InstrumentalⅢ
音楽室からピアノを弾く音が流れてくる。優しさと愛しさを表わし出す綺麗な音色は、他の誰でもない唯ひとりの人物にのみ向けられていた。
曲を奏で続けながら、音羽奏太郎は譜面台からピアノに近い席に座る彼へと視線を移していく。
頬杖を突いて、安らいだ表情で気持ち良さそうにまどろむ姿があった。奏太郎にしか見せることのない無防備な様子である。伊藤克仁の好意を態度で示す無意識の行動に、自然と口許が綻んで心に音で表わしようのない深い想いが広がってゆく。
男同士にも関わらず、彼らは恋愛感情を抱いて互いを求め合っていた。性格が真逆にあり取り巻く環境が異なっていようと、二人は些細な事柄から心を触れ合わせて繋がりを強めている。
克仁と奏太郎の出会いは、偶然にして必然だったのかも知れない。一学年の秋に小さな交流を持ち始め、二学年の冬に想いを確かめ合い恋人同士として肩を並べていった。三学年となり、卒業式まであと一ヶ月となった現在も、想いは揺るぎなく傍に在り続けている。
彼らの恋人同士としての歩みは、時間をかけるようにゆったりとした足並みだ。口付け合いや抱き締め合う行為は時折あるものの、次の段階へ踏み込むことはせずに清らかな関係を保ち続けていた。
以前は男同士に関して無知であったことが理由となっていたが、知識を得た今となっては阻むものなど何もない。しかし、彼らは身体よりも先に心の繋がりを深める選択肢を選んだ。
とは言え、相手に対する欲情を募らせていることも否めない。現在、密かに色欲の情を強めているのは珍しくも奏太郎の方である。
あと一ヶ月で卒業――それが奏太郎の心境に変化をもたらしたのだ。
二人の進路は就職と進学とで見事にわかれ、卒業後はそれぞれ別の道を歩むことになる。恐らく新生活に慣れるまでは顔を合わせることさえままならず、高校生活と比べて会う機会は極端に減ってしまうだろう。
尚かつ、明日から卒業生は自由登校となる。
就職活動で漸く内定を貰った克仁は、時期に合わせて高校生活最後の短期アルバイトと車の免許を取得するための合宿に追われる日々だ。一方で音楽大学の進学が決まった奏太郎は、卒業式のピアノ演奏と音楽教室の行事に向けての練習で忙しくなり出す。
ゆえに二人の時間はことごとく合わず、卒業式までいつ会えるのかさえ判らない状況となっていた。
仕方のないことだと納得しているが、会うことで浄化される欲望が会えない日々によって膨れ上がる一方に違いない。溜まりに溜まったものが暴走してしまう恐れがあり、奏太郎は己を抑制できるのか少なからず懸念を抱いていた。
人間だからこそ当たり前の感情なのだが、奏太郎としては克仁を傷つけることなど絶対にしたくはない。
いつの間にか克仁のあどけない寝顔を見入っていたことに気が付いて、奏太郎は微苦笑と共に視線を譜面台へ戻していった。鍵盤に置いたままの指も流れる動作で弾き出していく。
克仁に出会ったことで奏太郎の音楽性は変わった。良し悪しのどちらに流れたのか判らないが、これまで以上の表現力が伴われたことで自分流の音楽を見出している。無個性から個性的なものまで幅が広がり、技術的な面で未熟さのある彼にとって最も有力な手段と成り得ていた。
奏太郎は克仁と出会った当時のことを思い返していく。
当時――彼は、自分の音楽に対する表現力の壁に突き当たっていた。技術的な面は努力することによって補えるが、感性は如何に経験を積み重ねたところで簡単に得られるものではない。
表に出すことは一切しないが、心の底では余裕がなく焦燥感に駆られていた。そして幅の狭い表現力の代わりに、ひたすら技術力のみを追い続け伸ばそうと試みていた時期がある。
奏太郎が克仁と出会ったのは、正にその真っ只中だ。泣いていたことにも驚いたが、あの時彼が口にした涙の理由にはっと気付かされた。
――お前の曲を聴いて、気付いたら泣いてたんだよ。
何がどうとは言わない、たったそれだけの感想だ。しかし、克仁の言葉は少しだけ自暴自棄になっていた心にするりと入り込んできた。
単純明快にあるがままを口にする克仁に対して、奏太郎は言いようのない喜びを感じずにはいられない。同時に、自分に欠けているものは率直さなのだろうと思い知らされた。
感情を率直に伝えられないことは音楽にとどまらず、普段の奏太郎からも見受けられる事柄だ。彼は自分の考えや思いを一先ず置いて、相手を優先させることで常に一歩引いたところに立っていた。
口が利けないという不利の条件を負っていることに悲観はなかったが、周囲の反応に対して多少なりとも複雑な感情を抱いていたことは否めない。相手が気遣わないようにと、無意識のうちに一歩引いた位置を選んでいたのだ。
克仁の反応は、これまでに出会ったことのない新鮮なものだった。だからなのか、彼の存在は心の中に印象深く残っている。
もう一度会ってみたいという思いはあったが、進んで会いに行こうとまでは至らなかった。また、彼がどんな人物なのか気になっていたものの、克仁の何処か寂しげで皮肉めいた笑みが浮かび上がり、周りに訊くこともしなかった。当たり前のことだが、相手を知る方法は周りではなく本人と対面した方が早い。客観的に見ることも大切だが、まずは主観で捉えた方が余計な先入観は生まれない。
縁があれば、また会える。別段構えることなく一ヶ月が経過したところで、奏太郎は修羅場となっている場面で再び彼を目にすることとなった。
川沿いの土手道は、奏太郎にとって入学当初からの通学路だ。普段はもう少し早めに下校するのだが、ここ一ヶ月ほどは遅い時間帯となっている。言うまでもなく、ピアノを弾くために音楽室へ居残っているのだ。無論、克仁との再会を期待する思いも僅かにあった。
遅めの下校が幸いとなったが、奏太郎にとって克仁の傷ついた姿は災いである。他校生と乱闘する様に痛ましさを覚え、思考を巡らすよりも早く身体が勝手に動き駆け寄っていた。
暴力的な場面に縁がなく場慣れしているわけではないが、奏太郎の中に怯える気持ちは不思議とない。何より克仁を何とか連れ出したい思いの方が勝っていた。
実のところ、ナイフが出てきた際は身を竦ませる思いであった。そして咄嗟に動いたことで、ナイフの矛先を難なく防げた己に対して驚きもした。ピアノばかり弾いていたが、奏太郎の運動神経は鈍っていないようだ。
少年たちは明らかに奏太郎を侮っていた。それに対してなんの感情も抱かず、彼は一同の隙を突いて克仁を連れ出すことに成功した。
克仁を家へ連れて行ったのは、単に怪我の手当てをするためである。帰りたいと言われれば、素直に応じる気もあった。しかしハンカチを大切に持っていてくれた上にぶっきらぼうながらも律儀に返されてしまうと、彼の帰りたいという要望に添えることはどうしても出来ない。
何故か放っておけないという感情が、奏太郎の中でふつふつと湧き上がった。それが意識的に克仁を気にかける切っ掛けとなったに違いない。
「……んっ……」
克仁が身じろいだような気配を感じ、奏太郎は鍵盤から指を離して視線を向けていく。すると、彼の目蓋がゆっくりと開かれ、数度の瞬きののち奏太郎の姿を捉えた。
「わりぃ、俺いつの間にか寝てたみてぇだ」
気恥ずかしさと申し訳なさからか、克仁の表情が困ったようなものになる。
奏太郎の口許に自然と笑みが浮かんだ。『気にしなくていい』とでも言うようにゆっくりと首を左右に振る。
「いや、けどよ」
『いいんだ。俺の曲を聴いて、安心してくれているんだなと思っているから』
嬉しそうに手話で伝えていくと、克仁は押し黙りながら頬をほんのりと赤らめていった。
『どうかした?』
「別に。それより、俺どんくらい寝てたんだ?」
『三十分くらいだと思う。明日の準備で疲れていた?』
「んー……疲れてはいねぇけど、マニュアルだから二週間以上はあっちだし、どっちかっつーと緊張してる。だから音羽の曲を聴いて安心したっての、間違ってねぇよ」
『そうか』と相槌を打ちながら、奏太郎は微笑を絶やさない。克仁が肯定してくれたことに、言い知れない喜びが込み上げてくる。反面、心の中にある寂しさは拭えない。
『お互い、これから忙しくなるね』
奏太郎の手話に何を思ったのか、克仁がまじまじと見てくる。
「もしかして、寂しかったりして?」
頬杖を突きながら悪戯っぽく笑われ、奏太郎の笑みが苦いものへと変わっていった。
『さすがに、今回は寂しく思うよ。これから、いつ会えるのかも判らないから』
「そっか、同じだな。実は俺も寂しいと思ってたんだ」
克仁から返された言葉に、奏太郎は彼を抱き締めたい思いに駆られる。
だが、ここは学校の音楽室だ。克仁を第一に考えれば、誰が見ているかも判らない場で過度な接触は控えるべきである。愛しさに突き動かされた衝動を何とか押し留めて、奏太郎は誤魔化すように椅子から立ち上がった。
『時間も時間だから、そろそろ帰ろうか。今日は俺の家に寄る?』
「あ、うーん……音羽が俺んちに来るってのはどうだ? 毎回お前んちに邪魔すんのもわりぃし」
『いいよ。伊藤の家に行くのは久し振りだね』
時間が遅くなると父親の誠一郎と共に何度か車で送っていたが、奏太郎が克仁の家へ足を踏み入れた回数は多くなく稀と言った方が正しい。単に行く機会がなかったこともあるが、彼の複雑な家庭環境を知っていたこともあり無闇に立ち入ってはならないと考えていた。
家庭の問題は本人たちでしか解決のしようがない。奏太郎に唯一出来たことは、家族という壁に立ち向かう克仁を見守ることと、彼が羽を休められる場所を作ることだけだった。
音楽室の戸締まりをしながら、奏太郎ははじめて克仁の家へ踏み込んだ日のことを思い返す。二人の想いが通じ合った、忘れられない特別なクリスマス・イヴだ。
あの時の奏太郎は、普段の自分とは思えないほどに大胆な行動を取っていた。後先を考えずに克仁の唇を強引に奪ってしまったが、冷静に考えてみれば彼の立場を危うくする行為である。幸いなことに彼の家族は不在だったが、もしも運悪く誰かが居合わせていたならば、二人は現在のような関係を築けなかっただろう。
発表会への緊張で感情が昂ぶっていたこともあるが、判断力を欠いてしまうほどに一番はじめに確かな好意を示したかったのだ。
やけっぱちと言える克仁の告白に対して、奏太郎が自分の気持ちを露わにするまで深い葛藤があった。これだと思えば一直線に突き進む克仁と違い、奏太郎は慎重に考えすぎてしまう節があり繊細な事柄なら尚更である。
克仁を取り巻く環境が起因して、彼の想いは一時的なもので気の迷いかも知れない。同性同士で好き合うにあたり、厳しい現実を受け止め克仁を守りきれるのか。もしも克仁の気が変わり別れが訪れたとき、彼を傷つけないままで離れられるのか。これからも彼を束縛しないで傍に居続けられるのか。
相手を大切に想うがゆえ次々と予想される不確かな未来に、奏太郎はすぐに踏み出すことが出来ず結果的に克仁を泣かせてしまった。自分に向けられた彼の必死な想いと涙に愛しさが込み上げ、同時に迷いが生じて受け止めきれないことに悲しみがわき上がり、出来ることと言えば慰めるために優しく抱き締めるほかない。
覚悟が足りないのだ。強固とは言えない意志のまま雰囲気に流されてしまっては、二人の行き着く未来は目に見えている。そのため、一時的に克仁を傷つける形となってしまった。
悔いる反面、それらの経緯があるからこそ、奏太郎は葛藤を乗り越えて克仁を迎えに行くことが出来たのだ。揺らぐことのない愛情を抱いて、今こうして傍に寄り添い続けている。
克仁を連れて音楽室の鍵を職員室に返し、下駄箱で靴に履き替えて肩を並べながら校門を抜けていく。
いつものように川沿いの土手道を歩いて行くと、時折吹き抜ける冷たい風に克仁が身を僅かに震わせた。厚着をしているものの、厳しい冬の寒さはどうしても身に染みる。
「うー……今日は一段と寒いな」
克仁の口から漏れた呟きに、奏太郎は首に巻いていたマフラーを解いていくと彼に差し出していく。
「いや、気持ちだけ受け取っとく。これから忙しくなるってのに、音羽が風邪引いたらヤバイだろ」
溢れるほどの嬉しさを伝えるかのように、克仁は笑顔を見せながら奏太郎のマフラーを持つ手に触れていった。
奏太郎は残念に思いながら、マフラーを再び自分の首に巻いていく。次いで、変わらずの優しい眼差しで克仁の目を真っ直ぐに見据える。
『それなら、伊藤も風邪を引いたら大変だ。必要になったら、いつでも言っていいから』
「……甘やかすなよ」
『甘えていいんだよ』
奏太郎の手話に迷いはない。
ふいに、克仁が周りを窺いだした。人の姿がないことを確認すると、すぐに視線を奏太郎へと戻していく。彼の頬は寒さのためだけではない赤みを見せていた。
「俺はいつも、おまえに甘えてるようなもんだ。そっちこそ、俺に甘えていいんだからな」
真剣な眼差しで言葉をつむぐ声音は、緊張しているのか何処か震えている。
奏太郎は少し迷った後、こくりと頷いていった。すると、克仁がほっとしたように息を吐き出していく。
「良かった。おまえが嫌だとか返事してきたら、どうしようかと思った」
『そんなことはしないよ。ただ、俺も伊藤に甘えているようなものだから、少しだけ返事に迷ったんだ』
「そっか。――て、俺に甘えたことなんてあったか?」
『何度もあるよ。今でも君に甘えている。お互い様だ』
手話に対する克仁の反応は、きょとんとしたものだ。心当たりがないと表情が語っている。
奏太郎は、自分の甘えが何であるのかを詳しく伝えることはしなかった。しかし、秘密というわけではない。
『ここで立ち話を続けていたら、本当に風邪を引いてしまいそうだ。そろそろ行かないか? 続きは、伊藤の部屋でゆっくりとしよう』
彼が第一に考えているのは、互いの体調だ。気をつけようと言った側から、崩してしまっては何もならない。
克仁が「そうだな」と頷いている。そうして、二人はまた肩を並べて歩き出した。
歩調を合わせながら進んでいくが、その間、彼らが会話を交わすことはない。簡単な受け答えなら常日頃からあるものの、長話をするとなれば先程のように一度立ち止まらないとならないのだ。
初期の頃よりも、克仁の手話を理解する力は格段と上がっている。しかし、奏太郎の指の動きと表情があるからこそ伝わるものであり、目と目を合せなければ相手の真意を汲み取ることは難しい。
伊藤家まで沈黙は続くが、奏太郎も克仁も居心地が悪いとは思わなかった。言葉のやり取りがないものの、二人から発せられる雰囲気は何処までも穏やかだ。
時折相手を盗み見ては、傍に居られる喜びから笑みが密やかに零れ出る。ふとした拍子に目が合うと恥ずかしそうに視線を逸らしてしまうが、やはり口許は嬉しそうな笑みに満たされた。
しかし、初々しく甘やかな行動は所構わずと言うわけではない。暗黙の了解で、場を弁えることが前提となっている。人の目があれば、彼らは即座に態度を改めていく。
同性愛が許されないものとは思わない。また、許された愛とも思わない。これまでの恋愛思考と比べれば特殊なように見えたが、いざ、その中へ飛び込んでみると特別でも何でもなかった。
奏太郎と克仁はただ普通に恋愛をしている。それでも周りに対して配慮するのは、彼らが元々他者の視点を持っていたからだ。容認・黙認・あからさまな奇異・嫌悪など、他人がどんな感覚を持っているか知っている。全てを隠し果せるわけでもないが、繕える部分があればそうした方が余計な摩擦は生まれず、両者ともに不快な思いはしないだろう。
コンビニに寄ってから克仁の家に辿り着くと、奏太郎は促されるままに玄関の中へと進んだ。靴を脱いで、後を追うように真横にある階段へ足を向ける。
彼の家族は留守のようだ。階段の反対側にある壁に掛けられた掲示板に、それぞれ不在の理由が書き込まれていた。無論克仁の欄もあり、学校へ行っている旨が記されている。すぐに消さなかったのは、恐らく部屋へ案内することを優先したからだろう。
「ちょっと散らかってるけど、適当なとこに座れよ」
奏太郎を部屋に招き入れ、克仁が上着や鞄をベッドへ放りながら声をかけた。買い物袋はテーブルに置かれる。
扉の前に立ったまま、奏太郎は何処へ座るべきか部屋の中を見回していく。
絨毯に雑誌や手話の本が散らばっていたが、克仁の部屋はそれなりに整頓されている。小型テレビやミニコンポ・収納棚が並ぶ部屋の中央で、木目のシンプルなテーブルが置かれていた。
克仁が室内を暖めるために、暖房をつけている。さらに雑誌類を手早く片付けはじめ、奏太郎はその横で扉に背を向けたままテーブルの前に正座していく。
鞄などの荷物を傍に置いていると、片付けが一段落したのか克仁が視線を向けてきた。
「下に行ってくるけど、温かい飲み物いる? コンビニで買ったやつ、冷たいのだったろ」
『大丈夫だよ。――ありがとう』
「そっか。そんじゃあ、ちょっと待っててな。テレビとか勝手につけてていいから」
奏太郎に笑いかけると、克仁は足早に自室を出て行った。
主人の居なくなった部屋で、奏太郎はおもむろに動き出す。向かう先はテレビやリモコンではなく、克仁によって隅に積み上げられた雑誌類の束である。そこから目的の本を選び、元の位置に戻っていく。
彼が手にしたものは、先ほど目にした手話の本だ。静かにテーブルへ置き、表紙を眺めてから頁を捲っていく。
本の中身は、手の動きが描かれたイラストと解説・指文字などが余すことなく記載されていた。何度も読み込まれていたことを示すように、頁の角が折れていたり紙が薄汚れていたりしている。
克仁はずっと、この本で手話を勉強してきたのだろう。そして今も変わらず、奏太郎のために至らない部分をなくそうと読み続けている。
彼が今まで見せなかった努力を垣間見て、奏太郎の胸に熱いものが込み上げてくる。やがて耐えきれずに、目から涙が溢れて止めどなく流れていった。
克仁に対する想いがさらに深さを増していく。何処までも深くなっていく愛情に、底はあるのだろうか。
不意に、扉のノブを回す音が微かにした。
奏太郎は慌てて目許を拭うが、目が赤くなっているためにごまかしは利かないだろう。部屋に入ってきた克仁を迎えるように振り向くことも出来ず、本を閉じて感情を抑えるように俯くしかない。
「音羽? 具合でも悪くなったのか?」
先程と様子の違う奏太郎を不思議に思ったのだろう。克仁が声をかけながら近付いてくる。隣に両膝を突いて、心配そうに覗き込んだ彼の目が驚きに見開かれた。
「おと……っ!」
それ以上、克仁が声を上げることは出来ない。奏太郎に強く抱き締められて唇を塞がれているからだ。
状況に混乱している様子の克仁をそのままに、奏太郎は深く、もっと深く唇を合せようとしていく。歯が当たっても構わない勢いだ。
接吻の合間に、今の気持ちがどんなものかを伝えたい。そう思うが叶わないことは始めから解りきっていたことで、奏太郎はこの時ばかりは喋れないことを悔やんだ。
「まっ……とわ」
相手の為すがままになりながらも、克仁はなんとか落ち着かせようと試みている。拒絶を見せず抱き締め返す態度は、奏太郎と同じように深い想いがあったからに違いない。
膝立ちで抱き締め合う体勢は徐々に崩れ、やがて奏太郎が克仁を押し倒すような形となった。その間も唇を貪る行為は続いたが、ふと奏太郎がゆっくりと顔を離していく。
克仁を見下ろす表情が切なげで、今にも泣き出しそうなものだ。位置は逆であったが、以前に似たような光景があったことを思い起こす。
「……す、き」
拙いながらもほんの僅か声に出せる二文字に込められた想いは、これ以上ないほど有りっ丈なものが詰まっている。
「俺も……おまえのことが好きだぞ。他が目に入らないくらい、すっげぇ好きだ」
奏太郎の想いに、克仁は迷わず応えていった。次いで彼の首に両腕を巻き付け、そっと引き寄せると自分から軽く口付けていく。
ゆっくりと唇を離していけば、我に返ったような奏太郎の顔があった。
「――ちょっと落ち着いたか?」
気遣わしげな問い掛けに、奏太郎は自嘲めいた笑みを浮かべながら頷いていく。そして克仁の上から退いていくと、絨毯に横たわったままの彼も起こしていった。
『ごめん、強引だった。君への感情を抑えきれなくなったんだ』
克仁に端的な行動の理由を伝え、テーブルに置いた手話の本を手渡していく。
『こんなやり取りが今は当たり前のようになってしまっているけど、これを見ていたら……伊藤が俺のためにしてくれたことがどんなに有り難く尊いものかを改めて思い知ったんだ。嬉しすぎて思わず泣いてしまったとき、君が来て顔を見たらどうしても触れたくなった。もっと君の中へ近付きたくなった。伊藤が好きで堪らない』
熱を帯びた真摯な眼差しで、奏太郎は一心に克仁を見詰める。
奏太郎がこんなにも感情を露わにすることは珍しい。常に感情を抑え気味だったため、今までにない告白に克仁の頬は赤みを増すばかりだ。
そして、恥ずかしさのあまりに顔を俯かせていく。
「俺さ、頑張ってるとこってあんま見せたくなかったんだ。今まで情けないとこを晒しといて今更って感じだけど、やっぱ好きな奴の前では結果って言うか、格好良い部分だけ見せたくなるじゃん。けど、おまえが感動してんのを見たら、たまにいいかもと思った」
克仁の容姿は、決して可愛いや美形と形容されるものではない。標準ではあるが、どちらかと言えば男らしく格好良いと言われる方の部類である。しかし惚れた欲目もあって、照れ笑いを浮かべる様が奏太郎の目にはどんなものよりも可愛く映る。無論、彼が見せる様々な表情に対してもだ。
可愛くて愛おしくて、いつの間にか手が勝手に伸びていた。先程も抱き締めて唇を触れ合わせたというのに、まだ足りないと心も身体も訴えている。
ここが克仁の部屋で二人きり、さらに先程のことも要因して、奏太郎の自制は確実に脆くなっていた。
優しく遠慮がちな手付きで硬い髪に触れる。頬を手の平で撫で、唇の形を指先でゆっくりとなぞっていく。くすぐったさに克仁が身を竦ませれば、奏太郎は微笑みを浮かべ前髪越しに額へ口付けていった。
川沿いの土手道で、奏太郎が克仁に伝えた甘えはこういった部分にある。
主導権を握ろうとする奏太郎を、克仁は文句を言わず抵抗も見せず許してくれるのだ。男同士で恋愛しているのだから、性格もあって互いに主導権を握りたがることは想像に容易い。未遂であったが、実際に克仁が奏太郎に襲い掛かってきたことが何度かあった。にもかかわらず、今では受け身を甘んじてくれている。
『伊藤は、俺のことをどうしたい? 俺は伊藤ともっと深く触れていたいよ。――抱きたいと言ったら、どうする?』
甘えから生ずる、試すような質問を投げ掛けながら、奏太郎は心の中で自分の身勝手さに自嘲した。
「俺も同じだ。おまえと深く触れ合いたいし抱きたいって、そう思ってた。だけど、それじゃあ平行線になっちまうよな。ずっと考えてきたけど、音羽になら……抱かれてもいい。俺が抱かれてる場面って想像つかないし、そうなったときに色気がなさ過ぎて、おまえが萎えてそうな気もするけど」
そう言って笑う克仁は、実に潔い。そんな彼を眩しそうに見詰め、奏太郎は無骨な手に触れると感謝と尊敬の意を込めて甲に唇を落としていく。
『甘えについてのことだけど、俺の甘えはこういう事なんだ。だから、俺はずっと伊藤に甘えているんだよ。最後までしないようにするから、今ここで君に触れてもいい?』
甘えさせて貰っているからと言って、礼を欠いてしまえば本当の意味で単なる我が儘になってしまう。奏太郎は雰囲気に流されず、敢えて紳士的な態度で許しを求めた。
すると、克仁が思わずといった感じで噴き出している。
「さっきから触りまくってんのに、それこそ今更って感じだろ。――来いよ、音羽」
快く受け入れる気持ちを表わすように、克仁は積極的な行動で奏太郎を引き寄せていった。
「あっ、あ……んっ」
奏太郎の眼下で、克仁が切なげに低く小さな喘ぎ声を漏らした。達する際に強張っていた肢体は、ゆっくりと弛緩し落ち着きを取り戻してゆく。
室内に独特の臭いが微かに漂った。心と同じように身体を触れ合わせた末に生ずるものの臭いだ。
しかし情事の余韻は抜けきらず、彼らは気怠げにぼんやりと互いを見つめ合う。
克仁に伝えたとおり、奏太郎は最後まで進むことはしなかった。本心は行き着くところまで行きたかったが、克仁が明日から合宿免許のため理性を精一杯に働かせて衝動を押し止めたのだ。
最後までしないからと言って、奏太郎主体で及んだ行為は淡泊なものではない。丹念な愛撫は濃密と言っていいほどである。
奏太郎が如何に濃く強く求めていったのか、全ては克仁の恍惚としたものが滲む表情や裸体に表れていた。
克仁の呼吸を整えるように上下する胸は、唇によって強く吸われた痣が無数に散らばっている。胸の中心部である小さな突起もまた吸われた形跡がありてらてらと濡れていた。
彼がつけた印は胸にとどまらない。今は白いぬめった液体で濡れている腹部や太股の内側にまで至る。服を脱がない限りは、人目に付きにくい箇所を選んでいる。
克仁の両足の間で、股間を密着させていた奏太郎が静かに動き出す。テーブルの近くに置いてあるティッシュを手繰り寄せ、克仁の腹部を汚してしまっている一つに混じり合った互いの体液を丁寧に拭っていった。次いで、近くにあった自分の買い物袋にある水を使い、新しいティッシュを濡らして他の汚れた部分も含めて綺麗に拭いていく。
最後に自分のものも後始末し、克仁に視線を向ける。
克仁は未だに放心したような状態のままだ。気を覚ますために、彼の眼前に手を翳していくと軽く振る。
数度瞬いたのち、我に返った克仁が頬を赤らめて掠れた声で奏太郎の名を呼んだ。
『大丈夫? 起き上がれる?』
気遣わしげな表情の奏太郎に、克仁は笑んで彼を足の間に挟んだまま上半身を起き上がらせた。
「ケツを使ったんじゃねぇから、何ともないぞ。おまえがしてくれるの、すげぇ気持ち良かった。今度やるときはベッドでやろうな?」
克仁に頷きを返しながら、奏太郎はベッドまで移動するだけの余裕がなかったことに微苦笑を浮かべる。
『気を付けるよ。――服を着ようか。風邪を引くこともそうだけど、伊藤の家族が帰ってきたら大変だ』
「そうだな。音羽の裸をもうちょっと見たかったけど、さすがにこんなとこ見付かったら……ごまかしが利かない」
今度は克仁が苦笑いを浮かべていく。彼の笑みは、言葉通りだけのものだろうか。奏太郎には、なんとなく別のことも含まれているような気がしてならない。
だが、気のせいという可能性もあり、すぐに問いを投げ掛けることはしなかった。
絨毯に散らばる衣類を手に取り、二人揃って手早く身に付けていく。奏太郎はきちんとブレザーまで着込むが、克仁は暖房も利き尚かつ自室であるためワイシャツにスラックスのみである。ワイシャツから覗く肌に、奏太郎が付けた跡はやはり見えない。
『少し寒くなるけど、部屋の換気をした方がいいと思う。窓を開けていい?』
奏太郎が断りを入れれば、克仁は頷くなり上着を身に着けて暖房も切っていく。
克仁の行動を見届けてから、奏太郎はその場から立ち上がり窓を開ける。すると、一気に冬の澄んだ空気が室内に流れ込んだ。
淀んだ空気が徐々に流れ行くが、当然のように冷たい空気が肌を刺していく。
「さむっ!」
胡座をかいている克仁が、自分の身体を抱き締めながら身を震わす。奏太郎も寒さを感じたが、彼はそれ以上の反応を見せる。
奏太郎は窓辺から身を離して、克仁の所へ戻るとその身体を温めるように抱き締めた。室温は冷え込んでぴんと張り詰めていくが、二人の間に漂う空気は相変わらず甘ったるく温かい。
けれども、毎日がこういった雰囲気と言うわけではない。
「今日のおまえ、すげぇ甘くない?」
真正面から抱き締めてくる奏太郎に、克仁は不思議そうに疑問の声を上げた。
『べたべたとし過ぎかな? いつもは抑えているから、伊藤はそう感じるのかも知れない。明日から会えないこともあるけど、君と深く触れ合うことが出来て凄く嬉しいんだ。家の人が来たら、すぐに離れるから』
「俺も嬉しいけど、これじゃあ何も出来ないよな。折角買った菓子とかジュースも持てないし、ずっとくっついてんなら隣同士で座ろうぜ。そしたら、お袋や兄貴が部屋に入ってきてもあんま変に思われないし、そのまんまで居られるだろ」
『それもそうだね。今日は何だか、俺だけが舞い上がっていて恥ずかしいよ』
奏太郎が照れ臭そうに伝えれば、克仁は満面の笑みを浮かべる。
「いつもはおまえが冷静で、俺の方が舞い上がってるからな。……なんて、俺もおんなじですげぇ舞い上がってる。離れたくねぇから、適当に理由言っといて隣同士を勧めてるだけなんだけど」
『ありがとう、伊藤』
愛しげな眼差しを向けてもう一度抱き締めると、奏太郎はテーブルの前に座り直した。克仁も追うように、隣に胡座をかくと寒いこともありぴたりと身を寄せていく。
コンビニで買った菓子や飲み物をテーブルに広げ、まずは各々の飲み物に口を付けていく。
飲み物は温くなっており、奏太郎が部屋に訪れてから結構な時間が経っていることを示している。
テーブルに頬杖を突いて、克仁が奏太郎に顔を向けた。
「なんか、こういう時って時間が経つの早いな」
『そうだね。――そう言えば、明日の準備はもう済んでいるのか?』
「ああ、それなら昨日の内に終わらせといた。今日はゆっくり音羽と過ごしたかったし」
『今日は君に喜ばせられてばかりだ。あとが更に恐くなる』
「そんなこと言って、忙しさで平気だったりするだろ?」
『どうだろう』
「メールしろよ。俺もするからさ。それと、アレも今回はメールだな」
克仁が言っているアレとは、バレンタインデーのことだ。メッセージカードに伝えたい言葉を書き込んで互いに贈り合うという、昨年から始められた二人の密やかで特別なバレンタインである。
――来年もこの日にやろうぜ。多分、俺はこれからバレンタインデーを覚えていると思うからさ。
一年と期間があいてしまっていたが、克仁は言葉通り忘れずにいた。
『覚えていてくれたんだね。君がどんな言葉を贈ってくれるのか、とても楽しみだ』
「俺も楽しみ。あ、あと、誠一郎さんたちは今年どうすんのかな?」
『多分、贈るつもりでいると思うよ。貰ったものを取って置くから一緒に食べよう』
「音羽はその日に食べねぇの?」
『父さんたちに悪いから少しは食べるよ。だけど、一緒に食べた方が美味しく感じる』
「そっか。今年もバレンタインに渡せねぇから、ホワイトデーのこと考えなきゃな。去年は普通に飴を贈ったけど、今年はなんにする? てか、おまえの場合はバレンタインに渡せるか」
これからのことを楽しげにどんどん進めていく克仁の姿に、奏太郎の口許に自然と笑みが出来上がる。
『気が早いよ。ここで沢山決めてしまったら、これからメールでやり取りする内容がなくなってしまう』
「あー……じゃあ、続きはメールにしとく」
『伊藤は家族に贈ったりしないのか?』
「そういう柄じゃねぇからな。おまえに教えられるまで一度も贈ったことねぇから、逆に変な顔をされそうだ」
『そうか、それぞれ家族の形があるからね。――家族のことで、君が辛そうな顔をしなくなって安心した。君の笑顔が増えていくのを傍で見られて嬉しい』
奏太郎の唐突な話題の切り替えに、克仁は一瞬だけ目を見開いたが目を細めると頷いていった。
「その代わり、だんだん恐くなっていくんだ。音羽との関係がばれたら、また駄目になってくんじゃないかって。仲が最悪だった頃の俺だったら、そんなの関係ねぇで終わってたのにな。音羽とずっと居たいのに……なんか複雑だ」
克仁の口許に二度目の苦笑いが浮かんだ。奏太郎が微かに違和感を覚えた苦笑いは、恐らくこう言ったことも含まれていたに違いない。
これまでは克仁と家族の問題であったため、奏太郎はどうにか救い出したいと思いながらも見守るだけの立場を押し通してきた。だが、これからは伊藤家の間だけではなく奏太郎も――音羽家も関わっていくものだ。
奏太郎は克仁の手を力強く握り締めていく。やがて真剣な眼差しで、自分の思いを伝えるために手を離していった。
『ひとりで抱え込まなくていいんだよ。君だけの問題じゃないから、二人で一緒に向き合おう。最善の方法を見付けるのは難しいけれど、たくさん悩んで納得のいく答えを見付けていこう』
「……うん。うん、そうだな。音羽はすげぇな。こういうの、恐くねぇの?」
『恐くないと言えば、嘘になってしまうね。やっぱり、後ろめたさも少しあるよ。けれど、さっき言ったようにひとりじゃない。君が居るから、俺は平気でいられる。――以前に君が言っていた言葉を覚えている? 勘当されても大丈夫なのかと。俺はいつも、それくらいの覚悟を持って伊藤と付き合っているよ』
克仁が目を大きく見開いて、瞳を揺らめかせている。何か話そうと口を開くが、言葉にならないのか唇を一文字に引き結んだ。次に彼が取った行動は、奏太郎に抱き付くものだった。興奮しているのか、腕の力は加減がなくがむしゃらに抱き締めてくる。
奏太郎は痛さと息苦しさで僅かに眉を顰めるものの、強引に克仁の腕を解くことはしなかった。彼の背に両腕を回していき、落ち着かせるように優しく撫でてあやしていく。
二人が一頻りに抱き締め合っていると、静まり返っていた室内に玄関の扉を開ける音が届いた。どうやら時間切れのようだ。
時計に視線をやれば、そろそろ奏太郎が帰らなければならない時刻にもなっていた。残念に思いながらも、会えない時間を補うような充分すぎる触れ合いに心は満たされる。
克仁も心を落ち着かせたのか、腕の力を緩めて気恥ずかしそうに身を離していった。そんな彼の額へ、奏太郎は最後の最後とばかりに唇を寄せてから離れていく。
『もう帰る時間だ。そろそろ行くよ』
微笑を浮かべながら手話で伝えると、克仁が小さく笑んで頷いた。
身支度を整えて立ち上がれば、克仁もつられたように身を起こす。玄関まで見送るつもりなのかも知れない。
部屋を出て階段を下りきると、伊藤家の掲示板が自然と目に入った。訪れた当初と違い、克仁の母親と彼の欄の文字が消されている。奥の部屋の方からは、夕食の準備に取り掛かっているような物音が漏れ聞こえた。
落ち着いた動作で靴を履き、後ろを振り返る。段差があるため見上げる形で視線を向ければ、克仁の表情に明るい笑みが浮かぶ。故意に作り出していることは明らかだ。
「またな。ピアノ関係頑張れよ。応援してるから」
奏太郎も合せるように笑みを返していく。
『ありがとう。俺も君のことを応援しているよ。それじゃあ、また。――今日はお邪魔しました』
克仁に背を向けて、目の前にある扉を開ける。ずっと見守っている様子の彼に再び視線を送り、そうして奏太郎は伊藤家を出て行った。
まだ日が短いこともあり、夕刻前とはいえ辺りは薄闇に覆われている。冷え込みはより一層で、白い息を吐き出しながら奏太郎は家路へと向かう。
足を進める毎に、克仁の部屋で彼と交わした会話を反芻する。嬉しい事柄が多くを占めているものの、不安な要素が少なからずあることは拭えない。
奏太郎がはじめの頃に葛藤してきた部分だ。如何に覚悟を決めているとは言え、それは奏太郎の中だけでのことである。克仁の反応を見る限り同じ想いなのだろうが、実際のところはどう考えているのか口にしていなかった。
人の考えというものは、様々な状況や影響の下に変わる場合がある。変わらないようでいて、その実、気付かぬ間に少しずつ変化を遂げているのだ。
克仁が複雑な胸中を吐露したことによって、彼の中で心境の変化があったことは見て取れた。家族云々以前に、まずはじっくりと話し合わなければならないだろう。近い未来に起こり得ることかも知れないが、少なくとも現在ではない。
今後のことを思案していると、唐突に携帯電話が鳴った。メールが届いたことを知らせる音だ。
鞄のポケットから携帯電話を取り出して確認する。送信者は克仁だ。
[言い忘れてた 気を付けて帰れよ]
文中に絵文字はない。奏太郎もだが、克仁は絵文字を使うことを苦手としている。
そもそも彼らの間でメールのやり取りはあまりない。頻繁ではないものの他の友人知人とはそれなりにあるが、何故か必要に迫られたとき以外はほぼないのだ。メールよりも顔を合せて伝えた方がいいと、互いに考えているのかも知れない。
しかし、さすがに今回からはそうすることが出来ず、メールでの会話が主となるだろう。そのため、奏太郎はやり取りがより続くようにと、克仁の部屋でこれからのことをすべて決めなかったのだ。
[ありがとう。伊藤も明日、気を付けて行ってくるんだよ]
さっそく返事を打ち込んで送信すると、奏太郎は携帯電話を元の場所に戻していった。
急ぎ足で歩みを進める。
玄関に父親である誠一郎の靴があることを確認して、奏太郎はいつものようにダイニングキッチンへ赴いた。
誠一郎は相変わらず黒いエプロンを身に付け、てきぱきと凝った美味しい料理の下拵えをしている。母親はまだ仕事から帰っていない。一家の大黒柱とあって、日々忙しなく働いている。
両親の立場が逆転している家庭だが、それぞれ性に合っているのか家族仲は良好だ。これまでに二人が言い争っているような場面を見たことがない。
奏太郎の近付く気配に気付き、誠一郎が手を休めて視線を向けてきた。
『ただいま』
「おかえり。今日は短縮授業だと聞いていたけど、随分と遅かったね」
『伊藤の家で、いろいろと話していたんだ。これからお互いに忙しくなるから』
「そうかい。伊藤君は確か――進路が就職だったね。仕方のないことだけど、遊びに来てくれる回数が減ってしまうのは寂しいね」
残念そうな表情を見せる誠一郎に、奏太郎は相槌を打つ。
『卒業後もそうだけど、明日から合宿免許へ行ったりするから、自由登校の間も遊びに来られないみたいだ』
「うーん、そうなるとバレンタインの時に渡せなくなってしまうな」
誠一郎の独り言のような言葉は、奏太郎が克仁に伝えたとおりの展開だ。
『伊藤も贈り合うことが出来なくて残念がっていたよ。一応、父さんたちから貰ったら取っておくと伝えておいた』
「ああ、そうしてくれて良かったよ。折角だからね、今年も伊藤君にあげたかったんだ」
誠一郎は、克仁のことを気に入っており何かと気にかけていた。温厚かつ寛容な性格の持ち主であるが、さすがに二人の関係を告げることは出来ない。
告げられないのは両親が真実を知ることによって、奏太郎を育てたことに後悔の念を抱かないか不安だったからだ。そして、克仁に対してこれまでの態度を一変させることになってしまったら、彼を悲しませることになる。すべては例え話に過ぎないが、奏太郎は両親と克仁の傷付く姿を見たくないのだ。
しかし、いつかは告白したいとも思っている。これからの遠い先、変わらず克仁の隣に在り続けていられたら、彼がどんなに大切なのかを両親だけには打ち明けておきたい。
周囲への心配りは必要に応じてするが、奏太郎は克仁との関係を悲観的に捉えていない。だからといって、楽観的と言うわけでもない。
奏太郎が同性で恋愛感情を抱いたのは、言うまでもなく克仁が初めてだ。願望としては克仁のみを想い続けていたいが、万が一別れるようなことになったとき、また同性に惹かれていくのかは今のところ不明である。自分が同性愛者なのか両性愛者なのか認識できず、それぞれの枠に当て嵌められないのが現状だ。
だからなのか、奏太郎の中に悲観も楽観もなかった。
「――奏太郎?」
会話が途切れても佇んだままの息子を不思議に思ったようだ。誠一郎が訝しげな顔をする。
「何か、あったのかい?」
『何もないよ。少し考え事をしていただけなんだ』
「本当かい? 何か悩み事があるのなら、いつでも言いなさい。新しい環境を前にして、漠然とした不安を抱えることは誰にでもあることだからね」
『ありがとう、父さん。何かあったら話すよ』
父親の気持ちを拒絶しているつもりはないが、やはり本当のことは言えない。黙秘を通しているからこそ、後ろめたさを感じてしまう。
これ以上ぼんやりとしているわけにも行かず、奏太郎は自室へ向かうべくダイニングキッチンを後にした。
二階にある部屋で普段着に着替えて、次に足を運んだところは浴室である。浴槽を綺麗に洗って蓋をすると、器械に湯を張る指示を出していく。奏太郎が普段から自主的にやっていることだ。
再び父親の許に戻り、流しで手を洗ってから夕飯の支度を慣れた手付きで手伝っていく。幼い頃から誠一郎の背中を見て育ってきたからか、奏太郎は男が家事全般をこなすことに違和感を持っていなかった。いつ一人暮らしをしても大丈夫なくらいに馴染んでいる。
奏太郎の危なげない様子を見遣り、誠一郎が何かを思い立ったように口を開く。
「寂しくなるから今まで訊かずにいたけれど、奏太郎は一人暮らしをする気があるのかい?」
あまりにも唐突な問い掛けに、奏太郎の手が止まる。何事かと父親に視線を向ければ、困ったような表情がそこにあった。
「特に深い意味はないよ。ただ、もう大学生になるし、男の子といえば一人暮らしに憧れるものかと思ってね」
『父さんもそうだった?』
「ああ、そうだったよ。大学進学を機に自立しようと一人暮らしを始めたけれど、最初はひとりで生活できずに仕送りをして貰っていたな。いろいろと勉強になったのは、はっきりと覚えているよ」
誠一郎は口を動かしながらも手は休めない。視線は返事を待つように、ちらちらと息子の方へ向けられている。
『正直に言うと、まだ一人暮らしは無理だと思っているんだ。ひとりで生活できるだけのお金がないから、まずはアルバイトで貯めてから始めようと思ってる。これ以上、金銭面で父さんたちに迷惑をかけたくない』
「そうか、しっかりとした考えだね。奏太郎の成長をもう少し間近で見守ることが出来て、僕はとても嬉しいよ」
安堵の笑みは、嘘偽りのない喜びを表わしていた。
「ところで、アルバイトはどんなものにするんだい?」
『ピアノ弾き。俺に出来ることと言えばこれしかないから、レストランや喫茶店で弾かせてくれるところを探してみる』
「うーん、見付けるのはなかなか難しそうだ。アルバイトの情報誌にあまり載っていないだろうね」
『心配しなくても大丈夫だよ。音楽教室の先生にも相談するし、雇ってくれそうな所を地道に当たってみるから』
奏太郎の危なげない言葉を聞き、誠一郎は口許に笑みを浮かべて頷く。それ以上何も言わないのは、息子の考えを尊重しているからだ。
そこで親子の会話が途切れる。そろそろ帰宅する母親を美味しい料理で迎えるべく、二人は夕飯の支度に集中していく。
メールの着信音で、奏太郎は目を覚ました。
枕元に置いていた携帯電話に手を伸ばして画面を確認すれば、送信者の欄が克仁となっていた。
[おはよう 今日も一日頑張ろうな 昨日の続きだけど 音羽はバレンタインどうする?]
早速の内容に口許がゆるむ。時間を確認すれば、時刻は七時を示している。
[おはよう、これから出発なんだね。一応、当日にあげるつもりでいるよ]
[ああ その方がいいな そんじゃあ支度があるから またな]
すぐに返ってきた文面を読み、奏太郎は携帯を閉じるとベッドから起き上がった。
いつものように家族と顔を合せて共に朝食を摂ったのち、身支度を整えると自宅のとある場所へ向かう。
そこは一階にある十畳ほどの防音室だ。中央にグランドピアノが置かれ、ずらりと楽譜が並ぶ小さな棚がひとつあるだけで他は何もない。ピアノを弾くためだけにある部屋である。
時間が少しでも空いていれば、奏太郎は鍵盤に触れて技術の向上を目指す。ピアノを始めた頃から始まり、現在でも飽きることのない習慣だ。
譜面板に卒業式や音楽教室の行事で披露する楽譜を置き、メトロノームの刻むリズムに合わせて黙々と練習していく。
朝から時間を忘れたように没頭していると、ふいにアラーム音が鳴り響いた。楽譜棚の上に置いていた時計が正午を知らせている。
鍵盤に触れる手を止め、キーカバーを乗せると静かに蓋を閉めていく。昼食を摂るためだ。もしもアラームが鳴っていなければ、何も食べずにそのままピアノを弾き続けていただろう。
リビングと隣接しているダイニングへ向かうと、奏太郎の昼食がテーブルの上に用意されていた。誠一郎の姿はない。代わりに置き手紙が添えられており、用事で出掛ける旨が綴られていた。
誠一郎は主夫であるが専業と言うわけではない。奏太郎が離乳期を過ぎた時、彼は仕事の復帰を望む妻と代わるように職を辞した。とは言え、優秀だったためか頼まれ事で応援として仕事に赴くことが何度かある。はじめの頃、奏太郎が小学校に通っている間は家に持ち込んでいたが、中学校に上がると外の方へと移行していった。しかし特例かつ変則的な要請のため、それがパートやアルバイトと呼べるものなのか難しいところだ。
ゆえに誠一郎が用事で出掛ける時は、大概が仕事の応援要請を受けてのものである。
食事を残すことなく平らげて、奏太郎は後片付けを済ませたのち、外出するための準備に取り掛かっていく。音楽教室へ行くには相当早い時間であるが、ピアノ弾きのアルバイト先を探さなければならないこともあり、余裕を持って家を出ることにした。
奏太郎がアルバイト探しで目を付けた場所は、人通りが多く飲食店が密集しやすい駅の周辺である。
楽器の生演奏を謳う店舗を探していくが、ピアノを置いている場所はそう多くない。レストラン・喫茶店・バーを含めて片手で数えるくらいだ。また、未成年のためバーを除くとほんの僅かとなる。
非常に厳しいことは目に見えていたが、奏太郎はそれでも紙とペンを使い地道に問い合わせに当たっていく。
結果は案の定、すべて丁重に断られてしまった。募集をしていないというのが大凡の回答であったが、接客も必須のため口の利けないことが理由となっている苦い内容もあった。
だからといって、食い下がったり落ち込んだりはしない。途中で見落としてしまっている場所はないか、落ち着いた足取りで時間の許す限り駅の周辺を歩き続ける。
その途中、駅の周辺から少し外れているが、〝奏-SOU-〟という喫茶店が奏太郎の視界に入った。
外観は他の喫茶店に比べて、こぢんまりとした印象がある。西洋風の二階建ての家のような造りをしており、シンプルなデザインでありながら何処か温かみの混じる落ち着いた雰囲気が漂っていた。
引き寄せられるように近付いていけば、窓の向こうにグランドピアノが見える。迷わず店内に足を踏み入れると、来店を知らせる涼やかなベルが鳴り、ゆったりとした空気が奏太郎を覆い包んだ。
喫茶店の内部は、外観と変わらない雰囲気が広がっている。先ほど目にしたピアノは店内の中心部に置かれており、二階まで音色が通るようにするためか、中心部は吹き抜けの造りとなっていた。周りを囲む座席はゆとりを持った空間が設けられ、のんびりと寛げるようになっている。そのため、座席の数は少ない。
店内にある人の姿は、見る限り店主と思わしき人物のみだ。
「いらっしゃいませ」
カウンターに立つ初老くらいの紳士が、人好きのする笑みを浮かべて奏太郎を迎え入れた。
軽く会釈して近付いて行くなり、奏太郎は文字を綴った用紙を差し出していく。
『ピアノ弾きのアルバイトは募集していますか? 口が利けませんが、雇ってもらえますか?』
無言で手渡されたことに紳士は首を傾げたが、文書を目にすると納得したように頷いていった。
「そうでしたか。……ピアノ弾きのアルバイトですが、基本的に募集はしておりません」
店主の言葉に、さすがの奏太郎も軽く肩を落としてしまう。
「ですが、これから募集をしようかと考えていたところです。――貴方のピアノを聴かせて頂けますか?」
奏太郎は迷うことなく頷き、店内にあるピアノへ足を運んでいった。手にしていた鞄は邪魔にならないよう床に置いて、落ち着いた様子で椅子に腰を下ろしていく。
鍵盤の蓋を開けてキーカバーも外していき、試しに一音だけ鳴らしていく。調律はきちんとされているようだ。鍵盤に両手を添えて、一呼吸を置いたあと曲を奏で始める。
店主から曲を指定されなかったため、自分の判断で喫茶店の雰囲気に合うような曲を選んだ。間違うことなく一曲を弾き終えて、カウンターの方へ窺うように視線を向けていく。
曲を静かに聴いていた店主は、拍手を送りながら満足げに頷いた。
「素晴らしい演奏でした。選曲もいいですね。因みに、レパートリーはどのくらいありますか?」
彼の質問に答えるために、奏太郎はピアノ椅子から立ち上がって再びカウンターの方へ戻っていく。そして、用紙に書き出していった。
「なかなか多い方ですね。貴方の雰囲気も落ち着いていて演奏に華もありますし、是非とも専属でお願いしたいです」
専属とおもいがけない話題が上り、奏太郎は驚きを隠せない。
『専属とはどういう事ですか?』
「ややこしいことではありませんよ。貴方の演奏を気に入ったもので、単に他のお店と両立しないでほしいということです。――それで、どうでしょうか? 当店でピアノ弾きをやりませんか?」
働かせてもらえる所を探していたので、奏太郎に断る理由はない。またとない稀少な機会でもある。
『ありがとうございます。よろしくお願いします』
「こちらこそ、よろしくお願いします。ところで、履歴書はお持ちですか?」
奏太郎は頷くと、履歴書の入った封筒を鞄の中から取りだし差し出していく。店主は受け取るなり、封を切って中身を確認していった。
「音羽奏太郎君、ですか。……当店と似た名前に不思議な縁を感じますね。私は春日と言います」
奏太郎がこくりと相槌を打てば、春日は嬉しそうな笑みを浮かべていく。
「それでは、アルバイトでの細やかな部分を話し合いましょうか。お時間はありますか?」
訊ねられて、携帯電話の時刻を確認する。そろそろ音楽教室に行かなければならない時間だ。
『これから音楽教室があるので、終わったらまたここへ来ます。何時まで営業していますか?』
「通常は六時まで営業しているのですが、見ての通り繁盛していないので早めに閉店する場合もあります。ですが、本日は音羽君が来るまで開けていますよ」
『働かせてもらう身で失礼なことを言いますが、僕を雇って大丈夫なんですか?』
経営に喘いでいるような口振りに、気遣わずにはいられない。だが、春日の表情は相変わらず穏やかだ。
「大丈夫ですよ。喫茶店は副業と言いますか、私の趣味で開いているようなものです。それに、少人数の体制を取っていますので、お気遣いは必要ありません」
店主である彼が言うのだから、これ以上の気遣いは無用である。奏太郎は納得するように頷くしかない。
『それでは、ひとまず失礼します』
用紙に書き込んで春日に一礼をすると、奏太郎は喫茶店・奏-SOU-を後にする。
音楽教室が終わったあと再び喫茶店を訪れたことで、帰宅は普段よりも遅い時間帯となった。
両親へはあらかじめ連絡していたので、心配を掛けさせることもない。逆に嬉しそうな表情で出迎えられた。
「すぐに希望のアルバイトが見付かって良かったね」
家族三人揃って食卓を囲みながら、誠一郎が安堵の笑みを浮かべる。
『運が良かったんだ。こんな機会はあまりないと思うから、頑張って続けていきたい』
「頑張るのはいいけれど、張り切りすぎても駄目だよ。何事も持続させるには適度が一番だ。君もそう思うだろう?」
誠一郎が同意を求めて、隣に座る妻に視線を向けた。すると、彼女は微笑みながら夫に相槌を打っていく。
「僕たちは見守ることしか出来ないけれど、いつでも奏太郎のことを応援しているよ。今回のアルバイトがいい経験になることを祈っている」
『ありがとう。父さん、母さん』
テーブルを挟んだ向かい側にいる両親に、奏太郎は満面の笑みを浮かべていった。
和やかな食卓を終えて、奏太郎は入浴を済ませたのち携帯電話のメールを確認していく。
いつの間にか、克仁からのメールが届いていた。自然と顔が綻びる。
[お疲れ 初日は緊張して上手く行かなかった そっちは何かあったか?]
[お疲れ様。今日はいろいろとあったよ。喫茶店でピアノ弾きのアルバイトをすることになったんだ]
[音羽にぴったりのバイトだな そっちに戻ったら遊びに行くから その時は場所を教えろよ?]
[分かった。だけど、君に見られながら仕事するのは何だか恥ずかしいな]
[いつも見てるのに今更だろ おまえの働いている姿を見るの楽しみにしてる そんじゃあまた明日 おやすみ]
[うん、また。おやすみ、ゆっくりと休んで]
そう返信していって携帯電話を充電させると、ベッドの上へ仰向けに寝転がった。
目蓋を閉じて、克仁に思いを馳せる。口許がまた緩んでいった。合宿所で頑張っている健気な様子を想像して、微笑ましくなったからだ。実際に見ることは叶わないけれど、奏太郎の心を奮い立たせるものがある。
ほぼいつも通りの時間に目を覚まし、奏太郎がまず行動に移したのは携帯電話に手を伸ばすことだ。克仁宛に挨拶のメールを送ったのち身支度を整えていく。
しかし、外出するのは正午になってからだ。音楽教室のない日はアルバイトに向かうのみで、早めの昼食をとる以外は家の防音室にこもりっきりとなる。
親子三人で朝食を共にし、会社へ出勤する母親を誠一郎と共に玄関で見送っていく。残された二人は、家事やピアノの練習へ没頭していった。
そろそろ家を出掛けなければならない時間帯となり、誠一郎が防音室に顔を覗かせる。奏太郎に出掛ける準備を促すついでに、室内の清掃を行うために入ってきたのだ。
父親に後を任せて、奏太郎はピアノ弾きの初仕事へ臨む。
喫茶店・奏-SOU-の営業時間は、趣味と言うだけあって平日・祝日ともに午後一時から午後六時までの五時間だ。定休日は月曜日となっている。
奏太郎の勤務時間は、大学へ入学するまでは週四日で開店から閉店までだ。以降は三時間に移行していく。しかし、数時間もピアノを弾き続けるわけではない。四十分演奏したのち二十分の休憩を入れるというものだ。いくら何時間弾き続けて構わなくとも手を痛める恐れがあり、酷使させることを避けるための店側の配慮だろう。
奏太郎が喫茶店に辿り着いたのは、営業開始まで二十分前と余裕を持った時間だ。昨日の内に案内された裏口から店へ入り、更衣室で支給された制服、白のシャツに黒のベスト・パンツ・ローファーを身に着けて、店内で開店準備をしている春日の許へ向かう。
カウンターの奥に、彼の他にもうひとりの姿があった。奏太郎と同年、或いはひとつほど年上の清楚な美少女だ。長い黒髪を後ろで束ねて、同じような服装に加え黒のウエストエプロンを身に付けている。
「おはようございます、音羽君」
『おはようございます。今日からよろしくお願いします』
常備しているペンとメモ用紙を使って挨拶を交わし、御辞儀をしていく。
「こちらこそ、よろしくお願いします。余裕を持って出勤してくれて助かりました。あなたに私の娘を紹介したかったのです。――百合子」
春日に促されるように、少女が一歩前へ歩み出る。
「初めまして、春日百合子です。音羽君よりひとつ年上の大学一年生です。ウェイトレスとして、しばらく父の手伝いをしていきます。どうぞよろしくお願いします」
淑やかな動作で御辞儀をしていく彼女に、奏太郎も御辞儀を返していった。
「百合子はもともとピアノ弾きとして手伝ってくれていたのですが、手を痛めてしまったのでピアノはしばらく休むことになりました。そんなときに、丁度あなたが来てくれたので大変助かりました」
「父から音羽さんの話を聞いて、今日をとても楽しみにしていました。あなたのピアノを早く聴いてみたいです」
恥じらいを含んで微笑む様は、美しく整った顔立ちをしていることもあり男ならば誰でも見惚れるだろう。例に漏れず、奏太郎もまた彼女の笑みに見入っていた。
二人の様子を目にして、春日は微笑ましさに笑みを漏らす。
「音羽君、ひょっとして娘に一目惚れですか?」
「お、お父さん、やめてよ。音羽くんが困ってるじゃない」
父親の唐突な発言に、百合子は恥ずかしそうに頬を赤らめていく。
『綺麗な方だったのでつい見惚れましたが、僕にはお付き合いしている人が居ます』
「そうですか、それは残念です」
春日の表情は心底残念そうだ。あからさまな態度に、奏太郎は首を傾げるしかない。彼の娘とは今日が初対面だというのに、何故話題が色恋事の方へ行ってしまったのだろうか。
「ああ、私の話はどうか気になさらないで下さい。子を思うがゆえの親心です。――さて、仕事の話になりますがこちらのリストをどうぞ」
A4サイズの用紙を渡され、リストを確認するために視線を落としていく。
「あなたが昨日書き出してくれたレパートリーをもとに、四日分の選曲をしてみました。基本は順番通りに弾いて、お客様からリクエストがあれば従って下さい。お客様用に作って置いたリストから選んでもらう形になりますので、音羽君に弾けない曲はひとつもありません」
合理的とも言える内容を説明され、奏太郎は理解したように深く頷いていった。今日弾くことになる曲目を何度も視線で辿って記憶していけば、用紙を折り畳んでメモ用紙の最終頁付近に挟んでおく。
『少し慣らしておきたいので、一曲弾いてもいいですか?』
「それでしたら、リクエストされる練習も兼ねて百合子の選んだ曲をお願いしたいですね」
春日の提案にこくりと頷いて、これから定位置となるピアノの方へ足を運ぶ。落ち着いた様子で椅子に腰を下ろし、奏太郎は百合子に視線を向ける。
すると、彼女は眼をきらきらと輝かせながら声を上げた。
「一昨年の冬に、音楽教室のコンサートで弾いていた心が踊るような、あの曲をお願いします!」
興奮したように口にしたものは曲名ではなかったが、奏太郎はそれが何の曲であるかをすぐに察した。しかし、独自に編曲したためリストに載せていない。
迷ったのは一瞬だ。弦楽器も打楽器もいないが、二つの存在を補いながらピアノだけで演奏することも可能である。
百合子の希望に応えるように頷いていくと、奏太郎は鍵盤に向き合い精神を統一していく。両手を鍵盤の上に持っていき、小さく息を吐き出していくと曲を奏で始めた。
弾むように打鍵する指に狂いはない。また、曲に対する物足りなさを感じることもなかった。コンサートの時とまったく同じとは言い難いが、心が躍るような演奏であることは変わらない。
店内を包み込む音楽に、耳を傾けていた二人の口許に自然と楽しげな笑みが作られた。
やがて何事もなく演奏が終わり、奏太郎が鍵盤から両手を戻していけば、静まり返った空間に大きな拍手が響き渡る。
「凄く良かったです! もう一度聴くことが出来て、とても嬉しいです!」
喜びを惜しみなく露わにする様は、先ほど以上に感情が高ぶっていることを訴えてくる。当初の上品な印象との違いに驚きながらも、奏太郎は百合子の気持ちを受け取るように笑みを返していった。
そこで時間切れだ。喫茶店を開ける時刻となり、春日と百合子はすぐに開店作業に取り掛かっていく。奏太郎も自主的に窓のカーテンを開ける手伝いをして、再び自分の定位置に戻っていった。
「音羽くん、お疲れ様です」
閉店の時間となりピアノ周辺を片付け終えると、百合子が話し掛けてきた。
『お疲れ様です。初めてで至らない部分があるかと思いますが、今日の演奏はどうでしたか?』
「とても良かったです。やっぱり流石ですね。――あ。それから、私とひとつしか違わないですし、敬語は使わなくても大丈夫ですよ?」
『それを言うなら、春日さんの方じゃないですか。僕の方が年下なので敬語は必要ないです。だから、お互い様ですよ』
「あ、確かにそうですね」
はたと気が付いたように言うと、彼女ははにかんでいく。
『ところで、一昨年のコンサートに来ていたんですね。今日が初対面だと思っていたので、あの曲をリクエストされるとは思いませんでした』
「友達の付き合いで初めて行ったんですけど、とても良い刺激を受けました。みんな音楽を楽しんでいて、特に音羽くんの演奏については感銘を受けましたね。それ以来、毎年欠かさず行っています」
音楽教室で奏太郎よりも上手い生徒は何人も居る。それなのに自分を褒めてくれていることに、奏太郎の中で百合子に対する感謝の気持ちが広がっていく。自分の音楽が人の心の中に残っていることが嬉しいのだ。
『ありがとうございます。僕は今月で終わりになりますが、これからも是非コンサートへ行ってみて下さい』
奏太郎が綺麗な笑みを浮かべていくと、途端に彼女の顔色は朱に染まっていく。何かを訴えかけてくるような潤んだ瞳に、奏太郎は彼女が確かな好意を持ってくれていることに気付いた。
『それでは、お先に失礼します』
表面上は気付かない振りをして、彼女に挨拶すると更衣室を目指していく。その途中で、春日にも声を掛けていった。
他人に好かれることが煩わしいと思う人間はあまり居ない。
奏太郎もごくごく普通の男子だ。異性に好かれて、悪い気はしなかった。そのような感覚を持っていることは、至って正常である。
だからといって、奏太郎の心が百合子に揺らぐことは万に一つもない。寄り道を敢えて覚えず脇目も振らず、ひとりの人物に向かって一直線に突き進むのみだ。そういった面で、奏太郎は男子として異常なのかも知れない。
喫茶店の裏口から外へ出るなり、携帯電話の着信を確認していく。友人の他に、克仁からメールが来ていた。
[遅くなって悪い 二日目だけどまだ要領が掴めない けど頑張ってみせる 音羽は今日バイト初日だな おまえのことだから心配する必要ないだろうけど 上手く行ったか?]
[お互いに忙しいんだから、気にしなくていいよ。今は要領を得ていなくても、伊藤なら絶対に出来るから焦らなくてもいいと思う。俺の方は、今のところ大丈夫みたいだ。緊張しないわけじゃないけど、好きなことをやっているから少し気が楽かな]
そう返信していき、友人たちにも返信を忘れず、奏太郎は携帯電話を閉じていく。家へ戻る頃には、きっと克仁からのメールが届いているのだろう。
克仁が合宿免許に行ってから一週間が経つ。
それまでの二人ははじめこそ互いの現状をメールで伝え合うものだったが、一時的に置かれた環境に慣れだしたこともあり報告のようなやり取りはなくなっている。代わりに、二人で遊ぶ今後の日程を立てるものとなっていた。
卒業式までの間で、空いている日を改めて確認し合う。
一週間の内で、奏太郎が一日空けられる曜日は喫茶店・奏-SOU-の定休日である月曜日しかない。対する克仁は、合宿免許以降は日曜日だけである。噛み合わない時間に落胆しながら、仕方ないと納得するしかない。ゆっくりと顔を合わせられることは叶わないが、僅かな時間ならばと案を出し合った結果、二人は夜の時間帯へと行き着いた。
未成年ゆえに遅くまで傍に居られないが、ほんの二・三時間でも会えないよりかは断然いい。無論、それぞれの状況に合わせることを第一としているため、毎日とは限らない。これまでと同様に無理をしてまで会うことを選ばなかった。
奏太郎の中に寂しい気持ちは変わらずある。本音を言ってしまえば、無理をしてでも毎日会いたいくらいだ。けれど相手を想えばこそ、息苦しくない適度な距離感は必要だろう。そう自分に言い聞かせられたのは、会えなくとも克仁とメールで繋がっているからだ。
バレンタインデーまで日付が迫ると、話題は当日に向けての手順を決めるものへと移っていく。相手へ向けての特別な言葉を同時に贈り合うため、届いてから返すようなやり方では意味がない。
よって、予めメールを作成して置いて同時刻に送信することとなる。それぞれ別の生活を送っているため、問題となるのが時間だ。秒数までを合わせることは不可能に近いが、それ以外ならば可能な範囲である。何時何分と確実に手を空けられる時刻を模索し合い見付け出していく。
二人のやり取りは、それほど難航せずに決まっていった。
そして、当日の二月十四日を迎える。
万が一に備えて目覚まし時計を掛けるが、奏太郎は設定時間前よりも早くにベッドを起きだした。時計が鳴らないように解除しながら時刻を確認すれば、針は午前七時を指している。
約束の時間まで、あと十五分だ。部屋から出ることはせずに、ベッドの端に座りながら携帯電話を握る。メールボタンを押して、昨日までに作成し何度も読み直した文書を確認していく。
[おはよう。今日まで変わらず好きでいてくれて、傍にいてくれてありがとう。伝えたいことはほとんど君の部屋で見せてしまったから、俺から伊藤に贈る言葉は感謝と誓い。君にとって重荷になってしまうかも知れないけど、これは紛れもなく本心なのでどうか受け止めてほしい。これからの長い人生、どんなことが起ころうとも愛する人は一生君だけだと誓います。今は理想を現実に変えられるほどの力は持っていないけれど、少しずつ地盤を固めていって、君がずっと笑顔で居られるように守ることを誓います]
言葉選びが上手かどうかは外に置いて、読めば読むほどに恥ずかしい内容だ。しかし、これ以上は変えられようもない。
そろそろ約束の時間が差し迫り、宛先に間違いはないか確認して携帯電話の時計を注視する。やがて分単位が一五を示せば、多少の緊張を覚えながら送信ボタンを押していく。
送信が完了した途端に、携帯がメールを受信したと知らせてきた。即座に画面を開いていけば、彼にしては珍しく長文な雰囲気である。
[おはよう。伝えたいことをいろいろ考えたんだけど、やっぱ今でも感謝の言葉しか出てこない。俺のことを気にかけてくれて、好きになってくれて、傍に居てくれてありがとう。前にずっととか一生とか言えないって言ったけど、これから先よぼよぼの爺さんになっても音羽と一緒に居られたら嬉しい。その、好きというか愛、いや、なんか恥ずかしくなってきたから、これくらいにしておく。合宿はラストスパートの段階に入ってきたから、しばらくメール送れない。ごめん]
克仁の想いが詰まった文面だ。彼なりに言葉を選んでくれたのだろうか。考えては打ち込んでいき、やがて恥ずかしさに頬をほんのりと赤らめる光景が想像できて、奏太郎の口許が自然と緩む。しかし、最後の辺りで和やかな表情はぴしりと固まった。
一瞬だけ思考が停止してしまったが、すぐに自分を取り戻して克仁へ向けて文字を打ち込んでいく。
[ありがとう。伊藤から貰った言葉を大切に保存しておくよ。しばらくメールが出来なくなるのは残念だけど、どうか謝らないでほしい。応援しながら待っているから、落ち着いたら連絡してくれると嬉しいな。それから、まだ時間はある? 君の声が聴きたくなったんだ。電話を掛けてもいい?]
声を出せないために、奏太郎はこれまで克仁との通話を考えていなかった。だが、送られてきた特別な言葉と連絡が取れなくなることが起因して、暴走する欲望を抑え込むことが出来ずに勢いのまま望みを送り付けてしまう。
すると、数分も経たないうちに克仁から電話が掛かってきた。
通話ボタンを押してから携帯を耳に押し当てれば、『もしもし?』と有り触れた呼び掛けの言葉が流れてくる。しかし、奏太郎は当然ながら応じることが出来ない。
『おまえからのメール、ちゃんと届いた。……やっぱ、音羽って恥ずかしいやつ。返事を返そうとしてた途中だったんだけど、電話口で言っとくな。ありがとう、俺も大事に保存しておくから』
克仁の声は何処か弾んでいて嬉しそうだ。元気そうな様子と声を聴くことが出来たことに、奏太郎の表情は嬉しさに満たされる。
『それと――メールを送れなくなるってヤツ、本当にごめんな。明日は効果測定、明後日は卒業検定があるんだ。ずっと順調に進んできたから大丈夫だろうけど、ちょっと心配だから復習に集中しようと思ってる』
そこで電話口から流れる声が途切れて、まるで言葉を探しているかのような雰囲気があった。じっと待っていると、緊張したような声が発せられる。
『あの、さ……そっちに戻ったら、真っ先に音羽のとこへ会いに行くよ。無事卒業できたら明後日の夕方くらいに戻れると思うから、そしたら一緒に飯食わないか? おまえのバイトが終わるまで待ってるし。あとで返事のメールをくれると嬉しい。それじゃあ、そろそろ切るな』
僅かの間を置いて、克仁が通話を切っていった。奏太郎は携帯を手放さず、すぐに誘いの返事を返していく。
返信は無論、応じる内容だ。せっかく二週間振りに会えるのだから、例え何があろうと断る気はさらさらない。
身支度を済ませてリビングへ向かうと、両親が穏やかに挨拶を投げ掛けてくる。二人に答えながら食卓につけば、誠一郎が何処かいつもと様子の違う息子に首を傾げた。
「朝から嬉しそうにしているね。何かいい夢でも見たのかな?」
『そんなところだよ。今日はバレンタインだし、なんとなく嬉しくなるのかも知れない。父さんの手作りチョコが食べられるしね。母さんもそう思わない?』
本当のことなど言えるはずもなく、ほどよくあてはまることを返すしかない。奏太郎に手話で振られ、母親は訝しがることなく頷いていった。
嬉しそうな妻の笑顔に、誠一郎は照れた笑みを浮かべる。
「そんなふうに期待されると、つい張り切ってしまうね。君も奏太郎も、今日は早めに帰ってくるんだよ。今回は少し凝ったものを作ってみよう」
『うん、楽しみにしてる』
忙しい時間帯と言うこともあり、三人は会話もほどほどに朝食を食べ始めた。
いつものように会社へ行く母親を誠一郎と見送り、奏太郎は防音室に足を向ける。お昼前までピアノに専念していく。
父親と共に昼食をとると、アルバイト先である喫茶店・奏-SOU-へ向かう。
ピアノ弾きとして雇われて、始めは緊張のため打鍵する指にぎこちなさがあった。だが、二週間もすれば指の動きが滑らかになり、思うような演奏が出来るようになっていた。
喫茶店の空気にも馴染みだし、店主である春日や百合子は言うまでもなく、店の常連客とも多少なりに親しみを感じるようになっている。
奏太郎の初となるアルバイトは至って順調に進んでいた。
ただ一つ問題があるとすれば、日増しに女性客が増えていっていることだ。来店客が増えることは店にとって利益であるが、奏太郎にとっては悩みの種である。しかし、人によっては贅沢だと顰蹙を買う場合があり、奏太郎は一度たりとも表面に出したことはない。
彼が密かに問題視しているのは視線だ。演奏中は集中しているため大丈夫なのだが、演奏の合間に四方八方から視線を浴びるのは未だに慣れない。音楽教室の発表会などで慣れているものの、それは視線がひとつの方向からしかなく舞台と観客席の間に一定の距離があったからだ。店内は会場のような距離感のない造りの上、ピアノをぐるりと囲んだ席から注視されてしまうと居心地が悪くなってしまう。
今日はいつも以上に女性客の来店が目立っていた。そしてバレンタインデーだからか、四十分間の演奏後二十分の休憩に入る毎に女性客からチョコレートを差し出されるところまで行っている。
皆は「ファンだから」と口々に言ってくるが、奏太郎はどれも受け取らなかった。これまでに貰ったことがなく戸惑っているからと言うわけではない。特定の相手が居る以上、家族は例外として誰からも受け取らないと決めてきたからだ。残念そうに、或いは悲しそうにする彼女たちに対して悪いことをしているという思いもあったが、今後も考えを曲げることはない。
変則的なことは起こったが、奏太郎は無事に閉店を迎えられたことに安堵した。
「音羽君は人気者ですね」
閉店の作業を終わらせると、店主である春日が話し掛けてきた。微笑ましそうに見てくる様子に、謝罪の意を込めて頭を下げていく。
「はて? 何故、頭を下げるのですか?」
『お客様からの差し入れを断ってしまったからです。丁重に断ったつもりですが、もしかしたら冷たい態度に捉えられたかも知れません。僕の態度が原因で、お店に悪影響があったらと思うと』
「ああ、そういうことですか。お店の為にすべて受け取って下さい、なんてことは言いませんよ。個々の考え方がありますし、仕方のないことだと思います。ですので、音羽君が気にする必要はありません」
『そういって下さると助かります』
「いえ、そんな。感謝をしたいのはこちらの方です。あなたのおかげで、お店が順調に賑わってきているのですから」
嬉しそうな笑みを向けられて、奏太郎も僅かに口許を緩める。
「今日もご苦労様でした。気を付けて帰って下さい」
春日に礼をすることで挨拶を返し、少し離れた場所に立っていた百合子にも会釈を忘れず、奏太郎は更衣室に向かう。
喫茶店を後にして、しばらくしてのことだ。
「音羽くん、待って!」
聞き知った声と駆け寄ってくる足音が聞こえ、奏太郎はその場で足を止めて振り返る。視線の先に百合子の姿があった。
「呼び止めてしまって、ごめんなさい。――これを、あなたに」
息せき切りながら差し出されたのは、小さな白い手提げ袋である。
「渡そうかどうかずっと迷ったんですが、あなたに彼女が居てもやっぱり後悔はしたくないと思いました。……付き合って下さいとは言いませんが、どうかこの気持ちを受け取って下さい」
彼女の声は、華奢な手と同様に微かな震えを見せていた。まるで精一杯の勇気を振り絞って、今ここに立っているのだと告げているようだ。
出会ってから二週間を共に過ごしてきて、百合子は奏太郎にとって好ましい人物だと言える。もしも克仁と出会っていなければ、恐らく彼女に惹かれていただろう。
しかし、あくまでも例えでしかない。
百合子の気持ちをひしひしと感じながらも、奏太郎は白い手提げ袋を手に取ることはしなかった。代わりに、鞄からメモ用紙とペンを取り出す。
『僕は器用な人間ではないので、ひとりの人にしか恋愛感情を持てません。受け止められるのも一人だけです。だから、春日さんの気持ちを受け取ることも特別な贈り物を受け取ることも出来ません』
辛うじて明かりのある場所であったため、躊躇せずにメモ用紙を破って彼女に差し出していく。
『気持ちは嬉しい』とは書かなかった。百合子の気持ちを受け取れないのだから、優しさを見せるのは矛盾しているように思える。その上、意気消沈している相手を慰めようとするのは以ての外だろう。
ぼんやりと佇むばかりの彼女に対して、出来ることと言えば黙って歩き去るしかない。
軽く御辞儀をしたあとその場を離れると、奏太郎は知らず溜め息を零した。断られる方の比ではないだろうが、断る方も気が滅入ってしまうものだ。しばらくは、どうしても互いにぎくしゃくしてしまうかも知れない。
声を聴くことが出来て満足していたというのに、無性に克仁に会いたくなった。
鞄から携帯を取り出そうとして、はっと我に返る。無意識であったが、自分の身勝手な行動に苦笑するばかりだ。今すぐにでも連絡を取りたい思いは強くあるが、克仁からの知らせがなければ駄目なのだと己を律した。
少し寄り道をしてから帰宅すると、玄関に父親は勿論のこと母親の靴が並んでいる。例え仕事が忙しい母でも、毎年変わらず父との約束を違わない。
音羽家のバレンタインデーは、日本に広く浸透しているものと多少異なっている。どちらかと言えば、外国寄りの習慣が根付いていた。奏太郎が以前に克仁に教えた、男女関係なく大切な人に感謝の気持ちを贈るというものだ。
家族三人で夕食を済ませて、デザートに誠一郎特製のチョコレートプリンを美味しく食べる。そして、奏太郎と母親は購入してきた贈り物をそれぞれに手渡していく。無論、感謝の気持ちを添えてである。
両親と和やかに過ごすことにより、奏太郎の中にあった複雑な感情はいつの間にか薄れていた。翌日は音楽教室でアルバイトが休みであることも手伝っているのかも知れない。
バレンタインデーから一日が過ぎ、本日――克仁の合宿免許が順調であれば卒業となる日がやって来た。
喫茶店でピアノを弾いては休憩のたびに、携帯電話のメールを確認するが克仁からの連絡はまだない。残念に思いながら、四時から始まる演奏に戻っていく。
奏太郎が椅子に腰を落とすと、百合子が微笑を湛えながら落ち着いた様子で近付いてきた。
「音羽くん、休憩中にお客様からリクエストが入りました」
視線を逸らすことなく曲名を告げて、彼女は返事を待つように傍で立ち止まったままだ。
こくりと頷いていけば、「よろしくお願いします」と笑みを崩さず離れていく。
努めてそうしてくれているのか、百合子とは杞憂していたような関係になることはなかった。まるで何事もなかったかのように、アルバイト仲間として接してくる。実のところ彼女に対して身構えていたのだが、自分が意識しすぎていたのかと戸惑うほどだ。一方で安堵もしていた。
四時の部の演奏も無事に終えて、再び休憩に入れば懲りずにメールの受信を確認する。やはり克仁からのものはなく、いよいよ落胆の思いが色濃くなった。相手を責める考えは毛頭ないが、楽しみが膨れ上がっていただけに気落ちは大きい。
だが、奏太郎の中にそれらを上回る感情がある。何よりも克仁を案ずる思いだ。無事に卒業できなかっただけならいいが、何か事故や事件にでも遭ってしまったのだろうかと心配せずにはいられない。
だからといって離れている以上は何が出来るわけでもなく、奏太郎はただ気を揉んでいるだけの自分に深く落ち込んだ。やがて想像だけで心を掻き乱していることに気付き、一先ず落ち着こうと深呼吸をしていく。
携帯の時計を見遣れば、そろそろ休憩が終わろうとしていた。ゆっくりと目蓋を閉じて、自分の中にある様々な感情を静める。
休憩から戻りピアノに向かう途中、来店を知らせる鈴が勢い良く鳴り響いた。あまりの大きな音に視線を向けた途端、奏太郎は驚きに身を固まらせる。
喫茶店に入ってきた客は、奏太郎の待ち焦がれていた人物だ。肩で息をしている様子から、走りながら入ってきたのだと知れた。ボストンバッグを片手にきょろきょろと店内を見回し、視線をこちらに止めると破顔する。のだが、他の客に注目されていることに気付き、笑みは引き攣ったようなものに変わった。
やはり克仁は可愛いと、知らず識らず顔が綻んでいく。容姿ではなく、内面がどんどん可愛くなってきている。
克仁が気恥ずかしそうに佇んでいると、百合子が微笑みながら近付いて事務的な応対をしていく。そこまでを見届けて、奏太郎はピアノではなくカウンターに居る春日の許へ進んだ。
「どうされました? 音羽君」
『一曲だけレパートリーにない曲を弾きたいのですが、許して頂けませんか?』
奏太郎から初めて交渉を持ち掛けられて、店主は考える間も見せず穏やかに笑った。
「構いませんよ。たまにはいいかも知れませんね」
『ありがとうございます』
店主に許可を貰うことができ、軽い足取りで今度こそピアノに向かっていく。
歩きながら克仁の姿を探すが、残念ながら一階に居なかった。一階はほぼ満員に近いため予想はしていたが、二階の席に案内されたのだろう。
だからこそ、レパートリーにない曲を弾きたかったのだ。克仁だけが真意を知る曲で喜びを届けたかった。一曲目だけは恋人を想って、二曲目からはいつも通りに曲を奏でていく。
四十分間の演奏後すぐにでも克仁に会いたいが、これまで通り奏太郎は閉店まで休憩室で待機することになる。後片付けもまた仕事の内だからだ。
休憩室に入り、すぐに携帯電話を開いていく。
[おかえり、伊藤。メールがなかったから、何かあったのかと心配した。合宿免許、無事に卒業できたんだね。おめでとう]
[ありがとな。それと悪い。メールをしなかったのは驚かそうと思ってたからだ。早く会いたかったから急いで来たんだけど、すげぇ恥ずかしいことになった。案内された席が二階で最初しか見られなかったけど、急いで来た甲斐があった。あの曲って店のリストにないヤツだよな。俺が来たから? なんてな]
[俺にとって特別な曲だから、もちろん特別な君に向けて弾いたんだよ。あとでゆっくりと話そう。もうすぐ閉店だから、お店の前で待っていてほしい。後片付けが終わったら、すぐに行くから]
[わかった、待ってる]
克仁からの返信でメールのやり取りを終わらせて、奏太郎は閉店時間が早く来ないかと今日ばかりは待ち侘びた。
春日や百合子への挨拶もそこそこに、喫茶店の裏口から外へ出る。それから足早に表口へ周り、克仁と待ち合わせた場所に辿り着く。
「音羽、お疲れ」
奏太郎に気が付くなり、克仁が満面の笑みを浮かべながら話し掛けてくる。
『お待たせ。疲れただろう? 何処かお店に入ろうか』
「あー、えーと……おまえと二人きりになりたいし、俺んち来ないか?」
緊張した面持ちで誘われて、外食のつもりでいたため考え込む。断る気は毛頭ないが、現在の時間帯は気軽に家へ遊びに行く時間ではない。伊藤家にそれほど馴染んでいるわけではないので尚更だ。
様々な考えを巡らせて、奏太郎はようやく答えを見出した。不安げな克仁を見詰める。
『ごめん、この時間にお邪魔するのは悪いよ。伊藤の家へ行くのは遠慮するけど、代わりに俺の家へ行く? 父さんたちも喜ぶし、伊藤が大丈夫なら泊まっていってもいいから』
「いいのか? その、遊びに行くだけじゃなく泊まっても」
『もちろん。君が泊まっていってくれたら嬉しい。けれど、まずは家の人に連絡を取ってからだね』
奏太郎の手話に、克仁は嬉しそうに頷くと携帯電話を取り出した。家に電話を掛けている横で、奏太郎も誠一郎に食事がひとり分増えることと泊まることをメールで伝えていく。
家族との通話を終えて、克仁が携帯電話をしまっていった。
「お袋が、音羽んとこならいいって」
『良かった。――けれど、顔を会わせる機会があまりなかったのに、随分と信用してくれているんだね』
「おまえのこと、ときどき話してるからな。俺が変われたのはおまえのおかげだってことも知ってる」
『君の家族に信用されて嬉しいけど、伊藤が変われたのは君自身の努力があったからだよ』
「そんなことねぇよ。って、堂々巡りになりそうだから、そろそろ行こうぜ?」
『そうだね、早く帰ろう』
互いに微笑み合うと、二人はさりげなく寄り添うように歩き出す。
「いらっしゃい、伊藤君。遊びに来てくれて嬉しいよ」
音羽家の玄関へ入るなり、音羽夫妻が温かな笑顔で克仁を迎え入れた。
「こんばんは。突然ですみませんが、今日はお世話になります」
奏太郎の隣で克仁が御辞儀をしている。笑みを絶やさないまま見守っていると、こちらに気付いたようだが照れたように視線を外していった。
「奏太郎もお帰り。食事の準備はもう出来ているから、二人とも荷物を置いたら来るんだよ」
『うん。行こう、伊藤』
これまでと変わらず案内するように階段を上がり、自室へ迎え入れるように扉を開けていく。先に相手を通してから中へ入って、それぞれの荷物を置くとすぐに一階のリビングと繋がっているダイニングキッチンへ向かう。
食卓の上はすでに様々な料理が置かれており、音羽夫妻が椅子に座って会話を交わしながら二人を待っていた。奏太郎は母の向かいに座り、克仁は誠一郎の向かいに身を落ち着かせる。
「それじゃあ、ご飯を食べようか。伊藤君も遠慮せずにたくさん食べるんだよ」
「はい、ありがとうございます」
克仁の返事に微笑むと、誠一郎が食事の挨拶をしていく。三人は会釈しながら彼に続いていった。
音羽家の食事風景は、克仁が加わることによって和やかさの中に少しの賑やかさが生まれていく。彼らの話題は、ほとんどが克仁の合宿免許で多くを占めていた。
やがて食事は滞りなく終わり、克仁の前にデザートとしてチョコレートプリンが置かれる。同様に、奏太郎たちの前にも同じものが並んだ。
「これって……」
言葉足らずであるが躊躇いがちに克仁が訊ねれば、誠一郎は穏やかな笑みを絶やさないままに応じていく。
「バレンタインデーに渡したかったものだよ。今日は君が帰ってくると聞いて、もしかしたらと思って朝の内に作って置いたんだ。来てくれて、本当に良かった。ほどよい甘さにしてあるから、一緒に食べよう」
彼の言葉を聞いて、克仁は皆の反応を探るように見ていく。誠一郎の妻は微笑んで促すようにこくりと頷き、奏太郎は相変わらずの嬉しそうな笑みを僅かに深めていった。
三人が柔らかに見守っている中で、克仁が「戴きます」とスプーンを手にしてチョコレートプリンの一部を掬っていく。ゆっくりと口にした途端、緊張したような表情は美味しさに綻んだ。
「美味いです」
「良かった。君に勧めてみたものの、実は口に合うかどうか心配していたんだ」
「俺なんかのために、わざわざ用意してくれて……なんて言えばいいか、ありがとうございます」
軽く頭を下げていく克仁に対して、誠一郎は困ったように首を左右に振っていく。
「伊藤君は僕たちにとって、家族みたいなものだから遠慮も謙遜も要らないよ。――君と出会ったのは高校一年生の秋頃だね。当時から妻と一緒に見守ってきたのだけど、どんな困難にもめげず成長していく姿が見られて、僕たちはとても嬉しかったよ。社会人となっても変わらず、様々なことを学んで成長していってほしい。奏太郎と同じように、伊藤君のことをいつまでも見守っているよ」
温かな言葉だ。誠一郎の心に染み渡るような優しい想いに、克仁の双眸が次第に潤みを見せる。スプーンを置いて涙に耐える姿に、奏太郎は泣いてもいいのだと彼の頭をそっと撫でていった。
息子と息子のような彼を微笑ましげに眺めていって、誠一郎は妻と顔を見合わせると何かを確認するように頷き合う。表情は先程と打って変わり、真剣なものである。
「ずっと知らない振りでいようかと思っていたのだけど、今日は二人揃っているしいい機会だ。……奏太郎、僕たちに何か言うことはないかい?」
何かを示すような物言いで話を振られ、奏太郎は内容を理解すると全身を強張らせた。克仁から手を離して、両親と向き合うように姿勢を正していく。
隣で克仁も何かを察したのだろう。目許を拭うなり身を正し、覚悟の意思が宿った目で音羽夫妻をじっと見詰める。
数分間の沈黙のあと、奏太郎は意を決して微かに震える両手を動かしていく。
『父さんと母さんを不孝にしていると分かっているけれど、俺は……伊藤のことが好きです。友人としてではなく、恋愛感情を持って付き合っています。この気持ちは一時的なものではなく、時間が許す限り――一生を彼と一緒に歩んでいきたいと真剣に考えています』
「……そうかい。……付き合っていると言うことだけど、伊藤君はどうなんだい?」
「俺も、音羽クンと同じ気持ちで付き合っています。まだ家族に打ち明ける覚悟が足りてないけど、合宿免許に行っている間にいろいろと考えました。例え家族に許されなくても、難しいことだと分かってても、ずっと、ずっと傍に居ようと決めています」
奏太郎と克仁の意思の固そうな目を交互に見て、誠一郎は深い息を吐き出していった。それは呆れからくるものか、怒りを抑えるものなのかは判別がつかない。
「なるほど、二人は勘当される覚悟で付き合っていると言うんだね?」
更なる確認に、二人は迷わず頷いていく。
「君たちはまだ若い。これから先、二人で生きていくのは難しいだろう。生きている限り、二人だけの世界なんてものは存在しない。他人との関わりで、世の中は成り立っているんだ。やがて、やむを得ず別れの日がやって来ることもある。その時、後悔をしないと言い切れるかな? 周りの所為にして、現実から目を背けたりしないかな?」
誠一郎にしては珍しく厳しげな切り口だ。
視界の端に、克仁が項垂れている姿が見える。奏太郎はすかさず、彼の強張る手を力強く握り締めた。『大丈夫』と言うように、手の甲を優しく叩いてから戻していく。
『正直に言うと、先のことを予測しても何があるかも判らない。それでも、二人で一緒にいられる方法を俺たちなりに探している。俺の覚悟は父さんが言うようなこともあるけど、それだけじゃない。すべてのことに対して受け止める覚悟だって、ちゃんとある』
「――そこまで覚悟できているのなら、僕たちは何も言わないよ。ただ、親としては複雑でもあるね。息子の意思を尊重したい想いと、将来の花嫁と孫を見てみたい想いが半々にある。けれど、君たちの人生は君たちのものだ。いくら親だからと言って、これから歩む君たちの道を強制することはできない。二人が何処まで行けるのか、僕たちだけでも見守っていよう。何かあれば、いつでも相談に乗るよ」
言いたいことをすべて出し切ったのか、誠一郎の表情は普段の穏やかなものへと変わっていった。隣にいる妻もほっとしたように表情を和らげている。
手放しとまでは行かないが、克仁とのことで両親に許されて、奏太郎は小刻みに肩を震わせた。二人の深い愛情がひしひしと伝わり、両の目からは涙が止めどなく溢れていく。
『ありがとう、父さん母さん。親不孝な息子でごめん。ずっと伊藤とのことを伝えたかったんだ。もしも伝えて、父さんたちが悲しんだら、伊藤を嫌ってしまったら、そう思うとなかなか勇気が出なかった。伝える機会を与えてくれて、ありがとう』
手話だけでは足りないと、両親に向かって感謝と謝罪の意味を込めて深く頭を下げていく。奏太郎の横で克仁もまた自分を思い遣る手話に涙し、音羽夫妻の広く深い優しさに御辞儀をしたままでいる。
「二人とも顔を上げなさい。折角のプリンが台無しになってしまうよ。涙も拭いて、一緒にデザートを食べよう」
困ったように促されるが、やはり二人は顔を上げられない。
「仕方ないね。先程は厳しく言ったけれど、同性愛だとしても相手が伊藤君で良かったと僕たちは思っているよ。二人が出会ったことで、お互いにお互いの成長を促し合っている。これまでも、そしてこれからもそうなるだろうね。それはきっと、稀少な出会いだ。お互いを大切にして行きなさい」
ことさら柔らかな声で話し掛けられ、奏太郎と克仁はゆっくりと顔を上げていく。未だ涙は止まず、誠一郎と彼の妻を見詰めるばかりだ。
暫くして、二人は落ち着きを取り戻す。乾いた涙は頬に跡を付け、直視しがたいものとなっていた。デザートを食べれば風呂と言うこともあり、気にせずチョコレートプリンを食べていく。
「あの……いつから俺たちのことを?」
奏太郎に代わり、克仁が躊躇いがちに疑問の声を上げた。
「そうだね、確か君たちが二年生の時で冬の頃かな。伊藤君が奏太郎の部屋に荷物を置いていった日だよ。君の様子がおかしかったことと、家に帰って奏太郎が上の空だったことで何かあったんだろうなと思っていたんだ。よくよく様子を見ていたのだけど、君たちの雰囲気がなんとなく今まで違う感じがしてね」
「……そうだったんですか」
誠一郎の優れた洞察力に、克仁は相槌を打つのみだ。あとは恥ずかしそうにしながら、目の前にあるプリンを平らげていく。
「さて、お腹も満たしたことだろう。伊藤君、先にお風呂へ入っていいよ」
一番風呂を勧められて、礼とともに克仁が席を立てば奏太郎もまた椅子から立ち上がる。
『――案内するよ。使い方とかも教える』
奏太郎の心配りに克仁が頷くことで、二人は連れ立ってその場を後にした。
一旦部屋に戻り必要なものを手にすると、一階にある浴室へ向かう。そこで奏太郎は一通りのことを教えて、ついでに顔を洗うと克仁用の布団を取りに別室へ足を速める。
寝具を自室に持ち込み、テーブルや荷物を隅に寄せて、ベッドの隣に布団を敷いていく。用意が整えば、再びダイニングキッチンへ舞い戻った。食事の後片付けを手伝うためだ。先程のやり取りで顔を合わせづらくもあるが、極力普通で居ようと思っている。
誠一郎と母親の態度は、これまでと変わらなかった。まるで何事もなかったかのように接してくる。安堵する反面、気を遣わせてしまっていることに詫び入る思いもあった。しかし、今回の件に関してはどうしようもない。
途中から加わったため、後片付けはあっという間に終わった。父親と母親は隣接したリビングへ進み、仲良くソファーに座ってテレビを見出している。
二人に食後の御茶を差し出し、自室へ行くことを伝えてから部屋を出て行った。克仁と自分の飲み物も忘れずに持っていく。
自室に戻るが、克仁はまだ風呂から上がっていないようだ。次に入れるように準備をしていると、ノックのあと遠慮がちに扉が開いた。
部屋に入ってきたのは、言うまでもなく克仁だ。スウェットシャツにパンツの格好であるが、濡れて艶やかに見える茶色がかった黒髪に胸の鼓動が一際大きく脈打つ。色っぽく感じられるのは、やはり惚れた欲目からだろうか。
これまでに互いの家へ泊まることがなかったため、初めての湯上がり姿に見入ってしまう。
「……音羽?」
不思議そうに首を傾げられ、はっと我に返る。
『何でもないよ。湯加減は大丈夫だった?』
「いや、シャワーの方だけ借りた。ごめん、ありがとうな」
『気にしなくていいよ。それじゃあ、俺も入ってくる。水とコップをテーブルに置いておいたから、好きに飲んでいていいよ。部屋で好きにしていていいから』
相手を見詰め続けることが出来ず、伝えたいことだけを伝えると一目散に浴室を目指していく。
自室で克仁が待っているため、奏太郎はいつもより手早く入浴を済ませた。多少は頭も冷静になり、落ち着いた気分で部屋に戻る。
「あ、おかえり」
用意された布団の上に座っていた克仁が、小さな笑みを浮かべながら迎え入れてくれる。見たところ、部屋のものを手に取った様子はない。
『ただいま、部屋のものを勝手に使って良かったのに』
「そうしようかと思ったんだけど、なんか、いつの間にかぼーっとしてた」
僅かに苦笑いを浮かべる表情に、克仁が何故ぼんやりとしたのかを悟った。
『さっきのことが原因?』
傍まで近寄って真正面に向き合えば、浮かなそうに小さく頷いている。
「成り行きみたいな感じになったけど、本当に打ち明けて良かったのかな? 俺たちのことを許してくれたことに嬉しさがないわけじゃない。だけど、なんか手放しに喜べない。実際に誠一郎さんたちの反応を見たら、すげぇ悪いことをしているように思えてくるんだ」
『俺は良かったと思っているよ。父さんたちに関係を知ってもらえたことは、はじめの一歩――つまり俺たちにとってのスタート地点だと思うんだ。これから少しずつ、本当の意味で認めてもらえるように歩み寄っていこう』
「うん、そうだな。……はじめの一歩、スタート地点か。確かに、恐いからって黙ったままじゃあ何も始まらないよな。俺が家族に打ち明けるとき、一緒に居てくれるか? 音羽んちみたいに寛容じゃないから、結構大変だと思うけど」
『もちろん、必ず付いていくよ。認めてもらえるまで、何度だって挨拶をしに行く』
生真面目な顔で応えていくと、何故か克仁が思わずといったように噴き出していった。奏太郎が首を傾げれば、笑いに肩を震わせながら抱き付いてくる。
「なんか、結婚を前提にしたようなやり取りだな。息子さんを僕に下さい、みたいなさ。そういや――バレンタインのメールもそんな感じだった」
そう言うなり、克仁は柔らかく笑んで目蓋を閉じると唇を寄せてきた。奏太郎も応えるように顔を近付けていき、互いの唇がしっとりと合わさっていく。
はじめは互いの唇を啄み、やがてゆっくりと舌を絡め合う。ざらざらとした感触をしばらく楽しんで、やがて唇を離していった。
「あのさ、布団を敷いてくれたのに我が儘言うんだけど、おまえの隣で寝ていい? おまえとくっついてたい」
『それは、誘っているということだよね』
からかい混じりで両手を動かせば、克仁は頬を赤らめて拗ねたようにそっぽを向いてしまう。
「誠一郎さんたちが居るのに、誘うわけねぇだろ。……あと、心の準備っていうか身体の準備も出来てねぇし」
最後の方はぼそぼそと小声であったが、充分に聞こえる範囲だ。要するに誰も居なく事前準備が整っていれば、誘っていたと言うところだろうか。
奏太郎は眩しそうに目を細めながら、優しい仕種で克仁の顔に両手を添えて真正面に向けさせた。
『ごめん、からかっただけだよ。俺も父さんたちが居るときにやろうとは思わないよ。――おいで』
掛け布団を捲って、恋人の腕を引っ張り自分のベッドへ誘う。
克仁は素直に応じて、布団の中へと入っていく。奏太郎も筆記用具を手にしてから後を追った。
一人用のベッドと言うこともあり、二人は身を寄せ合うようにして横になっていく。
「……明日からまた、ちょっとしか会えなくなるな。高校を卒業したら、どんくらい会えんだろ? きっと、今よりも少ないんだろうな」
離れたくないと訴えるように抱き付きながら、克仁が寂しそうに話し出す。
「二週間とちょっと離れることになって、会えない代わりにメールで我慢したけど、やっぱ無理そうだって分かった。やっぱ面と向かって話したいし、音羽とキスしたり抱き合ったりしたくなる」
自分も同じ気持ちであることを伝えるように、奏太郎は抱き締め返して彼の背中を撫でていく。
「それで思ったんだけど、二人で一緒に暮らしてみない?」
期待に胸を膨らませているような表情を間近で見詰めながら、奏太郎は誠一郎と一人暮らしについて話した日を思い起こした。二人暮らしであれば、家賃や光熱費などを出し合うことになるが、奏太郎の考えは父親に話したとおりのままだ。
金銭面で学生と社会人では、いずれ後者に負担が行ってしまう恐れがある。問題はそれだけでなく色々とあるが、第一に二人はどちらも未成年だ。契約するには親の同意が必要になってくる。
動きやすい方の手を動かして近くに置いたメモ用紙とペンを取り、克仁の背中側で文字を綴っていく。非常に書きにくい体勢であるが、なんとか読み取れる文体だ。
『一緒に暮らそうと言ってくれて、ありがとう。誘いを断るつもりはないけれど、卒業してからすぐは無理があるよ。半年いや一年くらいは準備期間がほしい。その間に君の家族に挨拶を済ませて、二人暮らしを認めてもらえるように話し合おう』
メモ用紙を手渡して、相手が読み終わるのを待つ。克仁の反応は、何処か複雑そうである。
「これって、恋人として挨拶するってことだよな。友達として話を進めていけば、簡単に二人暮らしを認めてくれると思うぞ?」
『それはどうだろう。友人でも、結局は他人同士だからね。一緒に住むとなると、やっぱり家族は心配するんじゃないかな。それに、その場凌ぎはいつかぼろが出てしまうと思うんだ。あとで慌てたり揉めたりするよりも、事前にやれるだけのことをやった方が安心だろう?』
「じゃあ、万が一駄目だったら?」
『成人してから一緒に暮らそう。それでも遅くないと思うよ。それと、あまり考えたくないけど勘当なんて事態に陥ったら、父さんたちに頼んで成人するまでここに居られるようにしておくから』
今後のことを見据えての文面は何処までも前向きだ。勇気付けられたかのように、克仁の表情から不安そうなものは掻き消えていった。
「最後のところで誠一郎さんたちに迷惑を掛けるところがネックだけど、そうならないように頑張るしかないか。それに、音羽が居ると何もかも上手く行きそうな感じがしてくる。心強いっつーか、頑張れば報われる気になる。――てか、今までがそうだったから、だな」
『俺も同じだから、お互い様だ。さて、もう十一時になりそうだし、そろそろ寝よう。まだ話していたいけれど、明日はいよいよ免許取得の大事な試験だろ?』
気遣いを記したメモ用紙を渡していけば、克仁は残念そうにしながらも素直に頷いている。
『電気を消してくるから、少し離れるよ』
先ほどの文に付け加えて見せていくと、奏太郎は片手で筆記用具をベッドの端へ置いていく。そして、克仁から腕を放して布団から抜け出ていった。
必要のなくなったメモ用紙とペンは机に移動させ、部屋の照明器具のスイッチを切っていく。僅かに残った明かりを頼りにベッドへ戻れば、克仁の小さな寝息が聞こえてきた。疲れているにも関わらず、合宿免許が終わってそのまま会いに来てくれたのだから無理もないだろう。
二週間と少ししか経っていないのに、久し振りだと感じる安らいだ寝顔に思わず微笑んでしまう。
『おやすみ』と頬に軽く唇を落としてから、仰向けになって目蓋を閉じていく。無意識に擦り寄ってくる克仁の体温を感じながら、奏太郎は心地の良い深い眠りへ落ちていった。