13 ラヴァンド=アクア
突如として地面にへたりこんでしまった兄に驚き、オルテンシアは叫びを上げる。
「お兄さま、どうされたの!? どうか顔を上げて!」
ラヴァンドは藍色の髪を振り乱し、きっと上向いた。その目には大粒の涙が浮かんでいる。
(まさかお兄さまも過去の記憶があるの? それでわたくしを見て、泣いて……?)
と思ったとたん、ラヴァンドは駄々をこねる子供のように情けない声を出した。
「オルテンシア……なんて姿だ。誰より美しく幾万の星よりも輝いていたお前が……自慢の妹が……どうして、そんな……爆発に巻き込まれたみたいなひどい見た目に……うわああん」
(え……、そっち?)
どうやら兄は、愛してやまない美しい妹の容貌が変わってしまったのを見て、嘆いているようだ。
兄は美しいものを心から愛する道楽者であり、感受性が豊かなのだった。
「陛下に……わたしの美しい妹はいかがだったかと尋ねたら……『そんな娘いたっけ?』みたいな反応をされて……っ、ほかの人たちの反応もおかしいから……変だと思って会いにきたらあああ」
久々の兄妹の邂逅に胸が詰まっていたオルテンシアだが、目の前の兄のあまりの取り乱しように、すーんと冷静になった。
「落ち着いて、お兄さま。わたくし今まで隠していたけれど、本当はこんな見た目だったのよ」
「なにを言っているんだ、そんなわけないだろう。嘘つき」
兄はお気に入りのおもちゃを取り上げられたとばかり、さめざめ泣いて地面に伏してしまう。
さすがに同じ屋敷で育った兄を、ナランと同じ言い訳で騙せるはずがないのだった。
オルテンシアは少し思案してから、無難なへりくつをこねてみる。
「ええと、そうね……わたくし、心を入れ替えたの。聖女のような人物を目指して、絶賛心を磨く特訓中なのよ。だから、見た目からして生まれ変わろうと思うの」
「言っている意味がわからない。お前の言う聖女ってなんなんだい」
「聖女……つまり……今後は地球にやさしい人を目指すの。華やかなドレスは着ない、お化粧もしない、髪もとかさない」
自分で言っていて意味がわからないが、泣いて混乱している兄はその辺の追及をしてくる余裕はなさそうだった。
「嫌だ……わたしの妹は世界一美しくなきゃ嫌だ……」
まるで駄々っ子だ。首を左右に振って聞き分けがない。
(こんなお兄さまが、三年後に反乱軍から目の敵とされる権力の権化になるとか、信じられないわね)
いくらオルテンシアが国王の寵姫となったからといって、普通にしていたらそこまで豹変するとは考えにくい。
(なにか並行して別の問題があったのかもしれないわ。今後も注意してお兄さまの様子を見ていかなくては)
だが、ここはひとまず泣き止ませないと。
控えのメイドはかなり引いた様子でこちらを眺めているし。
オルテンシアは兄の目前に屈みこみ、頭を撫でた。
「元気を出して。わたくしの美醜なんかどうでもいいわ。それより、ほかの楽しいことを考えましょう」
気分を明るくするには歌でも歌おうか。賑やかな楽器がいいだろうか。もしくは踊るとか。
(そうだわ、虹は?)
ケットシーから授かった役に立たない特殊能力、虹乙女の力を試しに使ってみる。
「えいっ」
オルテンシアの指先から、淡くふんわりとした虹が生まれて空に架かる。
「ほらお兄さま見て、虹よ」
「え?」
兄は涙に濡れた瞳を上げて、それを見開いた。
「……美しい。優しいコットンのような色だ……」
オルテンシアの作る虹は、具現化に慣れていないせいか自然のものより色が淡かった。それが兄の心の琴線にふれたらしい。
「なんてすばらしい……あ、消えてしまった」
空気に溶けて見えなくなると、兄はまた眉をひそめて袖口で目もとを押さえる。
虹一つで一喜一憂している兄を、オルテンシアは努めて明るく励ます。
「きっとまた見られるわ」
「いいや、先ほどの繊細な虹はもう二度と見られないだろう。美しい妹も、虹も、全部夢のごとく消えてしまった……よよよ」
また泣き始めてしまったので、オルテンシアは苦し紛れに適当な提案をする。
「それなら絵に描いたらいいのよ! ほら、この紙を使って」
書きかけの便箋とペンを無理やり押しつけ、強引に話を進める。
「下絵を描いておいて、屋敷に帰って清書したらいいわ。ね? そうしましょう」
「あ、ああ、そうしようか……」
兄は促されるまま東屋の腰掛けに座り、紙面にさらさらとペン先を走らせた。
「まあ、走り書きなのに、とても上手ね」
線しか描かれていないのに、優美でありながら繊細な曲線が美しい。
「ねえ、あなたも見て。素敵だと思わない?」
控えのメイドに手招きすると、彼女は恐縮しながらも紙面を覗き込んだ。
「……本当に素敵ですわ。さすが陛下のご指南役をお勤めのラヴァンドさまです」
「そうよ。せっかくだから最後まで仕上げて見せて」
芸術家気質の兄は、気が乗ったときは集中して創作に取り掛かるが、飽きやすく、途中でやめてしまうことが多いのだ。屋敷には中途半端に手を付けて投げ出した絵やら工芸品やらがたくさんある。
「お兄さまが絵に残さないと、さっきの虹は存在しなかったことになるのよ」
極めつけの一言で、兄は大いにうなずいてくれた。
「そうだね、仕上げるよ。待っておいで」
ゆったりとした兄には珍しく、きびきびと立ち上がる。
「今日のところは失礼するよ」
そそくさと帰っていく兄の背には、常にはないやる気が満ちていた。
(あ……地味なドレスをお願いするのを忘れてしまったわ)
だが、そんなことより。
(一件落着といえば、一件落着?)
兄にはなにか夢中になれる趣味があったらいい。この先、興味を持たないように。