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39 すももの木

(リーリエ妃、虹にまったく反応しなかったわ)


 虹と聞いたら、かわいいもの、綺麗なもの好きな女子は少なからず反応しないだろうか。ナランもキャメリアも身を乗り出して見ようとしてきた。

 唯一まったく関心を示さなかったのは、レオーネだ。彼女は借金に苦しんだ境遇から、空など暢気に見上げている余裕はなかったと言っていた。


(誰かに施すほど恵まれた人生を歩む、心豊かなリーリエに限ってそれはないわよね……)


 たまたまかもしれない。

 だが、一瞬よぎった不穏な予感を無視できなかった。

 あの女嫌いのソールでさえも認めてくれた『直感』を無視したくない。


「さっそく報告に戻りましょう」


 急ぎ足で、すももの中庭へ向かう。

 ほんのわずかだけやんだ雨は、また降り出して今度こそ本降りになってきた。


(待っていると言っていたけれど、いるかしら)


 この天気だ。渡り廊下は申し訳程度に屋根はついているものの吹き抜けである。雨をしのげるどこか屋根の下に移動したかもしれない。

 しかし……、


(嘘、いた)


 しかもソールは、別れたときと寸分たがわず、すももの木の下にいた。それほど葉が大きくない木は、いかつい体軀が雨をしのぐには物足りず、緑色の髪や黒いジャケットの肩をぐっしょりと濡らしている。

 思わずオルテンシアは廊下を飛び降り、駆け寄った。


「ちょっと、大丈夫なの? せめて廊下に上がればよかったじゃない」

「別になんでもない。そういえば、『李下に冠を正さず』とかいう東洋のことわざがあったな」


 すももの成る木の下で冠を直すために手を上げると、すもも泥棒と間違えられるからじっとしていた――という意味だ。


「詩人なの?」

「こういうのも風情があっていいものだ」

「あなたの口から風情なんて言葉を聞くとは意外だわ」


 とはいえ、彼は辺境の地から中央にやってきて国王の近臣にまで出世した稀な人物だ。しかも少数民族出身で偏見もある中、大出世である。

 その学力及び仕事上の能力の高さは計り知れない。あらゆる文化風俗に通じていてもおかしくないのだった。


「とりあえず、屋根の下で話しましょう」


 移動してから、首尾を伝えあう。


「リーリエ=ティエラはどうだった?」

「噂通りの聖女ぶりだと思ったわ。だけれど、少しだけ疑問が」

「なんだ、詳しく話せ」

「……詳しくといっても、本当に直感なのよ。もしかしてあなたの予想通り、表面上は完璧に繕っていながら、裏がある人かもしれないと」


 慈善事業に熱心なのも、なにかきっかけがあったとするなら、その原因を知れば彼女という人がよくわかるかもしれない。


「一度、彼女の生い立ちについて調べてみたいかも」

「だとすれば、現地へ赴くのが一番だな」

「ええ? 彼女は東の辺境伯の娘よ。現地へ行くのは遠すぎるわ」

「だからこそ、都にいては調べきれないこともある」


 たしかにその通りすぎて、オルテンシアはうなずくしかできない。


「じゃあ、お兄さまに言って誰かを派遣してもらおうかしら」

「兄……ラヴァンドにか? あいつはこの頃、とにかく虹の絵ばかり描いていて使い物にならないぞ」

「そ、そうなの……!?」


 飽き性の兄がここまで長く一つのことに熱中できるとは、びっくりだ。それはそれで、権力に興味を持たないということなのでよしとしよう。


「調査には俺が行く」

「え、あなたが?」

「ああ。俺がシュトウルム族の出身だというのは知っているか?」


 唐突に訊かれて、少しぽかんとする。


「え……、あまり詳しくは」


 少数民族の出だというのは知っていたが、具体的な名は聞いたことがなかった。


「俺の故郷も東の辺境にある。場所は違うが、まあまあ近い。ある種の里帰りのようなものだ」


 言って、堂々と胸を張る。


「調査に俺以上の適任者はいない。必ず成果を上げてくる。期待して待っていろ」

「っ」


 オルテンシアは息をのむ。それから、小さく嘆息した。


(ちょっと……ううん、大いに癪だけれど)


 一瞬だけ、頼もしいだなんて思ってしまった。


「さすがにしばらく時間がかかる。お前はそのあいだリーリエ=ティエラをつかず離れず見張れ。怪しげな行動をするならば、未然に防ぐよう最大限の努力をしろ。間違っても陛下に危害が及ぶようなことはしてくれるな。いいな」

(偉そうで嫌なやつなのは変わりないわね)


 反論の余地はない。

 一応今後の方針は固まった。


「道中気をつけて。では、後日ね」


 オルテンシアは身を翻す。そこで――視界がチカッと明滅した。


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