8 ナラン=ソンブラ
オルテンシアは寝台から起き上がり、タンスに向かう。
「とりあえずは動きやすい服に着替えましょう」
両開きの戸を開けたそこには、原色の華やかなドレスがぎっしりと吊り下がっている。
「う……」
思わず仰向くと、目に焼きついた色が天井に反転してちかちかした。
(そうだったわ。派手なドレスしか持参していないのだった)
後宮入りの目的は、国王の一の妃になることだ。とにかく目立たなくてはならないため、ドレスのラインナップは贅を尽くしたものばかりとなっていた。
無難で目立たず動きやすい服が一枚もない。
(あくまで裏方に回って動かないといけないのに)
その辺のメイドを呼び留めて命令し、用意させようか――と思ったところで、また我に返る。
「違う違う。わたくしはもう、傲慢なお貴族さまではないのよ」
なんとか自力で切り抜けなければ。
それに、現状あまり人を近づけたくない。
オルテンシア自身もまだタイムスリップの混乱からすっかり立ち直ったわけではないのだ。深い事情は話せないし、干渉されたくない。
(ドレスの件は、お母さまに手紙を書いてお願いしておきましょうか。……ううん、お兄さまのほうがいいかも)
母親特有の勘の鋭いところがある母に、なにか勘繰られたらたまらない。
そこへいくと、芸術家肌で浮世離れした兄のほうが、あまり気にせず妹の望みを叶えてくれそうだった。
手紙を書くため書き物机に向かおうとしたところで――部屋の扉がノックされる。
「どなた?」
「わたくしですわ、ナランでございます」
(フォローするのを忘れていたわ!)
謁見式の前と後で見た目が180度変わってしまった件について、彼女に説明するのを失念していた。
頭の中で言い訳を組み立ててから、扉を開ける。
そこには、胸の前でぎゅっと手を握り、眉間に深い皺を刻むナランが立っていた。
「ごきげんよう、ナラン」
「ごきげんようではございませんわっ! オルテンシアさま、そのお姿は……いったいどうされたのですか!?」
悲鳴に近い声で尋ねられる。オルテンシアは芝居がかった悲しみの表情を作った。
「お化粧が落ちてしまったのよ」
「お化粧?」
「ええ、実はわたくし、今までは屋敷の敏腕メイドに半日がかりで詐欺メイクをしてもらっていたの」
「はあ……詐欺、メイク……」
戸口の柱に寄りかかり、よよよと泣きまねをしてみせる。
「肌の色から作って、シミ、皺を隠し、目の大きさを変えて、鼻筋をまっすぐ見せて……ものすごく時間がかかるお化粧のことよ。もう二度とできないわ」
「あれがお化粧……だったのですか。ですが、お髪は!?」
オルテンシアは短くなった暗い色の髪に手を当て、さらにぐしゃっと見苦しくしてみせる。
「もちろん、今までのはかつらよ」
「かつら……」
「これが地毛。触ってみる?」
「え!? い、いいえ……」
「遠慮しないで」
「け、結構でございます……」
唇をにいっと横に広げて不気味な笑みと共に一歩踏み出すと、ナランはよろよろと後退した。
ここぞとばかり、オルテンシアは扉に手をかける。
「明日からも変わらず仲良くしてくれると嬉しいわ。では、また」
返事を待たず、ばたんと扉を閉める。ナランはもとのオルテンシアを知っているだけに、深入りは禁物だった。
常に傍に控えてご機嫌を取ってきた彼女が身近にいなくなるのは、少し寂しいような気もしないでもない。
『オルテンシアさま、今日も大変お美しいですわ』
『オルテンシアさま、陛下との管弦の遊び、わたくしもぜひお連れくださいませ』
『オルテンシアさまぁ……――』
(あー、でも、思い返してみれば、なかなか煩わしかったかもしれない)
朝から晩まで媚びた目でまとわりついてくる彼女がいないほうが、案外気楽に楽しく過ごせるのではないか。
ナランの他にも、オルテンシアには崇拝者の取り巻きが何人もいた。妃候補として後宮に上がりつつも自分が高位の妃に選ばれる可能性が低いとなると、彼女らは生き残りに必死で有力者にもとへ集いたがるのである。
(一人で行動したほうが動きやすいし、精神安定上よさそうね)
そんなわけで、まずは偵察。
オルテンシアの抜けた後宮勢力がどう動いていくのか、この目で見る必要がある。
国の滅亡を避けるため、国王の一の妃選びは重要だ。
「皆が集まるところと言えば、『遊戯室』ね」
後宮の中央にある、中庭を取り囲んだ『回』の字型をした部屋で、妃たちは誰でもそこで余暇を過ごしてよいことになっている。
オルテンシアは足取り軽く、遊戯室へ向かった。