3 ソール=ヴェント
国王と顔を合わせるわけにはいかない。
勢いに任せて広間を飛び出たものの……。
(どうしましょう)
すでに広間へ召喚されている状況で、「やっぱりやめた」と帰れるものではない。王族に連なる名門アクア家の令嬢という立場上、城での勝手な行動は両親や兄に迷惑をかけてしまう。
「おい、お前」
正面からやってきた誰かの声に顔を上げる。
深緑色の短髪に、全身黒一色という飾り気のない格好をした長身の人物だ。しかしながら、服装の質素に反して見目は印象的である。
浅黒い肌、闇に溶かした翡翠のごとき艶めいた色をした鋭い瞳、きりっとした輪郭には、精悍さがあふれている。体格は一般的なグラキス国の民よりも大柄でがっしりとしているのは、彼が東部の砂漠が多い辺境地区の出身だからだ。
「まもなく陛下の謁見が始まる。広間に戻れ」
刃のごとき剣呑なまなざしを注がれて、オルテンシアは思わず叫ぶ。
「ソール=ヴェント!」
生前のオルテンシアの、天敵とも言える相手である。
『陛下をたぶらかす悪女め』
過去に幾度も彼からぶつけられた強い非難の声は、いまだに耳に残っている。
(一番会いたくない相手に会ってしまうなんて……)
彼は国王に仕える有能な家臣の一人だった。
オルテンシアの兄ラヴァンドが宰相位について周囲を佞臣で固めたとき、身分をはく奪されていったんは遠ざけられている。それなのに彼は、元来の生真面目さから最後まで国王に仕えることを望み、ずっと王の傍にい続けた忠義者なのであった。
(陛下への強い忠誠心のうらはら、わたくしのことは大嫌いだったのよね)
顔を合わせれば常に険しいまなざしをして、苦言を呈してきたものだった。
『この悪女め!』
今も、剣呑な目つきでこちらをにらんでくる。
「女、なぜ俺の名を知っている」
「え……」
そこで、はたと気づく。
(そうだわ、まだ初対面なのよ)
ソールが嫌うのは、一の寵姫となったオルテンシアである。
(いけない、誤魔化さなくては……)
頭をフル回転させて、なんとか無難に思える言い訳をひねり出す。
「し、失礼いたしました。あなたのその見た目、特徴的ですから……お兄さまから噂に聞いていた優秀な側近の方かしらと思ったのですわ」
「お兄さまだと?」
「はい、兄の名はラヴァンド=アクアと申します。王城へは陛下の近習として、楽器や書画などの遊びに参上しておりますわ」
兄はこの年24歳。まだこれといった役職についていなかった。
というのは、王族に祖を持つ名門のアクア家には、働かなくても十分な財産があるためだ。父は無聊を慰める程度の王城務めをしており、兄も同じく世間体程度に城へ伺候している。
「ラヴァンド=アクア……ああ、あの風流人の妹か」
幸いソールと兄は既に面識があったようで、オルテンシアはほっと胸を撫でおろす。
(それにしても……風流人か。たしかにその通りだったわ。なのに、毎日適当ぐらしのお兄さまが三年後には権力の権化となって処刑されるだなんて、人生ってわからないものね……)
こっそりとため息をつく。
「それで? 今日この場にいるということは、陛下の妃候補なのだろう? なぜ廊下をうろついている。早く広間へ戻れ」
(まあ、ずいぶんと失礼な言い方)
オルテンシアがアクア家の令嬢だとわかっても変わらぬ不躾な物言いにかちんとくる。
生前、さんざん彼の悪口に腹を立てたものだ。しかしソールは、オルテンシアを嫌いだから厳しい言い方をしていたわけではなく、誰に対してもこの態度なのかもしれない。
(生意気ね)
ここは居丈高に言い返してやらないと――そう思ったところで我に返る。
(ちっがーう! わたくしは、生まれ変わったのよ!!)
傲慢で高飛車なオルテンシアとは別れを告げた。
今生は、静かで控え目で平穏なオルテンシアになるのだ。
(それには目立たず、敵を作らず、やり過ごす)
慌てて表情筋を緩め、うつむいた。
「すみません、その……、お化粧室へ……」
「あっちだ。さっさと済ませてこい」
「失礼します」
一礼するなり、駆け足でソールから逃げたのだった。
「はあー、美しすぎるわ」
化粧室の鏡に映る自分の姿を見て、改めてため息をつく。
うねるように豊かなスカイブルーの髪、なめらかな白い肌に、幾万もの星を宿したような輝く瞳、二重のまぶたをびっしりと彩る長いまつげ、すっと通った鼻筋に、生まれつき真紅色の妖艶な唇……。
オルテンシアは、すれ違う誰もが振り返る華やかな美貌の持ち主である。
だからこそ国王は一目で気に入り、何につけてもオルテンシアを傍に呼びたがり、ほかの女性には目もくれなくなったのだ。
敵である反乱軍でさえも、『見た目は聖女、中身は悪女』とのたまった。
(でも、それではだめなのよ)
今回オルテンシアが目指すべくは、その正反対。
すなわち――『見た目が悪女、中身は聖女』のオルテンシアだ。
化粧ポーチから裁縫セットを取り出した。
小さいながらも先端がとがった切れ味鋭いハサミを手に――、スカイブルーの髪へ当てた。