【連載版始めました】その娘との婚約を破棄するには、相応のリスクがある
「ティナ、君には呆れたよ。僕との婚約を破棄して、ここから出て行ってくれないか」
婚約者、兼上司であるマクエルの一言に、ティナは絶句した。
「こ、……婚約を、破棄……?」
震えた声で尋ねると、マクエルは険しい顔で頷く。
その瞬間、ティナは「ひょっとして18歳の誕生日を祝ってくれるのでは」なんて淡い期待を抱いた自分を殴りたくなった。
「ああ。……理由はわかるだろう? 君の数々の不正だよ」
「ふっ、不正……!?」
「とぼけないでくれ。君が仕事を同僚に丸投げしていたことも、会計の文書を改竄して不当な収益を得ようとしたことも既に知っているんだ。当然解雇になる」
「解っ……!?」
先ほど以上の衝撃に襲われ、目の前が真っ暗になる。マクエルが発した不正の数々は、断言できるほどに覚えがない。
当然だった。ティナはただ、身を粉にして働いていただけなのだ。
「やっ、やってないです、そんなこと……! そもそもっ、私は仕事中自分の部屋から一度も――」
「出ていない、と? それを誰が証明できるんだ。事実、君に仕事を押し付けられたと証言している人間は何人もいるし、会計の文書だって改竄されていたんだぞ」
「そ、それは、今初めて聞きましたし、それに詳しい事情が……」
「見苦しい。会計の収支報告は君の担当だっただろう? 君以外に誰が改竄なんてできると言うんだ」
「……」
確かに、ティナは専門の資格がいる収支報告の仕事も請け負ってはいた。
でもそれはマクエルに頼まれたことで、他の仕事で多忙だったティナが望んだことではない。改竄なんてする余裕も、三徹が当たり前の激務じゃ皆無だ。
「話はおしまいだ。……ティナ・シストロイズ、これを以って、君を魔法省南部第3支部から解雇する。もう二度と僕の前に現れないでくれ」
「まっ、……まって、マクエル様!」
「黙れ。明日になってもここにいるようなら衛兵に突き出すからな」
ティナは去り行く婚約者の姿を追おうと踏み出し、しかし、彼から女性ものの香水の匂いがするのを嗅ぎ取って思わず足を止めた。
勢いで足がもつれて転び、それと同時に気力も削げる。
(解雇って、わたしこれからどうしたらいいの……)
そもそもとしてティナは、ここ――魔法省の南部第3支部での『永年雇用』を、確かに約束されていたはずだった。
そして永年雇用を確約すると言ったのは、婚約者兼副支部長のマクエル・チェスターだ。
マクエルは元々、ティナの父親の後輩だった。
ティナの父は魔法生物学者である。
若くして国に認められた逸材だったが、ちょうど10年前、ティナの8歳の誕生日に事故で亡くなった。
母親はティナを産むと同時に亡くなっており、縁者もおらず、残されたのは遺産だけ。
そんなティナに優しく声をかけてくれたのが、当時15歳のマクエルだった。
『君がティナかい? 初めまして、僕はマクエル・チェスター。君のお父さんの後輩だ』
『ねえ、君さえよければ僕のところに来ないか? 僕の父は男爵でね、魔法省の南部第3支部で支部長をやっているんだ』
『僕たちは君を支援したいんだ。あのアステル・シストロイズさんの娘となったら、きっと君もとびきり優秀だろうし――』
そんないきさつで、8歳のティナはそのままチェスター男爵家の居候になった。
ただ、待遇は決して良かったわけじゃない。
チェスター男爵は平民のティナを毛嫌いしていたし、プライドが高い男爵夫人に追い出されかけたことだって数えきれないほどある。
真冬にバルコニーで寝させられた時は死を覚悟したくらいだ。ティナの扱いは使用人以下で、ほとんど奴隷といって差し支えなかった。
(職場から追い出されたら、わたしどうなってしまうんだろう……)
執務室の床にへたりこんで何分が経っただろう。やっと立ち上がったティナは、とぼとぼと廊下を歩きながら溜息を吐いた。
15歳で魔法学園を卒業し、永年雇用の約束で魔法省の南部第3支部に勤め――そのまま3年。
やってもやっても減らない仕事を1人でやっとこなした結果がこれだ。覚えのない悪事で糾弾され、婚約も破棄され、職までをも失おうとしている。
(……マクエル様と婚約した時は、やっと幸せになれるんだって思ったのに……)
マクエルに婚約の打診を受けた時、ティナは何かの冗談だと思った。
彼は貴族の長男だし、何より男爵も、男爵夫人も、ティナのことを嫌っている。
それでもマクエルはティナが良いと言ってくれた。男爵たちもどうにかすると、僕は君だけを愛していると伝えてくれて、涙したのだってよく覚えている、のに。
「……で、出ていかないとだわ……」
あの日を思い出すとまた泣きそうになる。拳を握り、ティナはぐっと前を向いた。
副支部長かつ、支部長の息子のマクエルがああ言ったのだ。もう何を言っても結果は変わらないだろうし、とにかく奮起である。
まずは職員寮から自分の荷物を全て出して、新しい職を見つけなければならない。
(まずは、何よりもお金……! お父さんとお母さんが残してくれた遺産がまだそっくりあるはずだもの)
小さく作ったガッツポーズを控えめに突き上げ、ティナは地面を踏み締めた。
(も、もう泣かない……! わたし、独り立ち、する!)
◇◇◇
そんなわけで、内気なティナはふんすと意気込みながら行動を開始した。
何より必要なのはお金である。両親の遺産がそっくり残っているはずだし、当面はそれを使えば良いだろう。
ということで、まずは朝の開業と共に銀行へ駆け込んだのだが。
「えっ、お金、全額ないんですか……!?」
「だからそう言ってるでしょ、お客さん。もう帰ってくれないかね」
銀行職員の言葉に、ティナはまたも絶句した。
「そっ、そんなはずは……! だってわたし、10年前に預けててっ」
「だから入ってないもんは入ってないの。な〜んもなしだ、すっからかんだ。貧しすぎて幻覚でも見てるんじゃないの?」
「まさか……! どうかもう一度確認を――」
「知らないよ。とにかく、お客さんの金庫には一銭も入ってないんだ。諦めてくれ」
職員は片手をしっ、しっと追い払うように振り、すたすたと去っていく。残されたティナはどうすることもできず、「うう」とその場に蹲った。
入っていないはずなんてない。男爵家への居候が決まった日、ティナは確かにマクエルとここに来て――。
(……あ)
そう記憶を漁ったところで、零れかけた涙がぴたりと止まる。
ある程度察しがついてしまった。というか、必然的にそうだった。
金庫の中身をティナが引き出していないとなれば、残る可能性はもう、『マクエルが引き出した』しかない。
「……わ、わたし、もしかして最初から騙されて……」
己の不甲斐なさを呪い、ティナは両腕に顔を埋めた。婚約を破棄されて、働かせるだけ働かせられて、お金も仕事も奪われた。
もはや然るべき場所に訴えるべき案件だとも思うが、こんな田舎町じゃ、男爵貴族の影響は絶大だ。
ティナの推測が当たっていたとしても、誰かが貴族を糾弾してくれるとは思えない。
(前途多難って、きっとこういうことを言うんだわ……)
いっそ草にでもなってしまいたい。
心がぼきぼきと折れる音を感じながら、ティナはふらつく足で立ち上がった。
「……とにかく休みたいなあ」
働き始めてからというもの、日々の睡眠時間は3時間あれば良い方だった。
徹夜は当たり前。生活を削って仕事をする日々で、ティナの体はもうぼろぼろになっている。
(ああ、せめてこんな時くらいたくさん寝たい……あと欲を言えばフェンリルの毛皮に埋もれたい……)
小さい頃、父が自作した魔法生物図鑑で見たもふもふの毛皮を思い出しながら近くの公園に入る。
すると、井戸端会議に励んでいた主婦たちが目ざとくティナの姿を見つけた。
「……ねえ、見て。魔法省を追い出された女だよ」
確実にティナのことだ。ティナは自分の無駄に良い耳を恨みながら、控えめにベンチに座った。
ここエルン王国では、魔法関係の職に就くことが大変な名誉であるとされている。
その中でも特にエリートが集まるのが、国内の魔法に関する事柄を一手に引き受ける機関――『魔法省』だ。
チェスター男爵が支部長を務める南部第3支部は、国の南の方の――その更にちょっと田舎を管轄する支部である。
……正直少し存在感は薄いが、腐っても天下の魔法省。特に、世間知らずの田舎者であれば、魔法省というだけで平伏するだろう。
「ああ、あの子。チェスター様のところの息子と……」
「魔法省のお金をちょろまかしてたって。ほんとああいう子はねえ……」
……そして何より、田舎は情報が早い。
主婦たちの侮蔑の視線に晒されながら、ティナは鞄を漁った。
(今の持ち物は……替えの服が一着と、杖と、あとお父さんのノートと……あと、マクエル様に貰ったアクセサリーだけ、か。……先立つものがないなあ)
一応魔法省で働いていたティナだが、南部第3支部は末端も末端。貰える給金は微々たるものだった。
(……ここまで悪い噂立てられたら、この辺で働くのは無理かなあ)
せめて隣町にでも移動すべきだろうか。
「あ、見て。〈白鷲〉よ」
そう考えていたティナは、主婦の言葉にぱっと視線を上げた。西の方の空を見上げると、確かに真っ白な翼をした大鷲が空を悠々と飛んでいる。
「あら、もう9時? 早いものねえ」
「今日は特段時間が経つのが早かったわあ。そろそろ帰ってお昼の準備をしないと……」
(……もう、そんな時間?)
エルン王国では、頻繁にああいった――人に害を為す魔法生物、通称『魔物』が姿を現す。
白鷲はその中でも危険度が低いもので、討伐隊の新人の練習にも使用される魔物だ。
習性上、朝の9時近辺に現れるため、この辺りでは白鷲を時報代わりに使う住民も多い。
(あれ? まだ8時にもなってない。白鷲がこんな早い時間に出ることなんてあったかな……)
不思議に思いつつも空を見上げ、ティナは山の方へ飛びゆく白鷲を見送った。じきに、南部第3支部から討伐隊が派遣されるだろうが……。
(でもあの子、ちょっと飛び方が変わってたような……白鷲って、薄い羽をバタバタ動かして飛ぶ魔物だよね?)
無意識に両手で飛び方を真似しながら、ティナはううんと考える。
先程の魔物は、大きな羽を最低限の動作で動かし、上手く風に乗っていた。飛行能力が低い白鷲にしてはやけに悠々とした飛び方ではなかったか。
ティナは、魔法生物学者だった父の影響で魔法生物が好きだった。
その知識量はそこらの学者を凌ぐと言っていい。ティナの頭には、あらゆる魔法生物のデータがこれでもかというほど詰まっている。
(……あ)
そこでひとつの可能性に行き当たり、ティナはベンチから転げ落ちるようにして立ち上がった。
(違う、……あ、あれ、白鷲なんかじゃない……!)
あの優雅な飛び方を、ティナは父の手帳の中で読んだことがある。
「り、〈竜鷲〉じゃない……!」
竜鷲。鳥型魔物の中でもとりわけ危険な種類だ。
その皮膚は竜の鱗のように硬く、気候や温度によって変色する特徴を持つ。飛行能力も鳥型魔物の中でトップクラスに高い厄介な魔物だ。
それに加え、上級魔物である竜鷲は魔法を扱うことができる。大きな口から炎を吐き、足から風を発生させるのだ。
(なんでこんな田舎に竜鷲なんて……!)
上級魔物は、魔法省の本部から大規模な討伐隊が結成されるほど危険な存在だ。こんな田舎のちっぽけな討伐隊じゃ、きっと傷ひとつ与えられない。
「どっ、どうしよう、向こうは……!」
竜鷲が飛んで行ったのは山の方だ。この時間なら、猟や林業で生計を立てている人が山ほどいるだろう。
(助けなきゃ……! でも第3支部の討伐隊じゃとても相手にならないし、今朝解雇された私の話なんて聞いてもらえるかどうか……)
無力を承知で向かうか、仕方ないと諦めて立ち去るか。
はやる鼓動の中辺りを見回すと、口々に何かを喋りながら公園を後にする主婦たちの姿があった。
彼女らは、先程までティナの陰口を叩いていた人たちだ。
人の噂話と、陰口が何よりも好きな人たちだ。ここにはそんな人ばかりが暮らしている。
そしてティナは、そういった人間の格好の的だった。コネで魔法省に所属した男爵家の居候なのだと、真っ向から言われて心を痛めたこともある。
「い、……いかなきゃだめ……」
でも、それでも、見捨てて良い人などいない。
(わたしが何かできるとは思えないけど……でも、避難誘導くらいならできるかもだし……!)
走って公園から出ると、ティナは人気のない開けた場所に出た。
「や、やる、一旦がんばる……仕事は、そのあと探すんだからっ……!」
震える声で己を鼓舞し、祈るようにして両手を繋ぐ。すると、右腕につけたブレスレットが微弱な光を発した。
ティナの父、アステル・シストロイズは、著名な魔法生物学者だ。
アステルには才があったが、その一方で父は親戚から揃って縁を切られていた。エルン王国民としての禁忌を犯したからだ。
この国の人間は、過去の歴史から竜を嫌う。
数百年前、国を甚大な竜被害が襲ったからだ。
たくさんの竜が吐く炎によって地が焼かれ、巻き起こす風で人が死に、それが年表の一部となった今でも竜は不吉の象徴だ。
アステルは、いつだってそんな竜の姿を追い求めて旅をしていた。
竜に関する研究を行うことはエルン王国民としての禁忌である。アステルはそれを知りながらもひたすらに精査と調査を続け、そしてついに成し遂げたのだ。
今や架空の存在となっている竜を、彼はたった1人で見つけてしまった。
(……マクエル様に取られたのがお金だけでよかった。このブレスレットまで取られたら、お父さんに顔向けできないもの)
祈りのポーズで静止したティナの周りを、不自然に強い風が包む。
耳鳴りを感じた。もうすぐだ。
「き、――……きて、クロっ……!」
そう呟いた瞬間。
暴風が突き上げ、ティナの身体が一瞬にして浮き上がった。
浮いたティナは何かにぶつかる。
必死にしがみつきながら目を開けると、真っ黒な鱗に覆われた巨体が目に入った。
巨体は大きな翼をはためかせ、空へ向かって急上昇する。
巨体に振り落とされぬよう手に力を込め、ティナは思わず頬を緩めた。この巨大な影は、エルン王国では神話上の存在とされている禁忌の生物──竜だ。
「ク、クロ……! 来てくれたの!?」
クロと呼ばれた大きな竜は、器用に片翼でティナを背へ放り投げた。
「お前が呼んだんだろうが。それと、クロじゃなくて〈クロウスショット・クロロフィル――」
「ねえクロっ、向こうの山に行って! 竜鷲が出てるの!」
背の上で叫べば、クロは呆れたように目を細めた。
「竜鷲?」
「そうなの! 見ただけだけど多分そうだわ……!」
「ほお? お前が追い払おうというのか」
クロの身体がグンと上昇して飛び、高所恐怖症のティナは固く目を瞑った。
クロ――個体名を〈クロウスショット・クロロフィル・アイルブラン〉というこの黒竜は、長年の研究の末父が出会った魔物だ。初めて彼の姿を見たのは、ティナが5歳の頃だった。
ティナも詳しくは知らないが、とにかくクロは、彼自身の鱗で作ったブレスレットを手にして祈ると飛んできてくれる。
普段どこにいるのかも、どうやって父と知り合ったのかも不明だが、今重要なのはそこではない。一刻を争うのだ。
「それにしたって久しいな、ティナ! 前に見た時はもう少し食い甲斐があったように思うが、いくら何でもくたびれすぎじゃないか? 老けたな?」
「ふ、老けたって、まだ1年ちょっとしか経ってないでしょう……!」
「ああ、あの時は調査任務に遅れる、なんて理由で足代わりに呼び出されたんだったか――あの時ばかりは不敬で食ってやろうかと思ったが」
「謝ったじゃない!」
ティナの黒歴史を掘り起こして満足したのか、クロは自身に透明化の魔法をかけ直しながらスピードを上げた。趣味の悪い竜だ。
「もうすぐお目当ての山地だが……竜鷲は見えるのか? まさかただの鳥と見間違えたのではあるまいな?」
「たぶん、大丈夫だと思うけど……」
真下の山々を恐る恐る覗くも、それらしき姿は見えない。
「ねえ、クロ……もうちょっと低く飛べる? わたしここ数年で目が悪くなっちゃって」
「……フン、とっとと見つけろ」
クロの身体が急降下し、風圧で木々が揺れる。
猟師や作業員が目の回る速さで過ぎ去っていく中、ティナは必死に木々の隙間を見つめた。
「……ところでティナ、お前、また随分と軽くなったな? なぜお前はそう食い甲斐を無くしていくんだ」
「く、食い甲斐……わたし、別にクロに食べられるために生きてるわけじゃないんだけど……」
「馬鹿、嘆かわしいんだ。1年前より更にやつれたし、またあの馬鹿息子にでもいじめられたか?」
図星である。何なら数時間前、婚約破棄と解雇を言い渡されたばかりだ。
「だから言ったろうに。あんな馬鹿貴族どもさっさと見限って、お前は自由に生きろと――」
「わ、……わかってるよ。わたしもそうしたかったけど……」
でも、ティナにはできなかった。
あの時マクエルに拾ってもらえなかったら1人寂しく死んでいただろうし、恩は簡単に捨てられない。
「でも、わたし今日からは自由だから。1人で生きていくの」
「……ふうん?」
「だから、これからはクロとも遊べるんだよ。今までは周りの目が怖くて呼び出せなかったけど……」
ついでに仕事と財産も奪われたわけだが――とまたネガティブ思考に陥ったティナは、ある一帯を過ぎ去ったところで目を見張った。
(……あそこ、何本か不自然に木が倒れてた……)
たった数本ではあるが、まるで上から潰されたように木がひしゃげていた。きっと竜鷲が足でも休めたのだろう。
(……この辺りに竜鷲がいるかもしれない)
ティナは目を閉じ、耳をすませた。
鳥型の魔物が立てる羽音は特徴的だ。
白鷲のように飛行能力の低い魔物なら叩きつけるような音がし、竜鷲のように上級の魔物なら、風を切る音がする。
ティナは生まれつき耳が良い。故に陰口も必要以上に聞こえてしまうのだが、今は違う。クロが立てる竜巻のような羽音の中でも、風の音がしっかりと聞こえた。
「……! クロ、叫び声! あっち!」
その中に男性の悲鳴が混じったのを聞き取り、ティナは叫んだ。クロが旋回し、上空をとんでもないスピードで駆け抜ける。
(がんばれ、がんばれ、わたし……! くよくよしてても、誰もご飯はくれないんだから……!)
早くなっていく鼓動を手で押さえつけ、ティナはそう自己暗示をかけた。
そうだ。勇気を出さなきゃ人は救えないし、ご飯だって食べられない。
◇◇◇
その日、魔法省南部第3支部の副支部長を務めるマクエル・チェスターは、部下の叫び声で目を覚ました。
「副支部長! 緊急です! 副支部長!」
職員寮の一角に存在する自室の扉をガンガンと叩かれ、マクエルは眉を寄せる。
時計を見やれば、朝の8時を少し過ぎた頃だった。眠りについてからまだ5時間も経っていない。
「何だ、こんな朝から……後にできないのか」
「違うんですよ、副支部長! 先程山地の方に魔物が出たとの報告が……!」
「魔物だと……? どうせまたいつもの白鷲だろう。討伐隊に行かせておけ」
マクエルは眠りを邪魔されるのが嫌いだ。
それもティナという邪魔者をやっと追い出した後の心地よい眠りだったというのに、無能な部下というのは満足に寝かせてもくれない。
「違います、そうじゃないんです! 報告によれば、山地に現れたのはあの竜鷲だと……!」
再度ベッドに潜り込もうとしたマクエルは、続く部下の言葉に動きを止めた。
(……竜鷲?)
聞いたことがある。確かついこの間、魔法省の本部が大規模な討伐隊を組織して何とか食い止めた上級の魔物だと――。
「……は?」
そこで初めて、マクエルは背筋が凍るのを感じた。
――マクエル・チェスターは、幼少期より大変恵まれた環境で育った。
親は男爵、しかも自分はその長男だ、マクエルが調子に乗り、そして他人を見下すまでそう時間はかからなかった。
マクエルが馬鹿だなと思う人間はたくさんいたが、その中でも、ティナ・シストロイズという女は特段の馬鹿だった。
マクエルは親の命令じゃなきゃティナと婚約しようだなんて思わなかっただろうし、婚約期間中も、ティナに愛の言葉を囁くことが苦痛だった。
親の「時期が来れば婚約は破棄して良い」との言葉がなければ、耐えられなかったやもしれない。
そう、あいつはただ仕事をこなすしか能のない女。
しかもティナは恐ろしいほどに鈍感で、そしてお人好しだった。きっとまともな死に方はしないであろう、哀れな馬鹿だ。
「な、……何だ、これは……?」
――そんな彼女とようやく婚約を破棄する許しが出て、大変気分が良かったはずなのに。
目の前に広がる光景が信じられず、マクエルは思わず呟いた。この惨状は、地獄は、なんだ。
大きな怪鳥――〈竜鷲〉が目の前の木々を薙ぎ倒す姿は、何か夢か幻の類ではないのだろうか。
「……副支部長、あ、あれは……」
討伐隊の1人が怯え切った声で尋ねる。そんなの、マクエルにだってわからない。
血まみれの猟師が、竜鷲の足元で泣き叫んでいるのが見えた。今は辛うじて生きているが、あの鋭い爪が擦りでもすればもう命はないだろう。
(な、ぜ、……こんなことに?)
浮かんだ疑問に答えは出ない。
どうしてだ。
どうしてだ。
ここ百年近く、この辺りには低級の魔物しか出なかったはずだ。あれらは南部第3支部の討伐隊でも楽に倒せていたし、今回だって、きっとその類だと思ったのに。
(上級の魔物なんて、田舎の一支部で倒せるわけがないだろ……! 本部は何をやっているんだ!?)
嫌な汗が流れ、マクエルは唾を飲み込んだ。ただでさえ、田舎支部の討伐隊は名目上の意味合いが強いのに。
踵を返し、マクエルは討伐隊に告げた。
「……引き返すぞ」
「えっ!? じ、じゃあ竜鷲は……」
「放っておくんだ! どうせ太刀打ちできやしないんだから、あとは本部の応援が来るまで待っていれば――」
「む、無理ですよ! 応援が来るのなんてずっと後だろうし、待ってたらあの魔物が町に降りちまう!」
「そうですよ副支部長! そんなことになったら家族まで……!」
「あそこで腰抜かしてる猟師はどうすればいいんですか!?」
「見捨てて逃げれば良いだろう!」
叫んだマクエルに、討伐隊の全員が言葉を失った。
「逃げるんだよ、自分だけでも助かればそれで良い! 残りたい奴は勝手にしろ、どうせ死んだ人間のことなんてすぐ忘れるんだ!」
そもそもとして、マクエルがここにいること自体がおかしいのだ。
マクエルはチェスター男爵家の長男だ。次期男爵だ。貴族だ。
本来であれば丁重に守られていなければならない立場なのに、何故かこんなところで上級の魔物を前にしている。
それもこれも『緊急時には責任者の同行を』なんてルールを定めた魔法省のせいだ。魔法省も馬鹿しかいない。
「ふ、副支部長……」
荒く息をしたマクエルを部下の1人が呼ぶ。
だがもう抗議を聞く余裕はない。マクエルは足を踏み出そうとし、しかしそれよりも先に、部下がマクエルの背後を見つめながら呟いた。
「も、もう……逃げられないです……」
「は?」
後ろを振り返る。
その瞬間、マクエルは、別の方向を見ていたはずの竜鷲と目が合った。
「あ」と思った時にはもう遅い。1秒と数える間もなく、マクエルの右腕に激痛が走った。
「がっ……!?」
部下が一目散に逃げていく。倒れ伏す視界の中、マクエルは信じられないものを見た。
己の右腕が、宙を舞っているのだ。
(これは、何が)
起きているのか。
顔を横へ向ける。竜鷲が足を振り上げていた。
その瞳に映っているのはマクエルだ。嘴から赤い炎も見える。
(僕が)
(僕が、……僕が死ぬのか?)
そんなはずが、ないのに。
自分は誰よりも恵まれていて、ティナのように馬鹿な人間どもを使い潰す側に立つはずなのに。
地面に身体を打ち付けつけたマクエルに、竜鷲はいよいよ狙いを定めたらしい。痛みは未だ肩口を襲っている。
なぜだ。
なぜなのだ。
「なぜ、僕がっ……!」
鉤爪が振り下ろされんとしたその時、眩い閃光が迸った。
眩しさに目を瞑り、マクエルは地面に伏せる。次いで暴風のような風が吹き荒れた。
マクエルは顔を上げた。
そこに大怪鳥の姿はない。
木が薙ぎ倒された平地に広がっていた光景は、飛び去っていく竜鷲と、それから――。
「ま、……間に、合った…………」
――真っ黒な鱗を持つ怪物と、その背に乗るティナだった。
◇◇◇
(どこが『間に合った』だ。どう見たって、右腕が飛ばされてるだろうが……)
――真っ黒な鱗を持つ竜、クロウスショット・クロロフィル・アイルブランは、この惨状を前に溜息を吐く。
きっと、己の背の上でぐったりとしたティナには何も見えていないのだろう。尻餅をついた男の片腕がないことも、男の顔がよく見知った奴であるということも。
であればこんな落ち着いていられないはずだ。
(目が悪くなったと聞いていたが……この距離で元婚約者の顔すらわからないとは。一体どれだけ目に悪い仕事を押し付けられたんだ?)
クロは、ティナに呼び出されない間も、世界の外からティナのことを見守っていた。
見守って、知っていた。ティナがどんな仕打ちを受け、そしてマクエルがどんな悪事を働いたか、その全てをだ。
(……いや、知らないほうがいいか。いくらこいつが救いようのない馬鹿だろうが、片腕を失くしたと知ればティナは心を痛めるだろうし……)
フンと鼻を鳴らし、すっかり怯え切ったマクエルを見据える。
――〈クロウスショット・クロロフィル・アイルブラン〉。
竜は、〈白鷲〉や〈竜鷲〉等の魔物と違って、種族でなく個体によってそれぞれ違う名が付けられる。
名前の長さは竜の格。
その中でも特段長い名前を付けられたクロは、人間を忌み嫌う竜だった。
人間は意地汚い。特にクロは傲慢な貴族が嫌いだ。
気まぐれに姿を現し、気に入らない貴族の家を焼いてやったことも一度や二度じゃなかった。虐げられていた領民は神の怒りに触れたんだと喜んでいたが、違う。クロはただ単にムカついただけだ。
クロがアステル・シストロイズと出会ったのは、そんな人間を嫌う感情さえつまらないものになった頃のことである。
アステルは奇特な人間だった。竜に出会うために何年もの間研究してきたのだということを語り、何より早口で圧が凄まじい。
クロは最初こそ彼を足蹴にしていたが、そのうちアステルという人間そのものに興味が湧き、彼の娘――ティナにも会った。
ティナは臆病な子供だった。クロの一挙手一投足に悲鳴を上げ、そのくせ会話を重ねるにつれて遠慮がなくなっていくのが面白かった。
面白くて、気に入った。
「クロ」と自分を呼ぶ声もやけに心地よかった。
「ふ〜……ありがとう、クロ。おかげで助かっちゃった」
「追い払ったのはお前だろう。竜鷲が光に弱いなんて僕も知らなかったぞ」
「お父さんの本に書いてあったのを思い出したの。……お父さん、特に『竜』って名の付いた魔物のことは詳しく調べてたから」
ティナははにかみ、クロの背を撫でる。
その腕についたブレスレットは、いつだったかアステルに採取させてやった鱗で作られたものだ。
ティナはあれを付けて祈ればクロがやって来るのだと勘違いしているが、実際は少し違う。
あれは、クロとブレスレットの持ち主――契約者を繋ぐための目印だ。あれがあるおかげでクロは広い世界でもティナを見失わずに済むし、クロの力を欲していると分かれば、すぐに飛んでいってやれる。
……反対に、呼び出されなければ飛んで行けないため、余計な怒りを溜め込むことにもなったわけだが。
ティナがチェスター男爵の家で虐げられていた時、クロは何度あの家を燃やしてやろうかと思ったか知れない。
クロはチェスター男爵やその夫人はもとより、マクエルのことが大層嫌いだった。
別の女と遊び歩き、婚約者であるティナをぞんざいに扱って、『永年雇用』で職場に縛りつけては気の済むまで働かせる。
そんなマクエルを見逃してやっていたのは、マクエルがティナの愛する婚約者だったからだ。
こいつを痛めつければティナが悲しむと思ったからだ。そんな思い一つで怒りを押さえ込んでいたのに、今回の婚約破棄で、クロはマクエルにかける慈悲など不要であることを知った。
ティナが受けた痛みを返してやらねばと思った。
だからクロは、ここに〈竜鷲〉を呼びよせた。
マクエルが尊大に振る舞うのは、マクエルが男爵家の長男だからだ。
この田舎町において魔法省の支部長を務める男爵家の権力は絶大である。ではその権威を失墜させるにはどうしたらいいか。簡単だ、魔物を暴れさせればいい。
チェスター男爵やマクエルは、こんな田舎に現れる魔物は雑魚ばかりだと高を括って、討伐隊の編成を疎かにしている。
そこに竜鷲を呼び寄せれば当然のように混乱する。その上討伐隊の編成指揮を怠った事実も露呈して、魔法省本部からきついお咎めを食らうことだろう。愉快で仕方がない。
(あの様子じゃ、男爵殿も代わりの後継を探すのに必死になるだろうな……。……いや、部下からの信頼を取り戻すことの方が先か?)
全く可哀想なことだ。魔法省は成果主義だし、支部長と副支部長もまとめて解雇と相成ってもおかしくない。
そうなれば、魔法頼りのこの世で男爵の地位は危うくなる。
クロが哀れみを込めてマクエルを見やると、彼はあからさまに肩をびくつかせた。
「お、お前っ、て、ティ、ティ、ナ、ティナっ……!」
それどころか小さくティナの名を口にしやがったものだから、クロは一睨みしてマクエルを黙らせてやった。
せっかくティナのことを思って黙ってやっているんだ。無駄口を叩かず大人しくしていてほしい。
「帰るか、ティナ。後処理は魔法省の人間に任せるとしよう」
「えっ、……もう良いの? あそこで倒れてる人は?」
「大丈夫だ、気絶してる。竜鷲も死んだし、ここに長居する理由もないだろう」
未だしっかりと目を開いているマクエルを前に大嘘をつき、クロは翼をはためかせた。ティナは「そっかあ」なんて信じ込み、「次はゆっくり飛んでね」などと言っている。
その顔が非常に愛らしく思えて、クロは満足げに笑った。
その瞳にはもうマクエルなど映っていない。映す価値もない。
これからのマクエルの行く末を思うと愉快にはなるが、ティナのことを考えていた方が何万倍も愉快だ。きっともう、彼の姿を思い起こすこともない。
クロはアステルと出会ってから人間をまとめて忌み嫌うことは無くなったが、それでも好きだと、愛おしいと思えるのは、この世でアステルとティナの他にいなかった。
故に、アステルが亡くなったその時、クロは深く心に決めたのだ。
ティナが無事ならそれで良い。
ティナが望むのであれば、この国だって、世界だって壊して連れ去ってやる。どこへでも、誰にも見つからないところへでも。
(……それにしたって、ティナが竜鷲を止めにくるのは予想外だったが)
内気な彼女がよく決意したものだ、と感心する。クロとしては竜鷲の被害でティナ以外の誰が死のうがどうでも良かったのだが、ティナが満足ならそれが一番だ。
「さて、どうする? 次に向かうのは職業案内所か?」
「あ、そ、そうだった……まずはお仕事見つけなきゃ……」
溜息を吐いたティナを乗せ、クロは天高く飛び上がった。山地から離れた市街地では、市民がいつも通りわいわいと暮らしている。
「まあ、そう悲嘆することじゃない。せっかく自由になれたんだ、今後は僕も一緒にいてやれるだろう」
「えっ、本当……!? 心強いかも……!」
「馬鹿、『かも』じゃない。心強いんだ」
そう笑ったクロとティナは、これまでの閉塞的な暮らしが嘘かのように大空をのびのびと滑空する。
これからどうしよう。お金も何もないけれど、どう生きていこう。
でも、クロが一緒にいてくれるなら何かうまくいくような気がする。
(今度暮らすなら、どこか穏やかなところがいいなあ。魔法生物に囲まれながらゆっくり過ごしたい……)
そう未来に夢を広げるティナは、ほんの10分前まで感じていた仄暗い気持ちを綺麗さっぱり忘れてしまっていたのだった。
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追記
たくさんの方に見ていただいたおかげで、連載版を始めることにいたしました…!
連載版ではティナが隣国に引き抜かれて楽しくお仕事したり、元婚約者たちに更なる罰が降ったりします。
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