だけが秘密のつもりでいたのでは。
「兄様、お話を戻してもいいかしら」
「アッハイ、スイマセン、戻してください」
「それでミラン様、婚約の撤回ですけども。撤回に伴う被害額を算出しまして、書面を近々にお送りするように致しますので、おうちの方と内容を確認してなるべくお早めに回答をお願い致します」
「――いや、待て。被害額……?」
「ああ、『被害』では表現が不正確でしたね。『損害』です、失礼致しました」
「同じことだ。婚約を撤回したところで、君になにか金銭被害が及ぶわけではないだろう?」
「ありますよ。ミラン様は子爵家のご令息で、私は商家の娘ですから、これまで学んできた内容が異なります。子爵様の姻戚となるなら、そのための学びが必要です。それ以外の準備もありましたから、時間を捻出するために商会の仕事を控えましたので、その分売り上げが下がっております。ミラン様との婚約が成ってからこの半年ほど、私は元々の仕事時間のうちの大半を嫁ぐための準備に充てておりまして、契約撤回となりますとそれが全て無駄になります。十分な損害です」
ミラン君は押し黙ってしまった。
詳しいことはわからなくても、マルケータがうちの商会で重要な仕事をしている、ということは認識していたようだ。だからこそ、結婚後も関わり続ける話になっていた。
「そ、そんなお金の話ばっかりする冷たい性格だから、ミランに捨てられるのよ!」
ルジェナとかいうお嬢さんが噛みついてくる。感情的なわりに声量は抑え気味なので、このやりとりが醜聞だという自覚はあるらしい。とっくに視線は集めていて、手遅れではあるけれど。
彼女は頑なにミラン君の腕にぶら下がったままで、絡まって取れない知恵の輪のようだ。
「それは否定できませんね」
「難しいことを言ってごまかしたって無駄よ。貴女はミランから愛されていないのだから、大人しく負けを認めなさいよ!」
「ふふ、そうですね。ミラン様からの愛を競う争いでしたら、私は不戦敗です。最初から負けておりますよ」
「……潔いじゃない」
拍子抜けしたらしいルジェナ嬢だが、一方のミラン君はかなり渋い顔になっている。なんだかんだで半年以上交流があったわけで、彼はマルケータの性格をきちんと把握しているのだろう。最初から愛し愛されなんて土俵には乗っていないし、不義理を感情論でごまかされる素振りは欠片もないことを、反応を見てきちんと読み取ったようだ。
そこまでマルケータのことを理解できるのに、なんでこんな悪手に出ちゃったんだろうなあ。
ミラン君は自分がハニートラップにひっかかったことには、そろそろ気付いていると思う。刺客とされたルジェナ嬢本人に自覚が一切なさげなのが救いと言えなくもないが、これから大変そうだ。
ハニトラは怖いし妹も怖い。世の中怖いことばっかりだな気を付けよう、とエドムントは他人事の顔で考えた。なんならミラン君にはちょっと同情しはじめている。
「ですが、ミラン様と私の間にあるのは家同士の契約関係です。法的に有効な書面も挟んでいますから、撤回となるのでしたら、それ相応の手続きと賠償の話が必要なのですよ。貴族と市井の者の間の取り決めでも、家や商会同士の契約の話は特に、互いを対等にきちんと取り扱うべき、というのが国の方針だそうですし」
「……それは、そうだ。そのぐらいは私も学んでいる。婚約の撤回は父も了承していて、手続き面では問題ないと思う。賠償の話は、その、すまないが、私の一存では回答できない。私個人宛だけでなく、家のほうにも書面で回して貰えないだろうか」
「承知致しました。書面がお手元に届くまでに数日かかるかと思いますので、先にミラン様から軽くお話を通しておいて頂けると助かります」
「わかった」
見た目は若い男女の会話だが、内容はビジネスに全振りだ。商談に来たおっさん同士の会話の中でも、一番固いやつである。
ぽかんとしているルジェナ嬢は、いいとこのお嬢さんとしてごく普通に育った人なんだろう。前途多難そうなミラン君の、精神的な癒しになってくれることを祈ろう。
「ミラン様、もう一点宜しいですか。スラニナ商会からフランタ子爵様へ既に行った資金提供ですが、こちらは結婚準備金名目で額もさほど大きくありませんので、ミラン様から私宛に頂いた贈り物と相殺ということでも構いませんでしょうか。消えものはもう手元に残っておりませんし、ありがたく使わせて頂いているものもございます。かかった金額を出して頂くにも、細かすぎて大変ではないかと思いまして」
「……こちらが貰っている金額のほうが大きいと思う。家の財政のことを考えればありがたい話だが、それで構わないのか」
「商会の了承は既に得ておりまして、相殺扱いにするのでも清算でも、どちらでもよいと言われております」
実のところ、妹とミラン君は、最初のうちは結構ちゃんと婚約者をやっていたのだ。ミラン君からはそれなりに頻繁にお花が贈られてきたり、お菓子の差し入れがあったりしたし、妹はお返しにポプリやハンカチを贈ったりもしていた。ルジェナ嬢の存在がちらつきはじめた後も、頻度は下がりつつも交流はあって、それがあきらかにおざなりになったのはごく最近だとエドムントは聞いている。
つまりごく最近に転機があって、ミラン君はルジェナ嬢に溺れちゃったんだろうな。
「君への贈り物の清算をする気は私にはない。ドレスやアクセサリーの類いもそのまま好きに扱ってくれて構わない。準備金もできれば返したいが、やはり私の一存では回答ができない。後で父に確認するが、こちらも書面に含めてくれないか」
「承りました」
「直接回答ができないことが多くてすまない。しかし、こういう点について君は本当に優秀だな」
「お褒め頂き光栄ですけれど、こういった契約時の確認や書面の準備は、全て兄に叩き込まれたものなのですよ」
いきなり話を振られたせいで、エドムントは挙動不審になってしまった。妹はお兄ちゃんの他人事の顔が気に食わなかったのかもしれないけれど、実際エドムント的にはだいぶ他人事なので仕方がないと思う。
ミラン君は意外そうな顔でこちらを見た後、目線を下げた。
「エドムント殿にも迷惑を掛ける。そちらの商会としても、貴族向けの戦略が練り直しになるのだろうか」
「そうですね、ある程度はそうなります。ですが、幸いにして今日ここで、いいご縁を既にいくつか頂いていますので、影響はほぼ無視できる程度に軽微ではないかと楽観しておりますよ」
「…………。……そうか。それならばよかった」
ここは王宮の庭であり、王家主催のパーティーが開催中なのだ。若者が多いとはいえ、貴族の皆さんもたくさん集っている。国内でも第一級の社交場であって、個人的で面倒な立ち話をするための場ではない。本来ならミラン君の不埒な行いの後始末なんかやってる場合ではないのだ。
知らないお嬢さんを張り付けたミラン君に遭遇するまでの間にも、いろいろとお声掛けは貰っているし、具体的な話になりそうな件もいくつかある。その中には、高位の有力貴族の家の人からのお話もある。
スラニナ商会としては大変ありがたい状況だが、それを知らされるフランタ家的には結構な屈辱だと思う。お前んちは取るに足らないと言われたも同然だからだ。残念ながらただの事実だし、もちろんわかって言っている。
エドムントはミラン・フランタに対してちょっと同情しているが、それ以上に怒っているので、顔を立てる気などさらさらない。同情する点を差し引いても、直近のミラン君のマルケータに対する行いはだいたい全部酷いのだから。
「我が家のことは我が家で対応致しますので、ミラン様にご心配頂く必要はありません。今決めねばならないことが他にないようでしたら、せっかくご招待頂いた王宮のパーティーで長々話すようなことでもありませんし、後は書面と代理人でのやり取りとしても構いませんでしょうか」
「……手間をかけるが、それで頼む」
マルケータがミラン君の非常識をそれとなく示して、きっちり追い打ちをかけている。ミラン君はすっかりおとなしくなってしまったし、未だにくっついたままのルジェナ嬢もなんだか神妙な顔をしている。
本当にね、今日の君たちは全部が全部非常識なんですよ。一応気にはしているようだけど、もっと前に気付いておいてほしかったし、それはそれとして損害賠償はきっちりむしり取るので覚悟してほしい。
契約の文言を考えたり、法やルールの運用上の抜け穴を突くのがエドムントの数少ない特技なのだ。法や良識に則って可能な限りいっておきたい。
「それではまた、機会がありましたら。今度はもっと穏やかで建設的な話をさせて頂ければと思います」
「……そうだな、その、マルケータ。……すまなかった」
妹の元婚約者は、妹に真っすぐ向かって頭を下げた後、パートナーを腕にくっつけたまま、踵を返してその場を去った。
見送るマルケータはいつもと同じ、内心を読ませない笑みを浮かべたままである。兄として何となく勘付くところがあるエドムントは、自分の目線の位置にある妹の頭をそっと撫でた。
「帰ったら支店の皆も呼んで、今日のお疲れ様会をしような」
「そうね、楽しそうだしそうしましょうか」
妹はふにゃりと笑った。
◇
兄は妹のことを天才だと言うけれど、自分の功績は兄ありきだとマルケータは思っている。
スラニナ商会は、金属製品の加工・販売を主に行っている。金属鉱山を持っていた高祖父が、より高く売るためにと、鉱石の採掘だけでなく精錬をはじめたのが発端だ。製品の製造から販売まで自力で手掛けるようになった今でも、本店は鉱山の麓にあって、兄妹も幼い頃はそちらで育った。
素質があることがわかってすぐに、両親が魔術師の家庭教師をつけてくれた。だから、マルケータは幼い頃から魔術を使うことができた。家業のおかげで、金属製品なら何でも入手しやすい環境だったので、そういうものに魔術で機能を乗せる遊びを、兄と一緒にやっていた。
兄は魔術を扱う素質は全くないが、昔からいろいろと不思議なことを知っている人だった。なんでも、生まれる前の、別の世界で生きていた別の人だった頃の記憶があるという。
その世界では、魔術が存在しない代わりに他の技術が発達していたそうだ。今の魔術で実現していないことでも、兄の知る世界では別の方法で実現していた、なんてこともあるそうで、それなら魔術でも実現できるんじゃないか、というのが兄の推論だ。
そんな兄がアイデアを出して、それをマルケータが魔術で再現する。兄が知りたいと言うので、魔術理論は兄妹一緒に勉強した。思った通りにならなくても、時に周囲を巻き込んで、大騒ぎしながら手直ししていくのが楽しくて。兄妹揃ってずいぶんとのめり込んだものだ。
二人の遊びで作られたものの精度がどんどん上がった結果、スラニナ商会には魔術道具の部門ができてしまった。
別の世界で生きていたかつての兄は、地方の領主館の文官のような仕事をしていたそうだ。そのせいか、絶対に誤解を許さない言い回しだの、必要な情報をきっちり詰め込んだ書面だのを作るのがものすごく上手いし、周囲への根回しも上手い。そして権利にうるさい。
「マルケータの技術には価値がある、安売りしちゃだめだ」
「やりかたを誰かに教える時にはちゃんと条件を決めて守らせなさい」
「約束はちゃんと書き出して、同じものを二部作って、お互いに内容を確認しましたってサインをしよう」
「めんどくさいけど、自由と時間と技術を守るには大事なことだよ」
こういうことを、兄は子供の頃からしつこく言っていた。マルケータが好き勝手に魔術道具を作る生活を守るためだと、今ならわかる。
兄が「あったら便利」と言っていたものを作ることができて、仕組みを知りたいという引き合いがたくさん来た時も、この兄の慎重さと準備の良さにずいぶん助けられた。
だから、王家からのパーティーの招待状の宛先が兄だったのを見たとき、この国の偉い人たちが兄を正しく評価しているような気がして、とても嬉しかったのだ。
マルケータは魔術を乗せた道具を作るのが得意だ。けれど、実際には一人だけででできることなんてほとんどない。家族や商会の仲間たちから意見やアイデアを貰ってはじめて、売り物になるようなものができる。なので、できればいろんな人の意見がほしい。
貴族の令息として育ったミランからは、今まで身の回りになかった視点が貰えるかもと期待していた。
それが叶わなくなってしまったことについては、少しさみしいと思う。
◇
うちの妹は天才。
常々それを主張してきたが、それがついに王族にまで認められたので、最近のエドムントはずっとご機嫌である。
あの王宮のパーティーで、ミラン・フランタが妹に婚約の撤回を突きつけて来たやり取りは、やはり目立っていたらしい。彼らが去った後はたくさんの人に囲まれて、好意的なお声掛けをいくつも頂いたのだが、その中にこの国の王女殿下がいた。
エドムント達が生まれる前のこの世界は、方々で長く戦争が続いていたという。そのため、今でも魔術師と言えば戦闘や軍事方面の印象のほうが強い。ただ、昨今は国際情勢が落ち着いた状態が続いているので、それ以外の魔術の研究も進めようとなったらしく、その旗印が王女殿下だ。
国王陛下直属の魔術師団の中に研究部署を立ち上げた王女殿下は、マルケータが作った魔術道具に強い関心を持たれていたようだ。特に、魔術を動かし続けなくても情報を保存できる媒体は画期的ですごいと言われた。エドムントがひっそりと「電磁的記録媒体ならぬ魔術的記録媒体」と言っているものである。商会での商品名は「魔術メモリ」で、読み取り機と一緒に売っている。
魔術を使って情報を0と1の信号に置き換えて圧縮する方法自体は既にあったが、まとわせた魔術を止めてしまうと記録が飛んでしまうのだ。個人で使うには不便すぎる、何とかならないかという話をして、そこからあれよと言う間にマルケータが仕組みを確立してしまった。妹が天才すぎる。
魔術メモリは売り出してすぐに一部で話題になったのだが、王城の技術者たちまで食いついているとは思わなかった。なんでも、結界魔術と組み合わせて出入りの記録や個人認証のようなことをやっているらしく、それなら確かにバックアップ用の記憶媒体は欲しいことだろう。
魔術師団の研究部署はまだ立ち上がったばかりで、人が足りない。母体が軍事組織であるので、そこに直接かかわらない分野の技術者は特に少ない。そこで、確かな技術を持っているとして、王女殿下が直接マルケータを誘ってくださったのだ。
目の前で繰り広げられるスカウトの会話に、エドムントは後ろで腕を組みながら頷く仕草をしそうになったがなんとか耐えた。王女殿下に相対している状態でそれは、さすがに不敬と言われてしまう。
諸々相談した結果、マルケータは非常勤の顧問として雇われた。数日に一度、王城の敷地内にある研究室に出勤しているのだが、やっていることは半分ぐらい魔術に関する雑談だと言っていた。王女殿下ご自身も研究室に入り浸っているのだそうで、若い女性二人はすっかり仲良くなってしまい、今度一緒にうちの商会の本店まで金属加工品を見に行く、みたいな話になっている。
そして、案内役はエドムントになりそうな気配がある。実はエドムントも魔術師団に招かれていて、主に研究結果の管理方法や必要な法整備について相談を受けており、たまに研究室にも顔を出しているのだ。
まだ人数も少ないせいか、所属する研究者たちの雰囲気はとても良い。楽しそうに魔術談義に花を咲かせるマルケータを見ていると、ミラン・フランタとの婚約を取りやめたのは大正解だったという思いが強くなる。あのままフランタ家に嫁いでいたら、少なくとも研究室で自由に振る舞う立場を得ることは難しかっただろう。
こうなって結果的には良かったけれど、妹への一方的で無礼な振る舞いを許す気はエドムントにはない。
ミラン君とフランタ家に対しては、もちろんぎっちり賠償を請求した。
魔術メモリや他の売れ筋商品が改良された場合の売り上げ見込みを設定して、それにマルケータが結婚準備で費やした時間を掛けて、と、それっぽく数字を並べた書面を用意して先方に突きつけたのだ。
元の数字の根拠が結構いい加減なので、冷静に見ればツッコミが入る書類だ。それなりに吹っ掛けた金額を書いていたのだが、先方は請求額をそのまま呑んだ。貴族のプライドかもしれない。
減額の要望はなかったが、支払いの分割と猶予は求められた。フランタ家の財政から言って一括は無理だと思うので分割には応じたが、支払い終えるのに三年以上かかるなら利子を取る、という話も呑ませた。こちらに非はないので、取りっぱぐれない程度に強気で進める、というのがエドムントの方針だ。どうしようもなければルジェナ嬢のご実家から借りればいい。
もちろん、ルジェナ嬢にも賠償請求を書面で送っている。あのパーティーではルジェナ嬢へ向けての話はしなかったが、請求しないとも言っていない。こちらはスラニナ商会からの請求という形で、婚約関係を壊された結果、それを前提にした長期スパンの戦略の立て直しを余儀なくされた、という名目にしてある。
実際には子爵家の姻戚どころか、王族と魔術師団上層部が個人的に懇意にしているという、この国の市井の商会としては最強に近い立場を手に入れつつあるのだが、婚約者がいる相手だとわかっていて堂々と寝取ってくれたペナルティは受けるべきである。
突然の高額請求に、ルジェナ嬢の親からは抗議が来たが、こちらは純粋な被害者だ。というか、この件はルジェナ嬢の家の関係者が主犯であることがもうわかっている。泥臭い田舎の商会の伸長が気にくわない、というのが発端だったようなので、手加減する理由も一切ない。さっさと払えばそれでよし、ごねるなら調停所に持ち込んで正々堂々やりあおうぜ、証拠もきっちり開示してやんよ! という内容を、エドムント渾身の、隙のないお役所文法で書き上げたお手紙を送ったところ、その後はずいぶん大人しくなってしまった。先方の資産を調べた限りでは普通に払える額のはずなので、すみやかなお支払いを促しているところである。
そんな感じで、近々結構な額のあぶく銭が我が家の懐に入る予定だ。
一番迷惑を被ったはずのマルケータが「手元に残るものに使いたくない」というので、相談の結果、彼女の名義で民間向けの魔術の研究に資金を出す財団でも作ろうか、という話になっている。この国には魔術師の養成所が国営であるのだが、内容は戦闘職向けに寄っている。養成所とは別に学校がいるだろうという話は王女殿下達に任せるとして、研究への投資なら、効果が望めて手っ取り早いし、組織の管理は別に人を立てれば済む。魔術の天才な妹の名前を乗せるのにふさわしい事業でとてもいいと思う。
というか、エドムントは妹が幸せならそれでいいのである。
我ながらシスコンめいているけれど、それが先に生まれた者の使命なのだ。
商会の跡継ぎ候補にされている自分はともかく、王族の後ろ盾すら得たマルケータの先は自由だ。商会に残ってもいいし、研究者として独立してもいいが、できれば善い伴侶を得て私生活も充実して欲しいとエドムントは願っている。
ミラン・フランタの件があったばかりだし、なにより今すごく楽しそうに過ごしているから、もう少し先の話だとは思うけども。
◇
王宮でのパーティーから三か月後、実は筋肉フェチだったというマルケータが、王城で知り合ったというムキムキで偉丈夫な彼氏を家に連れてきてひと騒動起こることを、エドムントはまだ知らない。